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Japan and Gaza/戦場ジャーナリスト’09

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2009-04-20

イラク戦争前のドバイと、クレジットカード詐欺

オタクが、個人情報取られたんでしょう!」

詐欺にあった、と伺いましたが、というのんきな返答に頭に来て、語気は荒らげなかったが、一言いうと、先方、馬鹿丁寧な対応に変わった。

数日前、三菱UFJ関係のクレジットカード会社に電話をした時のことである。

話は遡って、その前日のこと。三菱UFJらしきアドレスから、一通の英語メールが来た。

どうやら、何か問題があって、クレジットカードの利用が制限されているか、停止されているので、以下の手続きをして欲しい、という内容であった。

一応、リンク先のページをみると、日本語で通常の三菱UFJのスタイル、そこに、

クレジットカード関係の情報を再入力することになっていた。

が、情報を入れると、ページは対応せず、記入ミスがある、という表示。その後慌ただしく、

翌日の朝になって、確認の電話をカードの裏に書いてある電話番号に掛けると、

「昨日から、同じような問い合わせが続いています。」

じゃあ、何か対応策があれば聞きたいし、カードの利用の停止・再発行しかないなら

そうしたいのだが、というと、「担当から電話させます。」

暫くして携帯がなるも、応対する前に切れてしまって、その後は全くないので、

再度こちらから電話し、同じ事を話したら、暫くして再度「担当」から電話が掛かってきた。

(長くなったが)、その時の第一声が、冒頭のコメントだ。


同じような問い合わせが続いていて、しかも、個人情報が漏れていなければ、発生しにくいような詐欺。

しかも、同じ電話から転送したものでないと、今回のようなメールと同様、手の込んだ犯罪であったら、詐欺の入り込む余地は幾らでもある。

実際、このカードの関係会社の電話対応者は、

「私以外の者がお電話しますが、会社名を申しますので」

と言ったが、今回のように「担当」から電話が掛かってくるまでにも時間があるような場合、電話での詐欺が行われたような場合、どうやって本物と見分ければ良いのか。


なぜ、こんなことを書くかと言えば、いや、なぜ、こうも簡単に詐欺に掛かったかと言えば、

最近、クレジットカード絡みで問題が多く、ある時はカード会社に助けられ、ある時は、複雑すぎる対応に困り。。。

いずれにせよ、一貫したシステムがないために、参ったことになっていた。

昨年、ウエブから航空券を買い、ネット環境とウエブでの対応の問題で、航空券が二重発券された時は、出発まで日にちのないものだったのだが、カード会社が、海外名義で同じ内容で二重引き落とし請求が出ていることを不審に思って、こちらの携帯に連絡をくれたせいでわかった。

e-ticketは一枚しか受け取っていなかったが、すでにカードの限度額は超えていて、暫く利用もできなかった。

航空会社には、状況を理解させるだけでかなりの手間がかかった。


他にも、2月にガザで、コンピューターからカード決済の手続きをしようとしたら、幾らやっても途中で止まる。

おかしいなあ、と思っていたら、その後、例えば先月日本に招聘したサラ・ロイ氏の講演に併せて彼女の著書を、代行して取り寄せようと出版社への支払いをしようとしたら、「そのカード、幾らやっても請求できません」という返事が、米国イギリスの出版社両方から来た。

帰国すると、クレジットカード会社から、至急問い合わせをしてください、とのはがき。

この会社が今回も問題になった三菱UFJ関係なのだが、個別の対応には何か言おうとは思わない。

航空券のケースなど、非常に助かった。

詐欺などにあってカードの不正利用があった場合など、カード会社もカード保持者に金額の請求は出来ない規程になっているカードだと思うので、そのための対応なのだろうが、それにしても有り難かった。

