●街へのシステムアプローチ 4●

●街へのシステムアプローチ 3●(id:Bonvoyage:20040807)のつづき。


<前回の超要約>
僕が思うに、構造の面からなされた街の定義は、どんなものでも全部間違いだ。構造を(直接的に)最適化しようとする都市計画も全部失敗作だ。構造最適化をめざしたブラジリア、チャンディガール、あるいはフラーのオールドマン・リバーズ・シティ計画は、都市というよりもむしろ巨大建築だった(そして、それらは非人間的なものとして、専門家らに失敗の烙印を押されている。その上、古くなった時に建て替えや全面改修ができないサイズの建築なんて、やっぱり失敗作だ――芸術的・歴史的意義は認めるにしても――)。
では、街とは一体何だろうか?

街はオートポイエーシス・システムである。


僕の今のところの結論をいきなり言ってしまうと、「街はオートポイエーシス・システムである」ということになる。…とか言われてもわからないよね。


僕が言いたいのはこういうことだ。

街は構造の面からでなく、作動の面から定義されなければならない。つまり、「ある開発が次の開発の呼び水となることで起こる開発の連鎖」が街の“本体”である、ということだ。街の構造はその作動の結果として、あるいは副産物として得られてくるものである。


クリチバのレルネル元市長らは、このことをよくわかっていたんだと僕は思う。
後述するけど、クリチバで実施されてうまくいった政策は、街の作動に働きかけることによって街の構造をもコントロールしている、というのが多い。


とまあ、これだけで「なるほど! 君の言いたいことは全部わかった!」なんて人はほとんどいないよね。「何となくわからんでもないけど」とか、むしろ「何言ってんの? 全然わかんないよ」って感じかもしれない。

よし。ではオートポイエーシス理論について解説しよう。


ちなみに、「街には建築なんていらない!」という話ではないよ。あなたの大好きな森博嗣さんがおっしゃる「都市の概念は限りなくネットワークに近づきます。」って話とは、かなり関連が深いと思います(とは言え、僕は森博嗣さんのことは何も知らないのですけど)。>メールをくださった方

オートポイエーシスとは?


オートポイエーシスは決して難しい概念ではなくて、わかっている人には「そんなの当たり前じゃん」っていうような話なんだけど、書くのはなかなかに難しい。わからない人に向けて書くのは、もっと難しい。僕にとって、かなりチャレンジングな取り組みだ。気合が入るとともに、さっきから何回も書いたり消したりしてる。


とにかく最初にいくつかの例を見てもらって、なんとなく理解してもらうことにしよう。


まずは、河本英夫著『オートポイエーシス―第三世代システム』(ISBN:4791753879)のあとがきから引用する。

システムの例としてラグビーチームを考えてみる。必要な変更を加えれば、そのままサッカーにも適用できる。各チームは、さまざまなフォーメーション・プレーを練習し、それらを自在に運用できるよう反復的に練習を重ねているのである。プレーヤーはフォーメーションに応じて役割を担い、一つのフォーメーションのサインが出されると、プレーヤー各人は、いっせいに行動を実行しはじめる。一人のプレーヤーがある役割を果たせなければ、他のプレーヤーがただちにそれを代行する。ここまでは今日のシステム論では自明のものである。
こうしたことの延長上に、フォーメーションの規則が十二分に習得され、規則そのものが内面化されて消滅し、一人のプレーヤーの動きが、他のプレーヤーの動きをひきおこすようにして、動きそのものが継続されるようプレーがなされる段階をイメージすることができる。動きの継続だけが維持されれば、マイボールのまま次々とゲームラインを突破し前進することができる。ここではすでにあらかじめ定めた作戦を運用する段階を通り越し、フォーメーションの切り替えも不要になっており、フォーメーションから各プレーヤーに割り当てられる役割も消滅している。一人のプレーヤーが意図してであれ偶然にであれ、なんらかの動きをおこすと、この動きが継続されるよう他のプレーヤーは動きを開始する。こうして動きの継続がなされるようにチームが作動しつづけたときオートポイエーシスの段階に到達している。
オートポイエーシスは、作動の継続の側からシステムそのものを定めており、これを観客席からみると、新たなフォーメーションをつぎつぎと生み出しているようにみえたり、既知のフォーメーションのヴァージョンを自在に繰り出しているようにみえる。ひとたび作動が停止すれば、システムは消滅しグランドにはプレーヤーの集合体だけが残る。だが時に応じて、再度動きの継続が開始されれば、そこにオートポイエーシス・システムが出現する。作動の継続の側からシステムが組み立てられるというのは、およそこうした意味である。作動が開始されれば、作動そのものによってシステムはみずからの境界を定める。作動の継続に関与しなかったプレーヤーは、システムの作動そのものによって、システムの外へと区分される。本書はこうしたシステムを、経験科学に接続可能なよう機構として仕上げている。

