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CINE-PAKA シネパカ

2017-02-14

[] マグニフィセント・セブン(2016) 21:55

製作国:アメリカ

監督:アントワン・フークア

脚本:ニック・ピゾラット/リチャード・ウェンク

音楽:ジェームズ・ホーナー/サイモン・フラングレン

出演:デンゼル・ワシントンクリス・プラットイーサン・ホークピーター・サースガード 他

★★☆☆☆

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『荒野の7万人』制作希望

まあ、例によって気分がどんよりしてまして、ここは一発、人が大量に死ぬ映画でも観てうさ晴らししようかと、昨夜から女王様に鼻フックを装着させられたままの豚鼻さらしつつ、わざわざ新宿ピカデリーまで行って観てきたわけです。

で、感想はと言えば、面白くない訳ではないが残念な作品だったなあ、ということになりました。

もちろん残念なのは内容のことですが、タイトルも残念っちゃ残念な感じではあります。だってマグニフィセント・セブン」っていきなり言われても意味わかるか?って話ですよ。だいたい「マグニフィセント」って何なのよ、と調べてみると「崇高な」という意味だったんですけど、なんで「荒野の七人」じゃダメだったんだろう。「荒野の七人」そのまんまじゃ旧作と区別がつかないとかそういう理由でしょうか。だったら「荒野の七人・再起動リブート)」とか「荒野の七人・新世紀(ジェネシス)」とかにしようって訳にもいかなかったんでしょうが「マグニフィセント・セブン」じゃ覚えにくいし言いにくいし、これでだいぶお客さんを逃がしているんじゃないかという気がします。

それで肝心の内容なんですが、こちらの想像の範囲内を一歩たりとも超えてこなかったのでがっかりしました。いくら名作のリメイクだという足枷はあるにしても、逆に考えれば「農民に雇われた七人のならず者が悪人を倒す」っていう基本ラインさえ押さえれば、あとはいくらでもアレンジできると思うんですが、なんかねえ「何も足さない、何も引かない」みたいな感じでしたよ。ところどころイイところがあるだけに惜しい。特にクリス・プラットがらみのシーンは全部良かったと言ってもいいくらいです。あとデンゼル・ワシントンのガンさばきも素晴らしいんですが、とにかく顔がね。もう顔の「圧」がすごい。デンゼル・ワシントンの「顔圧」をこころゆくまで浴びたいという人には是非お勧めです。

まあ、それはそれとして本作を観て改めて考えたんですが、本作のリメイク元のそのまたリメイク元、つまり「七人の侍」を、そのまま西部劇に「荒野の七人」として移植してしまったことには、そもそも無理があったんじゃないでしょうかね。「七人の侍」は戦国時代の日本が舞台ですから、火縄銃くらいは出てきますが、基本的にはチャンバラで接近戦が主体なので農民だってそれなりに戦力になるわけで、だから辛くも勝利してもリアリティがあるわけです。ところがピストルだのライフルだの、さらにはダイナマイトなんてものまで当たり前に存在する西部劇の世界だと、いくらナイフ投げの名人とか二丁拳銃の達人とかが7人程度味方に付いてくれても、結局は銃器も部下も大量に保持している本作のボスキャラみたいな奴には、突き詰めて考えると敗北必至なのではないか。

そういうリアリティに立脚して、改めて「荒野の七人」のリメイクを考えるとして、まず踏み込むべき問題は「七人で本当に足りるのか?」ということだと思うんですよ。じゃあ、何人だったら妥当なのか。70人か、700人か?そこで僕は提言したい。「7万人です」と。

「荒野の7万人」の物語は、ある日、畑を耕していたら突然石油が噴出して、一躍石油成金になってしまった村の村人たちが悩んでいるところから始まります。石油の売上金目当てに周辺の盗賊たちが襲ってくるようになったからです。

