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ブクスレビウ 書評いろいろネタバレ注意!

2012-05-28

#29_伊坂幸太郎「モダンタイムス」

恐妻家システムエンジニア・渡辺拓海が請け負った仕事は、ある出会い系サイトの仕様変更だった。けれどもそのプログラムには不明な点が多く、発注元すら分からない。そんな中、プロジェクトメンバーの上司や同僚のもとを次々に不幸が襲う。彼らは皆、ある複数のキーワードを同時に検索していたのだった。

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(上) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)

モダンタイムス(下) (講談社文庫)



 上下巻に分かれた、伊坂幸太郎の中ではかなり分量の多い作品。現時点での文庫最新作である。

 現在から約五十年後の未来。システムエンジニアである渡辺拓海は、彼の妻に雇われた男からの拷問を受けていた。拷問者が問いかける―「勇気はあるか?」。
 実体の掴めないクライアント、不可解なプログラム、気がかりなメッセージを残して姿を消した上司。怪しげな追跡者の存在も見え隠れする中、渡辺達が辿り着いたキーワード…それは五年前に起きた、とある中学校での凄惨な事件であった。


 今から約五十年後の近未来が舞台、ではあるのだが、実はそのこと自体はそれほど重要でない。というのも、未来的な描写はほとんど書かれることがないのだ。近未来SFといえば発展した技術を描くのが普通。しかしこの作品では、ほとんど私達が今いるこの時代と変わらない世界が淡々と書かれているのである。変わっていると言えば、日本に徴兵制度があることと、インターネットにおける多少の規制が布かれているくらいであろうか。あとは、登場人物達が昭和の著名人を歴史上の人物かのように語るので、「ああ、未来の話なのだな」と思い出す程度である。
 ならば何故わざわざ、五十年後であるという設定にしたのか(徴兵制などの設定に関しては、現代のフィクションとしても問題ないのではないか?)。正直これは最後まで読んでも分からなかったのだが、本作と内容に関連性のある『魔王』(同作家著)との、時系列の都合なのであろうか。そちらは未読であるため何とも言えないが、時代設定は置いておくとして、本作単体でも十分に読むことは出来た。

 主人公である渡辺の妻・佳代子は実に恐ろしい女性で、夫の浮気を疑って、なんと拷問者を雇ってしまうほどなのだ。あまりにも非現実的であるが、そこを会話のリズムでとんとん進めていくところが、いかにも伊坂幸太郎らしい。いっそギャグのような恐妻ぶりを発揮する佳代子なのだが、後半に進むにしたがってどんどん魅力的に思えてくるのは面白い。
 「井坂好太郎」という名前の作家も重要なキャラクターとして登場するのだが、著者によるあとがきによれば、小説家の名前を考えることが億劫になり自分の筆名を変形させたに過ぎなく、特別な意図は無いのだそう。著者がどのような人物であるかは知らないが、作中の「井坂好太郎」は異性にだらしなく、軽薄そうに描かれており、作風から受ける伊坂幸太郎のイメージとはずいぶんと違っている。そのため、渡辺が「井坂好太郎」を嫌悪しているような表現がある度にどことなく違和感を覚えるのだが、そこもまた、面白みの一つと言えるのかもしれない。

 妻が与える脅威と、プログラムを請け負う会社「ゴッシュ」にまつわる不可解な事件。その両方に渡辺はどんどん流されていくだけで、前半ではとにかく受動的でしかない。典型的な「巻き込まれ型」の主人公である。もちろん物語の進行に従って徐々に積極的なアクションを起こすようになってはいくのだが、読み始めは少しじれったく感じる。その分、渡辺の同僚である大石倉之助(これもまた、キャッチ―なネーミングである)などサブキャラクターがストーリーを作ってくれるため飽きさせないのだが。主人公に好感が持てるようになるまで、少しページ数が必要であると感じた。

 少々本題とずれるが、本作には奇抜な名前の人物が多く出てくる。忠臣蔵でお馴染みの赤穂浪士大石内蔵助と同音の「大石倉之助」は先に述べたが、「愛原キラリ」なる中年女性も登場する。まさかそんな名前!と思うが、良く考えてみると、昨今の若い親は子供に奇抜な名前を付けることが多い。舞台設定は五十年後なのだから、なるほど、可愛らしすぎる名前のおばさんがいても不思議ではないのかもしれない。


