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Chikirinの日記 RSSフィード

2005-04-28 裁判所の記憶

ちきりんは小学生の時、裁判を見に行ったことがあるのですが、それがとても興味深い体験で、今でもビビッドに覚えています。

裁判の判決言い渡しの日だったのですが、9月から禁固 3ヶ月を言い渡された被告人が裁判官に「え〜、3ヶ月では年越しできん。裁判官さん、できれば春になるまで半年くらい入れておいて欲しいんやけど。1月なんかに出されたら寒いし、食べるもんもないし」と言ったんです。

これにはマジで驚きました。「え〜、暖かいご飯たべたいから冬の間牢屋に入れてくれって頼む人がこの世の中にいるんだ〜!」と。


一般人が裁判に参加することの意義には、司法判断に一般人の多様な視点を持ち込むことの意義とともに、裁判に参加することで一般人も、世の中の様々な価値観や事象を知ることができる、という面もあると思います。誰だって自分の回りにいる人だけが世の中だと思いがちですから。

たとえば生活保護を受けている人は、今や日本人の 100人に一人以上の割合です。ということは、知り合いが 100人いれば、そのうち一人は生活保護で暮らしていて当たり前です。

でも、自分の知り合いの中にそういう人はいない、という人もたくさんいますよね。それはなぜかといえば、保護を受けている人がどこかに集中して存在しているからです。

実際の社会は多様な人で構成されています。身近には存在しないけれど、社会のいろんなものを見聞きしたり、実際に触れあうことは、個々人が“社会人=社会の人”としての視点を形成していくためにも意義深いことと思います。


また明日〜

2005-04-24 若年者の失業率

以前は中高年の失業ばかりを問題視していた日本でも、最近はようやく若年失業者問題に、注目が集まりつつあります。

中高年の失業は、彼らが一家の“稼ぎ手”であること、すなわち妻子を養い、住宅ローンを抱え、親の面倒もみなくてはならない年齢層だったため、大きな問題とされました。

若者にたいしては「就職できないならコンビニでアルバイトすればいい」という話になりがちなのに、中高年に関しては「一定水準以上の賃金が支払われる正規雇用の確保」が社会的要請と考えられていたのです。


たしかに中高年の失業は“今日食べるお金”の問題としてはより深刻です。しかし若年者の失業は、個人にも社会にも、より長期的かつ深刻な悪影響を及ぼします。

若い頃に職業訓練が受けられないと、長期的なキャリア形成の土台が得られず、本人の経済力が長きに渡って毀損されることに加え、社会の人的資本の蓄積が進みません。報酬の低さから結婚や出産の動向にまで影響を与え、そういった人が多くなれば、今までとは異なる社会階層さえ作られてしまいます。

また、誰にとっても“報われる経験”が得られないまま努力を続けることは難しく、高じれば社会に敵対的な感情をもつ人も増加するでしょう。生活費を借金することに抵抗感がなくなる(というか、日常的にそうせざるを得ないので慣れてしまう)人もでてきて、貯蓄を通した社会資本の蓄積も行われなくなります。

こういったことから、今では日本でも多くの人が若年者の就業問題について、大きな問題意識を持つようになりました。


★★★


にも関わらず、いったんキャリア形成の道から逸れてしまった人にたいして、世の中はかなりシビアです。30代になってまともな職業経験のない人は、どんなに多くの企業に応募しても、書類選考で落とされてしまうことが大半でしょう。

彼らに対して“甘えている”“親に依存している”と批判する意見もあるし、実際そう言われても仕方がない人もいるでしょう。けれど、たとえ多少、本人の非があったとしても、たかだか20代の時にちょっとした甘えがあったというだけで、その後の“一切のチャンス”を奪ってしまうのはいかがなものかと思います。

人間しか資源がない国として“もったいない”し、本人達の人生は、無為に社会を恨んで生きるには、まだあまりに長く残っています。けれど現実問題として、30才まで定職経験のない人を雇う企業は多くはありません。


たとえばマンションの管理人の仕事は、定年退職後の人向けの再就職先ポジションとして定着していますが、「同じ給与でいいです」といって“30代で定職経験のない人”が応募してきても、60代の再就職派には勝てないのではないでしょうか?

日本は、「長い間我慢してきた人」をとても高く評価します。現時点での能力ややる気や適性の前に、「過去にどうであったか」が重視されるのです。

たかだか数年間、生き方や仕事について悩んだり迷ったりしてきた人が、一生罰を受けなくてはならないほどの罪を犯したとは思えません。それでも彼らにはチャンスが与えられなくなってしまうのです。


★★★


ではどうすればいいのでしょう? ちきりんは、こういう時こそ“公共事業”が必要だと考えます。民間企業はそういう人を雇う余裕がありません。市場のルールでは生きていけない層をバックアップすることこそ、公的部門の仕事なのです。

これまでは中高年の失業対策として、大量の“箱モノ工事”に予算が付けられてきました。これからは公共事業で若者を大量に雇い、「その仕事に数年従事すれば、若者が民間企業に評価してもらえる労働実績を得られる」ような機会を、大量に提供すればいいのです。

ちきりんが一番疑問に思うのは、若年者雇用対策として“面接指導”とか“履歴書の書き方指導”が行われるという話です。企業は、面接や履歴書の書き方が巧い人を求めているわけではありません。仕事の経験や具体的な実績がある人を求めています。

たとえば地方公共団体や、霞ヶ関の外郭団体のホームページ作成を“定職経験のない人”にやらせてみてはどうでしょう?そういった団体の広報目的のHPなら、少々デキが悪くても問題はありません。

サイト作成のスキルのある人(プロジェクトマネージャー)1名とトレーナー1名に、定職経験のない若者10名を雇って、マネージャーが具体的な指示をだし、指導しながら、作業はすべて彼らにやらせるのです。そうすれば彼らは履歴書に「○○団体のホームページを作成」と書くことができるようになります。

年金の取り立て業務や、公共調査のためにあちこちに電話をする仕事、また、市民からの問い合わせを受ける電話作業にもそういう人を雇って、仕事の仕方を教えながら経験を積んでもらえばいいのです。

そうすれば民間企業の「集金業務」や「テレマーケティング」「コールセンター」の会社に履歴書を出す時に、アピールできる職務経験が手に入ります。

スキルや経験のないまま職を探している人に必要なのは、面接の練習やカウンセリングではなく、“数年の定職経験”であり、市場で需要の高い(日本人しかできない)仕事の具体的なスキルです。


