キクラデス諸島の歴史:3 ローマ帝国とビザンティン帝国。3.1 ローマ支配下のキクラデス諸島

これは英語版Wikipediaの「History of the Cyclades」の拙訳です。

3 ローマ帝国ビザンティン帝国
3.1 ローマ支配下のキクラデス諸島
 BC 3世紀からのローマのギリシアへの介入にはたくさんの理由がある。イリリアの諸都市からの助けを求める呼びかけ、あるいは、マケドニアのフィリップ5世との戦い、彼の海軍政策はローマを悩ませており、彼はハンニバルの同盟者であった。この領域のマケドニアの敵対者に対する支援(ペルガモン、ロドス、アカイア同盟)。フラミニウスはキュノスケファライの戦いで勝利した後、ギリシアの「解放」を宣言した。ローマの関与の要因として商業的関心も欠けていなかった。デロスはBC 167年にローマ共和国の保護下で自由港になった。こうして、イタリアの商人たちは、ロドスとコリントス(最終的にBC146年、カルタアゴと同じ年を破壊された)を多かれ少なかれ犠牲にして、裕福に成長した[73]。ギリシアの都市の政治体制は、大陸でも島々でも維持され、実際のところローマ帝国の最初の世紀の間に発展した[74]。



ロス島の「クレオパトラの家」の彫像


 若干の歴史家によると、キクラデス諸島はBC 133〜129年頃ローマのアジア属州に含まれた[52][75]。他の歴史家はそれらをアカイア属州に置いた[76]。少なくともキクラデス諸島は、これらの2つの属州の間に分割されはしなかった[77]。ヴェスパジアヌスとドミティアヌスの時代まで、キクラデス諸島をアジア属州に置く決定的な証拠はない。
 BC 88年、ポントスのミトリダテス6世は、ローマ人を小アジアから追放した後、エーゲ海に関心を示した。彼の将軍アルケラオスはデロス島とキクラデス諸島の大部分を取得し、彼はアテナイがミトリダテスを支持する宣言を出したためにそれらをアテナイに委託した。デロス島はなんとかローマの組織に戻った。罰として、島はミトリダテスの軍隊によって破壊された。20年後、地域の不安定性を利用して海賊に襲撃され、再び破壊された[78]。その後、キクラデスは困難な時期を経験した。スラやルクルス、ポンペイウスによるミトリダテスの敗北は、群島をローマに戻した。BC 67年、ポンペイウスは、様々な紛争の間に発生した海賊を地域から消滅させた。彼は地中海を様々な地区に分割し、副官に率いさせた。マルクス・テレンティウス・ワロ・ルクルスがキクラデスを担当した[79]。こうして、ポンペイウスは群島に、交易の繁栄の可能性を取り戻した[80]。しかし、生活費の高騰、社会的不平等、富(と権力)の集中がローマ時代のキクラデス諸島の常態であり、絶え間ない虐待や不満があったようである[52]。
 アウグストゥスは、彼が追放した人々は大陸から400スタディアム(50km)以上の島々にのみ住むことが出来ると決定したので、キクラデス諸島は亡命地となり、主にギアロス島、アモルゴス島、セリフォス島がそうであった[82]。
 ヴェスパジアヌスはキクラデス諸島をローマの属州に編成した[80]。ディオクレティアヌスの下では、キクラデス諸島を含む「島の属州」が存在した[83]。
 キリスト教化はキクラデスでは非常に早く起きたようである。ミロス島のトリピティのカタコンベは、エーゲ海ギリシアに特有で、非常に密接な洗礼盤同様、非常に単純な出来栄えであるが、少なくとも3世紀か4世紀から島にキリスト教徒のコミュニティが存在していたことを裏付けている[84]。
 4世紀から、キクラデス諸島は再び戦争の荒廃を経験した。 376年、ゴート族は群島を略奪した[80]。