後藤松陰、地引き網を歌う

  觀打魚

 一舟沈網擁浦淑  一舟 網を沈めて浦溆*1を擁し
 百夫牽綱轉轆轤  百夫 綱を牽いて轆轤を転ず
 綱盡網出牽悆急  綱尽き網出でて 牽悆*2急に
 斜陽明射萬跳魚  斜陽明射す 万跳魚
 大鱗收来方潑剌  大鱗収まり来て まさに潑剌
 散鬻不論兩與銖  散鬻*3 論ぜず両と銖とを*4
 小鮮委沙棄如土  小鮮 砂に委ねて棄つること土の如く
 村童俯拾供晩厨  村童 俯き拾ひ 晩厨に供す
 一瓢有酒對此快  一瓢酒有り この快に対す
 饞涎豈唯逢麯車  饞涎*5 あにただ麯車に逢う*6のみならんや
 買取作羹斫霜膾  買ひ取って羹*7になし 霜膾*8に切る
 城市所賣天淵殊  城市売る所と天淵殊なり
 嗟吾為口暴天物  ああ吾 口のために天物を暴く
 恐有高人發軒渠  恐らくは 高人の軒渠*9を発する有らん
 漁人四散吾亦去  漁人四散し吾また去る
 海光山色晩糢糊  海光山色 晩れて模糊たり

 魚つながりで、頼山陽の一番弟子の後藤松陰がやはり漁を歌った詩。『攝西六家詩鈔』に収められた「松陰餘事」から。こちらは海辺の地引き網の光景だが、詩の構成は先生のものとよく似ている。漁の様子を描いてから、それを肴に一杯やって、そして「やっぱりとれたては違うな」という感想。山陽先生は「錦や木屋町のものは鮮度が悪くてとても食えん」といい、松陰は「町で売るのと天と地の違い」という。忠実な弟子だった松陰が山陽の鮎漁の詩を念頭に置いていなかったはずはない。

 ただ、この詩にも細やかな人柄だったらしい松陰の特色は現れていて、村の子供が晩食の足しにと打ち捨てられた小魚を拾う様が描かれている。そして「ああ吾 口のために天物を暴く」という山陽にはなかった反省。「暴く」というのはここでは損なうとか荒らすという意味か。天然の物を食い荒らして、立派な人に笑われるだろうという。しかし唐突な感想だなと思ったら、杜甫に「又觀打魚」という詩があって、その結句「天物を暴殄するは聖の哀れむ所なり」を踏まえたもののようだ。

 そして、よく見ればこの詩自体が、師山陽の鮎漁の詩と杜甫の詩の両方のチャンポンと言えなくもない。とれたての魚料理を喜ぶかと思えば、一転反省の句が来るちぐはぐさ加減はそこから来ている。いや、杜甫にも上の詩より前に詠まれた「觀打魚歌」という詩があり、そこでは漁の描写とともにとれたて礼賛をしっかりやっている。だから、山陽の詩も杜甫の詩を踏まえて読むべきものだったようだ。ああ、漢詩というものの底知れなさよ。

 とはいえ、江戸の詩人たちはただ中朝の詩人たちの後追いをやっているだけでなく、特に時代が下ると自分たちの生活や個性を表現しよう努め始める。そして、江戸の詩を読む楽しさもそこにある。松陰の場合も、天物云々の口ぶりはいかにも借り物くさいが、「松陰餘事」には山菜野草への好みを表明した詩、また肉食の僧を批判した詩があって、淡泊な食生活をモットーとした人とも見えるから、この句にも意外に真情が含まれていたのかもしれない。

*1:ホジョ。浦辺。

*2:悆は忘れる、喜ぶ、ゆるむだが、それではちょっと。愈(いよいよ)の誤植?

