2012年05月25日(金曜日)
とある疑似科学を倒す方法2 「おまえの脳を見せてみろ」
疑似科学も含め、実はあらゆるタイプの「変な」思考を完膚なきまでに倒せる(だろう*1)方法がある。
技術的な未来の話だけれども、ある程度の未来において常に使えることになる(だろうと思われる)こういう応答である*2。
「いいたいことは分かりました。とりえあえず、あなたの脳を見せてください」
もし何らかの願望思考や自己欺瞞、また決定的な知識の欠落などが内的に存在するなら、
それに対応したそれなりの神経表象を脳内で見つけることができるだろう。
つまり、なぜ、ある人物が(例えばこの私が)、ある種の主張(たとえばこんな下らない話)をしているのか
その事は、その誰か(つまり私)から説明を期待する必要はなく、
その人の脳(私の脳)をリバース・エンジニアリングして、コンピューター上でシミュレーションしてみればよい。
そうすれば、なぜその人の口(私の口)から、そうした言語列が発せられるのか、そのことが細部にわたるまで理解可能となるだろう。
ここではどんな言い訳も取り繕いもできない。
もし滑稽な主張がまっとうな思考過程から出てきていることが確認できれば、こうした技術的方法は人々に強い説得力を示す、新しい有効なツールとなるだろう。
逆に自己欺瞞や嘘は、その連結された背景まで含めて、本人も明示的に理解してない部分まで把握できてしまうことになるだろう。
ここで人は一番見たくないものを見る。
ひゃ〜怖いわ〜(T_T)
似たような話
A「わわわたし、そんなにたたた食べてないから!」
B「いいたいことは分かりました。とりえあえず、体重計にのってください」
A「ご、ごめん、実は食後にちょっとケーキを食、食べた。ででで、でも一口サイズだから。」
B「いいたいことはよく分かりました。とりえあえず、体重計にのってください」
A「いやいや、結構運動もしてるよ。まあウォーキングっていうかね、軽くこうね。だ、だ、だ、だから、ぜんぜん大丈夫だよ!」
B「いいたいことはよーく分かりました。では、体重計にのってください」
ひゃ〜怖いわ〜(T_T)
これはメガンテである
他者の思考について理解すること、それは他者を理解しそして破壊することである。しかし同時に、それは己の思考を暴き、そして破壊することでもある。疑似科学を本気で叩くとき、その刃は己にそのまま振りかかる。他者だけを切れる刃などというものはない。どんな刃も、それが鋭利であればあるほど、その切っ先はそのまま己に向けて振り向けられる。真の攻撃とは常にメガンテである。
関連エントリ
*1:この方法は合理的であること、整合的であること、知に対する規範を守ろうとすること、などを徹底して拒否する人にはたぶん通じない。それでも、そうした場合においても、本人以外の周囲の人にとっては、その人が思考がどのように、またどういう意味において、ケッタイなものであるか、そうしたことについては細部まで確認できるはずである
*2:この方法は現時点でも、即効性という点では弱いけれども、使えないわけではない。「あなたの主張はたいへん面白いものです。しかし私のような愚人にはその内容が高尚すぎて理解できません。そこで人類の未来のために、ぜひあなたの思考を保存・共有していただけないでしょうか。つまり、死後あなたの脳を解剖させてください。そうすれば、それをデータとして保存し、後世のリバースエンジニアリングに託します」と。
2012年05月24日(木曜日)
とある疑似科学を倒す方法
愚かさ | |
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疑似科学に対して、「それがどうおかしいか、どういう問題点があるか」という情報を正面からマジメに発信していくタイプの活動がある。「おかしな代替医療にはまるとお金と時間だけでなく、子供の命まで危ないですよ!」というタイプの情報である。
個人的には好きである。
しかし如何せんこういう話は、その発話を届けたいと想定されている当の対象読者たちには、なかなか届かない。
もともと科学リテラシーがない人に「科学の言葉」で事実を語ってしまってるのだから、まあ、仕方がないのである。
これは、英語が読めない人に、「英語で書かれた英会話入門書」を渡す、というようなものである。
ならば!
