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Chikirinの日記 RSSフィード

2006-06-27 持たざる者の強み

“持てる者と持たざる者”とは貧富の差を現す古典的な言い回しですが、ビジネスの世界では“持たざる者の強み”もよく言われます。

たとえば組立て系製造業には、世界各地に立派な工場を保有するメーカーと、自社工場をもたない企業が併存します。しかし、工場をもつ企業が有利かといえば、そうとも限りません。

後者の企業は自社工場がないからこそ、作る商品にあわせ、「この商品を最も高い品質で、最も安く作ってくれる工場はどこか?」という視点で、製造委託先を世界中の工場から選べるからです。

自社工場を持っていると、たとえコストや生産性が少々劣っていても、その設備を遊ばせておいて海外の他工場に仕事を委託するのはとても難しい判断となります。


人材についても同じです。余剰なほどの解雇できない正社員を抱えていれば、新規事業や海外事業にのり出す時にも、自然と社内から責任者を選ぼうとしますよね。

一方、抱えている人材が少なければ、新規事業にあたってその分野で指揮を執るにふさわしい人を世界中から募集することが可能になります。こういった差は時に事業の明暗を分けかねません。


かって“ナショナルのお店”を全国津々浦々に「持ってしまっていた」松下電気産業も、家電量販店や大手小売りチェーンとの良好な関係を築くのに他のメーカーより苦労しました。

大量販売と引き替えに要求される大幅な仕入れ値のディスカウント要求をのめば、系列販売店を潰してしまうことは目に見えていたからです。

過去においては、大躍進の原動力のひとつであった大規模な販売店網という“超優良な資産”が、時代が変われば成長の障害になるという、なんとも皮肉な話です。


そして、持たざる者の強みを活かすために、企業は「わざわざ持っているものを捨てる」という選択をすることもあります。

たとえば工場を分社化すれば、開発部門から見て自社工場は「他の会社」となります。その上で「この商品をどこの工場で製造するかは、技術力や価格などの条件で決めますよ」と、自社工場と他社工場を比較検討するわけです。

結果的に自社工場で作ることになるとしても、自社工場も世界の他の工場との競争を余儀なくされます。もともとは一流企業の工場なのに“世界との競争”にさらされることになるのです。


このようにビジネスの世界では、「持ってしまうリスク」はあらゆる分野において認識されており、今やバランスシートを大きくしたいと考えている企業は少数派となりつつあります。

もちろん多くの企業は「終身雇用を約束させられてしまう正社員を持ってしまうことのリスク」も十分に理解しているからこそ、新卒採用の拡大に慎重なのだともいえるでしょう。

★★★

個人でも家(不動産)を買えば、他の場所に住みたいと思ってもなかなか転居できなくなります。

また、代々続く名家に生まれたり、親が伝統文化の職人であったり、手広く事業をしているような場合も、子供は将来の選択肢について一定の縛りを感じるでしょう。さらに、親が病院を開業した医者だとなれば、その子供には18歳の受験時から相当強いプレッシャーがかかっているはずです。

一方「持たざる家」に生まれれば自由に職業を選べます。大学を出るまで将来進む道など決めないままにすることも可能でしょう。「持たざる者」とは、「縛りのない者」「自由なるもの」と言い換えることもできるのです。

もちろん、家族や家庭のように「持つこと」により責任が生じ、「縛られることによって生きる意義を感じさせてくれる効用」のあるものも存在します。

しかし少なくともビジネスやキャリア上の判断においては、「持ってしまったもの」に縛られると、自由度を確保している人との戦いはとても厳しくなります。

「持たない者の強み」を意識的に活用し、たとえそれが過去の自分や自社を支えてきた資産であったとしても、未来に向けて決断をする際には、過去の資産に縛られないよう気をつける必要があるのです。

