オートポイエーシスとは?


オートポイエーシスは決して難しい概念ではなくて、わかっている人には「そんなの当たり前じゃん」っていうような話なんだけど、書くのはなかなかに難しい。わからない人に向けて書くのは、もっと難しい。僕にとって、かなりチャレンジングな取り組みだ。気合が入るとともに、さっきから何回も書いたり消したりしてる。


とにかく最初にいくつかの例を見てもらって、なんとなく理解してもらうことにしよう。


まずは、河本英夫著『オートポイエーシス―第三世代システム』(ISBN:4791753879)のあとがきから引用する。

システムの例としてラグビーチームを考えてみる。必要な変更を加えれば、そのままサッカーにも適用できる。各チームは、さまざまなフォーメーション・プレーを練習し、それらを自在に運用できるよう反復的に練習を重ねているのである。プレーヤーはフォーメーションに応じて役割を担い、一つのフォーメーションのサインが出されると、プレーヤー各人は、いっせいに行動を実行しはじめる。一人のプレーヤーがある役割を果たせなければ、他のプレーヤーがただちにそれを代行する。ここまでは今日のシステム論では自明のものである。
こうしたことの延長上に、フォーメーションの規則が十二分に習得され、規則そのものが内面化されて消滅し、一人のプレーヤーの動きが、他のプレーヤーの動きをひきおこすようにして、動きそのものが継続されるようプレーがなされる段階をイメージすることができる。動きの継続だけが維持されれば、マイボールのまま次々とゲームラインを突破し前進することができる。ここではすでにあらかじめ定めた作戦を運用する段階を通り越し、フォーメーションの切り替えも不要になっており、フォーメーションから各プレーヤーに割り当てられる役割も消滅している。一人のプレーヤーが意図してであれ偶然にであれ、なんらかの動きをおこすと、この動きが継続されるよう他のプレーヤーは動きを開始する。こうして動きの継続がなされるようにチームが作動しつづけたときオートポイエーシスの段階に到達している。
オートポイエーシスは、作動の継続の側からシステムそのものを定めており、これを観客席からみると、新たなフォーメーションをつぎつぎと生み出しているようにみえたり、既知のフォーメーションのヴァージョンを自在に繰り出しているようにみえる。ひとたび作動が停止すれば、システムは消滅しグランドにはプレーヤーの集合体だけが残る。だが時に応じて、再度動きの継続が開始されれば、そこにオートポイエーシス・システムが出現する。作動の継続の側からシステムが組み立てられるというのは、およそこうした意味である。作動が開始されれば、作動そのものによってシステムはみずからの境界を定める。作動の継続に関与しなかったプレーヤーは、システムの作動そのものによって、システムの外へと区分される。本書はこうしたシステムを、経験科学に接続可能なよう機構として仕上げている。

細かいところは別として、先日のレアル・マドリーが来日しての試合を見た人なんかは、なんとなく言ってることがわかるんじゃないかな。調子がいいときの――それから、特にジダンがいるときの――マドリーの攻撃はまさに変幻自在で、効果的なポジションチェンジを繰り返しているように見える。

けれども、たぶんやってる本人たちの頭の中には「ポジションチェンジ」という考え、いや、そもそも「ポジション」という考えが、既にほとんど消滅してしまっているんじゃないだろうか。ただ、個人個人がその都度他の選手やボールの動きに対応して、「内面化されて消滅してしまった規則」に従って動いているだけで。

各選手の中の「内面化されて消滅してしまった規則」ってのは、彼らがこれまでに学んできた攻撃のパターンから抽出されて極度に抽象化され、もう言葉や数式では表現できなくなってしまったロジックのことだ。

こはちょっとわかりにくいかもしれないので解説しようか。

はじめの規則が、例えば「右サイドの選手がボールを持ってサイドを突破したら、フォワードの選手はゴール前に走りこんでパスをもらえ。トップ下の選手はこれこれで、ボランチの選手はこれこれしろ。そうするとリスクをかけすぎずにゴールの確率を上げることができる(そのほうが選手と選手の関係性が有利に働くためにシステム全体の機能が高い)。」だったとしよう。練習を重ねていくと、この規則は「誰かがボールを持ってサイドを突破したら、他の誰かはゴール前に走りこんでパスをもらえ。また他の誰かはこれこれで、もう1人の誰かはこれこれしろ。」になる。規則の抽象度が上がっているのはわかるかな?