↓以下、ネタバレ


 安藤潤也と血縁関係にある人間が持っている、超能力について。渡辺は一体どんな能力を持っていて、いつ開花するのか―。かなり焦らして惹きつけておき、結局発揮されたのは、他人に思い通りのセリフを喋らせることができるという“腹話術”の超能力であった。エスパーが登場するような物語で、主人公の能力があまり役に立たなそうなものであるというのは、よくある設定だ。しかし、安藤潤也の兄と同じ能力というのは、少々肩すかしだった。二人の接点は遠い血縁関係という以外特に書かれていないし、だとしたら別の新しい能力の方が面白そうに感じるのだが…。
 ただ、渡辺が初めて超能力を使えるようになったのはかなりひっ迫した状況であったので、咄嗟に使うことができる(つまり、渡辺が以前話に聞いたことのある)能力でなければならなかったのかもしれない。

「根本的解決にはなっていない。だけどな、目の前のシステムくらいは壊してやる」
大きな目的の前では無力な私たちも、眼前の小さな目的のためには行動できるのだ、と信じたかった。

 あらがいようもない、目には見えない大きな力に流されて行きながら、それでもとりあえず目先の目的を果たす。文庫本にして800ページ近い長編が帰結するのは、 “世の中には、どうしようもなく大きな力が存在する。だったら自分に手が届く範囲のことを、せめて精一杯やろう”ということだった。実にありきたりである。だが、これしかないようにも思える。同著者の作品で『ゴールデンスランバー』も似たようなラストを迎えたはずだが、結局は最良の落とし所なのだろう。センセーショナルな展開が続く小説のオチがあまりにもセオリー通りなので少々残念に思えなくもないが、では他に良い決着があるとは思えないし、読後感も悪くない。良しとすべきであろう。
 終盤の「ゴッシュ」本社に乗り込むシーンにはそのような、少し脱力感の伴う要素が凝縮されている。むしろこの“少し残念”“でも、まぁこれで良いのだろう”という感覚こそ、作者の意図したラストなのかもしれない。

 着地点は好みが分かれるところであるとして、スピーディな展開を追いかけて少年漫画的に楽しむことは出来た。上巻の高揚感が覚めないうちに、一息に読み切ってしまうことをおすすめしたい。

2012-03-07

#28_湊かなえ「少女」

親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を、ある種の自慢のように感じた由紀は、自分なら死体ではなく、人が死ぬ瞬間を見てみたいと思った。自殺を考えたことのある敦子は、死体を見たら、死を悟ることができ、強い自分になれるのではないかと考える。ふたりとも相手には告げずに、それぞれ老人ホーム小児科病棟へボランティアに行く―死の瞬間に立ち合うために。高校2年の少女たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー。

少女 (双葉文庫)

少女 (双葉文庫)



 デビュー作『告白』が本屋大賞受賞、メディアミックス化され一躍有名になった湊かなえ文庫化されてすぐに『告白』を読んだが、あっという間に読み終えてしまい、前評判の通りラストは衝撃的である。明るくも楽しくもない話だったが、爽快さを伴う絶妙なラインの恐怖感でまとまっていた。
 本作はその『告白』に次ぐ、著者二作目の文庫化である。
 ちなみに映画『告白』も国内の各映画賞を総ナメにして話題を呼んだが、こちらはまだ見ていない。少なくとも私の周りでこの映画を見た人から、肯定的な意見を聞いたことが無いのだが…どうなのだろうか。機会があれば見てみたい。

 同級生や恋人がみんな馬鹿に思え、常に自分との温度差を感じている由紀。嫌われないように迫害されないように、周囲と同調することだけを考え自分を殺している敦子。親友同士だったはずの二人は、とある出来事がきっかけで気まずい雰囲気になっていた。そんな折に転校生の紫織から聞かされたのは、一人の少女が自殺した話―。
 私も人が死ぬ瞬間を見てみたい!
 それぞれの過去にほの暗いものを抱えながら、夏休み、二人の少女は「死」を悟るために動きはじめる。


