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Chikirinの日記 RSSフィード

2007-01-28 人工的な正義への違和感

先日の給食費不払い問題の報道に感じたのと同じような“妙な違和感”があるのが、「あるある」の納豆ダイエットのデータ偽造問題。

関西テレビのトップを辞任させようという動きまででているのだが、なんでこの話が、こんなに大きな問題なのか?というのが、全然理解できないちきりんです。


納豆を食べたら痩せる!と信じていた人なんか本当にいるのか?

あの番組をみて、それを信じたの?

まじ???



って思うんですけどね。そんなこと、皆信じてなかったでしょ。「またまた〜」とか「よくここまで言うね」とか、「こんなデータでそんなこと言えんだろ?」とか、そういう感じだったんではないの?

なんつーか、あの番組自体、「誰もがわかって楽しんでいる八百長」みたいな番組じゃん、もともと。



というわけで、「まじで、あれを信じたんですか?今、関西テレビに怒っている人は」というのが、ちきりんの質問です。

いや、信じるのがアホだとか言ってるんではなくて、なんつーか、みんな「ネタ」的に楽しんでた番組だったのではないの?と思ったんだけど。

たらふく焼き肉食べた後でさ、キムチ追加!とかして、んで、「大丈夫!唐辛子は痩せるんだぜ!」とか言ってる人いるでしょ。あれと同じ気がするんです。まあみんなわかってるんだけど、とりあえず「そーゆーことでいいじゃん」と。

「あるある」で言ってたから納豆でも買ってみるかと。「20分置いてから食べるといいんだよ!」とかうんちく語ってみたりね。ちょっとした家族団欒のネタによさそうだもん。


なんか、それをまるで「私たちは皆、あるあるを信じていたのに、ひどいっ!」って、瞳ウルウル的な抗議をしてるのって、なんなんだと思う。かなり人工的だ。自分の正義感に酔いたい人たちがいる、と思う。あるべきテレビの使命なんてのを、ことさらに強調し、その理想の姿を声高に叫ぶ自分の姿に酔っている人たちがいる。テレビの中にね。てか、テレビの中だけにね。



気象庁がデータを捏造!温暖化は嘘だった!

とか言うなら、怒ればいいけど。



んじゃね。

2007-01-26 続)給食費滞納問題

昨日のエントリに関して、いくつか論点を含むコメントを頂いたので、追加エントリとして書いてみます。


(1)これもまた、“作られた問題”とは言えないか?

今日、給食費を滞納している児童数が10万人だと報道されてました。これが正しいとしましょう。

「子供がいる家庭の平均子供数」というのは2人を超えていますので、(いわゆる出生率が低いのは、子供がゼロの人、結婚しない人を母数にいれた数字だからです。子供がいる人だけで計算すると平均の子供数は2人を超えます。)、この10万人の児童の親(ペア)数=家庭数は、半分の5万家庭ちょいです。

この数字には「経済的な理由で払えない」家庭も含まれています。アンケートの数字では約半分が「払えるけど払わない」らしいので、その数は2.5万組(家庭数)です。(この比率は地域によってかなり偏りがありそうですね。)

これは、義務教育児童がいる家庭の合計500万家庭の0.5%に当たります。つまり、200家庭にひとつの家庭です。

現在、200組に一組の親が「払えるけど払わない」と言っているわけです。いわゆる「モラルのない親」が「200組に一組」です。


親の10人に1人が払ってないとか、2割も3割もの親が払ってない、という話ではありません。0.5%の親が、です。200家庭にひとつです。まずはこれを確認しておきたいです。


あと、今のところ、この数が「増えている」というデータは見つかりませんでした。どうやら「先生の感覚として増えている」と報道されているようです。

生活保護世帯は過去10年で急増してますから、「経済的理由で払えない親」が急増しているのは納得できます。しかし「いや、増えているのは経済的理由で払えない人ではなく、お金はあるのに払わない親の方だ。」と、学校&先生が「そういう気がする」と言っています。

まあ、それを信じましょう。


だとすると、「すんごい増えて」「200家庭にひとつ」なんでしょ。これが本当に今の学校の抱える問題の内、優先順位の高いことなんですかね?


ふーむ


というわけで、ちきりんにはこの問題が例の納豆問題と同じに思えるのです。マスコミはセンセーショナルなニュースをほしがっている。根拠が若干薄弱でも全然かまわない、と。

そして、もうひとつ、この問題は「世の中が悪くなっている!」「はず!!」と言いたい人に、非常に好まれる議論だ、ということです。

何かと「昔はよかった」「最近の親は」と言いたい人に、格好の“都合のよいデータ”だと思います。「ほらね、世の中は悪くなっているだろ。オレの言ったとおりだろ?」と。例の若者悪者論と構造が似てるなあと思います。


(2)払わないなら食べさせるなという主張について


これは本当に理解できないです。親が悪いことしたら、子供が責任をとらないといけないのでしょうか。親が悪いコトしたら、子供がこらしめられなければならないのでしょうか??