しばらく経験を積むと、選手は自分が身に付けたあらゆる規則が「ボールを持っているとき、ゴールが見えていて体制がよければシュートしろ。ボールを持っていないときは、空いているスペースに走りこめ。ボールを持っていてもシュートが打てないときは、ドリブルしてフリーになるか、空いたスペースにフリーで走りこんだ選手のうちの誰かにパスしろ。」の3つくらいの規則にまとめられるということがわかるようになる*1

そして最終的には規則は「カウンターをくらうリスクも計算に入れつつ、ゴールを奪うために一番確率の高いプレーをしろ。」だけ、とかになるけれども、「いや、それ、規則っていうより、サッカーってそういうスポーツじゃん」ってことになって、規則は消滅してしまう。

こうなると、ただプレーの継続があるだけであって、フォーメーションがどうとかプレーヤーどうしの約束事がどうとかいう話は、観察者の視点から後付けの理屈として語られるものにすぎず、それぞれのプレーヤーが実際にやっていることとはまるで違うものになる。


あくまでもシステム論を展開すべき“本体”は1つのプレーが他のプレーをひきおこすことの継続、つまりは作動の面であって、フォーメーションとか約束事とかいう構造の面ではない。ということを、オートポイエーシス理論は言っているわけだ。


少しわかったような気がしてきたかな? では他の例も見てみようか。


   ★


次は経済システムを考えてみよう。

今度は、複雑系研究でとられたアプローチの一例と、オートポイエーシス的なアプローチとを比較してみることにする。


(つづく)

*1:逆に、このような少数の単純な規則だけから数多くの複雑な攻撃を組み立てることができる、というと複雑系の議論になる。

街はオートポイエーシス・システムである。


僕の今のところの結論をいきなり言ってしまうと、「街はオートポイエーシス・システムである」ということになる。…とか言われてもわからないよね。


僕が言いたいのはこういうことだ。

街は構造の面からでなく、作動の面から定義されなければならない。つまり、「ある開発が次の開発の呼び水となることで起こる開発の連鎖」が街の“本体”である、ということだ。街の構造はその作動の結果として、あるいは副産物として得られてくるものである。


クリチバのレルネル元市長らは、このことをよくわかっていたんだと僕は思う。
後述するけど、クリチバで実施されてうまくいった政策は、街の作動に働きかけることによって街の構造をもコントロールしている、というのが多い。


とまあ、これだけで「なるほど! 君の言いたいことは全部わかった!」なんて人はほとんどいないよね。「何となくわからんでもないけど」とか、むしろ「何言ってんの? 全然わかんないよ」って感じかもしれない。

よし。ではオートポイエーシス理論について解説しよう。


ちなみに、「街には建築なんていらない!」という話ではないよ。あなたの大好きな森博嗣さんがおっしゃる「都市の概念は限りなくネットワークに近づきます。」って話とは、かなり関連が深いと思います(とは言え、僕は森博嗣さんのことは何も知らないのですけど)。>メールをくださった方

●街へのシステムアプローチ 4●

●街へのシステムアプローチ 3●(id:Bonvoyage:20040807)のつづき。


<前回の超要約>
僕が思うに、構造の面からなされた街の定義は、どんなものでも全部間違いだ。構造を(直接的に)最適化しようとする都市計画も全部失敗作だ。構造最適化をめざしたブラジリア、チャンディガール、あるいはフラーのオールドマン・リバーズ・シティ計画は、都市というよりもむしろ巨大建築だった(そして、それらは非人間的なものとして、専門家らに失敗の烙印を押されている。その上、古くなった時に建て替えや全面改修ができないサイズの建築なんて、やっぱり失敗作だ――芸術的・歴史的意義は認めるにしても――)。
では、街とは一体何だろうか?

街とは一体何だろうか? 〜架空の読者とのダイアローグ


じゃあ、僕は君に尋ねよう。「街とは一体何だろうか?」


ん? 「街とは人の生活するところ」?
うん。そうだ。そのとおりだ。でも、それだけではまだ足りないね。他にはない?


「街には建物がある」
そうだね。街には建物がある。建物には家とかアパートとかオフィスビルとかお店とかがあるね。他には?


「道路」
なるほど。道路があって、他にも電線・上下水道・ガスラインといったインフラがある。街路樹とか公園とかもあるね。なるほどなるほど。


「商売が盛んで、職場もあって、役所とかが揃ってる」
うんうん。


君は今まで、街を構成する要素をいくつか挙げてくれたんだね。ありがとう。でもさ、人は田舎にだって住んでるし、そこには道路も他のインフラも全部あるんだよね。商売も仕事も役所も、街にだけあるわけじゃないし…

ああ、そうかそうか。人や建物や道路や他のインフラや商売や仕事や役所なんかが「密」になってるところってことか。逆に、それが「疎」になってるところが田舎なわけか。確かにここまでくると、かなり近づいた感じがするね。


じゃあ、もし君が街をつくるとしたら、どういうふうに計画を立てる? もちろんシステム・アプローチをしてほしいんだけど。

ふむふむ。「何をどこに配置したら、建物とか道路とかインフラといったような街を構成する要素と要素の間の関係性が最も有利に働いて、人にとって住みやすくなるかを考えて、計画を立てる」わけだ。うーん。完璧じゃないか。