細かいところは別として、先日のレアル・マドリーが来日しての試合を見た人なんかは、なんとなく言ってることがわかるんじゃないかな。調子がいいときの――それから、特にジダンがいるときの――マドリーの攻撃はまさに変幻自在で、効果的なポジションチェンジを繰り返しているように見える。

けれども、たぶんやってる本人たちの頭の中には「ポジションチェンジ」という考え、いや、そもそも「ポジション」という考えが、既にほとんど消滅してしまっているんじゃないだろうか。ただ、個人個人がその都度他の選手やボールの動きに対応して、「内面化されて消滅してしまった規則」に従って動いているだけで。

各選手の中の「内面化されて消滅してしまった規則」ってのは、彼らがこれまでに学んできた攻撃のパターンから抽出されて極度に抽象化され、もう言葉や数式では表現できなくなってしまったロジックのことだ。

こはちょっとわかりにくいかもしれないので解説しようか。

はじめの規則が、例えば「右サイドの選手がボールを持ってサイドを突破したら、フォワードの選手はゴール前に走りこんでパスをもらえ。トップ下の選手はこれこれで、ボランチの選手はこれこれしろ。そうするとリスクをかけすぎずにゴールの確率を上げることができる(そのほうが選手と選手の関係性が有利に働くためにシステム全体の機能が高い)。」だったとしよう。練習を重ねていくと、この規則は「誰かがボールを持ってサイドを突破したら、他の誰かはゴール前に走りこんでパスをもらえ。また他の誰かはこれこれで、もう1人の誰かはこれこれしろ。」になる。規則の抽象度が上がっているのはわかるかな?

しばらく経験を積むと、選手は自分が身に付けたあらゆる規則が「ボールを持っているとき、ゴールが見えていて体制がよければシュートしろ。ボールを持っていないときは、空いているスペースに走りこめ。ボールを持っていてもシュートが打てないときは、ドリブルしてフリーになるか、空いたスペースにフリーで走りこんだ選手のうちの誰かにパスしろ。」の3つくらいの規則にまとめられるということがわかるようになる*1

そして最終的には規則は「カウンターをくらうリスクも計算に入れつつ、ゴールを奪うために一番確率の高いプレーをしろ。」だけ、とかになるけれども、「いや、それ、規則っていうより、サッカーってそういうスポーツじゃん」ってことになって、規則は消滅してしまう。

こうなると、ただプレーの継続があるだけであって、フォーメーションがどうとかプレーヤーどうしの約束事がどうとかいう話は、観察者の視点から後付けの理屈として語られるものにすぎず、それぞれのプレーヤーが実際にやっていることとはまるで違うものになる。


あくまでもシステム論を展開すべき“本体”は1つのプレーが他のプレーをひきおこすことの継続、つまりは作動の面であって、フォーメーションとか約束事とかいう構造の面ではない。ということを、オートポイエーシス理論は言っているわけだ。


少しわかったような気がしてきたかな? では他の例も見てみようか。


   ★


次は経済システムを考えてみよう。

今度は、複雑系研究でとられたアプローチの一例と、オートポイエーシス的なアプローチとを比較してみることにする。


(つづく)

*1:逆に、このような少数の単純な規則だけから数多くの複雑な攻撃を組み立てることができる、というと複雑系の議論になる。

英語の文献


今お教えできるのは以下の2つくらいです。

  • ポール・ホーケン他著『自然資本の経済』(ISBN:4532148715)の原著『Natural Capitalism』(ISBN:0316353000
  • 『Urban Planning in Curitiba』 SCIENIFIC AMERICAN March 1996