たまたま、ひどい親のもとに生まれた子供は、人生を諦めなければならないの??(おっと、給食を諦めなければならないの?、ですね。)


そういう理屈に聞こえるんですけどね、どーもこの主張は・・



親が修学旅行費を払わないなら子供は旅行につれていかない、これ当たり前。親が体操着を買わないなら、子供は体育の授業に参加させるな!親が絵の具セットを買わないなら、図画工作の授業中、先生はそんな親の子供は徹底的に無視して孤立させておけばよい!ってこと?

もし将来、教科書が一部有料化されたら、「教科書代を払わない親の生徒には、授業を受けさせるな!」と。

そーゆー意見なんですかね??



ていうか、この意見の人は「子供に給食を食べさせなければ、親は必ず金を払うはずだ。」と信じているんではないでしょうか。

つまり、「すべての親は子供をかわいいと思っているし、子供を悲しませるようなことは絶対にしない。」と信じている。だから「食べさせなければ払うだろ?」という理屈になる。

とても幸せな環境で育った人であり、とても羨ましいですが・・・世の中の100%の人がそんなに幸せなわけでもないんじゃないかな。

何百世帯にひとつか知りませんが、赤ちゃんに煙草の火を押しつけて虐待したり、一切食べ物を与えなかったり、という親はいるんです。「昼飯ぐらい抜いても死なへん」って開き直る親っていると思う。


世の中にはごく僅かではあるが、一定数「わけわかんない人」というのはいるんです。

いきなり他人を殺しちゃう人がいる、から殺人罪という罪があり、警察という制度があり、拘置所や刑務所があるんです。

「給食費を払わない親がいる」から、さて、どういう制度にしましょうか、という話し合いが必要(取り立て強化でも公的負担かでもいいが)なのであって、「モラル崩壊っ!!」って叫んでてもしゃーない。


でしょ?というのが、ろれるりさんの後段の意見だと思う。ちきりんも本当、そう思う。

ということです。


最後に。日本の教育費への公的負担率が先進国の中で低いのは、ろれるりさんのおっしゃる通りなんです。これ、どの項目が(どの分野の負担率が)低いのかよく知らないので、そのうち調べてみようと思っています。

ただ全体として言えることは、「価値あるものには、きちんとした価格をつけるべき」という話だよな、と思います。

精神論的に「教育は聖域」だから、「金がなくても熱意があればいい教育はできるんだ!」なんていうのはもう通用しないと思う、ということです。

これはまた別問題。



そんではまた

2007-01-25 給食費不払い問題とは

給食代を払わない親がたくさんいるというニュースが多い。とても「嬉しそうに」いろんなニュースが報道してる。見ていて、なんで、そんなに嬉しそうなんだ?って思った。まるで「ほらみろ、世の中は崩壊しているのだ」と報道するのが嬉しいみたい。「そんな馬鹿な親がいるのだ」と報道するのが嬉しいみたい。マスコミってほんと変だ。


滞納費22億円という額がとてもセンセーショナルなのだが、何人分なのか、何年分なのかも報道されず、親全体の中でそういう親が何%いるのかも報道しない。しかもこの中には“払えない人”も含まれている。これじゃあ何の判断もできない。

払わない人の方の理由が「義務教育なんだから払う必要ない」とか「払わなくても食べさせてもらえるので、払う意味がない」とか「そもそもカリキュラムの一部だろ」という感じらしい。

これを「とんでもない(非常識な)親である」と糾弾するむきが多いようなのだが、ちきりん的には「一理あるんでないの?」という気もする。


ちとまとめてみましょう。

「公立の義務教育課程で、何は税金でまかない、何は親が負担するのか?」


<A.税金でまかなうもの>

1.授業料

2.教科書代


<B.親が負担するもの>

3.制服代(私服の学校も多そうだが)

4.給食代

5.修学旅行代

6.副教材費(リコーダー代、習字道具とか絵の具とか本代、体操服、内履き、スクール水着などなど)

7.クラブ活動代(野球、サッカー、その他)

8.PTA会費、子供会?の会費、イベント代(学芸会の一部費用とか)


この税金でまかなうものと親が負担するものの差はなんだ?というのが、ちきりんはよくわからない。これ、親が負担するものって結構な額になりませんか?子供が3人いたら、相当な額だと思うんだが。

だいいち給食は食育だって言ってるじゃん。なら国が払うべきでは?「習字」なんて時間を作っておいて、筆も墨も個人で買えって変じゃない?「体育で泳ぐ練習」するのに、水着は親の負担って何さ?って気もする。

少子化が問題問題と騒ぐ割には、子育てにお金ださない国だよね。育児手当なんかでは副教材も買えませんって額なわけでしょ。変な国だよ。


ちきりんはずっと公立校育ちなのだが、特に中学の時に「非常に幅広い層の家庭」の人たちがいたんだよね。で、その中には教育に全く理解のない親御さんもいて、そういう人は多分給食費も払ってなかったと思う。