一方、こうした統一性のない対応だと、何処の誰からの連絡を信じて良いのか、全くこちらは判別不能。

特に、海外での利用が多いので、困る。


ガザでもクレジットカードが利用できる店はかなりあるし、7,8年近く前でも高級ホテルなどでは使えた。

インテイファーダ中でも結構使え、ATMも普通に作動していることが多かった。

それが、ハマス政権を取ってから、西岸を含む外部からの送金が停止、または制限され、今も状況は不透明

私のような海外で作ったカードを使う場合、使用できないのが、カードの性質のためなのか、

全ての金融取引に大幅な制限が掛かっているためかは、全てを確認するのは不可能だろう。

今回は、ホテルの支払いをカード決済で行えたが。


因みに、02年12月、イラク戦争直前のドバイでは、Citi Bankの銀行カードを持っていても、ほぼ全てのATMで、現金の引き落としが出来ずに苦労した。

Citiの支店に行かない限り、お金が引き出せなかった。

が、戦争終了直後になると状況は一変。

現在に至るまで、ATMで現金が引き落とせなかったことは一度もない。


面白かったのは、ガザの中産階級は、カードを使いたがっていること。

会社などが、(主にファタハ系のPA関連企業などは)、会社の事業と関連のある付帯サービスがあるクレジットカードを持つことを、社員に奨励しているとも聞く。

要は、新しいカードを持って、嬉しくて、友人をご馳走するときにカードを見せたい、単純に使いたい、ということのようだ。

いずれにせよ、政治的な側面は否めないが、心情的には良く分かる現象で、何よりそうした見栄はおいしいので、随分とパレスチナ人にご馳走になってしまった、前回のガザ滞在時期には。

(4/20 日本 小田切 拓)

2009-04-18 戦場ジャーナリスト

日本は、最後

イスラエルから電話よ」

世界中どこへ行っても夜型、そこには時差ぼけもなにもない私に、AM8時前に、またあの人たちから電話が来た。

切ってくれれば良いのに、電話は保留になったまま。待たせてしまった以上でないわけにも行くまい。

「Hi,Hiromu!」

しかも、いつもと違ってお兄ちゃんの声で、よりがっかり。掛けてきたのは、イスラエルの英字紙エルサレム・ポストからで、この新聞の金曜版(欧米の日曜版のようなもの)と、同社が出版している各週写真報道誌を購読しているからだが、いつもは翌年の購読継続や価格の確認なのだが、(とはいえ、一度で済んだためしがない)、今回はすぐに営業が始まった。素晴らしい本があるんだけど、1932年以降のイスラエルの偉大な歴史が詰まった、昨年がイスラエル建国60年だったのを記念しての大型本です、と聞いた途端、中身が解って、「それ、随分前に買ったよ」

同紙の、主立った表紙をまとめた本のこと。どうやら、売れ行きが余り良くないのだろう。古本屋で、同じものの古いバージョンまで買ったことを伝えて逃げようとしたら、今度は、知人を紹介してくれと続く。それも何とか断ると、今度は、「子供いない?」


いるけど、英語はしゃべれないからさ、日本人は英語苦手なんだよ、と答えると、

「英語の勉強にもなるし、イスラエルの軍事、(まず軍事)、文化、歴史、なんかが解る子供向け月刊誌を始めたんだけど、子供に読み聞かせるのに良いんだ。どう?」

でも、大抵は最初の半年とかは無料なので、それなら、どんな風に子供たちにアプローチしているのかも気になり、値段を聞くと、「一月7ドル。1年で67ドル。」ふざけるな、と思って、断った。

が、その後少し後悔。最初に電話を受けたのは上の娘で、英語が少ししゃべれる。

それに、子供向けの題材ほど、ある意味ての込んだモノはないわけで、年間67ドルならお値打ちだったか、と。ライブラリーに入れるには、もってこい。しかも、報道機関の出版と来ているから、なお良い。


大抵、記事のため引用する場合、日本語文献は使わない。嫌な話だが、パレスチナ側からのものも、政治家が、政治責任を持って語っている物以外殆ど引用に足るようなものはない。基本的に、引用は英語の原典資料のようなものか、関係者へのインタビューが中心。本来は、それもヘブライ語の方が良いのだが。

被占領者による意見を使っても、説得力も、検証も不可能。結局、パレスチナか遠いところ、遠いところ、と、探し回ることになる。現場には、realityはあるし、統治の結果は見いだせるけれど、現場だけでは、何も見付からないし、論証できない。

そんなことを繰り返し、日本の中東への関与の政策を併せて調べていると、それがどうやらかなり汚いものと理解を始めた現地や欧米の研究者国連NGOなどの関係者から、話を聞かれることも増えた。ガザについてなどは、実は当事者は解っていない場合が多いので、

今回の滞在では、西岸でも随分聞かれた。イスラエル人からも。

で、最後が、パレスチナ人ジャーナリストであり、日本人NGOかな。隔離壁の時もそうだったが、現場取材に加え、信用に足る資料と、世界でも一番の専門家からの情報を提供しても、

