デカルト二元論vs物理主義として現われるより深い問題

霊能者のエバラ氏がデカルト二元論を擁護している。

批判のしようはいくらでもあるけど、ここでは単純なオカルト批判ではなく、もうちょっと深いところの問題を書く。

浅い批判

エバラ氏のスピリチュアリティというのはよくは知らないが、基本的には宗教的なものと実存主義的なものと物語的なものと癒し的なものとが、なんやかや色々とごちゃまぜになった様なもののようだ。彼のいってることは事実に照らし合わせて考えればアホみたいにに間違っているのだけど、とはいえ<霊能者>に向かって「あなたの言ってることは事実に反する」という形だけ否定するのはあまり意味がない。

僕が思うにこうした問題は、人間がなぜ対象に魂なんてものを見ていくのか、という点に注目しつつ進めていかないと、ほとんど意味がない。そうしなければどこにも繋がっていかないからだ。

ねじれ:批判されてるのに使用され続けているデカルト二元論

一般にオカルトとして扱われるスピリチュアリティの問題というのは、背景のところにとても歪な構造を抱えている。
それは、ここでエバラ氏を非難してる人間でさえも、日常生活を送る上では、デカルト的な、時にはもっとひどいアニミズム的な方法に基づいて判断を行っている、ということだ。
目の前の人間を神経細胞のカタマリにすぎないと考えながら会話してる人がどれくらいいるだろう?多分それは皆無だろう。
僕だって、僕を含む人間の行動は、神経回路の問題にすぎないと考えてるけど、日常生活はデカルト的、時にもっとひどいアニミズム的なモデルに基づいて思考や判断を行っている。
なぜならそれが一番はやくてラクだからだ。これはすでに僕の脳にそういう回路構造がある、つまりプリインストールされてるからなのだろう。そして驚く事に、大抵の場合はこの実にいい加減な心のモデルだけで、十分に生活を送っていける。
(ちなみに僕は「事実にだけ基づいて思考したい!」という素朴な動機から、「見えるものも、聞こえるものも、そして僕自身も、素粒子のダンスにすぎないんだ」とマジで考えながら全ての生活を送っていけるかやってみた事がある。しかし思考速度の観点からいってそれは無理だった。この試みをもう少し詳細に書いておくと、自然種(natural kind)としても十分に通用しそうなレベルの確実な概念だけを使用し、逆にそれ以外の明らかに人間的な概念の使用を拒否しながら、人としての日常生活をふつうに送っていけるか、というチャレンジ。)

どこから来るのか?

しかしこうしたデカルト二元論的な思考方式はいったいどこから来るのか?
この点について考えるには、ひとつには進化心理学的な視点、そうしてもうひとつには計算科学的視点が必要となる。
ある認知主体が、複雑系としての性質をもつ環境に置かれているとき、その認知主体が有限の計算資源と一定の計算時間しか持たないならば、計算に、近似概念、擬似概念を利用すると進化的に有利となる。
こうして導入されてきた様々な概念は、イデアとかステレオタイプとか理論的措定物とかオカルトとか呼ばれてきた。そしてこうして導入された理論的措定物が実在として扱われると、哲学的問題が現われる。

(ちなみに大雑把に分けると、これの論理バージョンがヒューリスティクスになる。ヒューリスティスが失敗すると、それは錯覚とか認知バイアスとかと呼ばれる。)

この問題は深い。

オカルトや疑似科学、心身問題や認識論や存在論に関わる多くの問題は、実のところこうした「複雑系としての世界の中にある、有限の計算時間と有限の計算資源しか持たない脳」という図式の中で、初めて正確に理解するうことが可能になる(と僕は思う)。
とはいえ、こうした心理学と哲学と物理学と数学、といったものの境界領域となるようなこの問題は、まだそうした広い文脈の中で位置づけられる形で研究されている状況ではない。
しかしエントロピーや進化計算、計算複雑性やチューリングマシンの停止問題といった情報にまつわる様々な道具立て、
その中でこそはじめて、オカルトや宗教の問題、そして認識論や存在論の分野で取り扱われる多くの問題を、正確に理解することが出来るようになるだろう。

関連書籍

このエントリの本題とはあまり関係なかったけど、デカルト的な二元論に対する批判の古典的な一冊。

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