不況期には“訓練が必要な人”、“経験のない人”の採用は民間企業にとって、大きな負担です。そういう時にこそ、公的部門の出番のはずですよね。


ではでは

2005-04-22 マジョリティの常識

1995年、沖縄で米国海兵隊員 3名が、12歳の小学生女児を車で拉致して集団強姦するという事件がありました。

ところが日米地位協定に阻まれてアメリカ兵の身柄が日本側に引き渡されず、沖縄中で反米、反基地感情が爆発しました。

日本の世論の猛反発もあって、アメリカ兵 3名はその後、那覇地方裁判所で裁判を受けることになりましたが、その際、米国から彼等の奥さんなど家族が来日して記者会見を行いました。

彼女らはその席で「陪審員制度もない野蛮な制度で裁かれるなんて、あまりに夫がかわいそう!」と涙ながらに訴えたのです。ちなみにアメリカ兵 3名も配偶者も黒人でした。


この時ちきりんには、「陪審員のいない裁判=野蛮な制度」という意味がよくわかりませんでした。しかしその後アメリカの裁判制度についていろいろと見知るうちに、その発言の意味が理解できました。

アメリカの裁判では、一般人から選ばれた陪審員が有罪か無罪かを決めます。陪審員は最初は無作為に選ばれますが、被告側も“自分側に不利”と思える陪審員について変更要請を出せるなど、その選び方にはテクニカルにいろんな工夫ができます。

「陪審員選び」は判決に大きな影響を与えるので、その選び方について専門的にアドバイスをする“陪審員コンサルタント”などという職業まであるようです。


また、陪審員は基本的にはその裁判所のあるエリアから選ばれるので、自分と異なる民族が圧倒的に多いエリアに住むと、裁判の時に不利になる可能性もあります。

ヨーロッパ系、アフリカ系、イスラム系、アジア系、ヒスパニック系などでは、同じアメリカ人でも価値観の違いもあれば、宗教の違いもあります。

経済的な格差が民族によってわかれている場合もあるし、時にはあからさまな民族対立もあります。誰だって自分と同じ価値観の人が陪審員に多い方が有利だと考えるでしょう。


特に被告と被害者の人種が違う場合、たとえば、被告が黒人で被害者が白人の場合、陪審員が白人ばかりであれば、被告にとって公正な裁きが行われるかどうか、不安になるのは理解できます。

つまり沖縄の事件では、夫が逮捕された妻から見ると「アフリカ系アメリカ人が全然いない日本の裁判で、私の夫が裁かれるのは、あまりに不公平である」もしくは「反米・反基地感情が非常に強い沖縄という地域で、米兵に対する裁判が行われるのは、米兵側に不利すぎる」と思えたのでしょう。


これらの発言は日米の裁判制度の違いからくるものなのですが、より広くとらえると、その示唆するところは非常に興味深いです。

そもそも移民が多く多民族が混在するアメリカは、全員が共有できる“常識”が存在しにくい国です。

宗教、価値観、経済状態、教育状態が大きく異なる人が混在すると、“誰が見ても正しい”という常識が少なくなります。ある人から見ると正しいことが、別の人から見るとそうではない。

そういう環境においては、“正しいこと”というのは、「その時代にその地域に住んでいる人の多くが正しいと感じること」と定義されるわけです。

だから裁判でも、住民から選ばれた陪審員が有罪か無罪かを決める制度が、最も公平な制度であると考えられます。


一方で、日本は単一民族・単一言語・単一価値観を“前提とした社会”です。完全にだとは言いませんが、アメリカの多様性のレベルからみると、マジョリティグループのサイズが非常に大きい国です。

であれば、裁判でもわざわざ一般の人の意見を入れて判断をする必要はなく、過去の事例や法律をよくわかっている専門家=裁判官が判断をすればいい、と多くの人が思うのも納得できます。


けれど最近は、日本も変化しています。年配の人と若い人の価値観は大きく変わってきているし、一億総中流は崩壊し、経済格差も大きくなっています。

様々な価値観をもつ人のグループが併存する国になると、「あなたちの常識だけで判断してほしくない」と言う人も増えてくるかもしれません。


この「価値観の多様化」はビジネスの世界でも顕著で、昔はみんな“お金さえあれば大きな車に乗りたい”と思っていたのに、今はそうでもありません。

お金があっても車に興味を持たない人、むしろコンパクトな車を欲しがる人も出てきています。一般的な「いい車」という概念はなくなり、それぞれの人が欲しがる車が「いい車」と定義されるのです。


常識や判断基準”にも、そういう多様化の流れがあり、“グループ別の常識”みたいなものが出てきています。

たとえば、「働かない男は一人前ではないのか」とか「子供が小さい間は、母親は家にいるべきか」から始まって、「堕胎や心中は殺人か」とか、「夫婦間での強姦罪が成り立つか」などなど。

日本でも、国民の大半が合意できる「唯一の正しい答え」が規定できない社会になりつつあります。


日本でも(陪審員制と同じではないですが)裁判員制度の導入が検討されています。

これからも日本でもますます価値感の多様化が進むだろうと考えると、ちきりんは“一般の人の多様な考え”を裁判に取り入れるのは非常によい試みだと思っています。

それは「唯一の正しい答えがある」という社会が、必ずしも生きやすい社会ではないだろうと思うからです。

「何が正しいのか、違う意見の人も含めてみんなで話し合ってみよう」という姿勢こそが、多様なバックグラウンド、異なる考え方をする人の共生を可能にするのではないでしょうか。


また明日

2005-04-20 変わる常識

常識とか先人の知恵と言われるものの中には、ずっと有効で変わらないこともある一方、世の中の変化に伴い、通用しなくなってしまうものもあります。その見極めは、簡単ではありません。

身近な例では、料理の常識なども、変わってきています。

昔、私が母に料理を習った頃は、“卵は一つずつ小さな入れ物に割って、血が混じっていないことを確認してから大きなボールに移すよう”教えられました。

でもね。

実際に血の混じった卵を見たことは、私には一度も無いんです。

だって母が若かった頃とは“卵のデキ方”が変わってしまい、最近はもう、そんな卵は流通していないから。

昔はコケコッコ−!って言いながら、庭で飼われている鶏から生まれた卵が、世の中に出回っていました。

流通段階での温度管理も完璧ではありません。有精卵だから、途中で孵化が始まって血が混じるものもあったわけです。

でも今は、鶏舎のブロイラー的な育て方の鶏から生まれた卵だし、流通の温度管理もしっかりしてます。血がまじる卵なんて、ほとんど無いんです。

だから現在では、複数の卵を割るとき、わざわざ二つの容器を汚す必要はありません。


それに昔は、卵は贅沢品でした。

血が混ざった卵ひとつのために、複数の卵が全部使えなくなるのは大きな問題(食料が無駄になる!)だった。だから用心したんです。

でも今や、卵はそこまで贅沢品でもないし、そんな卵があれば、購入したスーパーに持っていけばすぐに全品、交換してくれる。

この卵の割り方って“今や常識ではなくなった、過去の常識”の代表例だと思います。


こういう“仕組みがあきらかに変わった“と説明できることは、比較的わかりやすい。

でも“社会的な常識”は、いつの段階で変わったか、はっきりせず、とてもわかりにくい。


大学くらい行くべきとか、親の面倒は子供がみるべき、会社にとって社員は家族、もっと言えば、“働かざる者食うべからず”的な発想も、今や常識なんだかどうだか、よくわかりません。