 主人公は高校二年生の少女二人、由紀と敦子。高校の同じクラスに通う二人が交互に語りかける形式で書かれており、同じ出来事が微妙にズレて表現されたり、互いに対する食い違った思いが見え隠れして面白い。夏休みに入ってからは別々の行動を取るので二つのパートを同時進行で交互に追っていく形となるが、終盤にはまた一つとなり、大きな流れとなって怒涛のラストに向かう―という構造である。
 パート転換の前には飽きさせないような“引き”があり、すいすいページが進む。文体女子高生口語という性質上どことなく幼さが残っているが、決して「拙い」わけではないので読みやすい。逆に比喩的な表現や詩的な心理描写はほとんど無いので、言葉の意味を素直に飲み込めばよいのである。

 由紀と敦子の二人は、対照的に描かれている。周囲の人間を信用していない…いつ裏切られてもおかしくないと警戒しているようなところは二人ともよく似ているが、それに対する自己防衛の方法が真逆なのだ。由紀は必要以上に他人とは近づかないように、当たり障りのない距離感を保って接する。一方敦子は常に誰かの行動を真似て、とにかく自分一人に周りの目が向くことのないよう気をつける。
 この二人ほど大げさではないにせよ、空気を読みすぎたり孤立を恐れたりする感覚は、かつて女子高生だったことのある者には誰しも覚えがあるのではないだろうか。
「バカで単純なくせに、自分が思っていることこそが、世の中のルールだと思い込んでいる」
まったくその通りである。見た目は成人と変わらない程に成長しても、内面はまだ成長しきれていないのが高校生という年頃ではないか。しかもなまじ大人になりかけている分、自覚と客観にギャップが生じてしまう。
きみたち、とひとまとめにされるのは不本意だが、普段わたしがクラスの子たちに対して思っていることなので、黙って聞いておく。
先ほどのセリフに対する、由紀のモノローグがこうだ。さも自分は違うと言いたげであるが(実際、他の同級生と比較してみれば由紀は精神的に大人っぽい面もあるのだろうが)、結局のところ自らを分析する能力がまだ身についていないに過ぎない。自分自身のことに必死になるあまり、世界と自分が切り離されているような錯覚で生きている。由紀や敦子に限らず、子供は皆そうなのだ。大人は皆、かつてそうだった。だからこそ本作を読んでいると、少女達の身勝手で狂気を含んだような発想にぞっとしないと思いつつも、どこか共感できる部分があるように感じてしまうのである。

↓以下、ネタバレ


 冒頭の遺書は誰のものなのか?…という疑問をしこりとして残しながら、物語は流れていく。「彼女は、ちゃんと自分を持ってる子だった。」という一文(敦子のモノローグと思われる)から由紀の遺書であると錯覚しそうになるが、そのあとすぐに表現された「あたしの親友」に該当する人物の方がおそらく由紀なのだ。では遺書を書いたのは誰なのか。そもそも登場人物の数が少ないので消去法で分かってしまいそうだが、ここはひとまず忘れて読み進めた方が賢明である。結果として遺書の存在自体が由紀と敦子の物語にはそれほど重要ではないし、書いた人物が誰なのかという謎も本題とずれている。結局答えが分かるのは、最後の3ページだ。

 由紀が病院で知り合った少年二人の嘘(入れ替わり)は、まんまと騙される。…というよりも、ヒントが全くない。由紀の一人称という性質上由紀が知らないことは書きようが無いのだろうが、多少は伏線的な描写があっても良かったのではないだろうか。でなければ、小説として必要な仕掛けであったか少々疑問に思えてしまう。

 少年の父親探しが敦子のパートと繋がって、物語の本筋はラストを迎える。しかし本作はそこで終わらず、エピローグにもう一つの山場が用意されているのだ。それが冒頭の遺書に関する種明かしであり、紫織の自殺した親友に関する真相である。終章での由紀・敦子・紫織の会話、そして冒頭と対をなす遺書の後半部分により、怒涛のように事実が明らかとなって伏線が回収されていく。
 確かに様々な事象が繋がりをもって現れる様子はハッとするし、一種の爽快感もある。ただし、二人の主人公のストーリーは前章までで完結しているのだ。終章以降のページはオプションと言うべきか、どうも取って付けたような印象なのである。もちろん、この部分があるからこそ本作が面白いと感じる人もいるだろうし、むしろこちらがメインという見方も出来なくはない。しかしあくまでも本作が青春小説であり、少女達の成長と友情が描かれたテーマなのであるとすれば。紫織とその父親、さらに紫織の親友と教師に関する一連のエピソードは、無くてもよかったのではないかと思ってしまう。

