鰤端末鉄野菜 Brittys Wake このページをアンテナに追加 RSSフィード

You have eaden fruit. Say whuit. You have snakked mid a fish. Telle whish.

-- J. Joyce, Finnegans Wake, Book IV

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2008-12-02

[] すでにガラパゴスだった日本の英語教育

no title、ほとんど同感なのだけど(ヨーロッパ人はTOEICって知らないよね。みんなケンブリッジ英検受けてる)、ひとつだけ気になったこと。

べつにいまさらなんじゃないかなあ。それを「ガラパゴス化する」とはいわないんじゃないかなあ。むしろもうだいぶん前から日本は英語教育に関してはガラパゴスで、19世紀にラテン語を教えていたようなやり方で語学教育をやっている珍しい国なのではなかっただろうか。私が大学生だった1986年、大学での英会話の授業は Oxford University PressPerson to Person*1 を使って、それこそ chunk を使った発話訓練とでもいうべき授業を受けたんだけど、他の国では最初の段階でこれを使って英語を一から覚えていくのだと聞いて、へえと思った記憶がある。それがもうすでに20年以上前のことだ。

文法事項がまったくないわけではなかったけれど、会話の授業に使われるくらいなのでほとんどが文型練習で、「ああ、この課ではこの文法事項を覚えさせたいんだな」というのはぼんやりと感じた。こういう、口頭コミュニケーション重視なのは他の言語の場合も同様で、わたしは院に入ってからゲーテ・インスティテュートの講習に断続的に何度か通っているのだが、そこでも「会話は主・文法事項は従」という教科書とレッスンの構成は変わらなかった。実をいえば、ドイツ語学習の中で習った、相手の意見を肯定したり、否定したり、留保したりする定型句の練習は、そのまま英語に置きなおして今も重宝している。それは you know とかの冗句ではなくて、「賛成です、なぜなら……」とか「反対です、なぜなら……」とか「それはよい考えですね」とか「○○についてのあなたの意見がよくわかりませんでした。もう少し説明してくれませんか」といった、コミュニケーションを論理的に先へ進めるための定型句だった。それを何度も何度もほとんど自動的に口が動くように、場面設定された環境で使うことで身に着けていく。私が大学で、あるいは語学学校で習った外国語とはそのようなコミュニカティブなものを志向しつつ、倦むほどに単純な繰り返しの訓練であった*2

ドイツにいたとき、わたしは30代の前半で、読むほうはまあそれなりだったのだが、発話は全然できなかった(いまでも出来ない。ドイツ人と話していると向こうが憐れんで「英語でいいですよ」と言い出すくらい話せないのである)。聴くほうはまあ慣れてきても、とにかく口が回らない。そのために大分もどかしい思いもした。一方語学学校の友達や先生からは「おまえは文法も語彙も出来てるんだから、あとは話すだけ(Kommunikation machen)だよ、もう細かいこと気にしないでどんどん話すんだ」といわれたのだが、やはり紙の上で身に付けた語学というのはそう簡単にコミュニカティブになるものではなかった。

ただそこで大きく確信したのは、決して流暢でなくてもコミュニケーションは出来るということである。もっとも大事なのは、言語能力と同じかそれ以上に相手に対する信頼ではないかと思う。相手が自分と話をしたいのだ、相手は真摯に聴いているのだという確信、また相手が真摯に自分に話をしているのだという信頼があれば、訥々とでも会話はなりたつ。そういう意味で世界各国からさまざまな年齢層の学生が来ている語学学校というのは、言語学習にはなかなかよい環境であったと思っている。

閑話休題。「ガラパゴス化する」というとここ近年の現象であるかのように誤解する方もいるかなと思ったので、このエントリをあげた。日本の英語をはじめとする語学教育の構造的な欠陥のひとつは、おそらく過度の文法重視ではないかと私はなんとなく思っている。わたし自身は結構文法フェチなのでそれはそれでいいんじゃないかとすら思っているのだが、しかしコミュニケーションには日本で一般的なやり方があまり役に立たないのも事実である。いっぽうで、わたしはいったことがないのだが、世評にきく会話学校もあまり役に立ちそうな感じではないように見える。フリートーク的なものは、相当量をこなさなければコミュニケーション力の改善には役立たない。むしろ、その言語で意味の通った発話をするために必要な定型句を、さまざまな類義語の使い分けとともに覚える必要がある。たとえば「わたしは考える」と「わたしは思う」の使い分け、これは日本語だとかなり自由に置き換えられるが、西欧語の場合はそうではない。加えて根拠なく推論しているのか、明確な論拠があるのか、事実を知った上での発言なのか論拠はあるが推論なのか、そういうことをひとつひとつ動詞を使い分けて表現する、突っ込んだ議論ではそのような知識も必要になってくる。この辺りまで来ると再び学校英語にも出番があるのだが、そこにいくまでは少数の簡単な語句を使った定型句での会話練習のほうが却って有益なのではないかと思っている。

「外国語としての英語教育法」(TEFL)*3についての専門書をある程度読んだことがあるような方には、上で書いたようなことはいまさらすぎるであろう。ただ、ネットで散見するいろいろな「英語が話せるようになる○つのやり方」のような書き物には、そうした70年代以降の知見があまり生かされていない憾みがあるように思う。それはもったいないことなので、もう少し効率のよいやり方をみなさんなさったほうがいいのじゃないかなあと思う。

ではどうすべきか――私は大学でTEFLについての授業を取り、そこで当時のいろいろな雑誌論文を読んで討論するというようなこともしたのだけれど、なんといっても20年前の、学部生の知識である。現在ではもっといろいろな文献もあるだろうから、それは読者諸賢の研鑽にお任せしたい。

なおラテン語だが、最近の初学者向け教科書(ケンブリッジ大学出版局で出ている奴とか)はコミュニカティブな方向をとるようになっている。つまり会話を重視している、ようにみえる。言語は、とくに学習の初期には、双方向のコミュニケーションのなかで覚えていくのが絶対に効率がよいのだ。たとえその言語自体が死語になっていようとも。

一日一チベットリンク - 共同通信「ページが見つかりませんでした - 47NEWS(よんななニュース)」、12月1日

*1:ただしリンク先は現行版、3版。私が習ったときには1版だった。

*2:そこで学生が退屈しないように学習教材にはいろいろな工夫が凝らしてあった。たとえば、80年代から90年代初頭にドイツ語をGIIで習った人なら、あの"Irokaese"を忘れてはいないだろう。Themen 2 のわりと最初の頃に出てくるエピソードである。ドイツでの語学の授業中、そうした過去の教科書のネタで私たちはたびたび盛り上がった。そしてそれは、たんに面白おかしいというだけではなく、ドイツ社会における失業問題と福祉政策についての紹介にもなっており、たんなるエキゾティックな題材というのではなくて、学習者がドイツで就労を考えるときに実際に発話しあるいは出会うかもしれない文型の導入でさえあったのである。

*3:Teaching English as Foreign Language. 英語国に住んで第二言語として英語を使うような場合の英語教育は Teaching English as Second Language といい、両者は若干方法論を事にする。

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