インドのカースト制度は、法律でも差別が禁止されてるけれど、田舎の農村では、まだ根強く残っていたりします。

一番下のクラスに生まれたら、家政婦の仕事についても、トイレと床の掃除しかさせてもらえない。

お皿洗いはそういう不浄な人たちに任せてはいけない、などという話も聞きます。


そんな慣習がまだ色濃く残っている田舎の村で、男子が産まれると「子どものうちになにかしら障害をつくっておく」ことがあるそうです。

たとえば右足の膝から下を切ってしまうとか・・・。

母親が子供への愛情から自分の息子の右足を切り落とすなんてどういうこと??? 

と思うでしょ? でもね、そこには子を思う母の愛情があるんです。


「こんな身分で生まれたら、施しで生きていくしかない」と考えた場合、女の子なら、乳飲み子を二人ほど抱えて道に座っていれば施しが受けられる。

でも、五体満足の男の子は施しが集めにくい。

どうせ仕事にはつけないなら、施しが受けやすい状態(わかりやすい障害のある体)にしておいてやるのは、親の愛情である、ということなんです。

だから“わざわざ”自分の子供に障害をつくる親がいる。


この母親の常識は“自分の時代の常識”です。

今や、インドでそういう立場に生まれても、カリフォルニアに移住して、才能があれば世界的なIT企業の経営者になれる時代です。

でも、そんなことは 30年前のインドの貧村では想像もつきません。

だから“自立して生活する力”を子どもに付けたいと思う母親のやることは、“子供に障害をもたせること”なのです。

なんだか悲しくなってしまいますよね。


でもこの話を、必ずしも“ばかばかしい”と笑ってもいられない現状が、日本にもあります。

夜遅く塾から帰ってくる子ども達を見ていると、私は同じ感覚に襲われます。

あの子たちの親は、「高い学歴のある人が、そのことが主要因で出世したり、高い給与を得たりするものだ」という常識を持っているのでしょう。

だから、子どもにもその力をつけさせてやろうと、時間とお金を投資して塾に行かせているのです。


でもね。

この親の時代の常識は、その子ども達が社会に出る頃にも通用する常識として残っているでしょうか?


団塊ジュニアの一年分の人数は 200万人を超えていますが、今の 18才人口は既に 150万人、今年生まれる子の数は 120万人を切っています。

一方、子どもの数が 200万人から 150万人に減少した同じ期間に、東大の定員は 1割減った程度、早稲田など主要私大の定員にいたっては、むしろ増加しているんです。

今でもすでに、親世代の頃に比べて大学に入るのは超簡単になってるわけで、いわんや 10年後をや、です。

若者人口が 200万人から 120万人にと6割になっても、大学(の定員)はそこまでは減りません。(これは、学生の頭数にたいして国の補助金が支払われるからです)


「学歴がいい人が安定した収入を得られる」というこれまでの常識だって、成立しにくくなっています。

多くの優秀な学生が就職した一流企業が潰れたり、リストラを続ける現実を、私たちはたくさん見てきました。

これからはもっとそういう傾向が顕著になるでしょう。

であれば、塾に行く時間に、違う学年の子達と遊ばせておくとか、ネットでもゲームでもなんでもいいから自分の好きなことに熱中させておく方がよほどよかった、ということに、なるかもしれない。

もちろん余裕があるならいいです。

でも生活費を削ってまで、子どもの塾代や私立学校の学費を払い続けるという投資は、たぶんもう、回収できないのでは? と思います。


今でも、まだこの常識は根強く残っています。

「成績をよくして一流大学に入れて一流企業に就職させることが、子どもの幸せの基礎になる」、ちきりん的には既に常識ではないと思うけど、親はよかれと思っている。

日本で親が子供を“塾に通わせる”のも、インドの貧村で親が子供の“右足を切り落とす”のも同じ。

悲しく深い、親の愛情です。


というわけで、常識の変わり目を見つけるのはホントに難しい。

私だって今も、なんらかの“消えゆく常識”に基づいて、頑張っている部分もあるのでしょう。

他人ごとではありません。でも、人間ってそういうもんです。

将来予測より、実体験に基づく過去の事実はすごく影響が大きい。

私たちの多くは過去に縛られた生き物だから。


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ではでは


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2005-04-17 玉音放送

ずっと前に、「声を出して読みたい日本語」として“日本国憲法”が発売されてすごく売れたと聞いたことがあります。

でも、ちきりんが日本語として一番好きなのは憲法より玉音放送です。「耐え難きを耐え、偲び難きを偲び」ってフレーズはよく聞くけど全文は見たことなかったので数年前にネットで検索して見て読んでみました。

追記)玉音放送全文とその現代(ちきりん)語訳についてはこちらをどうぞ → http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080815


で、こんな格調高く思慮深い文章、誰が書いたのかと思っていたら、知人が調べてくれました。↓


終戦の詔勅は正式な題を大東亜戦争終結ノ詔書と号し、8月14日付けで詔として発布された。

大まかな内容は内閣書記官長迫水久常が作成し、8月9日以降漢学者川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、更に14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が加筆して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。

大臣副署は当時の首相鈴木貫太郎以下16名。


・迫水久常氏は、大蔵官僚から政治家となり、閣僚を歴任するなど活躍した政治家で、「知性の迫水」と呼ばれたらしい。希代の切れ者って感じです。

・川田瑞穂氏は完全な学者さん。漢学者です。

・安岡正篤氏は陽明学者、思想家。かなり“うよっきー”な匂いがする人です。

というわけで、当時の先進気鋭の方々が力を併せて書いた文章だということですね。



ところで天皇の戦争責任について、ちきりんは「ある」と思っています。でも、主犯ではないと思っています。そして、昭和天皇は、十分以上にその罪を償ったとも思います。

ちきりんが裁判して判決を出すとしたら、「被告人は、被告人の立場と権力を利用することによって軍人としての征服欲を見たそうとする輩に対して、適切かつ十分なコントロールを行おうとしなかった、という点において有罪である。

しかし、被告人は十分反省しており、今後の人生を賭して迷惑をかけた日本国民そしてアジア国民に対して償おうという意思がある。被告人は執行猶予付きの有罪」って感じです。


天皇の立場も苦悩も日本人への意味合いも理解せず、既に国際政治の駆け引きを演じていた戦勝国の裁判なんかに、天皇を差し出さずにすんだのは本当によかった。そんな変なものに巻き込まないでほしい。

そして、これも様々な駆け引きの結果と知りつつも、戦争に負けた日本がそのまま復興の道を進むことができたのに、ちょっとだけソビエトや中国に近かったという理由で朝鮮半島が分断されたことは、とても申し訳なく思います。


また明日


↓ものすごい読み応えのある本です・・・

東京裁判 (講談社現代新書)

東京裁判 (講談社現代新書)


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そんじゃーね


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2005-04-16 少子化対策 子供は増えるか?