日本では、関係者ほど受け入れようとしなかった。


今、ガザで撮りためてきた8年間のフィルムのまとめを始めているが、その紹介先についても

日本から離れたところから始めようと、営業を続けてきた。小さくとも、何かを変えるようとする場合、日本は最後で良い場合も多い。

日本で伝える場合には、<変わらない>構造に何かを投げつけられるモノ、に絞った方が良いとも考えている。

映像には、<日本人>にしか撮れない理由と、当たり前のようで、今までにない手法を入れ込もうとしている。


ガザ侵攻後、日本の中東関係者は、面白いことになっていると思う。解りやすいほどグループ化が進み、その代弁者のようなジャーナリストが誂えられている。一般の方々も、こんなんで納得するほど、ばかではないと思うけれどなあ。


(4/17 日本)

※<ガザ通信>という本が出版されました。侵攻の最中、ガザの研究者が発信していたメー

  ルを翻訳しまとめ、日本人ジャーナリストの写真を加えてまとめたものです。

  私も、ほんの少しだけ出版作業の協力をしたこともあって、この本の紹介を兼ねて、

  パレスチナ関係の写真展を連休中に行います。関連イベントも複数回行う予定です。

  詳細は、また。

※4/30、5/1福岡、5/1、2広島、5/3熊本、5/9大阪に講演等で参ります。

 その他、5月、6月には、後2,3回、講演やクローズドの勉強会でお話しさせて頂くことに

 なりそうです。会にご参加頂けない場合も、いつものように調整可能な限り個人でも対応

 いたしますので、ご要望があればお知らせ下さい。

2009-04-10

遭遇

●遭遇

ドバイでの、小規模貿易の中心地デイラ地区。半年ぶりくらいに街中を歩くと、高級品を扱う店が増え、随分と様変わりしていた。人もそこそこいる。

3週間前に、ドバイの大学で教員をすることになってこちらに来たばかりの、パレスチナ系の知人と食事をし、街を案内して欲しいといわれていつもの場所、港近くのホールセラーの集まるエリアに行った。ちょっと変だったのは、道路脇がやけに綺麗なこと。確かに夜10時を回っていたとはいえ、シャッターを下ろしている店も多い。

そこで、5年ほど前から知り合いの、イスラム教シーア派アフガン人が経営する婦人服卸の店に行った。彼は、丁度店を閉めるところだったが、何か飲んでいくかい、話をしようと、店に戻るなり口を開いた。

ハザラ人と呼ばれるモンゴロイドの彼らは、我々に多少似ていて、かつイスラム教シーア派のため、以前タリバンから激しい抑圧を受けていたことで知られている。今、アフガンではタリバンが盛り返したせいで、特に彼らは、英語をしゃべったり、コンピューターを使いながら仕事をすると危ないという。それなのに、アフリカから移民したばかりのアメリカ兵はそこで悠々と働き、それを今の政権が支える構造を、止めどなく話す。

本来は、そう口数の多い人物ではなかった。元々、隣の店で働いていた他のハザラ人が知り合いで、そのうち彼とも知り合ったのだが、気は良いけれど、一緒に仕事をしよう、とか、何か買ってきてくれ、とか無理を言われたこともない。どうやら、ドバイ経済は、こうした商人レベルでも随分痛んでいるようだった。

通常、ドバイでは、就労先が決まっている場合のみビザが出る。制度の変更などもあって、多少不正確な部分もあるが、確か今は、例えば会社が潰れたり、解雇になったら、一ヶ月以内に再就職先を見つけないとドバイにはいられない。最近、国外に戻る外国人労働者が急増し、ドバイの人口の二割が減った、という話も聞く。また、まだ残っている者も、給料が激減したり、低賃金でないと契約しない、と言われ、決断を迫られているという話は周囲でいくつも起きている。

インドパキスタン、と言った、大量にドバイ労働者を送っている国の政府もそれを非難しないため、ドバイを代表とする湾岸諸国では、例え経済状況が悪くなっても、労働者との関係においてはそれが拡大し難い構造にはある。

結局、お金にならない業種は一瞬にして消すことが出来、規模を縮小することも可能だが、お金になる業種については、問題なく続けられ、規模の拡大にも素早く対応出来るシステムが、出来上がっている。こんなことで、良いのか、と思う部分もあるが。