 主題が少々ブレ気味ではあるが、読んでつまらないという訳では決してない。爽やかではないラストも、読後感が悪いことはないのだ。
しかし“学校の裏サイト”といった描写には旬があるように感じるし、読者層も狭いのではないだろうか。私が本作を読み終えた上で、誰にでもおすすめしたいかと言えばそうではなく、5年後10年後にもう一度読みたくなるか聞かれれば大いに疑問だ。
 今このときに読んで「あぁ面白かった」と、そこで完結させておくことにしよう。

2012-01-28

#27_畠中恵「アイスクリン強し」

スイーツ文明開化は酸いも甘いも運んでくる 西洋菓子屋を起こした皆川真次郎が、愉快な仲間・元幕臣「若様組」の警官達と、日々起こる数々の騒動に大奮闘。スイーツに拠せて描く文明開化明治の青春。

アイスクリン強し (講談社文庫)

アイスクリン強し (講談社文庫)



 畠中恵や、宮部みゆきの『ぼんくら』シリーズなど、江戸時代の日本を舞台にしたコメディタッチのミステリが好きである。畠中恵といえば何と言っても『しゃばけ』シリーズが有名だが、他のシリーズものや単発の小説にもなかなか面白いものが多い。テイストはどれも同じだが、キャラクターや舞台が多様に変化しており、同じ世界を違った角度から眺めているようで楽しいのである。ちなみに私が一番好きな作品は『こころげそう』で、いずれここにもレビューを書きたいと思う。

 幼い頃に両親を亡くしており、西洋菓子店「風琴屋」を開店させたばかりの“ミナ”こと皆川真次郎と、旗本の跡取りとして生まれながらも御一新を迎え、警察官となった長瀬。それから、長瀬と同じように旗本家出身の警察仲間である「若様組」の面々。彼らのもとに、一通の謎めいた手紙が届けられる。
 差出人へ正しい「何か」を持って行けば、満足すべき褒美がもたらされる。
 送り主の招待は誰なのか。「何か」とは一体?


 本作『アイスクリン強し』であるが、先に述べたシリーズのように江戸時代の物語ではない。明治維新後20年の江戸改め東京が舞台である。歴史的用語としていつからいつまでの期間を“明治維新”とするかは諸説あるが、当時の人々が“御一新”と呼んでいた(作中でも主人公達が使っている言葉である。)のは廃藩置県の頃なので、そこから20年後といえば1895年前後であると思われる。
 江戸から東京となり、何もかもが恐ろしい勢いで変わっていった時代である。流されるように変化する者、ついて行けずに置いていかれる者。ましてや数年後には日露戦争に突入することになるのだから、不穏な空気が漂い始めていたに違いない。とにかくキナ臭い時代なのだ。
 しかし、そこはさすが畠中恵の作品である。キャラクターはどの人物も可愛らしく仕上がっており、セリフや表情が微笑ましい。(もっともミナ達は御一新の後に生まれた世代なので、経験していない江戸の世に嘆くことはないのかもしれないが。)消えてしまった将来を自虐的に皮肉って「若様組」などと名乗っている長瀬達が象徴的である。

 構成は、5編の連作からなる。「チヨコレイト甘し」「シユウクリーム危うし」「アイスクリン強し」「ゼリケーキ儚し」「ワッフルス熱し」と各章お菓子の名前がつけられており、それに関連させたストーリーとなっている。事件やトラブルを若様組とミナが協力し合って解決するというパターンだが、その中で必ずキーになってくるのがミナの作る西洋菓子なのだ。
 菓子作りのシーンは丁寧に書かれており、甘いもの好きにはたまらない。徐々に形作られるケーキを想像するだけで、なんとも楽しい気分になるものだ。

 話の核となっているのは、時代を象徴するような事件である。それほどインパクトのある結末が用意されている訳ではないし大した謎解きもないが、その分ライトに読むことは出来る。当時の“帝都”を想像しつつ、構えないで読み進めるのが正しいようだ。

↓以下、ネタバレ

 4番目の章「ゼリケーキ儚し」ではコレラの流行を題材にしているが、この章の終わり方が中途半端であるように感じた。コレラ患者の治療に対して展望が開けた所で終わってしまうのだが、もう少し結末を説明しても良いように思う。投げっぱなしのまま次の章に移ってしまうので、少々面食らった。

