ディープ・ラーニングの社会への影響

TEDに出てくる、ジェレミー・ハワードの
学習出来るコンピュータの素晴らしい、そして、恐ろしい、意味合い(The wonderful and terrifying implications of computers that can learn)(2014年)
は、ディープ・ラーニングという、ニューラルネットワークの分野における新しい技術によって、どんなことが出来るかを分かりやすく教えてくれる、優れたプレゼンテーション(動画)だと思います(日本語字幕付きで見ることも出来ます)。この動画の最後のほうは、この技術が社会に与えるネガティブな影響について述べています。私は、自分の性格のせいか、この動画の大部分を占めるポジティブなメッセージより、最後のほうに述べられた懸念のほうに注意が行きました。その部分(動画の17:13以降)でジェレミー・ハワードは、以下のように述べています。



(世界地図がスライドに映ります。先進国は青色で塗られています。)

地図で青になっている国は、雇用の80%以上がサービス業のところです。サービスとは何か? このようなものです。


(スライドには、こう書かれています。「読み書き。話すことと聞くこと。物を見ること。知識をまとめること。」そしてその右には「自動車の運転。食べ物の用意。病気の診断。判例の発見・・・」とあります。)

これらのことは、コンピューターが出来るようになりつつあることでもあります。先進国の雇用の80%は、コンピューターが出来るようになったことで成り立っているのです。これは何を意味するのでしょうか?
「他の仕事で置き換えられるから問題ないよ。たとえばデータサイエンティストの仕事とか」
と思うかもしれませんが、このようなものをデータサイエンティストが構築するのに、そう時間はかかりません。たとえば今回取り上げた4つのアルゴリズムは、1人の人間によってつくられたものです。
「こういうことは以前にも起き、新しいものが現れては古い職が新しい職で置き換えられてきた」
と言うなら、その新しい職はどのようなものになるのでしょう? とても難しい問題です。
なぜなら人間の能力は徐々にしか向上しませんが、ディープ・ラーニング・システムの能力は指数関数的に向上しているからです。私達がいるのは、追い抜かれる一歩手前です。


(スライドには、グラフが映ります。直線的に向上する人間の能力と指数関数的に増加するコンピュータの能力がグラフで対比されています。)

今は周りを見渡して
「コンピューターはまだ馬鹿だ」
と思っていても、5年もしたらこのグラフの天井を突き破ってしまうでしょう。私たちは今この能力について考える必要があるのです。

前にも似たことは経験しています。産業革命です。エンジンの出現による能力の急激な変化がありました。しかししばらくすると物事はまた落ち着きました。社会的な変動はありましたが、あらゆる場面でエンジンが使われるようになると状況は安定したのです。


機械学習の革命は産業革命とは全然違うものになるでしょう。機械学習の革命は留まることがないからです。より優れたコンピューターが知的活動を受け持ち、それによって知的活動にさらに優れたコンピューターが作られるようになり、世界がかつて経験したことのないような変化を起こすことになるでしょう。何が起こりうるかについての以前の知見は当てはまらないのです。この影響は既に現れています。過去25年で資本生産性は増大しましたが労働生産性は平坦でむしろ少し下がっています。だからこの議論を今始めて欲しいのです。


(スライドには、こう書かれています。「役に立たないこと。・より良い教育。・仕事へのより多い報奨。」「役に立つこと。・労働の収入からの分離。・手作りベース経済」そして「希少性の欠如→基本生活賃金→負の所得税」)

私がこの状況を説明しても、なかなか真剣に取り合ってもらえません。「コンピューターには本当に思考することはできない」「感情がない」「詩を理解しない」「我々はそれらがどう動作しているのかを本当に理解してはいない」などなど。
だからといって、それが何なのでしょう? 人間がお金をもらうために時間を費やしてやっていたことが機械にも可能になっているんです。この新たな現実を踏まえて社会構造や経済構造をどう調整したら良いか、考え始めるべき時です。


コンピュータが人間の職を奪う、という話は昔からあり、私も何度か聞いたことがあります。しかし、この動画を見ると分かるように今回のブレークスルーは、コンピュータをより人間に近づかせたように思います。今度こそ、本当にコンピュータが、大部分の人の職を奪うことになってしまうのでしょうか? 私たちはそのような未来予測に対して、どのように対処していけばよいのでしょうか? 私には、以下の文章が、より現実的なものとして、よみがえってきました。この文章は、ウィーナーという数学者(一応、数学者ですが、いろいろな分野に詳しい変な人です。)が1948年というかなり昔に「サイバネティックス」という本に書いたものです。ウィーナーは、私が長年偏愛する人です。(以下、太字にした部分は、私が太字にしました。また、読み易くするために、一部、かなを漢字に直したり、漢字をかなに直したりしました。)

人間の仕事をやってくれる新しく、かつ最も有能な機械的奴隷の集団を人類が持つことになるのである。このような機械的奴隷は、奴隷労働とほとんど同等な経済的性格を持っているが、違うところは、人間の残虐という不道徳を直接にはもたらさないという点である。しかしながら奴隷労働と競争する条件を受けいれる労働は、どんなものであっても奴隷労働の条件を受けいれることであり、それは本質において奴隷労働にほかならない。その本質は一口に言えば「競争」ということである。機械のおかげで不快な卑しい仕事をやる必要がなくなるのは、人類にとって非常な福祉かもしれないが、あるいはそうでないかもしれない。私には分からないことである。このような機械による新しい可能性を、市場の言葉、すなわちそれによって儲かった金で評価すべきではない。

最初の産業革命、すなわち「暗い悪魔の水車場」の革命が、機械との競争による人間の腕の価値下落であったといえば、現在の事情の歴史的背景を明らかにすることができるであろう。掘削機のような蒸気シャベルの仕事と充分に競争し得るほどの低い賃金では、つるはしやシャベルだけのアメリカ人労働者は生きてゆけない。これと同じように現代の産業革命は、少なくとも簡単な一定の型にはまった判断力だけですむような仕事の範囲では、人間の頭脳の価値を下落させつつある。もちろん、腕利きの大工・機械工・裁縫師は第一次産業革命の場合でもある程度まで失職しなかったと同じように、第二次産業革命でもすぐれた科学者や行政官は失職しないであろう。しかし、第二次革命が終了した場合、普通、あるいはそれ以下の能力を持った世間一般の人間は、金を出してあがなうに値するものを何も持たなくなるであろう。
 この問題に対する解答は、もちろん、売買よりも人間の価値を尊重する社会を作ることである。このような社会に到達するためには、われわれは十分な計画と、非常にうまくいったとしても思想の面で生ずる多くの闘争とを必要とする。もしそうしなかったとしたら? それは誰にもわからないことである。

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

ウィーナーは「このような社会に到達するためには、われわれは十分な計画と、非常にうまくいったとしても思想の面で生ずる多くの闘争とを必要とする。」と書いています。これは、重要な指摘だと思いました。