めがねのはなし(長文・妄想注意)

ここ数日間、花粉症の関係上、コンタクトをやめて眼鏡にしていた。普段はだいたい、朝起きてから寝る直前までコンタクトをしているので、一日中眼鏡でいるのは外出をしない休日のときぐらいものだ。つまり、私にとって眼鏡とは「部屋着」であり「パジャマ」のようなものなのである。であるからして、ふだん、会社などで常にコンタクトの女性が、たまさか眼鏡をしているのを見ると、その人のプライベート、いわばパジャマ姿を垣間見られたような気がしてお得な気分になるのである*1
(↓以下妄想。お好きでない方および時間を無駄にしたくない方は、ご覧にならないことをお奨めします)
金曜日の夜。そろそろ終電の時間も気になるので、残業を切り上げて帰ろうとしたら、デスクの電話が鳴った。こんな時間に誰からだろう? と思いつつ出ると「あ、その声は茶太っち? あー、よかった〜、まだ誰かいたんだ〜」。先輩の稲田さんだった。
「どうしたんですか? こんな時間に」
「まだ仕事? お疲れ様。ねぇねぇ、あたしのデスクの周りにさ、お財布ない? プラダの」。どうやら、財布を会社に忘れて帰宅してしまったようだ。
「ちょっと待ってください、見てみます」。立ち上がって彼女のデスクに近寄ると、机の下の、椅子と抽斗の間に札入れが落ちていた。
「ありましたよ」
「ホント? あー、よかったー。どこかで落としたかと思ったよ。ありがとー」。彼女の声はひとまず安堵していたようだった。が。
「じゃあ、受付の守衛さんに預けておきましょうか?」
「…ねぇ、茶太っち、怒らない?」。電話の向こうの彼女は、僕の顔色を伺うような様子で言った。
「…事と次第によりますけど」
「あのね、実はあたし、明日朝イチで実家に帰らなきゃいけないの、父の法事で」
「え? じゃあ、まずいんじゃないですか?」
「そうなの。飛行機のチケットは鞄の中なんだけど、現金もキャッシュカードもクレジットカードも財布の中だから、明日、空港にも行けないのよ」
ようやく、事態が飲み込めた。「……届ければいいんですね?」
「うぅ〜、茶太様〜、どうもありがとう〜」。わざと涙声を出して、彼女は言った。
「『どうもありがとう』じゃないですよ。もし会社にいたのが僕じゃなかったから、どうするつもりだったんですか?」。彼女の家は、僕の家の最寄り駅とその隣の駅の中間くらいにあった。歩いても15〜16分というところだろう。
「だって、茶太っちはいつも私の『救いの神』だもん。いてくれると思ってたんだ。ごめんね、遅い時間にこんなこと頼んで。お土産買ってきてあげるから、ね?」
「わかりました。じゃあ、駅に着いたら電話しますから」
「はいは〜い」
面倒臭そうな口ぶりで電話を切ったものの、頭の中では、彼女の「『救いの神』だもん」という言葉がリフレインしていた。自然と顔がにやけてくるのを抑えながら、僕は急いで帰り支度を始めた。

改札を出たところで電話を切ってから、僕は彼女を待った。週末の夜の終電間際の駅は、いつもよりも賑やかなざわめきで満ちている。目を閉じて彼女のことを考えていると、そのざわめきは、潮が引くように僕の耳から聞こえなくなっていった。どんな格好で来るのだろう、第一声は何だろう。会社以外の場所で彼女と初めて会うという不思議な感覚が、僕を少しからかっていた。
「ごめ〜ん、どうもありがとう〜」という声に目を空けた僕を出迎えたのは、いつもとは違う彼女だった。風呂上りなのだろう、髪が少し濡れて艶やかだった。部屋着にしてはセンスのいいワインレッドのワンピースの上から、黒いコートを羽織っていた。そして…。
「眼鏡、かけてるんですか?」
「やだ、あんまり見ないでよ」。彼女は、落ち着いた感じの銀縁の眼鏡をしていた。とても、よく、似合っていた。
「目が悪かったなんて、知らなかったです」
「ふだんはコンタクトだもん。眼鏡、あまり好きじゃないの。似合わんでしょ?」
「…あ、いや、そんなことないですよ、本当に」。見とれていたところを、ふいに話しかけられたので、まごついてしまった。
「ほら、苦しいフォローしとる」。彼女は笑った。「あんまり言わんでね、多分、眼鏡してるとこ見せたの、茶太っちぐらいやから」
「…はい」。フローラルのシャンプーの香りが押し寄せてきた。
「あ、やだ。さっきまで妹と電話で話しとったから、つい訛りが出とる」。また彼女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「じゃあ、僕はこれで」。帰ろうとする僕を、彼女が呼び止めた。
「あ、待って。ご飯まだでしょ? これ」。彼女が差し出したのは、小さなタッパーウェアに入った惣菜だった。
「何ですか、これ?」
「『何ですか』はないでしょ。わたしが作ったの。いらないなら返す?」。煮物のようだった。
「いやいやいやいや、いただきます。いただきます」。慌てて僕はそれを押し頂くと、手短に挨拶をして自分の家を目指して歩き出した。いろいろなことがいっぺんに起きたので、何がなんだかわからず、混乱しっぱなしだったのだ。そして最後の煮物で、もう僕のキャパシティを超えてしまっていた。振り返ると、彼女はまだ手を振っていた。「ありがとう、お土産待っててね〜」。
「はい、稲田さんも気をつけて」。遠ざかる彼女に、僕も手を振った。煮物のタッパーウェアが、じんわりと温かかった。

週明けの月曜日、出社した稲田さんに、僕は洗ったタッパーウェアを返した。彼女も僕に、手土産の包みを手渡した。「ホントに助かったよ、どうもありがとう」。
僕は小声で訊いてみた。「今日は眼鏡じゃないんですか?」。
彼女は一瞬、きっ、という表情を作り「喋ったらタダじゃおかないよ」と小声ですごんでから、笑顔になった。素敵な笑顔だったが、やはり眼鏡の方が似合っている、と僕は思った。
帰宅して土産の包みを開けてみると、八女茶の茶葉だった。彼女の実家は福岡なのだ。包みの中に入っていた「『茶』太っちだけに…ね!」という手書きのメモを折りたたむと、僕は抽斗の奥にそれをしまった。明日、新しい急須を買ってこなくてはならない。とびっきりの、いい急須を。  (完)

*1:逆の場合は「ふだんはしないコンタクトを、俺と逢うときにはしてきてくれたんだな」と考えてお得な気分になる。我ながら幸せな性格だ。