おいてけぼりの子猫。

イエネコの歴史について言及している記事があった。

内容についてはリンク先を読んでもらうことにして、感想。正直尻すぼみ感が否めない。ここまで書いておいて、何故に単なる不快の表明で終わっているのか。冗長も甚だしい。この方の言う「識った以上は黙過することなど到底出来ない」というのは、坂東眞砂子女史を刑事告訴するとか、彼女の飼い猫の子猫を引き取るなどの具体的な行動に出るということではなく、ブログで愚痴をこぼすこと、自らの不快を正当化する手続きを踏むということであるらしい。或いは、せいぜい不買運動という、肝心の子猫の生死にはほとんど関与しない「具体的な活動」。何だそりゃ。

そもそも自分と直接には無関係な者について憶測で考えてものを言ったところで、自分語りにしかならないのは自明のことである。そうでないことを語らんとする者なのならば、すなわち本当に愛情あって反発しているならば、記事を読むかニュースで知った途端に有給休暇を取って(無理なら無断欠勤、ないし仕事を辞めてでも)タヒチに飛び、彼女にアポを取り、今後子猫が生まれたらすべて自分が引き取って飼うから子猫を殺すのは止めるようにと説得に行くはずだろう。或いは、法に触れるかどうか、ニュースを鵜呑みにするのではなく日本の法律をリンクしてお茶を濁すのではなく自分でフランス法を調べ、自分で事実関係を調べて、証拠を固めてから告訴に踏み切るはずだろう。だが、そんなことをした愛猫家がいるという報せは少なくとも私は寡聞にして知らない。

おそらく彼らもまたはるか遠方の地で殺される子猫のことなど本当はどうでもよいのだろう。自分が如何に愛猫家であるかということを世間に向けてここぞとばかりにアピールしたいだけなのだろう。本当に愛しているのなら、他人になど任せていられない、いてもたってもいられないということになるはずで、愛していないからこそ弁明や愚痴ばかりが長くなる。

で、似たようなところを突いている記事を見つけた。

http://d.hatena.ne.jp/Schwaetzer/20060829

確か『倫理21 (平凡社ライブラリー)』で柄谷行人氏が「ムラ社会には友情が無い」といった話をしていたような記憶が。ちょっと思い出した。

ところで、私は勿論愛猫家ではない。