日本の三菱などが参入しているドバイ地下鉄工事は着々と進み、最初に書いたように高級品を扱う店が増えたようにも思えるのも、経済状況が悪いとはいえ、ドバイへの渡航者を一定数確保できるようになったことで、外国人向けの業種に、店舗の有り様がシフトしていったのかもしれない。

メデイア関係などに、どんどん外国人がリクルートされていく、ということも良く指摘され、周囲でも実際に動いている。10年ほど前から知っているガザの青年も、カイロでメデイア関係の大学院に行っているやはりガザ出身の知人のルームメイトのアラブ人も、数ヶ月前からドバイ。この日一緒にいたパレスチナ系の知人のフィアンセのお姉さんも、UAEの大手メデイアで働いているという。

アフガン人の知人に、「商売はどう?」、と尋ねると、昨年暮れから最悪。店の外を見て欲しい、積み荷の段ボールバコが殆どないだろう、と。

確かに、この6年ほどで一度もなかった。今、彼の周囲の人々は、彼のように婦人服卸をしているものか、それをやめて、中古車が壊れたときの、修理用パーツの販売をしているものが殆どだというが、両方とも、危機的だという。次に何時来るのか、と聞かれたので、早くて6月かな、というと、その時にはもうドバイにはいないかもしれない、という。「何処に行くの?」と尋ねると、カナダとか・・・。

丁度カナダからドバイに来たばかりの研究者パレスチナ人の知人は、確かにカナダにもアフガン人が多いと、話に加わってきた。その辺から、張りつめた空気になった。アフガン人と、パレスチナ人は、会話としてはあまりしなかったが、お互いを明らかに意識していた。ドバイは、パレスチナ人アフガン人それぞれから、良く相手方の話をしているのを耳にするが、これほどの距離感で会い、深い話をすることは殆どないはずだ。

そうそう、アフガン人の彼は、03年のイラク戦争終了してからこのエリアで急増していた中国人も、急速に減っていると言う。

「朝来てみな。皆、じっと頭をうなだれているよ、中国人も。」

ドバイで始めた今回の取材の、結局、最初に考えた事が、眼前で更に酷な状況で現実化しつつあり、それを、典型的な二つのタイプの「難民」の遭遇、しかも、外国籍を持ち、エリート的な一方と、アフガン難民の中でも最下層にある一方、という対比も相俟って、奇妙なリアリティが加わった。


(4/10 台北・日本へ向かう便のトランジット中)

2009-04-09

続・講演は、だるい。

帰国日10日の夜の講演のことを考えている。

今、ドバイでの乗り継ぎ便待ち時間は18時間、夜中までは外に出て、ドバイで働きだしたパレスチナ人研究者や、6年ほど機会を見つけては訪ねてきたアフガン人の店に行ってみたりしたが、真夜中に空港に戻ってから5時間以上経つというのに、どうにも眠れない。

本来は、ドバイでの話を書くべきなのかもしれないが、考えが及ばないので、ライター関係者が主催の10日の会について少し書く。 マスコミ関係者が多いということもあって、当初は、最新の取材報告に加えて、手法論や、一部、マスコミの他者についての検証などを行うべきか、と考えていた が、どうにも違うような気がしてきた。

元来、日本人は批判を余り好まないのは見ての通り。喜ぶとすれば、下世話な内輪話、となるのだろう。

が、どうやら聞きに来てくれる人の中には編集者なども多いようで、それであれば、面白く他者の批判をする必要などないな、、と思えてきた。分かり切っていて 変えられない当事者を、目の前にしているのかもしれないのだから。

しかも、どうしたって、批判する相手の名前は察しが付いてしまう。

イスラエルのガザ侵攻の最中に企画された活動家主催の会で、マスコミへの意見やODAについてのコメントをして欲しい、と機会を頂けそうだったのだが、その 時に誇示した理由の一つが、聞き手にNGOなどがいたこと。(NGOの全てが悪いわけではないし、NGOそのものが皆非常に難しい状況に置かれているのは確 かにせよ)なぜ、本来語るべき当事者までもが座っている前で、代わりにそんなこに触れなければならないのか。

