Syrinx Pour La Fin Du Temp 〜2eme Serie

07-05-03-Thu

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 ものすごくご無沙汰しておりました。実はもう一つの方のブログでは少しずつ記事の更新をしていたのですが、最近どうにもレビューなどをアップする気になれず(書いてはいるのですが)、あっという間に最終更新日から三ヶ月も経ってしまいました。この間にだいぶ生活状況も変化し、なかなか楽しいことになっています(何が楽しいのか不明ですが)。

 今少しこのブログの記事を読み返していましたが、同じようなレビューの記事でも日によって「ですます調」になったり「だである調」になったりで、結構文体も乱れていますね。何だか恥ずかしいです。しかし、ブログという特性から考えてこれは僕自身のメモでもあるので、これまでの記事に関しては一つ開き直らさせて下さい(ひどいですね)。これからの記事に関しては、今までよりも読む人のことを意識して、分かりやすく、かつ一貫性のあることを書いていきたいと思います。


 とりあえず、当ブログの路線をやや変更して、「提言」も主に取り込んでいきたいと思います。これまでも思想や哲学に関して書いてきたことはありましたが、もう少し時事的な話題、問題について沈思黙考することが、自分には必要だと感じました。もちろん、読まれる方のことを考えて、多角的に、色々なことを掲載していきたいと思います。関連するページへのリンクもたくさん貼っていきたいです。


 「提言」記事を掲載するにあたって、僕自身の立場を少し明確にしたいと思います。新聞で言えば、基本的に朝日の論調に近い立場を取っています。ただし、誤解の無いように確認しておきたいのは、僕自身の理解では、朝日は左か右かと問われればどちらかと言えば左というだけで、思想的に偏っているわけではない、ということです。報道機関としてのスタンス、平和主義という点で、僕は朝日に同調しています。従って、思想的にどちらかに偏った立場を取る、ということはありません。

 それから、僕が記事を書くに当たって意識しているのは、読む側のリテラシーの問題です。情報格差や、情報ソースに対する無意識の無批判的信頼が話題となっている昨今。この辺りを意識しながら、何をもって情報を正しいとするのか、人々を考えることへといざなう記事とは何かを問うことは、意義深いと考えています。何より、そうすることが自分自身のある種のトレーニングになっているわけですが。


 というわけで(?)、「提言」記事では、気になったニュースなどから僕なりに考え、調べたことを書いていきたいと思います。あくまで僕の意見、論考ですので、その辺りはご了承下さい。何か引っかかることがあった場合には、ぜひぜひコメントをお寄せ下さい。

BoulezBoulez 2007/05/05 00:17 訂正。
「どちらかと言えば左」という書き方も誤解を招きそうだ。そもそも、左とか右とかのウィングで捉えること自体が下らない。ある対立軸として相対的に左に見られがちだけれど、そうした思想的な偏りと朝日の主張は別の次元で存在している。その存在の仕方に僕は共感している、というのが正しい。
何だかナーバスな感じになってしまった。ふむむ。

うどんうどん 2007/05/05 01:30 「朝日の論調に近い」というのは、他にどのような新聞を比較した上で?そして朝日の論調の「君自身の理解」とはどのようなもの?
みたいな。

BoulezBoulez 2007/05/05 07:52 >他にどのような新聞を比較した上で?
メジャーな全国紙。普通に考えれば主に読売になるのか。ただ、他紙と比較の上で「朝日の論調に近い」と言っているというよりも、朝日のスタンスに共感している、という方が近い。

>「君自身の理解」とはどのようなもの?
これは書いてある通りです。わかりにくいかな。というか、うどんの質問も曖昧でわかりにくいぞ。一応、少し言い換えれば次の通り。
朝日の記事は、左とか右とかの思想の偏りとは別の次元で書かれている。ただ、新聞として徹底的に体制の監視役になろうとし、平和主義を貫いているという点で、また読売などとの相対的な関係の中で「左寄り」というレッテルを貼られているに過ぎない。

うどんうどん 2007/05/05 15:31 あー僕は論調という言葉の意味がよく分かっていないのかも。
思想の偏りとは別の次元とか平和主義とかいうのは論調を外から見た記述で、論調そのものの話ではないと思ったので質問したわけですが、論調というのがそういうメタ的なもののことをいうのなら君は十分説明してくれていることになります。

