キクラデス諸島の歴史:2 幾何学文様時代、アルカイック時代、古典時代。2.4 ヘレニズム時代

これは英語版Wikipediaの「History of the Cyclades」の拙訳です。

2.4 ヘレニズム時代
2.4.1 ヘレニズム王国間で係争中の群島
 デモステネス [50]とディオドロス・シクロス[51]によると、テッサリアの僭主フェライのアレクサンドロスは、BC 362〜360年頃、キクラデスで海賊の遠征を率いた。彼の船は島々の中から、特にティノス島から何隻かの船を引き抜き、多くの奴隷を持ち帰ったようである。キクラデス諸島は第三次神聖戦争(BC 357〜355年)の間に反乱し、フェライと同盟していたポキスに対するマケドニアのフィリップ2世の介入を見た。こうしてキクラデス諸島は、マケドニアの領土に入り始めた。
 影響を広げるための闘いにおいて、ヘレニズム諸王国の指導者たちは、しばしばギリシア諸都市の「自由」を維持したいという彼らの願望を宣言したが、実際にはそれらの諸都市は彼らによって支配され、しばしば守備兵によって占領された。
 こうしてBC 314年にアンティゴノス1世モノフタルモスはティノス島とその有名なポセイドンとアンピトリテの神殿のまわりに島々の同盟を創設したが、デロス島アポロンの聖域よりも政治による影響は少なかった[52]。BC 308年頃、プトレマイオス1世ソーテールのエジプト艦隊は、ペロポネソスと「解放された」アンドロスへの遠征中に群島の周りを航行した[53]。島々の同盟はアンティゴノスに仕える連邦国家のレベルまでゆっくりと上げられ、デメトリオス1世は自分の海上戦の間これに依存した[54]。
 次に島々はプトレマイオス支配下に入った。クレモニデス戦争の間に傭兵による守備隊が若干の島々に、特にサントリーニ、アンドロス、ケア島に配置された[55]。しかし、BC 258年から245年の間にアンドロスの戦いで敗北した[56]ので、プトレマイオスは島々をマケドニアに引き渡し、その後アンティゴノス2世ゴナタスによって支配された。しかし、クラテウスの子アレクサンドロスの反乱のため、マケドニア人は列島を完全に支配することが出来ず、島々は不安定な時期に入った。アンティゴノス3世ドソンは、カリアを攻撃したとき、またはBC 222年にセラシアでスパルタ軍を破ったとき、島々を再び支配下に置いた。ファロスのデメトリオスは群島を略奪し、彼はロドス人によって群島から追い払われた[52]。
 マケドニアのフィリップ5世は、第二次ポエニ戦争の後、キクラデス諸島に注意を向け、彼はアイトリアの海賊のディケアルコスに略奪を命じ[58、その後、群島を支配下に置き、アンドロス、パロス、キトノス島に守備隊を配備した。
 キュノスケファライの戦いの後、島々はロドス[59]を経てローマ人に渡された。ロドスは島々の同盟に新たな勢いを与えることになった[52]。





ミロのヴィーナス。最も有名なヘレニズム期彫刻の1つで、この時期のキクラデス諸島の力強さのしるしである。


2.4.2 ヘレニズム社会
 ローランド・エティエンヌのティノス島に関する研究で、彼は、強い同族結婚が特徴的な家父長主義の「貴族主義」によって支配される社会を復元した。これらの少数の家族は、多くの子供を持ち、エティネンヌによって「農村のたかり」と特徴づけられた、土地の経済的搾取(売却、貸出、など)から彼らの資産の一部が得られた[52]。この「不動産市場」は、相続人の数と相続の分割によって動的であった。土地の購入と売却のみがまとまった財産を構築することが出来た。これらの財源の一部は、商業活動に投資することも出来た[52]。
 この同族結婚は、社会階級レベルだけでなく、市民全体のレベルでも起こり得た。デロス島には多くの外国人がいる都市に住んでいて、しばしば市民の数よりも多かったが、そこの住民はヘレニズム時代を通して非常に強力な市民レベルの同族結婚の形態を実践していたことが知られている[60]。この現象がすべてのキクラデス諸島で組織的に起こったかどうかは言えないが、デロス島は、社会が他の島々でどのように機能しているかを示す優れた指標である。実際、人々は、以前の時代よりもヘレニズム時代により広く移動した。プトレマイオスによってサントリーニ島の守備隊に配置された128人の兵士の大多数は小アジアから来た[61]。また、BC 1世紀の終わりに、ミロス島には大きなユダヤ人人口がいた[62]。 市民の地位を維持すべきかどうかが議論された[60]。
 ヘレニズム時代はキクラデス諸島のいくつかに堂々たる遺産を残した。アモルゴス島[63]とシフノス島には多数の塔があり、1991年に66本が数えられた[64]。ケア島では、1956年には27本が見つかった[65]。しばしば推測されるように[63]、すべてが監視塔であったわけではない[65]。シフノス島の多くの塔は島の鉱物の富と関連していたが、この品質はケア島 [65]やアモルゴス島には存在しなかった。そこには代わりに、農産物など他の資源があった。したがって、塔は、ヘレニズム時代の島の繁栄を反映したように見える[65]。


2.4.3 デロス島の商業上の力
 アテナイが支配していたとき、デロス島はもっぱら宗教の聖域であった。ローカルな商取引は存在し、すでに「アポロンの銀行」は、主にキクラデス諸都市への、貸付を承認していた[66]。BC 314年、島は独立を得ていたが、その機関はアテナイの機関の複写であった。島の同盟への参加によって、BC 245年までデロス島プトレマイオス支配下にあった[66]。銀行業務や(小麦倉庫や奴隷に関する)商業活動は急速に発展した。BC 167年、デロスは自由港になり(関税はもはや請求されなくなった)、再びアテネ支配下に入った[67]。その後この島は、特に、BC 146年に、デロスの保護者ローマ人が、その商業上のライバルであるコリントスを破壊した時に[68]、本当の商業上の爆発を経験した[66]。外国の神々のテラスが示すように、地中海全域からの外国人商人が、そこでビジネスを設立した。さらに、BC 2世紀半ば以降のデロス島シナゴーグが確認されている[69]。BC 2世紀には、デロス島の人口は約25,000人と推定されている[70]。
 悪名高いイタリア人のアゴラは、巨大な奴隷市場であった。ヘレニズム王国間の戦争は奴隷の主な源泉であったが、海賊(彼らはデロス港に入る際に商人の地位を身に着けた)もそうであった。ストラボン(XIV、5,2)が、毎日1万人の奴隷が売られていると述べている時、その数は著者が「多くの」という言い方である可能性があるため、この主張にニュアンスを加える必要がある。さらに、これらの「奴隷」の多くは、しばしば戦争捕虜(または海賊に拉致された人)であり、彼の身代金は下船時にすぐに支払われた[71]。
 この繁栄は、嫉妬と新しい形の「経済交流」を引き起こした。BC 298年にデロス島は「海賊からの保護」のために少なくとも5,000ドラクマをロドスに移した。BC 2世紀の中頃、アイトリアの海賊はエーゲ海世界へ、彼らの強制取立てからの保護の引き換えに支払われる料金を交渉するための入札を呼びかけた[72]。


虎の上に乗った翼のあるダイモンとしてディオニソスを描いたヘレニズム期ギリシアのモザイク。ギリシア、南エーゲ海地域、デロス島ディオニソスの家から。BC 2世紀後半。デロス考古学博物館