非常に長い間、トレンドとして日本の子供の数は減り続けています。これはどこかで転換点を迎えるのでしょうか?

なかなか難しい問題ですよね。世界には実は日本よりも少子化が進んでいる国もあります。つまり日本の状態は決してそんなに特殊ではないのです。それだけに、思いつきのようなちょっとした努力ではこのトレンドは変わらない、と思えます。


出生率についてちきりんが知っていることを列挙すると・・・

  • 韓国やシンガポール、香港など、日本より出生率の低い国もアジアには多い。
  • イタリア、ドイツ、日本という旧枢軸国は相対的に出生率が低い。
  • アメリカは特殊出生率は2.0以上だが、民族別に状況がかなり異なり、アングロサクソン系白人の出生率は低い。
  • 出生率を上げることに成功したフランスやスウェーデンにおける“子供関連の補助金は半端な額ではない”。

ということです。


まず、漢民族に関して長らく一人っ子政策を続けてきた中国は別として、韓国と日本は非常に似た状況です。いずれも出生率が低く、一人の子供にめちゃくちゃな教育費をかけて育てる、という図式。

またシンガポールはかなりエグイ国で、女性の学歴に応じて出生率を管理していて、高学歴女性の出生率が低いことを問題視したりしています。(こんな議論自体が日本では怖くてできないでしょう・・)


また、元枢軸国の出生率が低いことの説明としては、下記のような意見があるようです。

  1. その昔は「子供=労働力」だったので、皆できるだけ子供を産みたがった。
  2. 子育てにお金がかかるようになり、「子供=消費」になると、子供の数が減った。
  3. 男尊女卑の慣行が強い国(元枢軸国。民主的ではなく家長的独裁者が支配する社会)では、女性は、「子供か仕事かという選択を迫られる」ため、子供の数がより少なくなった。(性差別の少ない社会では、女性はこの二つを選択ととらえず、両方獲得しようとするため、出生率が比較的落ちない、ということらしい。)

なるほど〜


ちなみに、フランスは子供が 3人いるといろいろ積み上げて政府から月額 10万円近い補助金をもらっている家もあるし、母親は子供ひとりにつき 3年程度の“仕事保障期間”が与えられる。

これは子供一人産んで仕事を休職しても、3年後に“同じ仕事に無条件で採用される”ということです。理論的には 3人生むと 9年後まで仕事が確保されてるってことにもなります。

もちろん仕事を休んでいる間の給与はでませんが、所得保障的な補助金もあり、「 3人育てて毎月 10万円もらえて、育児が終われば仕事復帰の保障がある」なら生もうかな、という感じになりそうでしょ。日本みたいにもらえるのは月額 1万円ほど、仕事もキャリアも失ってしまう、という状況とは全然違います。


というわけで、「日本も本当に出生率を上げたいなら」ということで考えますと、下記です。(ホントにそこまでのお金掛けて出生率を上げる努力をすべきかどうかは、ちきりんは懐疑的です。個人的には人口が減ることをそんなに悲観的にも思ってないので。ですが、ここでは、もしそうしたいなら、という話です。)


ポイントは、社会で子供を育てること。子育てのコスト、手間を個別の家庭、個人(特に母親という個人)ではなく、より広い範囲で負担することです。よく言われている話ですね。で、そのためには、“子育てプロセスの分離分解”がまず必要です。分解して、少しずつ皆で引き受ける、ということです。


出産と子育てのプロセスを分解すると

  1. 妊娠して出産する。
  2. 目が離せない時代を育てる。
  3. 教育する。
  4. 上記に必要なお金の負担

となります。


妊娠して出産するのだけは、適齢の女性しかできません。これは、妊娠前後期間の一年くらいに対して補助を出す必要があるでしょう。加えて、出産後速やかに仕事に戻れるようにする、ってのは最低限必要です。パートだろうと正社員だろうとね。


二番目のプロセス。目が離せない時期の子育ては、土日祝日や夜間も含め、ほぼ 100%保育園を完備しないとだめでしょう。

ゼロ才から預かり、病気の時も看護婦、医師が手当てできるように。つまり、母親も父親も仕事を中断して駆けつける必要がないようにするってことです。

上に書いたように“親が子育てをする”という常識を排除するってことです。子育ては社会がやるんです。(保育所を整備して、誰でも毎日一定時間子供を預けられるようになったとしても、親の負担はかなりのものです。)


三番目の教育も同じ。学校と放課後の教育も社会で引き受ける体制が必要。もちろん高校まで教材費や修学旅行費、医療費などすべて国庫負担。

で、18才になったら社会の役割は終わり。だってここから後だけでも個別の親、家庭はそれなりのコストを迫られます。なんだから、せめて 18才までは個別の家庭にはその負担は一切なし、というくらいの覚悟で支援しないと子供なんて(今、生む気のない人が)生んだりしないと思います。


問題は、そこまでして「社会として子どもを増やしたいか」という最初のところに戻るんですけどね。

ちなみに、日本では少子化といっても3人兄弟の家はたくさんあります。少子化の一番の原因は、子どもを全くもたない家庭(結婚していない単身家庭を含む)が増えていることです。

だから、一人っ子の家庭にもう一人産ませる、ではなく、子どもを生まない人に一人でもいいから生ませる、結婚さえしてない人に、結婚させて子供を生ませる、ということが実現できないと少子化は止まりません。


これはすごいことです。「子どもゼロ→子ども一人」というのは、生活を根本的に変える必要があるんです。「子ども一人→子ども二人」とは変化の度合いが違います。上の対策案読んで、「やりすぎだよ〜」と思う方もたくさんあると思います。

が、だったら! 子ども増やそうとするの、そもそも止めましょう。人口少々減ってもいいし、移民入れてもいいよ。と考えを変える必要があります。それくらい少子化対策、子育ては大変だし、覚悟して本腰入れて支援しないかぎり少子化対策が功を奏すことはないと思います。


フランスもスウェーデンも消費税は 20%前後だし、生活者の税負担は非常に重いです。そういう負担をしながら、「少子化対策」にどーんと予算をつぎ込んでいます。

ちまちました少子化対策を打ち出してくるお役所の皆さんと政治家のおじさん。いったい“子どもを増やすために、どの程度の犠牲を払う気がある”のでしょう?どの程度の覚悟があるのでしょう?