BoulezBoulez 2007/05/05 16:07 >うどん
「論調」は「議論の調子」のことだから、ある物事に関して議論する上で前提となる立ち位置のことだと、僕は理解しています。そういった意味では、僕はメタ的な観点で説明していたのであった。

06-12-12-Tue 意味のありそうで無いこと

[][][]デュルケムの「自殺論」について思い巡らす

 「自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」という一般法則を「発見」したところが、デュルケムの偉いところらしい。この点については、僕が「自殺論」そのものを読んだわけではないということもあって、特に反論は出来ない。それについていくつかの考察を行なっていることは確かで、デュルケムのこの仕事は評価に値するでしょう。


 しかし、いくつか腑に落ちない点はある。

1、統計の取り方が恣意的ではないか。

2、宗教、家族、政治の話を統一的に語ってよいのか。

3、家族についての考察が甘くないか。

4、「社会統合」「社会的連帯」の定義が難しい。

 以下、これらについて詳しく述べてみます。


1、統計の取り方が恣意的ではないか。

 いくつかの、自殺についての統計がある。彼はそれらを引き合いに出しながら、ある宗教とある宗教、ある家族構成とある家族構成、ある政治状況とある政治状況とを比較し、そこに見られる「差」を説明しようとしている。

 しかし、本当に差が存在しているのだろうか。数値はおよそ100万対やせいぜい1万対で、そこで見られる100の差など、比率的には小さいものである。サンプリングされている年代も10年以内に限られていたりして、もっと長いスパンで平均を取ってみたら潰せるくらいの差かもしれない。人一人の命は大きいから、10でも違えば大事だ、という議論なのだとしたら、表現として「自殺率」という言葉を使うのはナンセンスに思える。

 そして、より母体を大きくして平均をとった場合の数値を引き合いに出して、彼は、各社会は固有の自殺率を持っている、と結論付けている。その一方で、家族構成別、宗教別に統計を組み替えると差が見えてくるということをしている。これは、統計のマジックのようだ。上で「各社会」と言った場合、彼はどのような社会を想定しているのだろうか。いまいち曖昧で分かりづらい。

 しかも、「子供がいるという状態」や「家族の成員」のようなものが、具体的にどのようなものを想定しているのかも分かりづらい。


2、宗教、家族、政治の話を統一的に語ってよいのか。

 結論として、彼は宗教、家族、政治社会の統合の強さと自殺率の相関に着目し、そこに一般的な法則を見出したとする。それは、宗教にしても、家族にしても、政治にしても、それが自殺率を低める要因となるのは、個々の成員の諸活動が共通の目標へと集中されることによって、社会的連帯が強固になるときであるから、結果的に、自殺率を決定する要因は社会集団の統合の強さではないか、という考えからくる(一文が長い)。つまり、個人が社会と連続した状態になれれば、自殺は減るということだ。

 しかし、宗教社会、家族社会、政治社会それぞれは、異なる成員、異なるシステムを措定していると考えられる。また、それらの社会は、世界全体(仮にそういう表現が許されるとしたら、だけれど)と、異なる仕方で関わっていると考えられる。であるから、デュルケムが、「自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する」と語る時、その社会集団とは何を想定しているのかが問題となる。もし世界全体の社会としているなら間違いであるが、おそらく彼の口ぶりからしてそう考えてはいない。だとするとそれぞれの社会ということになるけれど、その場合は「一般的法則」と言ってしまうと語弊が出てくる。あくまで「個人の属している」社会集団なのであって、その限りにおいて個別的に分析しなければいけないのではなかろうか。

 ということは、きっとどこかの頭のいい人が既に言っているのでしょうね〜。


3、家族についての考察が甘くないか。

 宗教、家族、政治の中で、僕は家族についてが一番納得できていない。ただ理解できていないだけかもしれないけれど。

 一番納得できないのは、「家族」というものと、「結婚」「子供」ということを同一化している点。家族の成員というものも問題になっているけれど、具体的にどのようなものを想定しているのか。子供がいる家族が一番自殺率が低く、ついで結婚している者、やもめの者、そして一番自殺率が高いのが未婚者である。未婚者にもいろいろな種類の人間がいる。病気を患っている者、貧乏な者、セクシャルマイノリティーの者、離婚した者、などなど。それらは個別に事情を抱えており、またその違いは重大である可能性も高く、同じカテゴリーとして分析するのはいささか問題がある気がする。そして、未婚であっても「家族」を持っている場合は当然ある。それは内縁であったり、同棲であったり、また親や親戚、友達などと住んでいる場合もあるだろう。おそらく、デュルケムの想定している「家族」は、結婚する男女を核とする世帯のことだろう。しかし、本当にそう限定して分析してしまっていいのだろうか。