同じようなものを、10日の会にも少し感じ始めた。

これまで、他の人よりは批判的なコメントを公の場で口にしてきたことは確かである。

が、そこにも一応決めごとがあって、それは例えば以下である。

,覆襪戮同業中の同業について語る。

対案を示す。

,里茲Δ任覆ぞ豺隋⇔磴┐仭反ジャーナリストについて触れるときは、ジャーナリズムにおける責任が非常に重いか、少なくとも自分より強い者についてにする。

ぢ抄伴錙∩反イ砲弔い匿┐譴襪里蓮何か建設的な目的があるか、組織構造の問題や、自らの保身のために、明らかに原則論を踏み外しているなどの場合に限る。

「大手メデイアの伝えない、ガザのリアル」というのが講演のタイトルであるから、そういう意味では他者批判は求められていないわけで、勝手に批判をしなければいけないのだろうと捉えていたこちらが、間違っていたようにも思う。

まあ、そういうことをしても良いのだろうが、それであれば場合によっては、参加者がマスコミ関係者の場合、その方にも問いかけないと、名前を語られた 人などに失礼だ。

どうせ、憎まれっ子役を引き受けるなら、その場にいる人にもちょっとけんかを売ってみるぐらいの方が、真っ当かも。

やってみるか。 というのはさておき、今回の会の本来的な狙いは、自ら時間をかけてくみ取り、今回の事態を象徴するような「リアル」を語ることであって、そこから聞く側に、 自らを含めたメデイアの有り様を間接的に問い、かつ、手の打ちようがあることを、実際に取材した内容で幾ばくかでも証明する、べきなのだろう。

だから、今回 は余り大上段に立って世界を語ったり、論をぶつのは止めようという気になってきた。(自分で言うのは何だが)どれほど丁寧に、時間をかけて、対象と関わってきたかを、関わりそのものとそこから見ようとした事柄、見えてきたことから伝えた方が、きっと良い。そんなわけで、最初の頃やって来たエモーショナルな話でも、大げさな話でもないもやり方をしてみようかな、と思えてきた。それが、「リアル 」なのかは解らないが。 でも、会場にいる人に、ちょっと食って掛かっ6みるのも、面白いかも。一緒に話をすることになっている藤原亮司氏によれば、私、「人間が意地悪」らしいし。

「講演は、だるい」なんていう主催者に対してはこの上もなく失礼なことを書いたりしているくらいだし。

参加者の方は、突然話を振られるかもしれません。

(4/8 ドバイ

2009-04-08

もし、あの時

上の娘に自慢しようと、フレッシュ・ストロベリージュースを飲みに出たら、ミルクを加えられていて、悔しくなってメロン・ジュースも頼んだ。

娘は、今もアンマンに行くよ、というと、「いちごジュースを飲み過ぎないでね」と言う。アラビア語がしゃべれない家内に、「ファラウラ(いちご)」と発音させて 、良く直していた。この街にも、緊張感を全く感じなくなってどれくらいたつのだろう?

エルサレムから陸路で国境を越え、ヨルダン首都アンマンで一泊し、明日の朝にドバイに向かう。取材の終わりを、感傷的に感じなくなってから、随分経った。

余りにも慣れすぎるのは良くないとはいえ、現地にとけ込むことも悪くはない。エルサレムも、アンマンも、地元と余り変わらなくなってしまった。


40にもなった男が言うことではないが、以前は結構心が揺れることが多かったと思う。数年前、以前の職場の先輩をそそのかして中東に来させようとして、一緒にヨルダンビザを取りに行った時のこと。

当日発給をしてくれるといことになって、その待ち時間に、彼の持っていた招待券で「3丁目の夕日」を見に六本木に行った。

確か最終日で、人もまばらな昼過ぎの巨大な映画館で、中年の男が二人。

暫くして、どうにも涙が止まらない。隣をみると、彼も。二人して何とか悟られないように相手と反対側を向いていた。

そして外に出るなり、何もなかったような顔で、やけに客観的な物言いで、「良い映画だったよなあ」。「そうですねえ」。


が、パレスチナでも、パレスチナのことを語っていても、感傷的になったことは殆どない。

講演などで時折、そう見せてしまおうかな、と考えてしまうほど。

今のところ、「ふり」をしたことはないが、所詮、旅芸人のようなものだし。

「恐怖」については、もっとない。

一番怖かったことはと言えば、02年の3月末。

救急隊で働いていたガザの青年を日本に連れてこようとしていた時だが、状況は最悪で、彼のいるガザ南部から、手荷物一つで北部にある日本領事館(日本人はいなかったが、当時は領事館だったと思う)に書類を提出に行ったまま、検問が空かず、難民のようになった。そのうち、元イスラエル首相アリエル・シャロンが状況を「戦争」と語り、国連職員を含めた外国人の殆どがガザから消えた。