2006-06-21 死刑〜議論の方法論〜

「死刑という刑罰制度の是非」については、世界的にも大きな議論があります。


世界の死刑制度の状況 wikipedia」を見ると、

ヨーロッパの大半や、カナダ、オーストラリア、ロシアなどは死刑を廃止。

アメリカでは州により異なりますが、最近は廃止する州も多い。

日本もコンスタントに死刑宣告がでるし、執行も行われており、

死刑が多いのは、中国や北朝鮮などでしょうか。

このため、「死刑を残しているなんて、なんて野蛮な国!」という国際世論もあります。


死刑存廃議論の論点としては、

(1)刑罰としての犯罪抑止力

(2)冤罪問題

(3)被害者と加害者の命

(4)他国の動向

(5)命を奪う権利

(6)「終身刑」導入議論


などがあります。


★★★


(1) 犯罪抑止力論は、死刑の是非に関わる最もポピュラーな論点です。

死刑がないと犯罪率が上がるのか、変わらないか、という議論。検証できない議論のため、常に水掛け論です。

抑止力とは、一般に「ああいうことすると、死刑になるんだな」と思わせることによって、他の人が犯罪を起こさなくなる、という効果のことですが、

先日の大阪の殺人事件のように、犯人は未成年時に殺人を犯していたのに、未成年ということもあり、当然、死刑にもならず、社会復帰をしていました。

そして、今回また殺人事件を起こしています。

最初の殺人の時にこの人が死刑になっていれば、 2番目の殺人は起こらなかった、という考え方を「抑止力」と呼ぶ人もいるようです。


(2) 冤罪問題

冤罪の場合、死刑にしてしまうと取り返しがつきません。

戦後のどさくさ時代や、部落差別が絡んだ犯罪で、「死刑判決だったけど、実は冤罪でしょ?」という事件は、これまでも複数、存在します。

実際には冤罪の可能性のある死刑囚の場合、死刑執行がなされないまま何十年も死刑囚として拘束し続けたりしてるんですが、

これはこれで大きな人権問題です。

冤罪がありうるから死刑はダメ、という意見もありますが、死刑が無くても冤罪があれば、「冤罪で無期懲役」みたいなことは起こります。


(3) 被害者と加害者の命

「誰かの命を奪った奴の命を保護する必要はない」という考えがあります。

特に被害者の家族にしてみれば、「なんで被害者の命より、犯人の命の方が重いのか?」と思うのは自然なことかもしれません。


(4) 他国の状況

最初に書いたように、死刑を存続させてる国は減りつつあります。

ヨーロッパの死刑絶対ダメ思想の基底には、人権思想とともに、キリスト教の思想がありそうです。カソリックでは、死刑どころか中絶もダメで、つまるところ命に関することは神の判断であり、人間が左右できるものではないということです。

また、今でも「白人警官による黒人被告への過剰暴行」がたびたび問題となるアメリカでは、死刑を宣告された黒人の多くが(もしくは、その支持者の多くが)、

被告が白人であったら、死刑にはならなかった、と考えています。

こういう背景もあり、死刑はダメ、という意見が強いんですよね。

日本で死刑廃止が大きな声にならないのは、宗教観や人種問題との絡みが少ないからだと思われます。


(5) 命を奪う権利が人にあるのか?という議論

死刑って、「究極の人権侵害」なわけで、国家が個人の命を合法的に奪うことは「いかなる理由があるとも正当化できない」という考え方があります。

「刑法を適用すれば死刑だから人を殺してもいい」「戦争法を守っていれば、人を殺してもいい」というのは、「法律に則った、合法的な殺人がありえる」という意見なのですが、

そんな概念=「法律に則った死刑=合法的な死刑」自体が成立しない、という意見があるわけです。

それこそ「命を奪っても良いという法律は憲法違反!」ということでしょう。


(6) 死刑にしないと(他の罰では)軽すぎる、という話

これは刑罰の法令化不備の問題。日本は、刑罰の「間隔」が大きすぎるんですよね。

死刑の次に重いのは無期懲役だけど、実際には“無期”ではないこともあります。

「無期」ってのは「死ぬまでずっと」という意味でもないし、有期刑(たとえば懲役 20年)の場合、裁判が 10年続くと、懲役は残り 10年くらいになったりするし。

最高刑がそんな罰でいいのか?という話になると、死刑しか選択肢がないという話になります。

今のままなら死刑は必要だが、もし「終身刑」や、アメリカみたいに「懲役 230年」といった刑罰が導入されるなら、死刑廃止に賛成という人もいます。


★★★


この問題を考える時は、検討のルールを決めたほうがいいんじゃないですかね。まず、「哲学論争はしない」って決めたほうがいい。

「答えのない」哲学論争を始めると、死刑を存続させるかどうかを決めるのは無理ですから。


たとえば、

検証できない「死刑に抑止力はあるのか?」って問いとか、

「誰かの命を奪った奴の命は奪ってもいいのか」とか、

「法律に則れば、人の命を奪ってもいいのか」などは、

話し合って結論が出る問題だとは思えません。


★★★


また、超「実務的に」考えることも大事でしょう。


たとえば、冤罪は必ずあり、ゼロにはできません。そして「間違って死刑にしちゃう」ってのは、あってはならないことです。

だとすれば、街中で暴れて多数の人を殺した、みたいに、相当数の人が目撃していた事件など、「犯人であることが疑いない場合」のみ、死刑適用する、みたいにすればいいんですよね。

つまり、冤罪の可能性はどうみてもゼロよね、って時しか死刑にできなくするってことです。

少なくとも今の制度の「本人が私はやってないと、犯罪自体を否定してる」のに死刑にできる制度は、やっぱりちょっと怖いです。


あと、死刑をどうするか決める前に、終身刑など、別の刑を作るというのもあります。で、事実上、そっちにシフトさせてしまう。

これは、法律議論としてはありえないプロセスかもしれませんが、実務的には「死刑については棚上げ。事実上、死刑と同じ重みをもつ刑罰を作ってシフトする」というのは、悪くない案だと思います。


★★★


死刑存廃論に関して、「命の重さや国家権力と人権について“議論したい”人」が、永久にあ〜だ、こ〜だ、と議論しているのは、議論自体が目的ならそれでいいんですが、

現実的に結論をだしたいなら、あんまりいい方法とは思えません。

「死刑に抑止力がある!」「ない!」とか言いあってても、結論はでないです。


それよりは寧ろ「冤罪で死刑になる人なんて、出したらあかんでしょ?」とか、

「こんだけの犯罪を犯して、そんな期間で社会に戻ってくる人がいるのはおかしいでしょ?」とか、

もうちょっと現実的な視点で議論をしたほうがいいんじゃないかなと思います。


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ではね。


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2006-06-18 4年連続

農産物が営利目的で大規模に盗まれるっていう事件。最近、結構多い。昔は子供が畑でスイカを盗むとかはあったかもしれないが、「トラック乗り付けて」「何十キロも」盗んで行くってのは、バブル以降、もしくは、ここ10年くらいの話だと思う。