*3:大胆に売りさばくこと。

*4:銖両は少しの目方。少々の目方の違いは気にしない。

*5:サンゼン。いやしく湧いてくる唾。

*6:麯車は酒を載せた車。杜甫の「飲中八僊歌」の「道に麯車に逢へば口は涎を流す」を踏まえる。

*7:あつもの。温かい汁。

*8:膾はなます。刺身。霜膾は霜柱のように細く包丁を入れたもの。

*9:笑うこと。

頼山陽、鮎漁を歌う

  瀧生、我が社を要して、嵐峽、香魚を捕らふ

 縄聯木片截溪灣  縄 木片を聯ねて渓湾をたち
 一舟牽之勢彎環  一舟これを牽いて勢ひ彎環*1
 舟行漸疾繩漸曲  舟行は漸く疾く 縄は漸く曲がり
 驅得萬鱗聚岸間  万鱗を駆り得て岸間に聚む
 衆漁擲網爭神速  衆漁*2 網を擲って神速を争ひ
 魚隊驚亂路迫蹙  魚隊驚き乱れるも路は迫蹙*3
 大者跋扈落漁手  大は跋扈*4して漁手に落ち
 小者遁逃出網目  小は遁逃して網目を出づ
 溪光涵鱗腮帶黃  渓光は鱗をひたして鰓は黄を帯び
 苔氣沁膓腹含香  苔気は腸に沁みて腹は香を含む
 噞喁上串泣玉液  噞喁*5 串に上して玉液を泣き
 聶切下醤嚼蘭肪  聶切*6 醤を下して蘭肪*7を嚼む
 錦街樵巷寧無此  錦街樵巷*8 なんぞ此れ無からん
 翠鱗總化輭塵紫  翠鱗は総て化す輭塵*9の紫
 遇君佳招割芳鮮  君が佳招に遇うて芳鮮を割き
 始知香魚香如是  始めて知る 香魚の香この如きを

 『山陽詩鈔』巻之六から。江戸随一の叙事詩の大家頼山陽は、こういう季節の風物を写した詩でも、他の詩人とは違う念入りな描写をやっていて楽しい。ただ、他の詩人よりも晦渋げな表現も多めで、辞書やあんちょこ、ネットが近くにないとお手上げということも少なくない。ちなみにこの詩にはあんちょこは発見できていないので、読み下しや語釈はかなり危なっかしい。

 嵐山あたりの保津川の鮎といえば、今は愛好者による友釣りが専らだろうが、昔はこういう漁にたずさわる漁師もいたようだ。山陽のレポートはかなり具体的で、板切れをたくさん付けた縄を川に渡し、それを舟で円く引いて、岸に鮎を寄せ、そこに投網を打って捕らえたという。上流の亀岡あたりの伝統漁法と称するものは、川に張った網に人が水音をたてて鮎を追い込むというスタイルのようだが、それとはまた違うおおらかな漁法は魚影の濃かった時代ならではのものだろう。あるいは見栄えのするこの漁、とれたての鮎料理とセットで、すでに観光イベント化されていたのかもしれない。

 詩の後半はとれたてぴちぴちの鮎の姿と香り、そして料理の様子。串焼きと刺し身。串焼きの「泣玉液」が疑問。「玉液」とは茶や酒のことのようだが、「泣く」とはなんだ? 焼き鮎に酒が旨くてたまらん、てなこと? 刺し身(聶切)の方の「蘭肪」の蘭も「玉液」の玉と同じく美称で、肪はあぶら。ここはきれいな鮎の薄造りの様か。それにしても、山陽先生の形容は一々時代がかった大層なもので、もう少し素直に鮎の姿と味の美を表現できないものかと思ってしまうのは、漢文的教養から決定的に隔たり、その束縛からも自由になった現代人のないものねだりかもしれない。

 とはいえ、山陽の自在な詩才は、単に凝った形容を駆使するだけでなく、リアルな感想をも入れ込んで詩をいきいきしたものにする。錦の市場や木屋町の料理屋では知り得ない香魚のほんとうの美味に、山陽先生は初めて気づいたようだ。この詩が書かれたのは、先生が京都に鞍替えしてから11年も経た文政5年ということを考えれば、京都の食生活というのはこういう「芳鮮」に関しては恵まれていないものだったのかもしれない。「詩鈔」巻之五には松茸と筍を讃える「烹蕈」という詩があって、土ものについては十分楽しんでいたようだが。

*1:円を描くこと。

*2:漁師たち。

*3:押し詰められている様。逼迫。

*4:魚がかごを越えて跳ねること。

*5:魚が水面に口を出して呼吸すること。ここは鮎の串焼きのあの姿を言ってるんでしょうか。

*6:薄切り。

*7:かぐわしい脂。

*8:錦町と木屋町

*9:輭紅塵中はにぎやかな都会の様。

ある知人へのメール

電話をいただいていたようで、済みません。
忘年会のメールはちゃんと届いております。
例によって大阪までいくのが億劫なのでスルーしておりました。
悪しからずお察しください(汗)。

ところでついに、
秘密法案が衆院を通過、とか。
みんなこぞって反対しているなか、
安倍は国民をなめきっているとしか思えませんね、
経済回復という幻想を与えておけば、少々の窮屈さも我慢するだろうと。
要するに守銭奴に日本人が成り下がってしまったという、
ある意味それは正しい認識かもしれません。

若者が政治に喧々諤々で、
こんな下心見え見えの汚らしい法案なんか
提出する余地が皆無だった時代がなつかしいです。
海外ではまだそんな姿勢が健在のようで、
マット・デイモンが尖った朗読をやっているのをYouTubeで見ながら、
小田実が生きていれば何を言っただろうと想像したりしております。
http://www.youtube.com/watch?v=HUDpnZ8SNfw&sns=em
(右下に字幕ボタン)