…。
実はさ、それこそが、ブラジリアやチャンディガールの、「失敗の烙印を押されて」しまった計画の立て方だったんだよ。


「何をどこに配置したら要素間の関係性が有利に働いて全体としての機能が最も高まるか」ってのは、建築家…というか、いかにもデザイナー的な考え方だよね。家やビルを建てるときは、建築家はそうやって考えるだろう。あるいは車を作る人も、同じように考えるかもしれない。

君は今、建築を建てるときや車を作るときの計画と同じように、街づくりの計画を立てようとしたんだね。つまり君は街を巨大建築と見なしたってことだ。


ところがね…。ちょっと考えてみよう。きっとすぐわかると思う。

「要素間の関係性が有利に働いて全体としての機能が最も高まっている状態」っていうのは、逆に言うと「ちょっと関係性が乱れると、あっという間にズドーンと全体の機能性が低下してしまう脆さがある状態」でもあるわけ。

だってそうでしょう? システム全体の機能性が構成要素間のシナジー(相乗効果)によって支えられているわけだから、そのシナジーが失われると途端にだめぽになっちゃう。実際には、シナジーを失って全体の機能性を低下させたりしたくないから、さっき君が言ったようなコンセプトで計画された街は、時間の流れに伴う(本来の街にとってはごく自然な)ダイナミックな変化を拒み続けることになる。

まあそれでも永遠に変化を拒み続けることはできなくて、結局いつかは変わらなきゃいけない。でも少しずつ変わることはできない(シナジーが失われて最悪になる)から、全部一気に取り替える必要がある。

だから、家とかビルとか車とか、そういうのはこのコンセプトでいいわけ。建て替え、買い替え、全面改修ができるサイズは。逆に、建て替え、買い替え、全面改修ができないサイズのものを同じコンセプトで作ったものは、街だろうが何だろうが、全部失敗作だ。


さて、一体全体、何がいけなかったんだろう。


実は、そもそも、街とは何かという問いへの答えが間違ってたんだ。君は僕が「街とは一体何だろうか?」と尋ねたとき、何て答えたっけ?

「街とは人の生活するところ」はいいとして、他の建物やら道路やらっていうのは、全部「構造」に関するものだ。

僕が思うに、構造の面からなされた街の定義は、どんなものでも全部間違いだ。構造を(直接的に)最適化しようとする都市計画も、(それがいかにシステム理論的に正しいものに見えるとしても)全部失敗作だ。


さあ、では「街とは一体何だろうか?」という問いへの、僕が考えた答えをいよいよ披露しようじゃないか。



●街へのシステムアプローチ 4●(id:Bonvoyage:20040809)へつづく。
 

イントロダクション


本論に入る前に、服部圭郎著『人間都市クリチバ 環境・交通・福祉・土地利用を統合したまちづくり』(ISBN:4761523395)からの引用を2つほど読んでもらうことにする。


まずは「はじめに」より。

我が国では、都市計画に基づいてつくられた都市としてはブラジリアの方がクリチバより有名である。しかし、都市計画という観点からはブラジリアは、惨憺たる失敗であった。しかも、都市が出現して、あまり時間が経っていない時点で、失敗の烙印を押されている。クリチバはブラジリアを反面教師として、66年のマスタープラン作成時に都市のあり方を検討した。ブラジリアの都市計画において著しく欠如していたヒューマンスケール、優れたアメニティ、公共交通を中心とした都市の発展などが、クリチバの都市として進むべき方向性であるとマスタープランにおいて掲げられた。66年というと、ジェーン・ジェイコブスの著名な『アメリカ大都市の生と死』が出版されてから4年ほど経っており、従来の一部の権力者と建築家などによるトップダウンのスラム・クリアランス的な都市計画の在り方に、大きな疑問が出てきた頃である。ブラジリアやコルビジェの計画したインドのチャンディガールなど、机上では素晴らしいように思えた計画も、いざ実現したら恐ろしく非人間的でひどい空間であった。アメリカにおいても、スラム・クリアランスによって新たに創られた空間は、従来の人間臭さが感じられない漂白されたような無機質なものであった。ジェーン・ジェイコブスの指摘するように、従来の都市計画の方法を変える必要性を良識のある人々が痛感し始めた頃である。