 「若様組」とミナの他にもう一人重要なキャラクターとして、沙羅がいる。沙羅は女学校に通う学生であり、性格はおきゃんで明るく大変可愛い。連作のなかの別軸として描かれるのが、この沙羅を絡めた恋愛である。沙羅はあからさまにミナのことが好きな様子だが、当の本人はそんな思いに全く気がつかず、しかしミナの方も沙羅のことが気になっているようだ。一方、長瀬も沙羅に思いを寄せているようでもある。
 畠中恵の作品でこのような淡くもどかしいような恋愛模様は定番だが、本作に関して言えば少し物足りない気がする。恋物語に発展しそうな気配は見せるが、結局おざなりのままに結末してしまう。その後は想像にまかせる…にしても、あと一歩踏み込んで欲しかった。

 「しゃばけ」シリーズや「こころげそう」「つくもがみ貸します」に比べると、正直完成度は劣るように思う。しかしながら、キャラクターに重点を置いて読む分には十分魅力的だし、決して面白くないわけでもない。
好みの問題か、期待しすぎたのか。とにかく、続編(時系列としては過去に遡るらしい)の『若様組まいる』も、文庫化されたら読んでみようと思う。

2012-01-06

#26_東野圭吾「レイクサイド」

妻は言った。「あたしが殺したのよ」―湖畔の別荘には、夫の愛人の死体が横たわっていた。四組の親子が参加する中学受験の勉強合宿で起きた事件。親たちは子供を守るため自らの手で犯行を隠蔽しようとする。が、事件の周囲には不自然な影が。真相はどこに?そして事件は思わぬ方向に動き出す。傑作ミステリー。

レイクサイド (文春文庫)

レイクサイド (文春文庫)



 いま最も人気のある作家の一人であろう、東野圭吾。『ガリレオ』『新参者』など作品が次々と映像化されて話題になっている。実は最近、父が東野圭吾にハマッたらしいのである。中古で買い集めて、大量に貸してくれた中にあった一冊だ。(離れて暮らしてはいるが、なんだか読書仲間のようになりつつある父である。)

 中学受験を控えた子供の勉強合宿として、三組の家族が湖畔のコテージに宿泊していた。一人遅れて到着した俊介はなんとなく他の親たちと馴染めずにいたが、そんな彼のもとに突然愛人の英里子が訪れる。
 その夜、待ち合わせの場に英里子は現れず、コテージに戻った俊介が目にしたのは彼女の変わり果てた姿であった。事態が飲み込めない俊介に、妻の美菜子は告げる。
「私が殺したの」


 他に人気の少ない湖畔の別荘で起こる殺人事件…とは、いかにも王道ミステリといったシチュエーションである。しかし内容はむしろ邪道と言ったほうが相応しく、結末もちょっと他では見かけないようなテイストであった。
 というのも、それほどページ数が多いわけではないのに展開が遅い。こんなにゆっくりやっていたら収まりきらない!と余計な心配をしてしまうが、そのような邪推をしているうちに、いつのまにかストーリーは意外な方向へとシフトしているのだ。「ここで終わりか!」と言ってしまいそうなラストなのだがそれも決して悪い意味ではなく、読後感は小気味良く仕上がっている。

 これは東野圭吾の別作品を読んでもしばしば感じたことだが、登場人物の誰にも感情移入できないのである。ストーリー自体は主人公である俊介の目線で進行していくのだが、不倫をしているし物言いもどこか冷めたようであり、決して好人物ではない。俊介の妻や他の親たちにも不審な言動が目立ち、なんとも言えない不気味さがある。つまりは、全員が怪しいのだ。
 一生懸命な主人公を応援しながら、とか、自分に重ね合わせて楽しむような小説も数多い。しかし本作は全く逆で、主人公すらも信用できないのである。偏った感情移入をしないで読める分フラットな目線で展開を追うことができ、結末の意外性がだからこそ効いてくる。「レイクサイド」の魅力はキャラクターでなく、ストーリーに尽きるのだ。