逆に
これを全面に押し出した実用書を多数出していけばどうだろう?
2012年05月19日(土曜日)
クオリアは自然数における円周率パイ(のようなもの)である─構造は存在に届かない─
存在と意識について色々考え、自分の中で、共通する同根の点が分かった(ような気がする)。
クオリアや存在というのは、自然数の体系の中における円周率パイのようなものである。
円周率パイというのは、ある。妄想や空想のモノではない。中学校(小学校?)で習うありきたりのアレである。
それははっきりとある。最初の数桁を書けというなら 3.14...。おなじみのこれである。直径に対する円周の比として、確固として、ある。
にも関わらず、そこへは自然数からの有限回の操作で到達できない。つまり
要は自然数というのは「粗い」のである。ビッチリとモノサシの上を覆いきれるように思えるが、その実、自然数たち(の有限回の加減乗除の組み合わせ)によって作られる数の集まりなんてものは、スッカスカで穴だらけということだ。
「自然数たちが作る世界ってマジで隙間だらけwww自然数ショボすぎwww」
ピタゴラス教団において、正方形の対角線の長さ(√2)が、整数の比で表せないということが、タブーであり、発狂を産みうるものだった、などと言われる。
ある種の伝説によれば、正方形の対角線が整数の比で表せないことを主張したものは、暗殺されたとか。
「どんな数も整数の比で表せるとか、ピタゴラスさん、嘘つきすぎw そんなこと言うなら、ねぇ、オレは?オレはどうなるの?ねぇ、ねぇってば」
つまり
「どんな自然数の組み合わせの比も√2には届かない」
で、こうした事例と似たような状況が「世界の物理的記述」と「存在」または「意識」の間にある(と、いま私は考えている)。
まだ自分の中で散文的にしかまとまってないので、散文的に書くが、これは
ラッセル流に言えば「物理学による世界の記述は因果的骸骨である」ということになるし、
ウィトゲンシュタイン的に言えば「語りえないことについては沈黙せねばならない」ということになるだろうし、
永井均風に言えば「<私>や<今>についての記述は、累進構造を通じて常にしぼませた形で理解することができる」となる。
「関係性についての記述は、その実現様態について何も語らない。」
「言語は現実に届かない」
「情報は実在に届かない」
といった風に今理解している。
で、
「なぜこういう事になっているのか?」
それは
「分からない」
何故かは分からない、だがどうもそうなっている(と思われる)。
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と、ここまで書いて気づきましたが、当たり前と言えば当たり前のこと、でしかないですね。
言語や記号による表現というのは、一現象であり、そこにはある種の限界があるんだろうねー、っていうだけの話でしょう。
「示されうるけど、語りえないもの」というのが色々ある、という。
しかしこの
【「示されうるけど、語りえないもの」がなぜ語りえないのか】について語り得たら
面白いのになー、と思う。そういう事はできないんだろうか。
比喩的に言ってみると、、、
「有理数ではない数」があるんだ、ということは無限回の操作を含むカントールの対角線論法のような方法を用いることで示されうる。
またはもっと単純に、あらゆる多項式は解を持つはずである、と前提してしまえば、「有理数でない数がある」という事は容易に示されうる。
でも「じゃあそれはどんな数か書いてみろ」と言われても、それは有理数を用いては(ストレートには)書けない。つまり語りえない。
「示されうるけど、語りえない」
マリーの部屋の思考実験は、ある意味でそういう形になっていると思う。無限の知識(または完全な知識)という概念を含む状況において、情報に還元できない何かがそこで示唆される。けれども「じゃあそれは何なのか言ってみろ」と言われても、それを情報として切り出すことができない。
ここもまた「示されうるけど、語りえない」の形を取っているように思える。
2010年01月03日(日曜日)
二つの問い
世界には様々な問いがある。そうした問いの中でも、最も究極的と言える「問い」は何だろうか?