狙われるのは、今回の佐藤錦の他、青森の高級林檎、新潟のお米もやられましたね。魚沼産のこしひかりは盗まれるだけでなく偽物もかなり出回っていた。陸から届くところにある養殖場で高級魚が盗まれたこともあったと思う。そう、狙われるのは全部「プレミアム品」です。

これは、安いモノ盗んでもコストに見合わないからですね。トラックを調達し、人を調達し、リスクとって盗む。しかも、盗難品ってのは売りさばく時に足下を見られます。買う方も暗黙のプレッシャーとして「盗難品でしょ?」って感じだから、普通より安い卸値で売りさばかざるをえない。一流デパートとかはそういうところからは仕入れてくれないし。

なので盗難対象として狙われるのは「グラム当たり単価の高いもの」ばかり。

佐藤錦って、300グラムのパックが小売値で3千円以上だったりします。グラム当たりでは南魚沼産コシヒカリの8倍くらいの値段。ちきりんが佐藤錦食べるのは2〜3年に一回かな、しかも自分では買わないですね。ほんと高級品。庶民の食べ物ではないと思います。


これ、ある意味ではすばらしい話です。農業ってのは「1兆数千億円の産業規模に1兆数千億円の補助金が使われてる」と揶揄される笑える産業です。その中で、生き残りをかけて努力をし、成功するところが出てきた。

「コーベビーフ」は、今やNYでも「フォアグラ」「キャビア」に匹敵する有名な高級食材だし、上海のお金持ちは一個千円以上する青森の林檎を買ってます。食料関係業界の自由化が始まってから、潰れていった農業もあれば、競争力をつけようとしている分野もある。佐藤錦はその「勝ち組」の一つです。

これら「勝ち組食材」は、なんで成功したか?美味しいから高いのでしょうか?必ずしもそれだけではないよね。カズノコも松茸も、味というより、希少性が大事。

まずは「供給を絞る」=「他社に同じものを作られないようにする」こと。これが大事。競合品が多くなるとすぐに値崩れするわけですから。その後はプライシングも含めてブランド管理、マーケティングが大事。

逆説的に言えば、佐藤錦は1パック3千円だから「ありがたい」のであって、もし千円だったら、より甘みの強いアメリカンチェリーに勝てなかったりするわけです。


「需要を制限する」方法はいろいろあります。「南魚沼産」のコシヒカリなんてのは、もっとも賢い方法です。だって、その土地は「そこにしかない」んだもん。

松坂牛も同じ。ちなみに「松坂牛」とは、そういう種類の牛ではなく、「特定地区の牛肉処理所でさばかれた」牛だと思います。だから全く同じ育成をしても、中国では「松坂牛」は作れない。フランスのワインのブドウ畑も同じ。「この畑で作ったブドウから作らないと」「この名称にはできない」というのはすごく巧いよね。

後は“大元”の管理も大事でしょう。食物系の場合は「種か苗」、牛なら精子か卵子ね(←たしか、どっちかが決定的に重要だそうです)。植物系の場合も、掛け合わせ、もしくは、遺伝子を操作し、一年草系なら一代しかもたないように改良できればベスト。

そういうのをちゃんと管理しないと、「中国産藤錦」とかが出てきちゃう。

★★★

ここまでの話は、ちきりんはよい傾向だと思ってます。前にも書きましたが、農業に関しては日本が国際競争力を持てる分野が沢山あると思ってます。にもかかわらず、製造業であればあたりまえのことが行われていないために、補助金漬けの産業になってしまっていると。

シャープが亀山工場に関しては見学も厳しく制限しているように、農産物も種の管理などを厳しくするのはあたりまえ。関係ないけど、世界一の半導体・電子部品メーカーのサムソン電子の敷地内に入るのは、アメリカ入国と同じくらい厳しいセキュリティチェックがあります。プレミアムをつけて売る商品の情報というのは、それくらいコストかけて守るのが常識となりつつある。


ところでニュースでは、さくらんぼが盗まれるのが4年連続だと言っていた。これがちょっと信じられない、と思った。製造業でこんなこと起こったら、会社潰れますよ。4年連続、同じ会社の工場で同じ事故が起こったら?ありえないでしょ。

これって、「トヨタやキャノンがやっているレベルの努力をしているけど」「4年連続、盗まれている」んでしょうか?


農家はぎりぎりの商売。これ以上のコストをかけるのは無理、という意見はありそうですね。でもほんとに?1パック3000円の小売価格になるさくらんぼを作ってる農家に、なんの余裕もないなら、普通の農産品作ってる農家はやってけないよね。

製造業のコスト削減努力だって、“異常”と思えるレベルです。去年「一割削減」したのに今年はまた「2割減」とかやってます。世界で戦う製造業の現場では、「どんな無茶にみえる」指示に対してでも、「そんなの無理です」という回答は、そうそう簡単には許されない。

農業って「無理です」がちょっと簡単に通りすぎる産業だよね、と思うわけです。「泥棒にやられないよう畑を見張るのは無理です」「人件費が10分のイチの中国に勝つのは無理です」って感じで。


ちきりんは、南魚沼産コシヒカリもコーベビーフも佐藤錦も、もう「農産物」ではないと思ってます。これらは「ブランド商品」なんですよね。だから「農業」としてではなく「ブランドもの」としてのビジネスのやり方が必要だと思います。関係者がそういう意識をもって管理しているのかしら?というのが、このニュースを見ての感想でした。それで4年連続盗まれている?なら、やっぱり「なんかおかしいでしょ?」と思います。