一時、銃声も止み、静まりかえった海沿いのカフェで水たばこをふかしていた時、例えようもなく怖くなって来た。

まだ色々不慣れであり、冷静さも保てず、パレスチナ人を招聘する以上は責任を持て、などと言われて、本来は行くべきではなかったかもしれない時期に現地にいた。

そんなくだらない意地に捕らわれたことに、恥ずかしくなっていた。

こんなことでは、事象と、受け手の間に入って、事態を「料理」することなど出来ない。

プロとしては当たり前なのだろうが、なんだろう、酷いものに立ち会っている方が、マシンのように体が動き、心もそうなるのかもしれない。

心に訴えようと何か を書く場合も、大抵は、暫く経ってから記憶を一つ一つ辿って、話をもう一度紡ぎ直すようなことをしないと何を見ていたのか解らないことが多い。


そんな中、明らかに心が動き、そして小さな絶望を感じたのが、03年の3月。

日本に帰ってきてからのことだが。何度か触れた、アメリカ人女性が、イスラエル兵によって、ブルドーザーで轢き殺された事件の起きた時のこと。英語のウエブを見ても、日本語で回ってくるメールを見ても、彼女の死、それへの対応ばかり。

同じ日に亡くなったパレスチナ人のことなど、皆無に等しい。

どうしようもないむなしさを感じた。彼女はアメリカ人だったから、運動家であったから騒がれ、パレスチナ人は、パレスチナ人だから無視された。だったら、日本人の自分が死んだしたら?運動家でもなく、組織ジャーナリストでもない、言って見れば無名中の無名。家内にしても、何かの理由から中傷を受けることはあ っても、話さえ聞いて貰えないかもしれない。

くだらないことを言えば、葬式に来てくれる人さえ、いるかどうか、だろうなあ、と。

その直後、イラク戦争が起こり、続いて日本人が人質になったこともあって、自分に何かがあった時のことを、さらっと家内と話した事がある。

「もしおれに何かあったら、おれの話はしないで、現地のことに触れてね。」

そんなことになったら、家内は、こちら以上にむなしい想いをし、子供たちは、心に、きっと消えることのない何かを刻み込まされるのだろう。

今もって家族に、こうした取材を、納得させられるロジックはない。

「いちごジュースも、メロン・ジュースも飲2だよ。」と、帰ったら真っ先に話し、近い将来、上の娘には中東を、再度、体感させることで、何かを掴んで貰いたい、と願っているのも、もしかしたら、エクスキューズの一部なのかもしれない。

「メデイアは、敗北した」

2月16日付けの東京新聞で、田原牧記者はそう触れている。これは、イスラエルによるガザ侵攻時に、ジャーナリストが現場に入れなかったことについてのコメ ントであるが、メデイアの敗北という表現については、本文を読む前に、失礼ながらブログでも扱っている。

田原記者の記事は、一定以上の評価をしているものが多い。この記事についても、書かれている内容をそのまま受け取れば、「まあ、解る。」しかし、数日前にやっとこのコラムを手にしてみて、勘弁して欲しい、と思ったのが率直なところ。

なぜかは、詳しく書く気になれない。

書けないような、部分もある。一つだけ言えることは、ガザについては、例えば現場の声を拾っても、そこに正当性を見出して国際社会が動くことなど、もはやないに等しい。

そんな現場に、<戦争>に、立ち合うことで何か見出せた、少なくとも日本人がいるとは思えない、ということか。


パレスチナ取材を始めてからの期間で、ああしていれば良かった、というような瞬間の記憶は殆どない。

一時的に何かが変わって、大きな何かにはなっていないだろうし、そんなことを考えることもそうはない。

逆に、何かを変えてくれた瞬間については、忘れられないことが多い。前に話した10年来の知人と何年もの間会えずにいた後、「今かな」というタイミングで再会出来た時。別の知人がたまたま彼と知り合っ1いて、繋いでくれていた。

10年以上前にパレスチナで出会い、その後随分と会うこともなく、悪い印象さえ持っていたことを否定できない日本人の知り合いが、最近、講演に顔を出してくれて再会した時の、最初の数秒のこと。