ちょこっと補助金だしたら子ども生む人が増えると思っていますか?そんなこと思えるおめでたい人というのは、自分で子育てしたことない人だけでしょう。子育ての大変さを知らないから、そんなにおめでたい議論が毎年続けられるんだと、ちきりんは思います。



今日の結論。

生むこと、育てることは生半可なことではありません。ほんとに大変なことなんです。本気で子どもを増やしたいと思うなら、それだけの覚悟を持ってください。


ではまた明日

2005-04-13 横田夫妻が見抜いたこと・・拉致問題解決にむけて

北朝鮮の拉致問題について、日常的にマスコミが取り上げるようになってから数年がたちます。まだ未解決の事件が多い中で、3家族の日本への帰国が実現したこと、本当に嬉しく思います。

この事件にまつわる報道で、ちきりんには、“これはすごい!”と思った発言が3つあります。こういう時に、その人がどういう人かわかるよな、と思わせる発言3つです。


ひとつは横田夫妻の言葉。

“皆さんどうかこの問題に関心を持ち続けてください。”という言葉です。

ほぼすべての講演会やインタビューにおいて夫妻はこう呼びかけられます。これを聞くたびに、ちきりんは、この問題に世間が無関心であった30年の間の夫妻の苦悩がにじみ出ている、と思うのです。


誰も関心を持ってくれない時代においては、政治家もマスコミも拉致問題を、解決すべき人権問題としては捉えず、なんらか自分に有利に働くかもしれない政治の種、記事のネタとしてしか考えていなかった。

ワラにもすがる思いの拉致被害者の家族の方が、このような人達の動きによってどのような思いをされてきたか、心が痛みます。


横田夫妻にとっては、北朝鮮の核の威嚇よりも世間の無関心の方が怖い、そんな気持ちなんじゃないかとさえ。“世間”が監視しなければ北朝鮮が動かない、ではなく、世間が監視しなければ日本の権力者、マスコミが動かないということなのでしょう。

朝日新聞などは、拉致問題が盛り上がる直前まで一貫して北朝鮮擁護的な論調であったと記憶しています。社会党も同じでしたが、むしろ数百万部もの部数を誇る一般紙の罪の方が大きいと思います。

マスコミってほんと人の批判はするけど、自己批判も反省もしない。びっくりです。個々の記者の方には忸怩たる思いもあるんじゃないかとは思いたいですけど。


★★★


もうひとつの発言は、有本さんのご両親の発言。

“恵子は他の方のケースとは違います。ついていったあの子も悪いんです”というご発言です。

悪いのは、明らかに連れて行った人です。それでもこういう発言をされるご両親としての思いにも涙がでそうになります。

イラクに行ったボランティア(?〜の人が誘拐された時、テレビの前で日本政府に悪態をつきまくった家族の方がありました。

あのお二人は若くて、親の会社以外では働いたことのない方たちだったから社会的な成熟性という意味では比べようもないのですが、それでも身内の命が危なければ、ある程度身勝手な言動がでてしまうのは仕方ないところもあるでしょう。


その中で、自分の子供の無知・無鉄砲な行動にたいして親としての後悔と反省を含め、“ついていった娘の責任”に触れられるお気持ちは本当にかわいそう。

もちろん、被害者コミュニティの中での問題もあるでしょう。

別の解決方法を探っている拉致被害者の方に、新潟で漁船で北朝鮮に拉致された寺越さんのケースがあります。こちらは、拉致されたという事実を問わない(責めない)ことで、現在、平壌の息子さんと自由に会えるという状況を確保されています。

おそらくこの方も、いろいろ批判されているのだと思います。拉致そのものを認めず、安易な解決方法を選んでしまうと他の家族の方に迷惑がかかる、そう感じる人もいるでしょう。

それぞれの方に事情があり、思い悩まれた上での選択だと思うのですが、どちらのご家族の方も痛ましい。そもそも拉致がなければ、そのような反発や気遣いなどまったく必要なかったわけで、ほんとに北朝鮮なんとかしろよ、って感じです。


★★★


私は有本さんがロンドンに留学されてた頃に、バックパッカーとしてヨーロッパを回っていました。

確かにあの頃は、あちこちで変な日本語を話す外国人に会いました。ほとんどはお金目当てか痴漢だったと思いますが、それでも、今振り返っても、ぞっとする思いです。

“私はついていかないわ”という気持ちもあるし、一方でもし計画的に仕組まれていたら、どうなっていたかわからないとも思います。無鉄砲な行動は若者の特権だし、そこから得られるものもたくさんあるのですから。


最後に感動した発言は美智子様のスピーチです。

“なぜこんなにも長い間、私たちはあの方々の不在を自分のこととして共有できなかったのか悲しく思います。”的なご発言でした。


美智子様すごい! と思います。あれはまさしく日本国民を代表しての、拉致被害者の方、ご家族の方への謝罪ですよね。

もともと皇室ってそういう役目を期待されてるとは思いますが、ここまで実質的な意味のある発言はあまり聞いたことがないくらい。


北朝鮮崩壊説を唱える人もいるけど、自己崩壊なんてありえないでしょう。日本だってふたつも原爆が落ちて、沖縄が火の海にならなければ決断しなかった。

独裁者は国民が死のうと飢えていようと平気です。自分の身に危険が及ぶところまでこなければ、両手をあげたりはしないのです。


どうやったらこの状態に終止符が打てるのか。この問題の解決には、時間が重要です。

人間の命は永遠ではない。なんとかひとめ娘息子に会いたいと思われる家族の方の思いを実現させるには、いったいどのような解決方法があるのでしょう。


ではまた明日です。



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2005-04-09 古い映画

すごく古い映画を観ました。新藤兼人監督の“絞殺”。

いつ頃の映画なんでしょうか。かなり古そうでした。白黒でした。すでに乙羽信子さんが主演で、二人以外は新人と友情出演の人が一人だけ。ほとんど新藤監督と乙羽さんのお二人の手作り作品、って感じです。

悲惨なテーマの映画なんだけど、むしろお二人のお互いを見守る視線の暖かさみたいなものが残る映画でした。

ちきりんの好きな映画は、詩的な感じの映画です。メロディが聞こえてくる感じの映画、かな。新藤監督は映画も好きだし、監督の生き方も好きです。乙羽さんとの関係や映画等についてインタビュー等で語っている言葉から、すごく悩み深いものがほの見えて強く共感を覚えます。

