氷点下。での話。

まだ時代は始まっていない。
もう時代は始まっている。


もう時代は始まっていない。
まだ時代は始まっている。


ドウデモイイ氏はまばたきもせず、ソンナコトナイ氏はあくびをしたりしなかったり。
決して融けない氷の下で、人々は生活していた。
そこでは毎日殺人が起こり、それでも金と愛と欲望で、巨大な生命スパイラルは回っていた。


「ここはもう百年ともたないらしい」
「は?」
「だから。俺たちはここでいつまでも生きてられないってことだ」
「だから?」
「だから。この先どうするかって話だよ」
「なんで」
「なんでって・・・ああ、今年も寒いな」


そんな会話が、もう何千年と繰り返されていた。


ウチュウノハテノ星で、長旅を終えた小鳥たちは会話していた。
「人がいっぱい死んでいたよ」
「どこもかしこも血の臭いでいっぱいだった」
「そして氷の臭い」
「そして氷の臭い!」




それでも。それでも私は。それでも私はいつまでも。薄く強固な氷に透かして宇宙の破片を見ている少女に恋している。
血と肉でできた透明人間のような君に透かして、宇宙の破片を探している。

雨が降っている。


今日は朝から雨が降っていた。
あたしはベッドの上で、さかさまになって窓の外を見ていた。
下から上に、雨がこぼれていた。


テレビは映らなくなっていた。アンテナの故障?
砂嵐の画面。外界と内界がコンタクトを取ろうとしている。


昨日の夜中から、トムウェイツが流れっぱなしになっている部屋で、あたしは雨を眺めていた。


トムウェイツには強い酒が似合う。
そんなことを昔言った気がする。
眉間に寄ったしわ。くしゃくしゃの髪。タバコの煙と洗剤の匂い。
そんなものは全部、昔々の出来事だ。


昔々、あるところに・・・
そこまで口に出して言ってみて、ちょっと嗤ってしまった。

前髪が揃っている。

彼女の前髪はいつも綺麗に揃えてあった。
スウィング。スウィング。
彼女の前髪は、いつもきちんと行儀よく揺れていた。
あたしはそれが面白くなくて、彼女の頬をぶった。
「あたしの男を盗りやがってこのアマ!なめんなよ!」
そう言って、思い切りぶった。


彼女は何も言わず、彼女の前髪はきちんと正しく揺れた。
雪が降っていた。きっと、その日は雪が降っていた。

さかむけ

あたし最近指のさかむけがひどいのよね。

彼女は言って、僕の方を見た。

親不孝なんじゃない?

僕は言って、彼女の方を見た。

親不孝なのかも。

彼女は自分の指を見つめて、言った。

冷たい響きだった。


僕らは裸のまま、
タバコの煙に巻かれている。

寂しくて、空虚な、すがすがしい朝。

ノルウェーの森みたいだ。

意味の無い話、の話。

今度煙の出ている煙突から飛び出してきたら、殺すよ。
猫に言われて君は頷く。

本当はそんなこと思ってない。

今度リンゴの木を降って登校したら、殺すよ。
猿に言われて君は頷く。

分かった、分かったよ。

もうそろそろ流星群の通る時間だから、殺すね。
鯨に言われて君は頷く。

もうそろそろってあと何百光年先なんだ?


あー、疲れた!紅茶はもういらないよ。だからサンタベアーを抱きしめるよ。
さようなら、明日。こんばんは、昨日。

月は役目を終えてご帰宅でしょうから、太陽の神殿でユピテルにお願いするよ。

「モップがけが上手になりますように!」


と、以上のような意味の無い話をしていたら、疎外感を感じられます。
と、笑いながら教えてくれたあの人は、今日もどこかで笑いながら意味の無い話に花を咲かせているのでしょう。

Run my girl (3)

「相手はどんな人なの?」
言ってから、自分の声が少し震えているのに気付いて驚いた。しかし千果子にはばれていないようだった。前を向いたまま、千果子は答えた。
「うーん、やさしい」
「大雑把だね」
「うん。人なんて細かくはなかなか表せない」
「そうだね。千果子が幸せならいい。なんでもいい」
「はは、なんだそれ。幸せなんだと思う」
「そっか。それならいい」
私はそれ以上聞かなかった。千果子が幸せならそれでいい。口をついて出た言葉に、私は満足した。
私たちはしばらく黙って歩いた。息はまだ弾んでいる。汗が胸を伝って流れるのが分かる。


「あ、カベチョロ」
千果子が言って、私は自分が何か考えごとをしていたことに気付いた。呼吸はもう落ち着いている。千果子の指さす方を見ると、そこには三匹ほどのカベチョロが、誰かの家の塀に張り付いていた。いつの間にか表の道に戻っていたのだ。私たちが歩いている路の両側には家々が建ち並んでいる。
塀の一部のように・・・彼らはそう思っているのだろうが、塀は街灯に照らされて真っ白に光っているので、黒っぽい彼らは目立った。だいぶ暗くなったね。そう言おうして千果子の方を見ると、彼女は変な顔をして白く光る塀をじっと見ていた。私は何となく言葉を飲み込んだ。
「この家ね、前に自殺があったよ」
千果子が囁くように言ったので、私はびっくりして立ち止ってしまった。
「・・・知らなかった。いつ?」
「二年くらい前かな。今は新しい人が住んでる。でもあたし、ここ一人で通るの怖いんだよね」
「住んでる人とか、怖くないのかな」
「さぁ、知らないんじゃない?知ってたら住まないって」
「千果子、どんな人が住んでるか知ってる?」
「知らないよ。見たことない」
「そっか」
私は急に胸が詰まって、絞りだすような声で言った。そっか。
千果子は結婚する。知らない人の自殺の話を聞いて、何故か突然実感が湧いてきた。私は一人取り残されたような気分になった。
寂しくて、怖くて、悔しくて、嬉しくて、涙が出てきた。私は千果子に見られないように、黙って足を速めた。
「何?まだ走るの?」
千果子が慌ててついて来る。私も慌てて逃げる。早足が駆け足になって、二人とも遂には全速力で走っていた。
どこまでも、どこまでも二人で走って行けたらいいのに。ゴールテープがたまらなく怖かった。ただずっと、走っていたかった。最初あたしはそんなことを考えながら走っていたが、だんだん呼吸と動悸だけになって、頭は真っ白になった。涙も止まっていた。


最大心拍数。筋肉が収縮して乳酸がたまる。いろんな筋肉が痛い。酸素。酸素がもっと必要だ。痛い、痛いと思っていたが、それもだんだんどうでもよくなった。自分が風になったような気がした。広い宇宙の中で、ほんのちょっとの空気の流れだ。蝶が羽ばたくと、地球の裏側で竜巻が起こる―そんな言葉が浮かんで、すぐに消えた。そして何も考えなくなった。
空っぽになって走っていると、頭の中に太陽が見えた。白い太陽だ。辺りが暗いので、それはとても眩しく、暖かく感じられた。側には千果子がいた。彼女は私の横を走っていた。


喉が渇いた。身体が水分を必要としているのが分かる。
私たちは千果子の家の水道に走った。蛇口から迸る水は冷たく、気持ち良かった。
「おめでとう」
私の声はとてもクリアだった。こんな声が出るなんて知らなかった。おめでとう千果子。
「うん。また二人で走ろうね」
千果子は言って、右手を差し出した。私は彼女の手を取った。息はまだ弾んでいる。