それと、この問題にはもう一歩先の話がある。それは、「儲けている人と、被害を被る人が違うんじゃないか」ということです。佐藤錦を作っている農家は、普通のさくらんぼを作っている農家よりは、卸値(収入)が高いでしょう。しかしその差は、小売価格の差とは、全く違うレベルなんじゃないだろうか。

そう、佐藤錦の「プレミアム価格分」が誰に配分されているか?という話です。それは本当に「さくらんぼう農家」に分配されてるんでしょうか?もしもそうであるなら、やっぱり「盗難防止」にきちんとした策を練る(コストをかける)のはその農家の責任です。

しかし、もしも「佐藤錦プレミアム」を他に享受している人たちがいるなら(農協とか、種の管理会社とか)、本当はこれらのブランド管理に手間隙と投資をすべき人たちはその人たちだ、とも言える。

盗まれて被害を受けるのは農家ですが、これらが盗まれるのはそれが(単なる農産物ではなく)ブランド商品だから」なのです。では、「ブランド商品だから」こそ儲かっているプレミアム利益を得ているのはいったい誰なのか?

その人(プレミアム利益を得ている人)の懐が“盗難”で痛まない仕組みになっているのでは?

だから誰も対策が打てず、「4年連続盗まれました」みたいなとぼけた話になっているのでは?と思ったりする。


一番悪いのはもちろん泥棒です。でもその他に「やるべきことをやっていない」「責められるべき」人も存在してるはず、と思います。



農業について書いた、昔のエントリは下記。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20050309


ではまた明日

2006-06-15 官僚は謝らない

今日読み始めた本(下記)は、戦後日本の移民政策の犠牲になった人を主題にした小説です。主題がパワフルだし、大変おもしろい。いろんな賞をとってるのも納得です。

ワイルド・ソウル〈上〉 (新潮文庫)
垣根 涼介
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ワイルド・ソウル〈下〉 (新潮文庫)
垣根 涼介
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売り上げランキング: 8,576


これを読み始めた理由のひとつは、アマゾンに行こうと決めたからです。どうせ旅行するなら、その国にちなんだ小説や本を読んでいきたい。気持ちも高まるし、いろんな目でいろんなものを見ることができるからね。


★★★

物語の時代は戦後10年後くらい。1950年代の中盤です。戦前・戦後、日本政府はすごい積極的に「海外移民政策」を推し進めてました。犠牲者の方はそれを「棄民政策」と呼び、実際、その方が実態をよくあわらしています。

当時、日本政府が移民政策を進めた理由はずばり「日本には仕事も食料もないのに、人が多すぎる」ことでした。これは、高度成長の始まる1960年代中盤までずっと続いています。


すごいことですよね。ここ10年くらいこの国はずっと「少子化対策」を叫んでます。1965年までは、「人が多すぎるから海外に捨ててこい!」という政策で、「少子化対策」が1995年からだとすると、その間たったの30年なんです。

たった30年で、国の政策が文字通り180度変わるのは結構すごいと思いません??

30年なんて、22才で就職した人がまだ定年にもならない52才の時期ですよ。その間にここまで変わるなんて・・。


ベルリンの壁が壊れるとか、戦争が起こるとかは、誰も見通せません。でもこれは「人口政策」です。人口なんて、すごい先まで見通せるんです。20年後の20才の人の人口は、もう今既に「確定値」なんですから。

そんな分野で、30年間の最初は「人、多すぎ。どっか行け」と言っていて、最後は「とにかく生め」って・・・・なんなんだ? しかも「棄民」を始めるその10年前は、戦争のために「生めよ育てよ」と言っていた時代です。変化早すぎ。

1960年代には、ご存じ北朝鮮への帰国事業も国家がかりで推進されていました。これも「祖国へ帰す」という美名の下の「人減らし」政策でした。あの頃、本当に日本は「人が多すぎた」のです・・・仕事や食糧に比べて・・・。


もうひとつ。この「人減らし政策」において、「北朝鮮は地上の楽園」「南米に移住すればすぐに大農園主」などと騙された人たちの多くは、当時の日本において非常に苦しい立場にいた人だということです。

朝鮮・韓国の人は、日本の敗戦でちょっとだけ解放されたけれど、基本的には戦前と変わらない人種差別に悩まされていました。

南米に捨てられた日本の人たちも、多くが山間の痩せた土地の貧農です。1960年代、日本は既に高度成長という靴に片足をつっこんでいた(はずだ)けど、そんな時代にも「この国には全く希望が持てない人たち」がたくさんいて、彼らこそが「夢の国行きの船」に乗り込んだわけです。

「官僚は日本の高度成長を支えた(今は役に立つことやってないけど)」という人がいるけど、「ほんとに?」って思いますよね。人口が多すぎて邪魔。じゃあ、外に捨てちゃえ、てのは「解決策」なのでしょうか?

