2011年08月13日
人生論ノート
- 作者: 三木清
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1978/09
- メディア: 文庫
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『人生論ノート』という本がある。著者は三木清という戦前の京都学派の哲学者。治安維持法で投獄され、終戦直後に獄死した。
三木清の名前を初めて知ったのは高校生の時だ。現代文の入試問題に『哲学入門』が使われていたので、記憶に残った。『人生論ノート』は大学に入った直後くらいに買って、ぱらぱらと読んだが、理解できずに放ってしまった。以降、三木清との付き合いは無い。専攻も違ったし、この本を買ったのも「教養主義」のポーズみたいな所があったから、そこまで深い興味は無かった。
その本を、最近読み返し始めた。読み返しというよりは、新しく読んでいるのに近い。それではなぜ、新社会人の自分は、仕事の役にも立たないこのような本を読み返そうと思ったのか? それは、何かに逃げたかったからだ。清涼剤、ただし噛み砕くのに随分と力を入れなければならない厄介な清涼剤として、『人生論ノート』の再び手を出した。
前は、本を読むと一言一句それを覚えなければならないような気がして、またそのために何度も読まねばならないような気がして、当然そんなことができるような本などは一冊もできなくて、何となく本を読むのが厭だった。
最近は、まだそういう強迫観念も多少はあるが、会社に行くようになって時間がガシガシ削られるようになったおかげで、昔よりは消えたと思う。だからこの『人生論ノート』も、眼に付いた点だけメモしておこうと思う。
「成功について」より。
古代人や中世的人間のモラルのうちには、我々の意味における成功というものは何処にも存しないように思う。彼らのモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいであろう。成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。
成功と幸福とを、不成功と不幸を同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。
「自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。」なぜ「不成功を不幸として」ではなく「不幸を不成功として」なのだろうか。
他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い。幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである。だから成功は、その本性上、他人の嫉妬を買いやすい。
不幸は各人のもの。不成功は定量的なもの。個人の人格に寄り添うべきものが、一般的に量られるべきであると考えている所に、上記の「人間」の不幸があるのだろうか。
純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合成功と結び付いている。
「エピゴーネン」はドイツ語で、「亜流」とか「パクリ」あたりの意味らしいが、ローマの彫刻はギリシアのエピゴーネンでもあると言う。すると西洋美術館で目にした「円盤投げ」も、エピゴーネンの結果のひとつとなる(あれはローマ時代の模倣品だから)。
トルストイは「幸福な家庭は一様であるが、不幸な家庭はそれぞれに異なる」と書いたが、もし成功と幸福が切り離せないのなら、オリジナルで純粋な各人の幸福など無くて、せいぜい「不幸」に残されているに過ぎず、その不幸までも定量的な「不成功」としてしか考えられなくなってしまえば・・・。
もしひとがいくらかの権力を持っているとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであろう。部下を御してゆく手近かな道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである。
中国共産党は今のところ成功している。何も他国に限りはしない。幸いにも、今の会社からは、今のところ「立身出世のイデオロギー」は感じられない。
一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。
「成功」と「不成功」に人格を預けてしまうことは簡単であるように思うが、疑問だ。