今年は冬の訪れが早そうです。
ご自愛のうえ、いっそうのご活躍をお祈り申しあげます。

白山

 半年ぶりに山に登った。その山が真夏の白山日帰りというのは、今の自分には少々無謀だったようで、登りは山頂を前に足が攣りまくり、下りは熱中症の一症状なのか何なのか、途中から眼鏡越しの視野がぼやけるという変な状態に陥って、ただでさえ急な観光新道の稜線からの下降に難儀するということになった。要するに、日頃からコンスタントにお山参りを続けることが、山のご褒美を受け取る唯一の方法であり、その逆の横着な登山はお灸を据えられるだけだということを、改めて思い知ったわけだが、それでも三日たって思い返す白山がもっぱら美しいイメージに彩られているのだから、これはもう懲りない輩という他ない。

 もちろん山頂の火口湖群の紺碧の水面といまだに残る雪の白とのコントラストもよかったが、何よりもきれいだったのは路傍の花々。今年の白山は聞いたところでは花の当たり年のようで、特に砂防新道の黒ボコ岩手前辺りと観光新道の稜線コースでは、どちらも故障が発生する前だったこともあり、夢の如き光景に浸ることができた。それに弥陀ヶ原では、タイミングがよかったのだろう、これまでに見たことがないほど木道の両側にハクサンフウロが咲き乱れていたし、原を占領するコバイケイソウの白い花の群れもみごとだった。また近いうちに、今度は頂上は考えずに花を中心にしたルート取りで白山から別山へ回ってみたい、などというプランが頭のなかにうごめき始めているのだから、人間の苦難と愉楽の記憶の残存作用の非対称なこと、まさに知るべしだろう。

▲砂防新道

▲観光新道
 ところで今回観光新道で一番めだっていた花がこれ。青いベル型の花を連ねた花穂を何本も立てた立派な株がよく目を引いた。道行くおばさんに名前を聞かれたのだが、答えられなかったので帰って調べてみると、ツリガネニンジンの高山種のハクサンシャジンのよう。この種類、たいへん変異が大きいらしく、ここに写っている二株も、葉の様子がまるで別種のように違っているのが面白い。

庭のシモバシラの霜柱

 かなり以前にどこかのサービスエリアにあったのを買って帰って、ずっと庭の椿の下に植えっぱなしのシモバシラ。清楚な花穂から純白の小花がこぼれる、秋が楽しみな野草の一つだが、名前の由来になった枯れ茎に生じるという真冬の霜柱には、これまで一度もお目にかかったことがなかった。
 植えて一冬目、二冬目は期待して株元をのぞいた記憶はあるものの、毎度空振りに終わると、そんな現象は冷え込みの厳しい山中の自生株では見られても、こんな庭ではどだい無理なのだろうと、その後はそんなこともすっかり忘れていた次第だ。
 だから、年末に純白のレースのような氷を何重にもまとっているのをたまたま見つけた時は、ちょっと昂奮するとともに、その見事な出現の具合に、あるいは毎年それなりに出来ていたのを思い込みで見逃していただけのことではないかという疑いも浮かんだのだが、果たしてどうだろう。いや、やはり晩秋からほとんど緩みなく続いたこの冬の特別な寒さがもたらした、暖地の庭では稀な現象に、今年はうれしくも遭遇できたのではなかろうか。そう考えたい気持ちが強いのだ。
 厳冬の朝の清さよシモバシラ

山田翠雨墓

 ちょうど五条坂陶器市の最終日だったから2週間以上前になるが、ようやく地元の漢詩人、山田翠雨翁の墓へ参ることができた。墓所の長楽寺は京都円山公園の南側に沿う道のどん詰まり。日が傾いてなお熱気が淀む京都の街を、拝観時間を気にしながら東山に向かって急いでいると、一気に汗が吹き出してくる。塋域へは本堂への階段を上りきって、さらに小暗い山道を少したどる。受け付けのお坊さんがわざわざ市街一望の絶景地だと言ったのもうなづける、東山の山腹に危うく張りついたような墓地だった。

 入り口で水を汲んで墓石の間を進むと、探すまでもなく立派な山陽先生の墓の前に出、そのすぐ奥に翠雨翁の墓石が見つかった。以前、岐阜の詩人中嶋さんからお教え頂いた通り、周囲の雑木に隠れて少々荒れた雰囲気。この様子では長らく縁者が参ることもなかったのだろう。薄い地縁ながらと、少し掃除をさせて頂く。枯れ木や朽葉の始末は何とかなるが、墓石を囲んだ石の柵が傾き乱れているのはどうにもならない。藪蚊にせっつかれて結局さほどのこともできなかった。