こんな無茶ができるなら、なんでも解決できる。「35才までに二人の子供生まない女は死刑」とかにすれば少子化も解決できちゃう。でも、そーゆーのは解決方法とは呼ばない。


というわけで、この本を読んで思ったのは、「国の言うことなんてきいてたらあかんね」ということです。

今は少子化少子化ってうるさいけど、30年たって移民が入ってきてその人達がすごい勢いで子供生んで、反対の問題が起こったらまた「イラクに行けばすぐに石油王!」とか言いそうでしょ、この国の政府は・・。総ての育児手当的なものを打ち切って、義務教育もぜーんぶ有料にして、「海外に行け!」とか言いそう。


裁判に訴えていた方がおっしゃっていたよ。「求めているのは、補償ではなく謝罪なのだ」と。

そう。でも、それは本当に難しい。


だってこの国では・・・・官僚は決して謝らないからね。

だから、彼らの言うことなどきいてはならないのですよ。


全体最適のために個別の構成員が犠牲になる必要は全くない。国が言うことは、あなたの幸せのためのものではなく、国の(全体の)ためのことだから。

なんで国が「ニート対策」とか言い出すのでしょう? 国がニートを無くしたいのは、将来の税金を払う人が減るからだよね。


そーゆーこと。


なかなかインパクトのある本でした。

外交官を目指す若い人たちは、まずはこの本、読んだ方がいいんじゃない?


ではね


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2006-06-11 離婚「できるか?」

今テレビが「行列のできる法律相談所」をやってて、「これこれこーゆーケースで夫は妻と離婚できるか?」ってやってます。

なんか違和感のある日本語だなあ、と思います。


「離婚」「できない」ってどういう意味だろう?って。


だいたい結婚って「二人の合意」で成り立つわけでしょう。一人が離婚したがってる段階でもうその合意がないわけで。それなのに「離婚できない」ケースがあるなんて変じゃない?

「契約」です、ということなのか。契約なら一方だけの意思で破棄することは(あらかじめそういう条項がない限り)できない。しかし、結婚って、そういうものだっけ?なんか不思議です。

★★★

この件で最近話題なのが「有責配偶者からの離婚請求」が認められるかどうか、ってこと。「有責」ってのは、離婚原因を作った方。つまり、旦那が浮気した場合は旦那が有責配偶者。この場合、妻が離婚を求めることはできるけど、浮気した夫からの離婚請求は認められないのが今までの裁判の判例でした。(なお、夫と妻を入れ替えても同じ)

つまり今までのルールは明らかに「妻を守るためのルール」だったわけです。これまでの“大半のケース”というのは、“浮気をするのは男性側”で、しかもたいていの場合、妻には夫ほどの経済力がない。だから、「なんの非もない妻が路頭に迷う」のを避けるために、「有責配偶者からは離婚できません」って裁判所も言っていたのだと思う。

ところが最近少しずつ違う判決がでつつある。有責配偶者からの請求でも離婚できるようになってきたのです。浮気をした夫側が離婚を申し立て、認められるケースがでてきている。

男女差別の裏で、女性を優遇してきたこういう「お約束」は実はまだたくさんあるんだと思う。それが最近、どんどん「平等に」なってきてるってことでしょう。

★★★

ところで来年、再来年になると、離婚の際の年金分割が自動になるため、熟年離婚が急増するぞ、という見方があり、そういう特集を組む雑誌もある。同様に、上記の件を特集する雑誌もあります。

すごいエグイ内容です。

「夫が浮気、離婚請求!!」「その危機から自分を守るために!」「もう裁判所は守ってくれない!!」

で、勧められてる対策は「早くから家の名義を共同に・・・」とか「自分が管理できる通帳を・・・」とか。えぐいなあ・・


アメリカのスターなんかだと、離婚の際の財産分与については結婚の段階ですんごい分厚い契約書を作るよね。

日本でも林真理子が“特になんの財産もない男性”と結婚した際、結婚式等々はやったけど、籍は数年間いれなかった。すぐ離婚となった場合、ややこしくならないためでしょう。大資産家ですからね、彼女は。


ちきりんの周りには「結婚しても財布は別」って人がたくさんいるけど、やっぱ離婚比率高い気がする。未婚の友人で「結婚しても、財布は別にしたい」という人はもっと多い。

でもね、「お金が共有できないのに、人生共有するのは無理なんじゃないの?」って思う。


まあ、とにかく「こういうケースは離婚できるか?」っていうの、日本語としてすごく違和感あります。片方が「やめる」って決めちゃえばできてあたりまえ、って気がしますけどね。


ではでは

2006-06-10 最初に教えられたこと

人の性格がどのように形成されるのかは、いろいろ研究されてると思いますが、基本は「遺伝子」と「環境要因」&「きっかけ」かな。環境要因の半分は「親の選択」で、残りは自分で選んできた環境ですね。

振り返るに、自分の性格も「親の育て方」の影響を強く受けています。


小さい頃言われたこと、教えられたことなどで、影響が大きかったと思うことをあげてみると・・・


(1)「自由が得たいなら稼げ」

よく言われました。ちきりんが両親と同居していたのは高校卒業の 18才までです。高校時代には、友達がやっていることで、うちは許してもらえないことがたくさんありました。

バイトをするとか泊まりがけで旅行に行くとか、交換留学で海外に行くとか。ことごとく父に反対され、できませんでした。

で、「どの家でも許されてる」とか、いろいろ駄々をこねるわけですが、そうすると最後に言われるのがコレ。

「好きなことやりたいなら、自分で稼ぐようになってからやれ」


ホント何回も言われたので身にしみました。

とにかく「自分で稼がなくては自由に生きられない」「一刻も早く自分で稼ぎたい」と思いました。

ニートになるなんてあり得ない。受験浪人や進学もあり得ない。「あと○年で、自分で稼げるようになる!!!」と鼻息荒くしていました。

すごく独立心が養われたと思います。これは、他の兄弟も同じでしょう。ちきりん家はやたらと働く子ばっかりが育ちました。


(2)「うまくやれ」

リビング教育と勝手に名付けていますが、これも影響が大きい。実家は一戸建てで二階もあわせればそれなりの部屋数があるのですが、父は「リビング以外はいっさい便利にしない」という方針でした。