↓以下、ネタバレ

 受験に関する塾講師と親たちの繋がり、親たちが必死に守ろうとしているもの=子供…という図式も、それほど意外ではなかった。むしろ驚いたのは、真実が明らかになった後に
俊介が取った行動である。子供に対する愛情が芽生えた(思い出した?)ような展開はいささか唐突すぎる感が否めなかった。冷静沈着なポーズを貫いてきた俊介が、あれしきのことで死体遺棄に加担する決断に至るものであろうか疑問が残る。
 結局犯人が誰であったのかは俊介の憶測が述べられるだけに留まっており、判然としないまま結末を迎える。しかしこれは不思議と気持ち悪い感じがせず、作中で親たちが決断したのと同じように“知らなくてもよい真実”として受け入れられた。潔い終わり方なので、むしろ爽快である。

 読み終わって何かが心に残るような部類の話ではないが、ドキドキしながら最後まで読みきることができた。ページ数もそれほど多くなく、頭を悩ませる必要もないので、暇つぶし程度に手に取ってみるのが丁度よいのかもしれない。

2011-12-26

#25_恩田陸「ネクロポリス 上・下」

懐かしい故人と再会できる聖地―アナザー・ヒル。死者たちを『お客さん』と呼び、温かく迎えるヒガンという祝祭空間。連続殺人、不可思議な風習、天変地異、そこに新たな事件が―めくるめく想像力でつづられる謎とファンタジーの結晶体。

ネクロポリス 上 (朝日文庫)

ネクロポリス 上 (朝日文庫)

ネクロポリス 下 (朝日文庫)

ネクロポリス 下 (朝日文庫)



 恩田陸によるファンタジー小説。上下巻にわたる長編である。ブックオフで発見した。(両方100円で買ったため、上巻は文庫で下巻は単行本というちぐはぐな状態になってしまったが。)
ファンタジーもミステリもどちらも好きでよく読むのだが、それらが合わさると実は少し抵抗感がある。というのも、ファンタジーである以上ミステリとしては結局「何でもありじゃん!」と思ってしまうのだ。夢でした、幽霊の仕業でした、などという荒唐無稽なオチでもファンタジーであれば納得せざるを得ない…というより、設定によって無理やりねじ込まれた気がしてイマイチ納得出来ないことが多いのだ。
 さて本作『ネクロポリス』であるが、前述したようにファンタジーを土台としながらミステリの要素が多分に含まれている。さてどうかな、と期待半分、不安半分で読み始めることにした。

 イギリス日本の文化が融合した独立国V.ファー。死者が「返ってくる」という聖地「アナザー・ヒル」では、亡くなった家族や親類を「お客さん」として迎え入れる儀式「ヒガン」が毎年行われていた。V.ファーの親戚を頼って初めてヒガンに参加した日本人のジュンは、「アナザー・ヒル」の中で次々と不思議な出来事に遭遇する。
噂好きのV.ファー国民たちにとって今年のヒガンの話題は、世間を賑わせる連続殺人犯「血塗れジャック」で持ちきりだった。
「お客さん」は嘘をつかない。
 果たして殺された人たちは姿を現し、事件の真実を語ることがあるのだろうか?興味津々のジュン達や他のヒガン参加者の目の前で、新たな殺人事件が起きる―。


 ひとくちにファンタジーと言えど様々あり言葉の定義も曖昧だが、ストーリーの見せ方としては二つに分類できると私は考える。
 ひとつは、その物語の中では非現実的な要素が当たり前の事象として扱われており、設定や世界観を前提とした展開をするケースである。例えば、人間と魔女が当たり前に生活を共にしている『魔女の宅急便』がこれにあたる。もうひとつは、私たちと同じ現実的(もしくは半信半疑)な視点を持つキャラクターが、物語の中でやがて非現実的な出来事に遭遇してというケースである。たとえば、普通の子供が引っ越した先で不思議な生き物に出会う『となりのトトロ』などがこれだ。
 前者の場合はより早い段階で読者に世界観を掴ませる必要があるため、説明過多になりがちである。完成された設定の中でファンタジーの世界にどっぷり浸かることができるが、ややこしい印象を与えずにいかにすんなりと読ませるかは作者の技量の見せ所だ。一方後者の場合は、主人公と一緒に驚きながら少しずつ読ませていくことが可能だが、逆に言えば、やっとイメージが広がった頃にはもう終盤…というようなこともしばしばである。
 