 昔の墓はそういうものだったのか、持参した一束のしきみを立てる場所が見つからないので、水鉢に水を張って根を石で抑えてどうにか生ける。線香が立つような深い穴もないので、墓石の台に置く。これは山陽先生と竹外酔士の洒脱な墓へも。その山陽墓のすぐ横にきれいに並んで翠雨墓はあり、墓石の姿もよく似ているので、まるで師を慕って周囲に眠る文人たちの一員のようだが、よく見ると間には仕切りの石があり、墓域ははっきり分かれている。一つの土地に睦まじげに寄り添う山陽ファミリーからは外様といった格好だ。それでもこうした奥津城を望んだ老詩人には、「頼山陽の時代」に遅れてしまった青年の憧れが生き続けていたのかもしれない、などとぼんやり考える。

 最後に、展墓の一番の目的だった背面と右側面に彫られた墓誌銘の写真を撮って墓前を離れた。その時再確認した詩人の命日、明治乙亥八月五日は明治改暦後の日付だろうから、奇しくも百三十七回忌に五日遅れの墓参。墓誌銘を読み下したものを今度いつ行くかわからない墓参の記念に置いておこう。撰者の宮原龍、号節庵は、藤井竹外などと同世代の頼山陽門の人。山陽没後、昌平黌に学んだ後、京都に戻って私塾を開いていた。翠雨とは九つ違いだが、都に門戸を張る先輩として親しんだのではなかろうか。著書に『節庵遺稿』があり、近代デジタルライブラリーで公開されている。この墓誌銘も巻二に含まれているが、異なる部分がかなりあり、下書き原稿と思われる。

「翠雨翁、姓は山田、諱は信、字は義卿、一に鷯巣と號す。攝州八部郡中邨の人。其の先、橘氏と為す。家世、農を為す。祖仲三郎、諱は某、二子有り。伯、市兵衛と為す。家を嗣ぐ。季、慶純と為す。醫を業とす。箱木氏に配す。一男を生む。即ち翁と為す。幼きより学に志し、大阪に遊ぶ。師、松陰後藤氏。又京師に遊ぶ。摩嶋松南に贅を執る。後に常に京阪の間を往来す。黽勉、経史に力を用いる。父の疾を聞く。星馳、帰郷す。病、已に大いに漸む。終に起たず。翁、嗣と為る。家に在っていよいよ勤め、學を怠らず。遂に居を移して、京師に帷を垂る。四方、笈を負うて来たり従う者多し。しばしばシン紳の辟に値うも、皆就かず。明治中、美濃郡上、青山君、其の賢を聞き、之に師事せんと欲す。厚禮、之を聘す。翁、其の殊遇に感じて、決起して召に應ず。之に居ること三年。老いを扶けて帰京す。疾に罹りひとたび帰郷す。而して未だ期年ならずして又入京す。疾いよいよ篤し。終に起たず。明治乙亥八月五日没す。享年六十一。東山長楽寺に葬る。翁、人と為り、重厚寡欲。人、其の善詩有るを最も稱す。著す所、翠雨稿。先に近藤氏に配して一女を生む。後に故有って之を出す。而して女、某氏に適く。継室、中西氏、子無し。門人等と相謀りて碑銘を余に索む。蓋し其の遺嘱と云う。余、舊識の誼有りて辞さず。其の概畧を叙して銘を以て係ぐ。銘して曰く。『寡言力行、敬以て内を直す。講學論徳、義以て外を方にす。衆、詞翰と稱するも、君子の餘事。』明治乙亥十二月友人宮原龍撰并びに書。」

氷ノ山

 すでに一週間前のことになりますが、今年2度目の横行渓谷からの氷ノ山へ。たぶん今年初めての快晴の空の下、前回と同じ大屋川源流コースで山頂をめざしました。ところが山頂に着く頃には北から暗雲が押し寄せ、一気に陰鬱な空模様に変わってしまいました。せっかく雪に恵まれた今シーズンなのに、春山らしい和やかな日和にはなかなか出会えません。

 けれど、ブナに覆われた大屋川源流の素晴らしさはどうでしょう。登るにつれて三ノ丸東尾根にかけての原生林の眺めが広がり、振り返ってカメラを構える時間が多くなります。稜線からの小尾根が連なる源流部がすべてブナの楽園です。こんな所にテントを張って、あちこち滑ったり転んだりして遊び歩いたらさぞ楽しいことでしょう。

 気温が上がって雪が腐り、下りはブルドーザーのように雪を掻き分けながらの滑りになりました。林道の雪も前回にくらべて下部では汚れ、途切れがちになり、前回よりずっとくたびれて車に戻りました。早く除雪が入って、長い林道をパスできればいいのですが、今年の雪の量ではそれも望み薄かもしれません。