クリチバはブラジリアのように、しっかりとした都市計画に基づいて発展してきた都市であるが、後者とは違い、ヒューマンスケールの、アメニティに富んだ素晴らしい都市空間を実現させた。同じ都市計画という手法を採用しても、その方向性、ビジョンが異なると、その結果も大きく異なるということが、この2都市を比較するとよく分かる。ブラジリアが都市計画の失敗であるなら、クリチバこそ都市計画の勝利である。そして、それは「効率性」といった指標ではなく、「人」を中心に据えた都市計画を展開させてきたことの成果なのである。都市の豊かさとは何か、都市は誰のためにあるのか、なぜ人は都市を必要とするのか。クリチバがマスタープランを策定してから30年以上に及ぶ都市政策の積み重ねは、まさにこれらの問いに対しての解答に他ならない。優れた計画があるところに優れた成果があるという、ある意味では当たり前のことをクリチバ市は我々に確認させてくれる。


(pp. 4-5)

なお、「はじめに」の全文は以下のページでご覧いただけるので読みたい方はどうぞ。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/mokuroku/book/ISBN4-7615-2339-5.htm


もう1つは服部氏が初めてクリチバを訪れたときの印象。

著者も最初にクリチバを訪れた時は、ただその都市デザインの美しさと整然さに驚いたものである。それは、サンパウロの猥雑としたカオスとは異なり、秩序を有しており、かといってブラジリアのような非人間的な幾何学的な規則性からも解放された、ヒューマンスケールの素晴らしい空間であった。


(p 94)


とりあえずここまでを一旦まとめよう。

街は、行き当たりばったりの無計画のままに成長すると、四方八方好き勝手に拡張してカオス的な様相を呈してしまう。つまり、金があれば東京や他の多くの日本の都市のようになり、金がなければサンパウロみたいになる。

そこで都市計画が必要になってくるわけだけれど、そのときに「街とは一体何だろうか?」ということをよく知ってないと、ブラジリアやチャンディガールや、あるいはフラーが計画したオールドマン・リバーズ・シティ*1のように、街は秩序領域の深みに落ち込んで、非人間的なものになってしまう。

レルネル元市長をはじめとするクリチバの都市計画者たちは、「街とは何か」をよく知っていたんだろう。そのために、しっかりとした都市計画に基づく「人間都市」――言わば「カオスの縁」的な街*2――を発展させることができたというわけだ。


要するに、無計画だとグチャグチャな街になってしまうが、計画の立て方を間違うと、今度は街特有のダイナミズム(躍動)を失ってしまう。街ってそういうもんじゃねえだろう、というのが服部氏(や「失敗の烙印」を押した他の都市計画家たち、そして僕)の考えだ。
少なくとも、「街とはダイナミックなもの」ということだけは言えるってことだね。


ここまでの話はOKかな? 「なんとなく言いたいことはわかった」程度でいいんだけど。


では話を進め、もっと深く考えていこう。街とは一体何だろうか?

*1:イリノイ州イースト・セントルイスにできるかもしれない、12万5千人が住めるばかでかいフラードーム。その計画はまだ実現していないが、つぶれたわけでもないそうだ。

*2:正確に言うならば、「秩序領域とカオス領域の転換点(=カオスの縁)付近の秩序領域」的な街かな。カウフマンに倣うと。

●街へのシステムアプローチ 3●

●街へのシステムアプローチ 1●(id:Bonvoyage:20040617)
●街へのシステムアプローチ 2●(id:Bonvoyage:20040618)
のつづき。初めての人や忘れてしまった人はまず上記の記事をご覧あれ。


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間が開いてしまったけど、クリチバを取り上げての都市システム論の続きを書こう。お待たせして申し訳ない。

リンクしてくれたサイトを見たりいただいたメールを読んだりすると、この話に興味を持ってくださっている方が割といるようだ。気合が入る。


ところで、http://d.hatena.ne.jp/oisyosan/20040725では

『都市システム論』なんて言葉面だけとらえると、お役人の考える都合のいい理屈みたいな感じですが、そんなんでは無くて、物事の関係性を重視して問題に対処するという、いわゆる「お役所仕事」とは相反する考え方です。

というご意見もあるんだけど、もしかしたら『都市システム論』という言い方はマーケティング戦略上よくないのだろうか。「システム」という言葉に何かそういう先入観を抱いてしまう人はどのくらいいるんだろう。
僕はこの言葉を理科のおべんきょで知ったんで、単に「系」としか思ってないから、全然わからないよう。どなたかご教授ください。


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さて、予告では街の土地利用についての話を書くと僕は言ったが、それは後回しにすることにした。


今日は、ズバリ「街とは一体何だろうか?」というテーマに、システム理論を用いて大きく踏み込んでみたい。僕の予感では、大学の都市計画の講義を軽く凌ぐ内容になると思う*1

さあ行くぞ! 今日から何回かが都市論の肝だ! 心して付いてこいよ!!

*1:と言っても僕は都市計画の講義なんて聞いたことはなくて、僕が受けた化学の専門の講義のレベルから勝手に類推しているだけ。専門家の方、間違ってたらごめんなさい。