エーゲ海のある都市の物語:ミュティレネ(10):アルカイオス

サッポーより10歳程度年下なのが詩人のアルカイオスでした。この人の詩も今まで読んだことがなかったのですが、今回、調べたところどうも「荒々しい」詩のようです。

アルカイオスの戦争と政治体験は現存する詩の中に反映されていて、その中でも断然多いのが軍隊に関するものである。荒海で沈みゆく船から生き延びようとする狂おしい努力、兜と槍の光景、戦争から帰還した兄弟たちを迎える安堵感、さらに、暴君の危険に対するののしり、戦場からただ一人生還した時に臆病者扱いされたことへの非難などがうたわれている。


日本語版ウィキペディアの「アルカイオス」の項より

(下の壺絵はサッポーとアルカイオス)


アルカイオスは、サッポーとは知り合いで、良好な関係を維持していたようです。後世の伝説にあるように恋人同士ではなかったかもしれませんが、それでもその関係は悪くはなかったことでしょう。

アルカイオスはサッポーの同時代人であり同郷の人であり、2人の詩人はミュティレネ人の友達のもてなしのために詩を書いたので、彼らはかなり定期的に互いに交際する多くの機会を持った。たとえば「メッソン」(断片129と130でテメノスと呼ばれている)で行われた、ミュティレネの下での島の連合を祝う毎年の祭であるカリステイアにおいてである。サッポーはそこで女性合唱団と公演を行った。「神聖な/純粋な、蜂蜜の笑顔のサッポー(断片384)」としての、神性のより典型的な観点からのアルカイオスのサッポーへの言及は、その祭での彼女の公演にその霊感を得ているかもしれない。


英語版Wikipediaの「アルカイオス」の項より



ところがアルカイオスは、ピッタコスについてはよく思っていなかったようです。ピッタコスが最高権力者に選ばれた際のこと、アルカイオスは亡命先でのことだと思いますが、それを非難する歌を残しています。

例えばかつて、ミュチレネ人たちはピッタコスを選んで、アンチメニデスと詩人のアルカイオスを首領とする追放者たちに当たらせたのであった。アルカイオスは彼らがピッタコスを僭主に選んだことをその酒宴歌の一つの中で明らかにしている。すなわち、非難してこう言っている。

生まれ賤しいピッタコスを
皆でたかって大いに賞めそやし
胆玉のない不幸な国の僭主として立てた。


アリストテレス政治学、第3巻、第14章、9〜10節」より

アルカイオスにとってはピッタコスは僭主ミュルシロスとの戦いにおいて自分たち一族を裏切った者として認識されていたからでしょう。
さて、この詩人の生涯を概観してみましょう。すでに「ミュティレネ(7):ピッタコス」のところで述べたように、アルカイオスの兄たちはピッタコスとともに当時のミュティレネの僭主メランクロスの政権を打倒する活動をしていましたが、アルカイオス自身はまだ若過ぎて、この活動に加わっていませんでした。次に、ミュルシロスが僭主になった時にはアルカイオス自身がその打倒運動に参加したのですが、ピッタコスが途中でミュルシロスに味方したために、アルカイオスの一族はミュティレネから亡命することになったのでした。このミュルシロスが死んだ際には、アルカイオスはその死を祝う詩を作ったということです。次いで、ピッタコスがアテナイとの戦争における功績で民会により最高権力者に選ばれたときにも、それに反対する姿勢を見せていましたが、ピッタコスは優秀な政治家だったらしく、その政権下で政情を安定させ、アルカイオスの一族は帰国を許されました。しかし、そののちまた亡命することになったようです。


アルカイオスの詩の断片が、英語版のWikipediaに紹介されていましたので、その英文と、拙訳とを紹介いたします。酒の歌です。

Let's drink! Why are we waiting for the lamps? Only an inch of daylight left.
Lift down the large cups, my friends, the painted ones;
for wine was given to men by the son of Semele and Zeus
to help them forget their troubles. Mix one part of water to two of wine,
pour it in up to the brim, and let one cup push the other along...


さあ飲もう! なぜ灯りを待っているのか? 日の光はほんの少ししか残っていないぞ。
大きなコップを下ろせ、友よ、絵が描かれたコップを。
人々がその面倒を忘れるのを助けるために、セメレとゼウスの子(ディオニュソス)が
ワインを授けられたのだから。水を1、ワインを2の割合で混ぜ
それを縁まで注ぎいれ、互いにコップを打ち合わせよう・・・


さて、男くさい感じのアルカイオスですが、意外なことに戦争で逃げたことがあり、しかもそのことをも詩にしているそうです。それは「ミュティレネ(7):ピッタコス」のところで述べたシゲイオンをめぐるアテナイとの戦いのことです。この戦いはピッタコスが一騎打ちでアテナイの将軍プリュノンを討ち取ったことでミュティレネの勝ちが決まったと思ったのですが、その後もアテナイはシゲイオンをあきらめず、戦いは続いていたようです。ヘロドトスはこの戦いについて述べています。

この戦争期間中、戦闘の間にさまざまな事件があったが、中でも特記するに値する事件としてはこんなことがあった。遭遇戦でアテナイ軍が勝利を収めた時のことであったが、詩人アルカイオスは身をもって逃れ、アテナイ軍は彼の武具を捕獲して、これをシゲイオンにあるアテナの神殿に懸けたのである。アルカイオスはこのことを詩に詠み、自分の災難を友人のメラニッポスに知らせるその詩をミュティレネへ送った。


ヘロドトス「歴史 巻5・95」より

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

アルカイオスの武具(これは盾だったそうです)が奪われ、シゲイオンのアテナ神殿に懸けられてあったのですから、この時、アテナイはシゲイオンを占領したのでしょう。このシゲイオンの話はまたあとでいたします。
また、以下のようなことも知られています。

アルカイオスはその亡命の間、広く旅をしたと考えられており、その中には1度のエジプト滞在が含まれている。彼の兄、アンティメニデスはネブカドネザル2世の軍の中で傭兵として働いていたようで、おそらくアスケロンの征服に参加した。アルカイオスはアンティメニデスの帰還を祝う詩を書き、そこではより大きな相手を殺す際の彼の勇気に言及しており(断片350)、彼は自分の家族の家を飾った鎧かぶとを誇らしげに述べている(断片357)。


英語版Wikipediaの「アルカイオス」の項より

ここから想像するに、この時代の貴族というのは武家のようなものであって、貴族の家柄がそれで1つの武装集団だったのでしょう。そしてその戦闘技術のゆえに他国でも傭兵として活躍することが出来たのでしょう。まさか貴族の一員が、単独で他国の傭兵になったわけではなく、きっと郎党を率いての参加だったのでしょう。