そう聞かれたら、僕は次の二つを挙げる。
- なぜ世界はあるのか
- 意識とは一体何なのか
ハイデガーは前者の問いを「存在の問い」と呼び、後者の問いをチャーマーズは「意識の難しい問題」と呼んだ。
関連動画
私たちの知る宇宙の全体
宇宙ヤバイ!!
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2009年10月25日(日曜日)
インテリが制作する法、社会制度、その失敗、人間の認知能力に対する誤った仮定
メモ | |
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自由契約。誰が保険の約款を隅から隅まで理解してサインしてるか?おそらく99%以上の人間が理解しないまま(できないまま)サインしてる。「柱が一本でも残ってたら家が全焼しても火災保険が降りない」、そういう話が現実にあるが、これはまあ何というか、完全に詐欺だろう。
認知的な負荷がどれぐらいのシステムか、それによってそのシステムにアクセス可能な人間の数は限られてくる。
認知的な負荷の高いシステムは、値段が高くて頼めないサービスと一緒である。それは存在していても実際には利用できない。多くの法システム、社会保障のシステムはそのようなものとなっている。
シナプスがどれだけ新生されればそのシステムを利用できるようになるか、樹状突起がいくつ伸びればそのシステムを利用できるようになるか、
これら計算時間または学習時間は、貨幣以上に有限である。一日24時間しか使えない。あるシステムを利用するのに必要な情報処理時間が、仕事や社会的生活に必要な処理時間の残余を越えるなら、そのシステムは存在しないも同様である。
東大の法学部を出た法律オタ達が、必死になって作りこんだ法システム、それを普通の人間がちゃんと把握することは土台困難な話だし、把握するにしてもそれに割く時間が無駄としか言えない。そしてそれ以前にハードウェア的な意味での脳の情報処理能力またはスタイルといったものに、個人間で違い、遺伝的な、があるだろう(ここらへんの違いはIQの持つ分散あたりに何がしか反映されているかもしれない)。
また計算をどのタスクに割り当てるのかというプライオリティの問題。たとえば暴力的な親のもと崩壊しきった家庭で暮らす子供は、思考時間をいったいどういうタスクに優先的に振り向けるだろうか。おそらく次のようなものだろう。どうすれば殴られないだろう、どうすれば今夜のご飯が食べれるだろう、どうすれば今夜布団の中で眠れるだろう、等々。これらが確実な優先事項である。
歴史がどうした、社会がどうした、政権交代がどうだ、ライフハックがどうした、そんな話に付き合えるような認知上のアイドル・タイムはそういう人間には確実に残されない。就職とか、結婚とか、またはキャリア・パスなんて話になったらもはや何のことか。そうした所から負の連鎖が引き起こされる。
悪は複雑性の奥に潜む
現代の悪は複雑性の奥に潜む。人の家に侵入して財産を盗み出せば、悪人として周りの人々から糾弾されるだろう。しかしより複雑な方法で盗むなら、誰の非難を浴びることもない(時に賞賛されさえする)。現代の悪、それは複雑性の奥に存在する。
何ができて、何ができないのか
政治に、行政に、何ができるのか、そして何ができないのか。それさえ誰も分からないまま、政治的な要求が行われ、理想が語られ、そしてそこへ膨大な労力が投入される。
しかしながらシステムにはある入力で制御可能な範囲がある。たとえばの話だが、この先どの党が日本の政権党になろうと、世界から絶対に痴話喧嘩はなくならないだろう(「あなた、私とあの娘とどっちが大事なの」「おまえに決まってるだろう。」「ウソ、目が本当じゃない。本当なら愛してるって言ってよ」「愛してる。うん、愛してる」「何それ、適当すぎる。もうわたし朝ごはん作らない」「おいおい。俺にはお前以外考えられ(以下続く...)。
政治にいったい何ができて、そして何ができないのか、それを把握しようとしていくことはとても大切なことではなかろうか。
「自然法則、その素晴らしい所は、何ができるかを教えてくれる、ということではなく、何ができないかを教えてくれることだ。」









