キクラデス諸島の歴史:1 先史時代。1.3 ミノア人とミュケーナイ人

これは英語版Wikipediaの「History of the Cyclades」の拙訳です。

1.3 ミノア人とミュケーナイ人


アクロティリサントリーニ島)のフレスコ画にある船隊は、BC2千年期のキクラデスの植民をも示している。


 クレタ人はBC 2000年期のあいだにキクラデス諸島を占拠し、次にミュケーナイ人がBC 1450年から、ドーリア人がBC 1100年から占拠した。島々は比較的小さいため、これらの高度に集権化された権力と戦うことが出来なかった[11]。


1.3.1 文献資料
 トゥキュディデスは、群島の最初の住民であったカリア人をミノスが追放した[18]、そしてカリア人の墓はデロス島に数多くあった[19]、と書いている。ヘロドトス [20]は、カリア人はレレゲス人と関係があり、カリア人は大陸から到着したと明記している。彼らは完全に独立していた( 「彼らは貢物を納めなかった」)が、ミノスの船のために船員を供給した。
 ヘロドトスによれば、カリア人はその時代の最高の戦士であり、ヘルメットに羽飾りを置き、楯に紋章を描き、楯を保持するためにつり革を用いることをギリシア人に教えた。
 その後、ドーリア人はカリア人をキクラデス諸国から追放した。ドーリア人の次には、デロス島を偉大な宗教的中心にしたイオニア人が続いた[21]。


1.3.2 クレタの影響

ロス島フィラコピのミノアのフレスコ


 中期キクラディック(およそ2000〜1600 BC)の15の集落が知られている。その中で最もよく研究された3つは、ケア島のアギア・イリニ(IVとV)、パロス島のパロイキアとミロス島のフィラコピ(II)である。フィラコピIとフィラコピIIの間に(遺跡の層にもかかわらず)現実の中断がないことは、両者の間の移行が残酷なものではないことを示唆している[22] 。1つの段階から次の段階への進化の主な証拠は、墓からキクラデスの偶像が消滅したことであり[22]、これと対照的に、墓自体は新石器時代以来、墓域内にとどまった[23]。
 キクラデス諸島は文化の差別化も経験した。北のケア島とシロス島のあたりの一群は文化的観点からすると北東エーゲ海に近づく傾向があったが、一方、南キクラデス諸島はクレタ文明により近いと思われた[22]。古代の伝承はミノアの海洋帝国について語っており、それはある程度のニュアンスを必要とする一般化し過ぎたイメージであるが、それでもクレタ島エーゲ海全体に影響を与えたことは否定できない。これは、特に、クノッソスとキュドニアの影響に関して、後期キクラディックまたは後期ミノアの始まり(BC1700/1600)からより強く始まったと感じられ始めた[24] [25]。後期ミノアの間、重要な接触がケア、ミロス、サントリーニで確認されている。ミノアの陶器と建築要素(ポリティロン、天窓、フレスコ画)と線文字Aの文字が発見された[24]。他のキクラデス諸島で発見された破片は、これらの3つの島から間接的にそこに到着したように見える[24]。キクラデス諸島にミノア人がいた形態が、入植地だったのか、保護領だったのか、取引所だったのか決めることは難しい [24]。当時、サントリーニ島アクロティリの大きな建物(ウエストハウス)やフィラコピ島の大きな建物は外国の統治者の宮殿だったであろうと提案されたが、この仮説を支持する正式な証拠は存在しない。同様に、植民地で典型的な、クレタ人専用地区が存在したことの考古学的証拠はほとんどない。クレタは、多かれ少なかれ重要な政治的役割を果たすことができる代理人を通じて、地域での利害を守ったのであろう。このようにして、ミノア文明は自分の商業ルートを保護した[24]。これはまた、なぜクレタ島の影響がケア、ミロス、サントリーニの3つの島でより強かったのかをも説明するだろう。キクラデス諸島は非常に活発な取引地区であった。これら3島の西側の軸は最も重要であった。ケアは、ラウリウムの鉱山近くで最も接近している、大陸からの最初の中継地であった。ミロスは残りの諸島に再分配し、黒曜石の主要な供給源であり続けた。サントリーニはケアがアッティカに対して果したのとと同じ役割をクレタ島に対して果たした[26]。
 青銅の大部分は引き続きヒ素と一緒に作られた。錫はキクラデス諸島では非常にゆっくりと進行し、それは群島の北東で始まった[27]。


アクロティリの地図


 1967年以来の発掘調査では、防護壁を持たない1ヘクタールに及ぶ市街地が発見された。 その配置は直線を基本にしており、だいたい直交する舗装された道の網目を持ち、それらには排水路がぴったりくっついていた。ビルは2〜3階建てで、天窓や中庭はなく、通りに面した開口部が空気と光を提供した。1階は階段と部屋を含み、部屋は店舗や作業場として機能した。次の階の部屋は少し大きめで、中央に柱がありフレスコ画で装飾されていた。家には四角になっていない梁の上に階段状の屋根があり、それらは野菜の層(海草や葉)と次に数層の粘土層で覆われており[29]、それは伝統的な社会で今日まで続いている。
 1967年の発掘調査の初めから、ギリシア人考古学者スピリドン・マリナトスは、いくつかの埋蔵物が廃墟であるので、この都市は噴火の前に地震のために最初の破壊を受けた、と述べていた。一方、火山だけはそれらを完全に残しているかも知れない[30]。ほぼ同じ頃、ケア島のアギア・イリニ遺跡も地震によって破壊された[24]。1つのことは確実である。噴火の後、ミノア製品の輸入は、アギア・イリニ(VIII)に入らなくなり、ミュケーナイ製品の輸入に取って代わった。


1.3.3 後期キクラディック:ミュケーナイ人の支配

イカの絵で飾られたミュケーナイの花瓶


 BC15世紀中頃からBC11世紀半ばまで、キクラデス諸島と大陸との関係は3つの段階に分かれていた[31]。BC 1250年頃(後期ヘラディックIII A-B1または、後期キクラディックIIIの開始時)、ミュケーナイ人の影響はデロス島と(ケア島の)アギア・イリニ、(ミロス島の)フィラコピ、そしてたぶん(ナクソス島の)グロッタのみで感じられた[32]。
 特定の建物は、明確な証拠なしに大陸の宮殿を思い起こさせるが、一般的にミュケーナイの要素は宗教的聖域で見つかった。大陸の王国が経験した破壊(後期ヘラディックIII B)に伴う困難の時期には、関係は冷えて、(島々の対応する地層からミュケーナイ勢の物が消えたことが示すように)停止するまでになった。さらに、いくつかの島の遺跡では、要塞を建てたり防御を改善したりした(フィラコピだけでなく、シフネス島のアギオス・アンドレスやパロス島のククナリエスなど)[31]。後期ヘラディックIII Cの間に関係が再開された。物品(イカの絵で飾られた取っ手付きの瓶)の輸入には、大陸からの移住による人の動きも加わった[31]。大陸のミュケーナイの墓の特徴である蜂の巣墓がミコノス島で見つかっている。ミュケーナイ文明が衰えるまで、キクラデスは絶えず支配されていた。