倫理の臨床性。

私は動物が年間何十万匹も殺されていると聞かされても微塵も心が動かされることがない。それはちょうど毎日の如く見聞きする殺人事件のニュースにいちいち反応しないのと同様である。しかし、人であれ、動物であれ、それが私に対し現前しているというのなら話は違ってくる。おそらくその個体が殺されることがないように行動してしまうだろう。それは道徳的理由からではない。そうしたいという私のエゴによるのである。だから、私はそうしない人を非難しない。単に趣味嗜好が違うというだけだから。それゆえ、助けたことを以て助けない者より自分が価値があるとは思わない。助けることも助けないことも等しく非難にも称賛にも価しない。

子猫を崖下に放り投げるのと親猫に避妊手術を施すのとではどちらがより悪かという議論がある。私はどちらが善とも悪とも考えない。両者はそのような比較の対象ではないから。前者を妥当とする系も考えられれば、後者を妥当とする系も考えられよう。そもそも私はその猫と直接的には何の関わりも持っていない。それゆえ、そのテーマでどう理屈をこねようとも、いずれにせよ、対象者との個別具体的な関係性という考察の大前提を欠いた空論にしかならないのである。こうした空論を振りかざして事の善悪を問い一般化しようとする倫理学説はどれもこれも胡散臭いものにしかならない。

法は生きられた法でなくてはならない。倫理は臨床的にしか求められない。私は現前するこの者との倫理だけを問える。一般者との倫理については何一つ言及することが出来ない。