 自殺抑止作用の源泉となるのは、前提として、「共通の信念・感情の交流」である。それは、必ずしも結婚した男女の間でのみ生まれるわけではないことは、皮肉にも彼自身の統計が物語っている。彼はもちろんそのことについても考察しているわけだけれど、「家族」は思いのほか複雑で扱いづらい概念なのかもしれない。


4、「社会統合」「社会的連帯」の定義が難しい。

 これはもうそのままで、僕の頭ではこの用語の定義がうまく咀嚼できない。社会とは何か、統合とは何か、というところから既に疑問である。

 デュルケムの考察から考えてみると、「社会」は、個々人の行為を安定的に位置づける、全体的な意味連関のことであると思われる。それはそのまま、個人の行為準則となる。それがその成員それぞれの精神の中に内在化されることによって、個々人は日常世界を一層自明視するようになり、行為に対していちいち確認や反省(これは動揺や存在不安を招く種類のものとされる)をする必要が無くなるため、自然的態度をとるようになる。つまり、「統合」されるということだろう。「全体的な意味連関」はそのまま、「社会的連帯」にもなる。それらが強固になるほど、個人は自分の行為の拠って立つ意味をいつでも苦労せず参照することができるようになる。

 しかし、連帯の強さというものはどのように測るのだろうか。2の疑問にも通ずるけれど、拠って立つ意味連関によっては尺度が異なる可能性も十分に考えられる。それに、ここでは宗教、家族、政治を挙げているけれど、それだけが拠って立つ意味だろうか。政治については政変と戦争を挙げていることからも分かるように、ここでは法律や制度の問題、社会的慣習の問題は捨象されているように思われてならない。彼は何をもって、「社会的連帯」と言ったのか。やはり曖昧ではなかろうか。


 以上の流れとは少々ずれるかもしれないけれど、僕自身がやや哲学的に考えてみた「連帯」について、少し言及してみたいと思う。

 まず、個人は一実存である。実存とは、個人の「生きる」状態そのものであるが、その実存は、「社会的実存」のようなものに内包されている、もしくは接続されて、意味を与えられていると考えられる。

 個人は、私的利害から行為を規定することも可能であろう。しかし、それが実存の内部で意味あるものとして認められるためには、他者からの承認が必要となる。なぜなら、行為の結果は何者かに作用して初めて、感じられるからである。そう考えれば、個々人は、個人主義的状況を、ある「社会的実存」の成員同士で相互的に確認しあい、承認しあうことで、世界、共通の地平へと接続されるのではなかろうか。

 この「社会的実存」は、人によって、「システム」とか「階層」とか色々な名前で呼ばれているものだろう。

 「社会的実存」の内容、外形がはっきりしていればいるほど、それの内包している意味は、確固たるものとなるだろう。そうすればそれだけ、個人は自己の実存を揺るがされる不安から解放される。

 もっとも、たいていの場合、全く「社会的実存」を感じられないという状況は、起こりにくいと考えられる。なぜなら、個人は多くの「社会的実存」と接続されているからである。であるから、多かれ少なかれ、何かしらの「社会的実存」は個人を意味づけていると実感できる。ただ、その個人の実存にとって根源的かどうかによって、それに接続する意味、パワーが大きく変わってくる。例えばそれは信仰であったり、セクシャリティであったり、国家であったり。実存にとって根源的な「社会的実存」に、何事かクリティカルなことが起こった時、実存そのものも大きく揺さぶられ、存在不安に陥る。それがどうしようもなくなった時、人は死に至るのではなかろうか。


 最近の報道で「自殺者数が増えた」というような話が出てくるけれど、おそらくその表現は正確ではない。全体的な統計を見れば、デュルケムの言うように、「各社会は固有の自殺率を持っている」わけであるから、おそらく大きな変化は無いはずである。問題となるのは、メディアが報道する内容において、何が重要な「社会的実存」としてとりあげられているのか、ということであり、そこで規定される集団の統計なのである。


 書きすぎて疲れた。長い詭弁


 今日は、講演に使えるように大きなスピーカをつけた講堂で、授業を受けた。おそらく座る席が悪くて、スピーカの発する高周波音と低周波音を耳が拾ってしまい、気分が悪くなって途中退室。