テレビや電話がリビングにあるのはもちろん、暖房も冷房もリビングしかおかない。なので他の部屋には居られないのです、暑かったり寒かったり退屈だったりで。・・・で、家族全員がリビングで過ごす。寝るとき以外は全部。

でかい机で、父は晩酌しながら巨人戦やら演歌の花道やらを見ていて、私はお絵かき、弟はゲーム、妹は宿題をやっている。母は傍らでアイロンかけてて、おばーちゃんがいて・・・です。

そこに電話がなる。父がでる。そして、「あっ、すんません。まだ帰ってきてないんですわ」と言って切る。

???

全員ここにいるじゃん???


不思議なことですが、日常茶飯事です。「誰から?」と聞かれて「しらん」と答える父。昔の家長ってほんと偉いよね。


ちきりんは高校には自転車通学ですが、入学の時に「家から高校までの距離」を申告するんです。それが 2キロ以上だと自転車通学が認められ、1.9キロだと徒歩で通学する必要があります。ちきりんが入学書類のその紙を父に見せると、父は迷わず「 2.5キロ」と書き込みました。

「そんな遠い?」と尋ねる母。「自転車で通うんやったら 2キロ以上で書けばええんやろ?」と父。

実測ではそんなないと思います。2キロないと思う。でも・・・なんの迷いもない父。


ちきりん家では、「正直は必ずしも美徳ではない」と教わりました。

むしろ「正直者は馬鹿をみる」と教えられたと思う。「世の中を生きる術」と言ってもいいかもしれない。大人のやり方を子供の前で平気で見せる家だったと思います。

だから、こんな性格に育っちゃったのよ!!と言いたいですが、とにかく「てきとーにうまくやる」ということに「価値観」をおいた教育だったと思う。


たとえば、子供に「嘘をつくな」と教育する親って多いと思う。ちきりんはあまりそういう記憶がない。反対にくだらない話にだまされると、「こんな嘘にだまされるなんて、おまえホンマにあほやな」となじられます。嘘をつくなと教える代わりに、「嘘にだまされるな」と教えられた。


努力も同じ。ちきりんと弟は余り勉強しない子だった。一番下の妹は小さい頃からすごくよく勉強する。妹はよく父に「おまえだけ、そんな勉強せな、わからへんのか?」と心配されてました。

今から考えれば「勉強しない上の二人」の方を心配するのが普通な気がするし、思い起こしてみても「まじめにやれ」とか言われたことって、ほぼないです。

努力も勤勉さも規律も求めない親だった。(だから全くこれらが身に付いていない?) 大事なことは「巧くやること」なのだ、と・・・


(3)他人に迷惑をかけるな

これは割とまとも。友達との約束を忘れててすごい待たせちゃったりすると、殴られますからね。「人に迷惑かけんな〜」って。ホント怖かったよ。

でも反対に言うとそれ以外のことでは「ほとんど怒られない」家でもあった。怒られるのは、誰かに迷惑をかけた時だけです。他人に迷惑をかけないなら、人生には全幅の自由があるのだ、と教えられた。

ちきりんが「生き方論」みたいな話がすごく嫌いなのはここから来ていると思う。

説教くさい人、本、映画等々、大嫌いだ。「こうやったら人にすかれる」とか勘弁してほしい。この前、映画を見に行ったらその中で「人生の価値は、他人に何を与えたかで決まるのだ」とか言ってて・・・頭痛くなった。

こーゆーの大嫌い。「あんたに何の迷惑もかけてないでしょ。だったら放っといてくれ」と思う。


「家庭で親に教えられた」のは、上記の 3つ。他にもいろいろあるんでしょうが、上の 3つのインパクトが非常に大きい。そしてその通り育ったちきりんです。


(1)自分の稼ぎで食べてない人とは友達になれないってくらい、「稼いで一人前」と思ってる。ホームレスは一人前だが、親の金で生きているニートは変だと思ってる。


(2)うまーく乗り切ることが大事、と信じてる。


(3)他人に迷惑をかけない範囲なら、自由に生きればいいと思ってる。世間の目とか常識とか、どうでもいい。自分が楽しいことがとても大事。


ネクラでもヲタクでも、定職についてなくても、超てきとーに人生過ごしていても、友達が一人もいなくても、どーでもいいではないか、と思う。


というわけで、大学から後は自分の環境は自分で選んできたわけだし、いろんな影響を受けた人はたくさんいる。でもやっぱり「最初に教えられたこと」の影響はとても大きいなあ、と痛感します。

2006-06-09 サッカーW杯開幕

世界中がワールドカップで盛り上がってますね。

単一スポーツの大会なのにオリンピックに匹敵、もしくは地域によってはオリンピックを凌駕するほどの人気を誇るサッカーのワールドカップ大会。なぜこんなに人気があるのでしょう?