そこで彼らは用心棒を雇い、村を守ってもらおうと考えて、軍人くずれだの賞金稼ぎだのがごろごろいる町まで足を運んで、高額の報奨金を約束して、用心棒を募集します。

すると7人どころか1000人くらいが一度に集まってしまい、さらに村まで帰る途中にも噂が噂を呼んで次々に参加者が合流し、村に帰りついた頃には7万人という大軍勢に膨れ上がってしまいます。

そこへ、何も知らずにのこのこと襲ってきた盗賊たちは数百人はいたのですが、7万人の一斉射撃によって10秒くらいで全滅します。しかし報奨金の取り分をめぐって争いが起こり、7万人が相互に殺し合いを開始。村人たちも巻き添えを喰って死に、7万人のならず者たちも結局全員死亡。死体が地平線の果てまで累々と横たわった荒野に風が吹き渡る音だけが響いてエンドマーク。これくらい振り切れたものが観たいんですよ、僕は!(鼻フックを入れたり出したりしながら)

[]2017年02月14日のツイート 00:07

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2017-02-11

[]2017年02月11日のツイート 00:06

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2017-02-03

[]2017年02月03日のツイート 00:05

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2017-01-07

[] ドント・ブリーズ(2016) 03:02

製作国:アメリカ

監督:フェデ・アルバレス

脚本:フェデ・アルバレス/ロド・サヤゲス

音楽:ロケ・バニョス

出演:ジェーン・レヴィ/ディラン・ミネット/ダニエル・ゾヴァット/スティーヴン・ラング 他

★★★★☆

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【悲報】ワイ傷痍軍人、自宅をDQNに襲撃される

※鑑賞後にお読みいただくことをお勧めします。

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[]2017年01月07日のツイート 00:06

2017-01-01 謹賀新年

今年もよろしくお願いいたします。

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2016-12-31

[] この世界の片隅に(2016) 10:56

製作国:日本

監督:片渕須直

原作:こうの史代

脚本:片渕須直

音楽:コトリンゴ

声の出演:のん/細谷佳正岩井七世潘めぐみ 他

★★★★★

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でも、生きるんだよ

この作品をめぐるツイートTwitterタイムラインがもの凄くにぎわった時期があって、その折にいろいろな感想や意見を目にした。中でも本作が「反戦映画」であるか否かという点についてのやり取りが目立ったという印象を持った。

ところが、いざ実際に観てみると、どうも「反戦映画」の一言では表しきれない作品であると思ったし、というか、およそ「○○映画」という呼称があてはまらない作品じゃないかとも思ったのである。

なるほど本作は、第二次世界大戦下の日本で生きる主人公・すず(声・のん)が生活物資の不足に悩まされ、米軍による再三の攻撃に怯える生活を余儀なくされる姿を描いている。しかし彼女および彼女の周辺の人々は基本的には戦前とあまり変わらない生活を送り続けるのである。少ない食料をやりくりして何とか日々の食事を準備し、いよいよ物資が不足すればヤミ市で調達し、夫以外の男性に心を揺り動かされたり、友達を作ったりもする。いつ、誰の生命が危険に晒されるかわからない過酷な日々が続いても、時に笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら淡々と暮らし続けるのだ。

そのような状況下で生きること自体、悲劇的であるし、主人公が大きな犠牲を払うことになるのも、そもそも戦争にその原因があると言えるのだから「反戦映画」と呼んでも全くの間違いではないのだが、それは本作の一面にすぎないと僕は思う。

本作において、すず達の生活を抑圧し、それまでの日常を決定的に変えてしまうものは確かに「戦争」である。しかし、地震津波台風などの天災航空機鉄道などの大規模な事故、あるいは無差別テロなどもまた(戦争とは比較にならないかもしれないが)多くの人々の日常を破壊し、深刻な変更を強いる力として作用し得る。そのような、個人ではどうすることもできない「大きな力」によって、それまでの日常が不可逆的に変貌させられてしまったとしても、人は生きるものなのだという恐ろしく普遍的なことこそが本作では語られているのではないだろうか。