 絶対音の研究をしている弊害。まったくもー。

OssieOssie 2006/12/12 22:43 長文おつです。
とても興味深く読ませていただきました。
私もデュルケムは読んだこと無いので何ともコメントできないのですが^^;家族についての考察は、彼の生きた時代としてはどうだったんでしょうね。

>音の研究をしている弊害
法学部じゃなくてよかったね(笑)。もっとも、法学部だったら音の研究はしていないわけだけど、、

BoulezBoulez 2006/12/13 13:10 研究室からレスしてみる。
長い上に、意味のあることを言えてない気がしてならない文ですみませぬ。
戯言から卒業しないとだね〜。教養ってムツカシイ

家族についての考察は、仕方ない部分もあるよね。
説明される家族形態が増えていった結果、どうにも適用外なものも出てきてしまって。
ここで引用したのは、自己本位的自殺について考察した、「自殺論」の第二編第2、3章だけれど、この部分を現代に置き換えた場合どうなるか、暇があったら自分なりに考察してみようかと思う。そんなこと、もうやってる人は山ほどいそうだけどね(A^-^;

法学部というより、文学部一大教室というやつのスピーカが悪いんだよね〜
昔からちょっと調子悪いところがあったらしい。
今後日常生活でこういうことがないことを祈る。。。

06-11-30-Thu

[]たまには

 研究室からちょっとした駄文を書き込んでみよう。

 他人のブログを見ているときに「只管」という単語を目にして、意味は分かっているのだけれど読み方がわからなかった。より正確には読み方を失念した。

 というわけで、みんなの「グーグル先生」にお尋ねしようと、ツールバーに「只管」と打ち込んだら、予測変換で「只管打坐」が出てきた。途端、この単語が「しかん」と発音することを思い出した。


 こは如何に。


 きっと四字熟語で覚えていたということなのだろうけれど、只管を見て只管打坐を思い出してもいい。塊でインプットしていただけでパーツでは頭に入っていなかったのか。全く不思議なことである。

 ちなみに、「只管」で「ひたすら」と訓読む。これには、只管打坐を見て、「しかん」が分かって初めて、思い至った。これもまた不思議なことである。

 

 記憶たちが、面白い芋づるで思いも寄らなかったところに接続されていることがよくある。只管打坐は同じ種類の芋同士を繋げていたようなものだけれど、芋づるをたどっていったら、例えばサツマイモに対するフライパンのような全く関係ないものと繋がると、一瞬驚いて、そして笑ってしまう。自分の場合、それは映像や音楽であることが多い。


 もっとたくさんの「エラー」を呼ぼう。

06-10-11-Wed Long and winding road

[]とりとめが無さ過ぎる

 最近映画もろくに観ていられないような状態で、この間は折角借りてきた映画を結局最後まで観られないまま返すという、非常に屈辱的なことをしてしまった。話の筋が中途半端に頭に入っている。ああ、きっとあの映画は暫く観ないんだろうなあ、もったいない。


 ということを何故突然書き始めたのかというと、やはり人間というものは何かを書き始めると落ち着くもので、というか自分の頭の中でいろいろなものが整理されるものであるから。

 しかし、ここは公共のスペースであり、いかんせん僕はそんなに露出狂でもないので(いや露出狂なんだけど、わざわざ新宿のアルタ前に行って「裸」になりたいとまでは思わない)、自然書く内容も限られてくるわけですな。だったら書かないほうがましじゃい!と今まで思っていたのだけれど、基本が露出狂なので誰かに読まれている方が安心するのです。終わってる、自分。


 おお、今気づいたけど、はてなの編集スペースに「ビデオキ」なる怪しいボタンが増えてる。ぽちっと押してみる。おお、なるほど、そういうことか。そこまで親切にしなくてもいいんじゃないの。

 どうでもいいことでした。


 今日は現代舞踏について薀蓄を言ってくれる授業に出てきたのですが、先生がほんとに薀蓄を言ってくれたので面白かったです。毎週楽しみに出たいと思います。

 今日は、チェホフの「かもめ」の話が出てきたのですが、僕がこのタイトルを聞いたときに真っ先に思い浮かべたのは「Lili」という映画でした。前のブログにも書いていた映画だけれど、結構原作に忠実というか、でも舞台とか設定はしっかり現代らしくなっていて、なかなか素敵な映画です。そして、この映画を観ると、チェホフはすごいと思うわけです。どうすごいかはご想像にお任せします。何でも書けばいいというものではないですね。