 さて本作『ネクロポリス』であるが、このような分類では後者に当てはまる。主人公のジュンはヒガンに始めて参加する日本人であり、「死者が返ってくる」ということについてもよく理解していなかった。ジュンと一緒にヒガンに参加する親戚たちは皆V.ファー人でヒガンを毎年の行事としているので、彼らから逐一説明を受ける形で徐々に世界観が形成されていくといった手法である。
 「死者が返ってくる」という設定は少し宗教的な部分があり(実際、小説の中でも「アナザー・ヒル」は聖地であると表現されている。)説教臭くなりがちなテーマであると思うが、V.ファー人たちの好奇心旺盛で話し好きというキャラクター性によってかなり受け入れやすいものになっている。前述したように主人公は読者と同じ目線でヒガンを過ごしていくので、設定に置いて行かれることもない。
 しかし、ヒガンの常識…といったニュアンスで説明される内容にはイマイチ心理を理解できない事柄も多く、「そういうものなのか」と自分を納得させなければならないシーンもある。最もそのような場面ではジュンも戸惑ったような様子で描かれているので、文化や思想の違いを楽しむように読むべきなのだろうが。

 「ヒガン」にしてもそうだが、盟神探湯(くがたち)から変化した「ガッチ」など、ワードのチョイスが面白い。V.ファーが日本文化の影響を受けているという設定なので、日本のそれとは少し様子の違った百物語や、何故かオムレツを供え物とするお稲荷さんなども描かれ、外界と「アナザー・ヒル」と境界線には鳥居が建てられているのである。このような描写が「アナザー・ヒル」に漂う独特のエキゾチックさを演出しており、小説をより印象深いものにさせているのだろう。

 「お客さん」との遭遇や「ガッチ」、ヒガンのさなかに起きる殺人事件。不思議な人物や因習が次々に登場し前半は非常に引き込まれるが、終盤から結末にかけては少々不満が残ってしまった。地下の世界や「影」の存在が明らかになるのだが、風呂敷を広げすぎてしまったために綺麗にたたむことが出来ず、混沌としたまま強引に集結した印象が否めないのである。

↓以下、ネタバレ

 ケント叔父さんの正体は意外であり、アスナとの恋愛ストーリーもそれなりに素敵な雰囲気はあった。ただ、「融合」が始まってからラストまでの流れは混沌としすぎていて分かりづらかった。長文にわたって謎とされてきた部分を、三役が一息に説明してしまうのも味気ない。
 かなりヒーロー然としていたラインマンも目立った活躍をしないうちに終わってしまったし、「影」に対抗できるキーパーソンとされたジュンも、結局うろたえていただけであった。黒婦人の夫が次々に亡くなった真相も曖昧で、納得するにはやや足りなかった。

 終盤、「お客さん」が現れなくなった「アナザー・ヒル」について語ったジュンとケントの会話に、次のようなものがある。

「―みんな、ヒガンの存在について、これでいいのか、このままでいいのか、これが当たり前なのか、と疑う気持ちがじわじわ育ってきているんだ。口には出さないけれど、みんなの共同的無意識の中に、ヒガンや『お客さん』に対する猜疑心が生まれてきている。」
「信じていなければ効き目がない。じゃあ、いつかみんながヒガンを信じなくなった時、『お客さん』は現れなくなるんでしょうか」
「みんなが不安になり、ヒガンがなくなるんじゃないかと被害妄想に陥る。誰も訪ねてこない。この事態が、信仰の危機でなくてなんなんだ」


 この仮説はなかなか興味深かった。たしかに宗教とは信仰があればこそ存在しうるものだし、“宇宙が今のように存在しているのは、人間が観測するからである”という「人間原理」に相通じる部分があるようにも思える。私たちが普段“色”として認識しているものが本当は光の反射であるように、全ての事柄は、存在を信じる人がいるからそこに“ある”のかもしれない。SF小説のテーマにもなりそうだ。
 だから個人的な意見としてはケントの立てた仮説どおり、あのまま「アナザー・ヒル」が消失(崩壊)してしまうような結末でも良かったように思うのである。結局このシーンについても宙ぶらりんのまま終わってしまうので、少々残念だ。

 エピローグについてだが、これは賛否両論ありそうだ。好みの分かれるところだが、私は嫌いではなかった。全てをスッキリ片付けて終わらせるのでなければ、その後について想像の余地を残すのも一つのパターンである。

 やはりミステリとして見ると、やや消化不良であろうか。しかし熱中して読んだことは間違いないし、最後まで退屈することもなかった。これだけのページ数を一息に読ませてしまう技術力は、流石と言ったところである。