まずはサッカーが人気がある理由を考えてみましょう。


(1)貧しくてもできる

サッカーはボールひとつあれば、グランドはボコボコの草むらでもプレイできます。野球やアメフトはボール以外に道具や装備が必要だし、テニスならコートの整地が必要です。プールが必要な水泳や広大な敷地が必要なゴルフも、貧しい国で多くの人が楽しむことはできません。

プレイするのにお金がかからないスポーツは世界での競技人口が圧倒的に多くなります。お金がかかるスポーツを楽しめるのは世界で10億人ですが、貧しくてもできるスポーツなら世界60億人が参加できます。また、「貧しくてもできる」=「貧しくても勝てる」であり、南米やアフリカの国から続々と“スタープレーヤー”が生まれることも、世界中の人達を熱狂させるひとつの理由でしょう。


(2)ルールがシンプル

ルールがシンプルで審判がいなくてもプレイできることも、競技人口の裾野拡大には重要です。野球はたとえ草野球のレベルでも、ストライクとボールをきちんと判定できる人がいないと試合になりません。ラグビーには「前にパスすることは禁止」というルールがありますが、これを審判なしで判定するのは難しいでしょう。サッカーは「手を使わない」くらいしか重要なルールはなく、草サッカーなら(オフサイドを適用しなくてもいいので)審判なしでも十分、試合がなりたちます。

また、ルールがわかりやすいと誰でもすぐに参加できるし、初めて見る人もすぐに理解して応援できます。加えてサッカーはプレーヤーのポジションも固定的でないため、必ずしも11人揃わなくても何人からでも楽しめます。


(3)常に“動”で目が離せない

これは観戦者側からの視点ですが、野球やテニスなど多くのスポーツには、「静と動」があります。野球場も「巨大なビアホール」としても機能するほど、試合途中に「何の緊張感もない時間」が長く含まれます。複数のランナーが塁にでて初めて、「おっ」と思う程度ですよね。テニスでも緊張するのはサービス側がゲームを落としそうになった時だけで、サービス側は責める、レシーブ側は守る、という動と静が最初から決められています。

この点サッカーは、ほとんど“静モード”がありません。静モードになど入ったら、すぐ相手に得点されてしまいます。試合中ずっと“動”であることを求められるスポーツは、観客が「目が離せない」スポーツとなります。サッカーの場合、テレビを見ている時も「自分がトイレに行った間にゴールされたらどうしよう!」と思いますよね。野球やテニスなら、トイレにいくチャンスはいくらでも見つけられます。サッカーは常に緊張感を求められる、ドキドキワクワクできるスポーツなのです。


(4)欧州が植民地に普及させた歴史的背景

欧州が自分達の植民地に持ち込んだため世界に広まった、という歴史的な背景もあるでしょう。アメリカとの歴史的つながりが濃い日本や韓国で野球が人気であることも同じですが、欧州は一時期世界の大半を制覇していましたから、サッカーが野球よりも広く普及したのだと思います。


(5)アメリカが弱い(?)

「アメリカが弱いスポーツ」だから(アメリカ以外の)世界中の人が好きなんじゃないかとも感じます。たとえば、欧州の人は、スポーツとしての魅力はさておき、アメリカンフットボールや野球を今からもり立てる気にはならないでしょう。

多くの人はスポーツに「最下層からのし上がるチャンピオンやスター」を求めており、現実の世界で軍事的にも経済的にも圧倒的に巨大な力をもつアメリカが常勝するスポーツ大会より、誰が勝つかわからない大会を好む人の方がよほど多いのではないかと思います。


★★★

次にW杯がおもしろい理由を考えてみましょう。


(1)国別対抗でナショナリズムを刺激

まずは露骨にナショナリズムに訴えるのが、人気の源ですよね。オリンピックだとそれぞれの種目で金メダルを分け合えますが、単一種目だと優勝は一カ国だけです。これは燃えるでしょう。ナショナリズムをスポーツに持ち込むのは嫌いという人もいるけれど、貧しい国にとっては大きな意味があります。普段はお金のために欧州のクラブチームでプレーするスター選手が、W杯では自国のユニフォームを着て戦ってくれるのは、国としての結束力を高め、一勝するごとに自信にもつながるでしょう。


(2)リーグ戦とトーナメント方式の組み合わせが絶妙

野球みたいに「年間140試合」では興奮が持続しないし、オリンピックの大半の競技のように“一回勝負”では運の要素が大きすぎます。初回のワールドベースボールクラッシックでは、韓国は何度も日本に勝ったのに優勝できず、日本が優勝しました。こういう大会で「優勝するのは、本当に一番強いチームである」と皆が納得できる試合方式を定めるのは簡単ではありません。

このサッカーW杯はその辺のバランスが絶妙だと思います。たとえば一次リーグにおいて、初戦で勝つか、引き分けるか、負けるか、というのは、ものすごく大きなことであると同時に、それだけでは何も決まりません。勝っても全く安心できないし、負けてもまだまだなんとかなると思える。

各グループには複数の競合国が振り分けられているから、どのグループでも「絶対楽勝」とは言えないし、誰にもチャンスがある。そして最後はトーナメント方式で一気に「この試合しかない!」という緊張状態に持ち込みます。「一次リーグは運だけでは勝てない」が、「最後は運も実力だ!」というバランスがすばらしいと思います。


(3)4年に1回しか行われない

4年に1回だと優勝チームが毎回変ります。大会が毎年であれば、強い選手が数人揃った国が5連勝でも6連勝でもできるでしょう。しかし4年に一度だとどんな天才プレーヤーも5大会連続で(=20年間)トッププレーヤーの座を維持するのは不可能です。