外国映画だとフェリーニとかジム・ジャームッシュとか好きです。あと、マルグリット・デュラス的な世界も好きです。デュラスの映画のラマンのDVDが欲しいんですけど、出てないみたいで残念です。昔六本木俳優座で夜中に見ていて、ほとんど夢遊病者みたいになって映画館を深夜に出てきて・・・結構やばかったです。


簡単なようで簡単でない。やっぱり芸術家ってすごい、と思います。

映画とか絵画とか、いいものって“迫ってくる”ものがある。作り手の魂が見る人を襲ってくる。こういう力を“映像や文章”に込めることができるのはすごい才能です。まさにタレントですね。


ちきりんは“人間のどうしようもない醜さ、愚かさ、ドロドロさ、馬鹿さ加減”が好きです。社会には頭に来ることが多く、ちきりんはそれらを毎日日記に書いているわけですが、制度の後ろには個々の生活がある。そちらにカメラを向ければ、社会制度の問題点は、一転人間ドラマの世界になる。それは何を意味するか。

エフェソス(トルコにあるローマ遺跡)の図書館の遺跡の前の歩道に、彫刻のあるタイルがあります。その歩道タイルには、“売春宿はこちら”という案内が書いてあるんです。で、そちらに歩いていくと、ローマ遺跡独特のすごい荘厳な作りのライブラリー(図書館)がある。

で、ライブラリーの入り口を入ってすぐに曲がると売春宿。笑えます。ローマ人も、そういう店に行くのが恥ずかしく、図書館に行くふりしてそういうところにいけるように裏道を作った。で、こっそり歩道のタイルに(めだたないよう)案内看板を書いた。

これは何を意味するか?ローマ時代なんて、女性に参政権はありません。奴隷もいました。すなわち、普通の市民として認められるのは一部の“男性・ローマ市民権をもつ人”だけなんです。なんで彼らが他の人の視線を気にしてそんなにこそこそしなければならなかったか?彼らが恥ずかしかったのは他人の目ではない。神の目、というと宗教的ですが、まあ、自分といってもいい。“人間として恥ずかしい”という気持ちがあったということでしょう。

つまり、人間はあの時代から全く変わっていません。私たちは全く進歩しない。進歩するのは技術であって人間ではない。反対に言えば、人間には普遍的なものがある。だから数千年前の遺跡、数百年前の絵画、数十年前の映画が、現代に生きる私たちの心に訴えかけることができる。


ちきりんは、“進歩しない人間”というのが大好きです。私たちは怠惰でずるくて身勝手だ。だから人生は奥深く楽しい。しかし、それが制度化されてできあがる社会の“わけわかんないこと”には、やっぱり声を大にして異を唱えていきたい。

進歩はしないとわかっているのに、進歩を望む。この矛盾を共存して受け入れることができるところが、人間のおもろいところ。


ではまた明日

2005-04-06 アフリカは発展しないのか?

考えても考えてもよくわからない不思議なことが世の中にはたくさんある。ちきりんがずっと考えていてよくわからないことの一つが、“アフリカってなんで全然発展しないの?”ということ。

アジアにはまだ貧乏な国はたくさんあるけれど、基本的には発展しつつある国が大半でしょ。足踏み状態はあっても、完全に止まっているとか、後ろ向きに進んでいる国は北朝鮮など一部だけだし、その場合は理由もかなり明確。

南米もアルゼンチンみたいに破綻してしまう国もあるけど、ブラジルみたいに有望視される国もある。ペルーやチリだって大して進んでないようにも思うけど、でも別に「大量餓死」とか「内戦で毎年○万人が死亡」という話はほとんど聞かない。

そういう意味で、圧倒的に不思議なのがアフリカだ。なんで“全く前に進んでいない国”があんなにたくさんあるんだろう?後退している国さえ少なくない。

アラブ・アフリカといわれる北アフリカのエジプトやモロッコはともかく、中部から南部の非アラブのアフリカには大陸全体として、過去何十年も全く“展望”が感じられない。


ちきりんは昨年ケニアに行った。ナイロビにはなんもない。あるのは国際機関事務所やNPOばっかり。ケニアの最大の外貨獲得産業は“ODA獲得産業”なんだよね。

他の産業がこの産業を追い越す可能性があるか?というと多分ないんじゃないかな。ケニアは将来にわたってずうっと“ODAで食べていく国”なのかもしれない。

他の産業は、観光と、ピーナッツやコーヒーなどの農産物。でも食品の国際市況商品では、現地の人はほとんど儲からない。フェアトレード品の民芸品で稼げる外貨なんてたいした額じゃないしね。

観光もサファリ好きな人ってローマ遺跡を見たい人に比べると圧倒的に少ない。それに、最高級ロッジでさえ自家発電だから電気が一日のうち数時間しか使えない。インフラとして、そもそも大挙して観光客が押し寄せる状態ににはなりえない。

国内で使うための“タイヤ工場”等、軽工業の工場はあるけど、基本は国内需要のためであって輸出は無理です。輸出ってのは圧倒的に高い品質が要求されるから。競合があるからね。

でもケニアは“アフリカのなかではまだまし”であり、“優等生”とか呼ばれている国。それで、こういう状態です。


石油のでない発展途上国は大変です。それでも、アジアの多くの国・・・タイもベトナムも中国もインドも、今のところ石油輸出で発展してきたわけではありません。それに、石油がでないということは、外貨が安易に稼げないかわりに、米国が爆弾おとしたり介入したりしてこないわけで、それはそれでメリットとも言えるはずなんです。なんでアフリカだけ??

しかも多くの国でHIVが蔓延しているのに、有効な手だてがありません。



質問は二つです。

  1. なんでアフリカだけこういう状態が続いてきたのか
  2. これからもこの状態が続くのか

最初の質問に答えがでないと、二番目の解決方法がありません。


政治は腐敗しています。多民族国家だから、政治的安定自体が非常な贅沢品です。ODAは配るだけであって、再生産の手だてにならない。現地にまともな受け皿組織もないし。

でもそれだけでこうなってるとは思えない。どこの国でも“腐敗する政治トップ”は存在します。ずうっと経済発展を続けてきている中国、韓国、タイ、ベトナム、その昔の日本、どの国も「腐敗した政治トップ」を擁しながらも、経済発展を実現してきました。

なんでアフリカはそうならないの?