「あの時」は、もしではなくて、何かの必然であったのだろう。それが、他の人の働きかけであったのだから。

どう返して行こうか、こうした人々に何かあった時、孤独を感じさせないよう、むなしさを少しは和らげててあげられるよう、何かしたいと良く考える。

大それた事はできそうもないが。


我々は、リスクを抱えた人々を取材しているのである。

リスクを負わないなら、負わないなりのやり方もあるだろう。が、それを心得ずに語られた生き様は軽く、興奮は嫌みだ。


(4/7 アンマン

エルサレムと、ガザ

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ガザ南部の街の、キャンプの若者。全く黒人としか見えない青年を、以前紹介した写真の中で見せようとしたが、サイズの問題で切れてしまっていたので、別の写真を。

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エルサレムの、主要道路。イスラエル政府が、エルサレムの中にある入植地に繋がる路面電車の工事をしているが、完成も間近のようだ。



不思議なもので、西岸ではガザのような普通の人間関係が築きにくい。こちらが努力してこなかったのか、それとも西岸がガザと違うのか。

個人的な関係性の差を、占領の質的さや状況の善し悪しで語るのは短絡的なので、別個のものとして考えては欲しいが、イスラエル側にしても、西岸のパレスチナ人にしても、特別証拠はなくとも、以下のような共通見解があるのは確かだろう、前にも書いたかもしれないが。

「西岸は、将来的に渡ってイスラエルとなにがしらの関係を持ち続ける可能性が高い。が、ガザは、そうではない。しかもガザは必要ないから、西岸では見られないような過度な軍事的対応をする。」

これは哀しい現実であるが、イスラエルの西岸とガザの切り離し政策によってにせよ、西岸の人間のガザへの関心は非常に低くなっていた。無責任なコメントも多く、海外でも、「Gazawi(ガザ人、という感じか)」という呼び方には、何処か蔑視が込められている感じ、少なくとも、特別な感情がこもっていた。そうしているうちに、西岸でも「口封じ」が激しくなり、一般人が何かを変えようとする手は皆無に等しく、かといって、「いつの間にか、イスラエル以外の占領者にも、支配されるようになってしまった」なんて声は良く聞くのに、命がけで身内に立ち向かう姿も今のところはみない。

問題は、エルサレム

こうしている間にも、一つ一つ、家が土地が、パレスチナ人の手を離れていき、人々は、行動に移すのも、(西岸とは違う段階で)難しくなっている。イスラエルによって実質併合されているこの地に存在するパレスチナ人は、イスラエルのIDを持って生活しているが、それを奪われ、ここにいられなくなる、という圧力を常に感じている。そして、それが更に加速している、と考えられている。

が、それが伝えられることも、充分な調査が行われている形跡もない。

以前に、日本人のジャーナリストが書いた本のタイトルに、「エルサレムは誰のものか」という

ものがあるが、今は、「エルサレムとは何処か」、や、「エルサレムに、パレスチナ人は存在出来るのか、否か」というような状況。

旧市街では、ユダヤ人に強制的に取り上げられた、と所有者が主張していた家屋が、実は、オーナー自身が売り払っていたケースを良く聞く。勿論、エルサレムでは実際に、イスラエル政府によってそれまで住んでいた家屋から強制退去させられるケースも多いが、ともかく、

オセロを白から黒にひっくりかえして行くように、一箇所づつ、少しづつ、でも確実に、パレスチナ人のエリアが消えていく。

手元に、イスラエルの前首相の計画したエルサレムの分割図があるが、興味のある方には是非お見せしたい。

(所有権の問題や、イスラエルの法が定めた基準などを理由にしているが、東エルサレムは本来占領地で、イスラエルの土地ではない)

「ガザを伝える」ことも、全く別のステージに入った。侵攻について、偉容さは感じ取れても、その真の狙いを報道するだけの証拠が出てこない。「戦争の新形態」を、ガザから見て取らねばならないと私は考えているが、その手法や目線の置き方に、これまで使ってきた手法は対応してくれない。

苦し紛れに、そして、これまで幾らかは見出したつもりの、既に古くなってしまった「ガザへの対処」の手法で少し。

以前紹介した、古い知人と長い話をした後のことだが、彼が去った後、もう一人の知人はこう言った。

「チャンスを彼は、必死に掴もうとした。おれにもそれがあった。でも、そんな人など、殆どいない。」

そんな言葉も、チャンスがあったから言えること。

そして、エルサレムには、「トランスファーの巧妙さ」という、既に解っている変わらぬ問題があるのに、ここでは手法さえ見えてこない。

明日には、エルサレムも一旦離れる。

(4/6 エルサレム