「大きな力」によって日常が蹂躙されて、日々絶望に直面するような状況になっても、腹が減ったら飯を食うし、裸じゃ暮らせないから服をなんとかするし、なんなら家の修理だの部屋の掃除だのもするし、可笑しなことが起きたら笑いもするし、時にはセックスだってする。この映画が描いているのは、そういう人間の、決して戦時下に限定されない「生」の姿だと思うのである。「美しい」とか「醜い」とか、「正しい」とか「間違っている」とか、「悲劇的」とか「喜劇的」とか、「右翼的」とか「左翼的」とか、「反戦映画」とか「反・反戦映画」とか、そういった思想や価値判断などの前提としてある「生きる」ということそのものをありのままに描く試みがここでは為されているのではないか。

したがって、この映画は観る人によっては希望を語っているようにも諦念を語っているようにも見えるだろう。つまり「どんな状況でも人は生きられるものなのだ」という希望と「どんな状況でも人は生きてしまうものなのだ」という諦念の両方が語られているのである。被爆後の広島で、すずが、ある奇跡的な出会いを経験するのと前後して、すずの妹の暗い未来が暗示される終盤に、そのことが端的に表現されているように思う。

しかし、である。結局のところ、生きていなければ、すずにあの出会いは訪れなかったのだ。生きてさえいれば、そういうこともごく稀に起こる(というか、死者は何も経験できない訳だが)と信じて、果たして本当にあるのかないのかわからない「良いこと」がいつか自分にも起こるかもしれないという可能性に賭け続けるということ。「でも、やるんだよ」ならぬ「でも、生きるんだよ」という姿勢をとり続けること。それでしか諦念を振り払うことはできない。そんなことを考えさせられた作品だった。

[]2016年12月31日のツイート 00:07

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2016-12-30

[] ダゲレオタイプの女(2016) 23:14

製作国:フランスベルギー/日本

監督:黒沢清

脚本:黒沢清

音楽:グレゴワール・エッツェル

出演:タハール・ラヒム/コンスタンス・ルソーオリヴィエ・グルメマチュー・アマルリック 他

★★★☆☆

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男の妄執、女の超然

冒頭、主人公・ジャン(タハール・ラヒム)が駅に降り立つファーストシーンから、もうこれまでの黒沢清の映画と同じ空気が感じられ、もはやロケ地にも俳優にも使用される言語にも左右されることなく、ただ黒沢清がカメラを回せば、そこに黒沢清的世界が現れるのだという事実に、ちょっと感動した。

さて、そのジャンが、写真家ステファンオリヴィエ・グルメ)の屋敷を訪れるや否や、さっそく女性の亡霊が出現する。これは「幽霊屋敷」ものになるのかな?と思っていると、ダゲレオタイプで娘のマリー(コンスタンス・ルソー)を撮影することに異常に執着しているステファンの姿が描かれるにつれてサイコスリラーかな?とも思わせる。ところが中盤に起こる、あるショッキングな出来事を境にフィルムノワール調の犯罪映画となり、最終的には日本の古典怪談的なオチに着地するという、これまた黒沢清らしいジャンル横断的な作品なのだった。

そのようにテイストは二転三転するのだが、ストーリーの芯としては、女性キャストの全員が獲得している、死をも超越した超然的態度の前に、金や写真に執着しすぎた男たちが破滅していくというモチーフが貫かれている。黒沢清がこんな風に女性を描いた作品をこれまで観たことはなかったので、非常に興味深かった。監督の男女観を反映しているのではないかなどと下種なことをチラッと思ったりもした。

しかし、面白かったかと訊かれれば「うーん」と唸ってしまうだろう。とにかく、あの「嘘」に乗れるか乗れないかだと僕は思う。あれに乗れれば面白いと言えるかもしれないが、僕は乗れなかった。

映画の中における「リアル」という点について、『岸辺の旅』『クリーピー 偽りの隣人』そして本作と、いくら映画とはいえそれは如何なものかという部分がどうも、ある。「自由だなあ」と感心する反面「自由すぎやしないか」という危惧もある。意図してやっているのなら(勿論そうだろうと思うが)、その意図がどうにも見えないという感じである。

[]2016年12月30日のツイート 00:07

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