アフリカだってエリートは、フランスやイギリスに留学して高等教育を受けています。彼らの中から国を大きく変えるリーダーがなぜ出てこないのか。


ちなみに、小泉氏がアフリカに行って“日本だって焼け野原からここまで来た。だからみんなも頑張って”って言ってましたがあれは詭弁です。

日本は確かに焼け野原になったけど、焼け野原になる前にすでに世界で唯一の非西洋先進国でした。戦艦ヤマトも、パールハーバーまでの飛行が可能な戦闘機もすでに持っていた。今のアフリカの多くの国よりも、敗戦時でさえかなりの資本&技術蓄積があった。だからそれと比べるのは無理。勤勉だけが総ての答え、ということはないのです。


南アなど特殊な国をのぞき、今も中南部アフリカの多くの国には誰も投資しようとしません。ODAは配るけど、投資はしない。なぜ?人件費は安いし、土地もいくらでもある。南部アフリカは砂漠ではなく水もあります。なんでなんだろう。ほんと不思議だ。


まあ、かなり長い間考えていたのに答えがでてないので、今日ブログに書いただけでわかるとは思っていません。でも、この「なぜいままでだめだったのか」という最初の問いに回答が見つからないままODAを続けていてもマジで無駄です。

ODAをしている人たちは、現地の現状をよくわかっているはず。まずは彼らに、この最初の問いに答えて欲しい。それを国際社会に示して欲しい。そうしないと、アフリカは今後もずうっと“他国からお金を貰っていきていく”という状態のままです。


ケニアに行ってその矛盾を強く感じました。とりあえず今のケニアは治安もそこそこです。だから、ODAしたい人、開発途上援助したい人の“遊び場”みたいになっている気がしました。“いいことしたい人の自己満足製造所”みたいだった。

ホントの意味で“前に向かう可能性のある解決方法”を皆で考える必要があるでしょう。与える人の自己満足団体でも、目の前の火だけを消す火消し団体でもなく、本当の問題の解決に取り組む必要があるよね。「仕送りでしか生きていけない子供を育てる」ことに満足していてはいけないと思うもの。


ではでは

2005-04-05 GDP500兆円の嘘

日本のGDPって500兆円弱くらいでしょうか、ちきりんはこのうち100兆円分くらいは嘘だと思ってます。嘘ってか、バブル。いつ、はじけ飛んでも不思議でない、って意味で。

なんでそう思うか。

GDPの6割は個人消費です。個人が使っている額の合計が300兆円です。ちきりんは、このうちの3分の1から4分の1は、”価値のないもの”だと思ってるわけです。

これは極めて感覚的な話です。デパートでものを買うと、不必要に包装されるでしょ。いらんよね、あんなの。それ以上にまずは店員多すぎ。特に平日の昼間なんてすごいですよ。それに売られている商品の量もすごい。どこの店も売れない洋服が溢れかえってる。あれは最終的にすべて売れているのでしょうか?

レストラン行って、食べ残すことよくありません?日本では、不要な食べ物、廃棄されている食べ物も山ほどある。自宅にある洋服のうち、半分くらいは全く着ていないという女性もたくさーんいるでしょう。死んだ時どうしよう?と思うほどため込んだお歳暮やらお中元やらおみやげやらでもらったタオル、食器、雑貨その他が、自宅の押入にあるって人もいるでしょう。

使わない問題集に英会話教材、使い切れないほどのメークアップ用品、もらい物のカレンダー。一応買ったけど、というブランドもののネクタイだのバック、スカーフ・・・こういうものはすべて個人消費として300兆円の中にカウントされているものです。


それって要らないでしょ、本当は・・・。ちきりんは、こういう無駄なものを買わなくなる日本、ってのがそのうちやってくるんじゃないかと思っているわけです。

ものがあふれる生活を豊かだと思っていた世代は、ちきりんあたりが最後じゃないかと思うから。そしたら(=みんなが無駄なものを買わなくなったら)、100兆円くらいはGDP下がるんじゃないの?って思ってるわけです。

ちなみにGDPの残りの200兆円は、企業の投資と公共投資(公共事業)ですが、企業の投資はともかく、公共投資の半分くらいは無駄に払われているお金だし、そもそも、こんな大赤字なんだから、2割や3割縮小するのは予想の範囲でしょう。ダムだの道路工事だの2,3割くらいは減るでしょ。これらもあわせて100兆円なくなって、GDPが実質400兆円くらい、というのがこの国に本当に必要な付加価値って気がします。


すると、日本がこれから経済成長するためには、この100兆円分くらいのバブル分を埋め合わせて、さらに5兆円増えて初めて1%成長が達成できるわけです。うーん、大変だ!

でも、ちきりんは実は楽観的です。日本の未来は暗いわけではない。だって、ここ数年だけで、ちきりんは“テレビが薄い”ということのために30万円、ブロードバンドのために年間5万円、CSテレビのために年間10万円、モバイル等通信費のためにも数万円払ってます。

これらは10年前には使ってなかったお金です。人によっては、その他、ビタミン剤やら花粉症の薬やら留学費用やら、実質的に増えた価値もあるはず。これから介護には相当の費用が投入されるし、より広い家や高くてもおいしい野菜に今まで以上のお金を使う人もでてくるでしょう。セキュリティグッズやサービスにも相当のお金が向かっている。もっと余暇を楽しむ世代も増えてくる。100兆円くらいはすぐに回復できると思ってます。


つまり、日本はこれから、500兆円−100兆円+100兆円+αという形で経済成長を実現していくことになると思う。(経済成長しなくちゃいけないのか?という議論はおいときます。)

これは何を意味するか?なくなる100兆円の産業に携わっている人たちは失業します。そして、あらたに100兆円+α分のもうけを得る人が現れる、ということです。これらは同じ人ではない。これを“二極化”というのかもしれない。世代交代と呼ばれるかもしれない。


小泉さんが首相になってからすでに4年だっけ?痛みが伴う云々の話、正直まだまだかと思います。痛みは100兆円分あるはずなのだから。これは年収700万円の人1500万人分の所得です。今の労働力の3分の1です。定年退職する人数だけで考えると、1500万人というのは10年分の退職者です。

と、こう計算すると結構感覚に合いませんか?あと10年過ぎれば、そしてその間に新しく社会に出てくる人が実質的に必要な仕事についていけば、日本の構造改革は達成されます。


ちきりんはこれこそ必要なことなんだと思っているわけです。

500兆円−100兆円+100兆円

これが今日のキーワード。

ではまた明日

2005-04-03 人手足りません

フィリピンの最大の外貨獲得産業が何かご存じでしょうか。海外に働きに行っている人からの仕送り金です。これが最大輸出産業。

っていうとジャパユキさんを思う人が多そうですが、実際にはお手伝いさんとか、建設現場作業員が一番多いはず。

中東とアジア、香港、シンガポールなどにはフィリピン人のお手伝いさんがたくさんいるし、石油発掘工事とか化学プラント建設の現場にもいます。イラクでも米軍基地のまかない一切をやっているのがフィリピン人メイドと作業員だったりします。そういうところは平和な国より時給が高いそうです。