 さらに、当然と言えば当然の成り行きですが、ストラヴィンスキーの「春の祭典」についてのエピソードが出てきました。ニジンスキーを振付に選ぶに至ったいきさつとか、ディアギレフのプロデューサー手腕についてとか、ストラヴィンスキーは自分より天才な人間はいないと思ってたとか、面白い話をさも面白くないかのように語るので余計に面白くなりました。


 何だか久しぶりに軟派な文章を書いてみると、どうでもいいことしか出てこない。


 社会的に考えていることはいくつかあります。平等とか権利とか制度とか。最近は選挙についてもよく考えたりします。しかし、これはまださすがに露出するに至っていない内容なので止めておきます。

 一つ言えることは、社会学者の赤川氏と考えている方向性が同じであることがわかって、嬉しいのやら何なのやら、というかむしろそれでいいのかと思ったということです。問題の中心にいる人、あるいは中心の近くにいる人って意外とわかってないものだなと思っていたけれど、やっぱり中心の近くにいたほうが勘は鋭いんだなと思ったり。アカデミックな場で考察していると、武器は沢山出てくるけれど実感としてはやや遅れるのではないか。運動する立場の人間は常に一歩先を見て動いていないといけない。そうでないと「勝つ」ことができないから。

 攻撃や批判をすることは簡単だけれど、今動いている人たちの戦略が制度に対して働きかける影響、あるいはそこから相互作用的に運動が受ける影響を予測することも必要なんですね。イデオロギーや哲学を「看板」に振りかざすことは簡単だけれど、運動の根底に流れている精神はもっと切実で、そして実存的なものなのだと思う。

 全然具体的ではないですが、この話はとりあえずこれくらいで。

 自分って影響を受けやすいんだなあ。自覚しているだけいいか。


 自分は未だに、発信することを恐れている。そんな資格があると思っていない。たぶん、自分の中のロジックがはっきりしていないからなのでしょう。色々なものを出し切って一つのまとまりを自分で構築していく意志が無いといけない。考えなきゃ。


 書きすぎた。おしまい。

06-07-17-Mon 久しぶりに熱く

[][]メモ的なもの

ページが見つかりません:@nifty

 僕はこの主張に対してやや懐疑的。確かに、社会から求められる、あるいは社会的に認められた「規範」から漏れていること、を問題にしている点では極めて重要だと思われるけれど、どうにも曖昧というか、何かと何かを混同しているようなそういうこそばゆい印象が拭いきれない。

 僕が一番納得いかないのは、「社会運動を社会規範への抵抗」として、全ての運動を「同一視」しようとしているロジック。そんなことは無いと思う。「運動」と運動への「理念」は別個のものとして捉えるべきだと思うし、ここで言う「運動」はたぶんに政治的なものなのだ。男性に配慮しないフェミニズムはだめであるというのはおかしい、と言うのはおかしい、と言うのは(何だか複雑だ)、あまりにナーバスというか、それって「動的」なものと「静的」なものを混同していやしないかと思ってしまう。黒人奴隷解放運動が白人弱者を想定外にしていたとしても、そもそも黒人奴隷解放に関しては何より「黒人」が問題なのであって、白人弱者とは問題の構造が違うのではないかという気がしてしまう。それを「社会規範への抵抗という点では同じ」と言ってしまうのでは、極めて暴力的ではなかろうか。

 前回の記事で「変態入門」を取り上げたとき、同じように見える「ゲイ」と「トランス・セクシュアル」は実は問題の構造が異なり、共に「運動」を展開することは実は難しいかもしれないということを書いた。「運動」の背景にあるのは「社会規範」だけであるとは限らない。フェミニズムがまず「女性」と言い出すのは、何よりも「女性」の問題が切実なのであり、それに男性をも回収してジェンダー・フリーを掲げるかどうかは副次的な問題なわけである。「運動」とはそのようなものであると思う。

 「批評家」と「運動家」の間で齟齬がある、というのはきっとこういう状態のことなのでしょう。冷静なインテリは、自分が現在関わっている問題に関して「運動家」なのか「批評家」なのか自覚的でなければならない。それを説明した上での主張でなければ、それは何も生み出さないし、対話もできないと感じるのは僕だけだろうか。