コンピュータ創世記(4)
まずマカロックについて紹介する。
マカロック(Warren Sturgis McCulloch, 1898-1969)は神経生理学者として活動し、彼の研究目標は「実験的認識論」、すなわち脳は、知覚のような心的な現象を維持するためにどのように機能するのかを実験的に解明し、心の機能を脳の中の神経系の過程に統合することであった。彼は、1930年代にはチンパンジーとサルの脳を用いた実験を行ない、大脳皮質において電気パルスの伝搬経路について研究していた。さらに彼は、認識過程のメカニズムを明らかにするために、大脳皮質内の神経の機能構造の実験的研究に、形式論理学を組み合わせることを考えたのだった。しかしマカロックは数理論理学に疎く、このプログラムを進めるためにはその分野に秀でた協力者が必要だった。
「伊藤 和行 「特集:モデル」 フォン・ノイマンとマカロック‐ピッツ・モデル:オートマトン理論の誕生 (2008年)」より
上の引用には「認識過程のメカニズムを明らかにするために、大脳皮質内の神経の機能構造の実験的研究に、形式論理学を組み合わせることを考えた」と書かれているが、それが具体的にどのようなことなのか私には分からない。マカロックは自分の行った実験の結果から、大脳の活動の中にデジタルな現象が隠れているのを嗅ぎ付けていたのだろうか? それとも、人間の頭脳は論理的な思考が出来るので、少なくとも脳の中に論理的思考を可能にする何かがあるはずだ、と考えたのか?
この疑問はそのままにして上の引用を続ける。
それがピッツ(Walter Pits, 1923-1969)である。彼は神童と呼ばれ、15歳のときにカルナップから数理論理学を、またラシェフスキーから数理生物学を学んでおり、17歳のときにマカロックに会ってからは彼の共同研究者となった。ピッツの数理論理学者としての優れた才能は、マカロックの神経系に関するプログラムの突破口となった。
「伊藤 和行 「特集:モデル」 フォン・ノイマンとマカロック‐ピッツ・モデル:オートマトン理論の誕生 (2008年)」より
次に上の引用で登場したウォルター・ピッツについて紹介する。ピッツは数学の才能にめぐまれた神童で、13歳にしてラッセルとホワイトヘッドの「プリンキピア・マテマティカ(数学原理)」を理解していたという証言がある。証言者はピッツの年長の友人でMITの電気工学と生物医学工学の教授だったレットヴィンである。また、この証言から、ピッツが恵まれた家庭環境で育ったわけではなかったこともうかがわれる。
「ウォルターの父は配管工で、息子を殴りつけていたので、ウォルターはとうとう逃げ出し、浮浪児になりました。ある日、仲間に追いかけられて図書館に逃げ込み、本棚の間に隠れたんですが、そこが数学書のコーナーでした。(ラッセルとホワイトヘッドの)『数学原理』に出くわし、それをやめることができなかったんです。一週間図書館に通い、3巻とも読み通しました。そして腰を下ろして第1巻の長い一節に関する批評を書き、それをイギリスのラッセルに送りました。ラッセルは好意的な返事を出しました。ウォルターに、ケンブリッジの大学院で勉強するよう誘う手紙を出したのです――言っときますが、相手は13歳ですよ」
「情報時代の見えないヒーロー ノーバート・ウィーナー伝」より
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そして
2年後、ピッツはシカゴに来て、ラッセルが行なった数理論理学の講義に出た。ラッセルは1938年の秋、シカゴ大学の客員教授となっていた。(中略)ラッセルはピッツに、ルドルフ・カルナップという、ウィーンの論理実証主義者の指導者のところで勉強するよう指導した。カルナップは最近、オーストリアからアメリカへ来て、シカゴ大学に落ち着いたところだった。その秋、高卒の資格もないまま、ピッツはシカゴ大学のもぐりの学生となった。
「情報時代の見えないヒーロー ノーバート・ウィーナー伝」より
ウィーナーがその後を証言している。
かれ*1はシカゴにいるカルナップ(Carnap)の弟子であったが、ラシェフスキー(Rashevsky)教授を中心とする生物物理学者の学派とも接触を保っていた。ついでながらこのグループは、数学的な考え方をする研究者たちの関心を、生物物理学がもっている可能性に向けるのにひじょうに貢献したのである。(中略)ピッツ氏は幸いにもマッカロ*2の影響を受けることになり、2人は、神経繊維がシナップスによって結びつけられて系をなし、全体としてある機能特性をもつにいたるまでについての研究を、いち早く取りあげた。彼らはシャノンとは独立に、本質的には継電器回路の問題に帰しうる問題の研究に、論理数学を適用したのである。彼らはシャノンの初期の研究ではあまりはっきりしなかった次のような要素を付け加えた。それは確かにテューリングの考えから示唆されたものであろうが、時間をパラメターとして使うこととか、循環回路を含む網状構造の考慮とか、シナップスなどによる時間的遅れなどである。
ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス」より
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このようにしてマカロックとピッツが1943年に発表したのが論文「神経活動に内在する観念の論理計算(A Logical Calculus of the Ideas Immanent in Nervous Activity)」であった。この論文で提出された神経回路に関する数学的モデルはマカロック・ピッツのモデルとのちに呼ばれるようになる。これは、非常に単純化されたモデルであったが、神経細胞(ニューロン)の主要な特徴をとらえていた。マカロック・ピッツのニューロンのモデルによれば、ニューロンはいくつかのパラメータを持つが、それらのパラメータの与え方によって、ニューロンがあたかも、ORとかANDとかNOTのような論理計算を実行することが出来、ニューロンのネットワークは、それらの論理の複雑な組み合わせを実現することをこの論文は示した。
この論文にすぐに反応したのがMITの数学者ノーバート・ウィーナーである。いつものように私は彼らの年齢が気になるので、ここに記しておく。1943年、ウィーナーが一番年長で49歳、次がマカロックで45歳、ピッツはぐっと若くて20歳。ウィーナーは2人にそのようなモデルは電子工学的に実現可能だということを示唆した。
当時、ピッツ氏はすでに論理数学と神経生理学には精通していたが、あまり工学の方面とは接触する機会をもっていなかった。特に彼はシャノンの研究を知っていなかったし、電子工学によって可能になるいろいろなことも知っていなかった。だから私が最近の真空管の見本を示して、ニューロン系の等価回路を実現するにはこれが理想的なものだと説明したとき、彼はひじょうに興味を感じたようであった。
ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス」より
当時はまだ真空管の時代だった。ベル研究所のウィリアム・ショックレーによるトランジスタの発明は1948年だった。それはともかく、ニューロンが電子工学的に模擬可能であるならば、電子工学的に人工の頭脳は出来ないものだろうか? そのような考えがウィーナーとそのまわりの人々の間に広まっていった。そこに話を進める前に、どのようにしてマカロックとピッツがウィーナーと出会ったかの話をする。