フィリピンは日本にも労働力を輸出すべくずっとその要求をしていますが、日本は頑なに拒んでいます。ちなみに日本では、外人はフィリピン人お手伝いさんの労働ビザのサポートができますが、日本人ではフィリピン人お手伝いさんを雇うのは難しいです。

これすごい変です。うちの会社も外人のエグゼクティブは安いフィリピン人メイドを雇えて、日本人エグゼクティブは時給の高い日本人お手伝いさんを雇う必要があります。なんで日本政府って西洋人にまだこんなに弱いんだろ。


ちょっと話がずれました。ちきりんが言いたいのは、いいかげんに海外から人を入れないと日本は持たないよ、ってことです。お手伝いさんを雇いたいエグゼクティブがそんなにいるとは思えませんが、問題は介護です。

今年生まれる赤ちゃんは120万人なのに、今40才くらいの人って200万人いますからね。普通に算数して、こんなの支えきれるわけがありません。介護保険が赤字だからってやたらと在宅介護を推進しようとしていますが、まじ?って思います。どうやってそんなのが解決方法だと思えるのか、思考を疑います。

在宅介護を主流にするなんて無理です。お金の問題ではないのです。病院や施設などの箱ものの問題でもありません。介護する人の数がたりません。ロボット?あんまり現実的ではないですよね。

一部の人は、海外に住んで安く自分専用の介護人を雇って生活するようになっています。でも海外で年取ってから住むのは大変でしょう。特に今まで全く海外に住んだことのない人にとって。


そして、フィリピンのような近いところに若年人口が大きくて国内には仕事のない国がある。なんで政府が消極的なのか全くわかりません。治安が悪くなるとか思っているのかしら??そんなの放っておいても悪くなるし、治安の悪さの解決方法は別途考えればよい話です。怖いから何もしない、で済む状況ではないのに。


なんとなく、「日本は単一民族」というような右翼的な思いこみっていうか変な思想が根底にあるような気がします。笑えるけど。その単一民族とやらの数はもう減っていくことが確実なんですけど。早めに海外から労働力を入れた方がいいと思います。

本当に立ちゆかなくなってから入れると、最初は問題が噴出します。いろんなことを少しずつ解決して、海外の人が労働力としてスムーズに働けるような制度や私たちの受け入れ態勢を作っていくのに10年はかかるでしょう。早めに始めた方がいいと思います。時間をかければお互いにうまくやっていける方法が見つけられます。


香港ではお手伝いさんの月給は8万円程度。それ以上に稼げる人であれば、自分が介護や育児をするより働いた方が世の中の経済価値は大きくなる。

日本でも15万円くらいで雇えるようになれば、15万払ってでも介護や育児を依頼したい家庭もあるでしょう。女性だけの話ではありません。育児と違って介護に関しては、そのうち男性も「仕事か介護か」という選択を迫られる人が多くでてくるんだから。

こういうことが実現するには、ひとつの大きな社会システムを作る強力なリーダーシップが求められてますよね。世の中のリーダーの方、よろしくお願いします。

あくまで他力本願のちきりんでした。

ではでは

2005-04-02 NHKの世論調査

さっきNHKの世論調査をやっていました。3つの質問の結果が報道されてたんだけど、なんか時代遅れな質問だなあと思いました。

最初の質問は、「現代の日本では貧富の格差が広がっていると思いますか」という質問で7割の人がそう思う、まあそう思う、ってことでした。

だからどーした?という感じ。


「貧富の格差が拡大することは悪いことと考えるか?」っていう質問とセットで聞かないとよくわかんない。それに、そもそも「貧富の格差のない世の中」を目指していたんだっけ、私たちは?「みんなが豊かな世の中」を目指しているなら、まだわかるんだけど。


貧富の格差がある状態ってのは、「みんなが貧乏な状態」から「みんなが金持ちな状態」ってのに移行する途中の段階なんだから、「みんな貧乏よりまし」「みんな金持ちな状態にはまだ達してない」という状態なんだよね。

今回格差が広がっていると答えた7割の人のうち一定の人は、それを必ずしも「悪いこと」としては認識してないと思います。それが何割なのか?ということの方が、世論の変化を見るために重要な質問だと思う。



次の質問が、「親の経済状態や地位が子供の将来に影響すると思うか」とかなんとかいう質問。75%がそう思う的な答えです。これは年代別に集計しないと全く意味ナイと思いますけど。

20代の人が回答者だとすると、人生の大半を親の庇護ですごしてきているわけで、親の影響を受けてない人なんてごく少数のはず。一方で、40才を超えてこんなこと言っている人は、単に愚痴ってるだけ、って気がします。

大人になって20年生活して、親の影響で左右される部分が自分の人生を規定していると思うとしたら、それはちょっと悲しいね。


もちろん、普通の家に生まれたちきりんは大財閥にはなれません。でも、長島の子供だって一流の野球選手にはなれません。彼が一流の野球選手になっていたら、親の七光りと言われるんだとしたらかわいそうだと思う。一定期間自分で生活したら、いいわけしてちゃいけません。


最後の質問がまた笑える。「努力が報われる世の中だと思うか」思わない人が半分くらいです。思う人半分。幸福な方ですね。

ちきりんは、社会人になりたての頃にすごく頑張って営業をかけた顧客が、うちではなく競合会社の商品を選んですごーく落ち込んでいる時に上司に言われた「おまえ、もしかして努力したら必ず報われてるとか思ってんじゃないだろうな?」って言葉が忘れられません。あれが、ちきりんの社会人デビューのきっかけになりました。

努力は報われることもあるし報われない時もあります。ただし、非常に高い確率で、「成果を出せば報われる」というように世の中はできています。報われるべきは成果をだした場合であって、努力した場合ではない、ってのが、共産主義と資本主義の違いでは?

努力したら全員報われるとしたら、ちきりんは「必要な時だけ努力」します。適当に遊んでいて、お金がなくなったり欲しい物ができたらちょこっと努力して、そしたら「確実に報われる」んでしょ。準備する必要とか、ずっと頑張る必要なんてないよね。


世論調査って何のためにやっているのか、ってところに戻るわけですが、それが、世の中の価値観や考え方の推移を見るためであるならば、その価値観自体を問わないと意味がないよね。


必要な質問は下記なんじゃないかな。

  1. 貧富の格差が広がることは悪いことですか?
  2. 40−50歳の時点であなたが得た物は、親の経済力や地位のおかげですか?
  3. 努力が必ず報われる世界と成果が必ず報われる世界はどちらが望ましいですか?

せめて様々な価値観を反映して世論調査の質問を作ってほしいです。

ではでは