次は4年後なので、どの大会にも「今回の大会が最後のチャンス」と思われる年齢の選手がいて、感動の「人間ドラマ」が生まれます。前回負けた国では応援する方も選手達も「4年間も雪辱を果たすために頑張ってきたのだ」という気持ちになっていますから、一層熱が入るのでしょう。


(4)いろんな人が儲かる

オリンピック同様、「毎回違う場所でやる」のも人気がある理由でしょう。これにより「開催場所を決める」というプロセスまで“イベント化”されます。開催都市では誘致活動の他、開催が決まれば都市整備まで行い、巨額のお金が動きます。

最も儲かるのは旅行業界で、毎回違う場所で開催すれば、観光を兼ねて毎回来てくれる人もでてきます。世界のメディア、スポーツ新聞やニュースも、試合中継に加えて開催国の文化、土地柄の紹介など周辺報道ネタ(コンテンツ)が豊富に手に入ります。さらに国内の各都市に散らばるスタジアムの近隣では、レストランやバーはもちろん、様々なお店が潤うでしょう。

儲かる人が多いかどうかは、こういったイベントの盛り上がりに大きく影響します。なぜなら自分が儲かると思えば、彼等は一生懸命そのイベントの宣伝をしてくれるからです。協会とスポンサー企業だけでなく、メディア、旅行業界、地元の多くの店、都市整備に関わる企業などがみんなで騒いでいるうちに、どんどん人気が盛り上がってくるのでしょう。


★★★

ところで前回のW杯の期間中は、ちきりんは中国の田舎にいました。なんで覚えているかというと、テレビで試合を見ていても新聞を読んでも「すべての国の名前が漢字で表記」されており、すごいわかりにくかった記憶があるからです。だいたいは音読み表記でわかるんですけど、「うーん、わかんないよ」って国もたくさんありました。漢字なのに案外わからないものです。というわけで、今回はじっくり観戦したいと思います。表記もアナウンスも日本語だしね。


ではでは〜

2006-06-01 戻るべき家庭のない人達

精神を病んでいる人が犯罪を起こしたニュースを聞いていると、これじゃあ犯罪に追い込でいるようなものだよなあと思うことがよくある。


大昔には「座敷牢」というのがあって、精神的に病んだ家族を閉じこめていた。貧しい家では、農機具の保存庫とかに鍵をかけていた。これは明らかに人権侵害でしょうということで、精神衛生法(今は自立支援法?)ができるきっかけともなった。当時は治療という概念はなく「閉じこめて、死ぬのを待つ」だけだった。

その後でてきた対処法が措置入院。強制入院とも言われるもの。本人の意思ではなく家族の意思で入院させられ、多くの病院が「人権侵害」を問われるような状態だった。精神病院に入ると一生でてこられない、というイメージがあった。つまり目的は“治療”と言うより“隔離”だったのではないかと思う。

こういった「閉じこめ型」対処法は、人権問題として多くの批判を浴びた。


一方で最近は、「あきらかにおかしいよな」と周囲の人は思っているけれど、なんの体系的な治療も受けないまま社会で自立生活をする人がでてきている。大阪の池田小学校に乗り込んで幼児殺傷をした被告は、ずっと一人で暮らし、車を運転し、結婚を繰り返していた。犯罪を起こした時だけ入院する(そうすると懲役にならない)が、成人した彼を誰一人としてケアしていない。

大阪で若い姉妹を殺した若者は、田舎で母を殺して医療少年院に数年いた後、社会にでてきたが、その後は文字通り一人で暮らしていた。

これは昔の「監視・監禁型対処法」とは対極にある処方だ。誰も彼らの治療、ケア、監視に責任を持たない。人権派の人たちは、監禁には反対するが、だからといって何の解決方法も提示しない。


上記のようなケースの大半でそもそも家庭は崩壊している。親は「成人したから」という理由で子供を放り出し、もしくは、勝手に出ていった子をそのままにしている。

未成年の時に母を殺して医療少年院に入り、数年で出てきて大阪で姉妹を殺傷した犯人は、ある意味では「なんの手だてをも持たない」社会の犠牲者とも言える。

「さかきばら」君と同じように「世間を騒がし耳目を集める犯罪方法」をとっていたら、彼にだってものすごい手厚い「治療・監視」体制がひかれたはずだ。精神を止み、母を殺して家庭とのつながりが途絶え、数年後に(決して病気が治ったと言えない状況で)世間にでてきた青年になにができただろう?

今の社会ってこういう人を「迎え入れる家庭がある」ということを前提に制度ができていると思う。病気で犯罪を起こした息子は、拘置所や少年院から「家庭に戻る」のだと。「家庭が受け入れる」のだと。そういう前提の制度だよね。


でも、実際には多くの人がそういう「帰るべき家庭」をもう持っていない。


そして、もしも家庭が曲がりなりにも存在したとしても、

家庭には

「どんな問題であっても」

「自動的に・内在的に」

「その処理能力がある」

とでもいうのだろうか。


そんなの嘘だと思う。家庭の「平均構成員数」が今の数倍あり、ご近所と親戚とが、個別の家庭と今の何倍も強いつながりを維持していた時代でさえ、家庭は「閉じ込めて隔離する」という方法しかもっていなかった。


「戻るべき家庭がない人」をどうしていくのか。社会で考えないとあかんと思う。


また明日。