でも生徒は給食食べてました。教育的配慮っつーか、食べさせないわけにはいかない。でも、先生には何度も「給食費もらってこい」って言われてた。それを見て、ちきりんは「なんでこんなかわいそうなことをするんだ、親は?」って思った。

もっと衝撃的だったのは、彼が修学旅行に行かなかったことだ。親が修学旅行費を払わなかったからだ。先生は家庭訪問もして「出してやってくれ、こればかりはつれていけない。子供がかわいそうだ」って説得してた。

でも親は「そんな金ねえよ」って感じだったらしい。(ちなみに親御さんの職業はカタギではない世界の方です)お金はもちろんあります。出さないんです、意思として。

息子の修学旅行代なんて、このお父さんの一ヶ月の酒代の半分以下だったろう。でも「無駄な金はださん主義だ」と。

先生は、先生と他の親御さんの間で寄付を募ってつれていこうかとか検討したみたいだけど、そういう親の多いエリアだから、そんな前例を作ってもということでやめたみたい。それ、つまり「やーさんに補助」ってことだからね。

そして彼は修学旅行に行かなかった。


実はちきりんは、彼がお父さんに「おやじ、金払てくれよ」って頼んでるのを見てしまった。彼は泣いてた。すごい威張ってる子だったのに。中学生なのに酒も煙草もやるし、「昨晩の性的な体験」についてえらそーに語ってるような子だったんだよ。

背丈も大きくて先生も(親のこともあるし)あまりタッチできないような子だった。いわゆる不良だし、不良の親分です。

その子が「金出してクレよ。修学旅行行かしてくれよ」って、泣きながら頼み込んでた。でも親は麻雀の牌から目も離さなかった。しらん、って感じだった。


その時、ちきりんは思ったよ。「なんで修学旅行代なんて親に出させるんだ?」って。

「義務教育って、親がどうであれ、家庭がどうであれ、この9年間だけは、すべての子供にきちんとした最低限の教育を受けさせますよ」という私たちの社会の意思ではないのか?


私立でも高校でもない。公立の中学校だよ。必要なものは全部、国がだせよ!って思うんだけどね。

ちなみに彼は高校にももちろん進学していない。高校は義務教育ではないからだ。親と同じ職業以外の選択肢は彼にはなかったと思う。(実際そうなった。)


義務教育とは、最低限の、この国の未来への投資だ。

★★★

今回の給食費も考えてみて欲しい。親は自分なりの信念があったり、モラルがなかったり、様々な理由で払わないと決めているのだろう。でも、おそらくその親の子供達は、学校でとても悲しい思いをしていると思う。

先生に「親に頼んでこい」「もらってこい」とずうっと言われながら9年間過ごすのだ。

かわいそうすぎない??彼らは、彼女らは、毎日美味しく給食を食べていると思いますか??高学年にもなれば、親を通じて友達さえ知っているんだよ。「○○ちゃんって、給食費払ってないんだよね。」って。

9年間、何も憂い無く給食を楽しんだ人たちにはわからないだろう。どんな気持ちでこの子供達が毎日給食時間をむかえているのか。


自分の子供にこういう思いをさせても全く平気な親は一定数いる。スーパーで万引きする手伝いを自分の子供にさせたり、男をつれこんでいる間に子供を家から追い出したり、パチンコするために炎天下の車に子供を放置するような親も、いくらモラルを叫ぼうと、一定数は必ず存在する。

でも、その子供達にはなんの罪もない。


だからこそ、義務教育があるんでないの?

だからこそ公立校があるんじゃないのか?と。

だからこそ、私たちは義務教育に税金を投入すると決めているはずなのに、なんでこんな中途半端なんだ?って思う。


マスコミは「親のモラル」ばっかり責めているのだが、そういう問題か?って気がする。


そんじゃあね。

2007-01-22 “ドルより自国通貨”という国の幸せ

ちきりんはよく海外に出かけますが、海外に出ると日本が素敵に見える、というのはよくある話。反対に、海外にでると日本のひどいところも目につくものらしいが、少なくともちきりんは、「日本より素敵!」と思えた国はほとんどないので、根っからの日本好きなのでしょう。



出張の時、外貨を購入すると、最近は小額紙幣も混ぜたパックを売ってて、たとえば100ドルパックというのは、20ドル札から1ドル札までバランスよく入っています。で、ちきりんはこの中の1ドル札を最初から「お持ち帰り用」として確保し、出張の時は全然つかいません。だって20ドル札を使えばすぐにおつりが手に入るしね。

なんで1ドル札を持ち帰るかというと、個人で(出張ではなく)旅行する国の多くが発展途上国だからです。そういう国では20ドル札は使えない←だって現地通貨を使うべきだからね、本来。一方1ドル札なら、「そのまま使える」という国も少なくない。実は・・・チップにしろなんにしろ「自分の国の通貨より、ドルをもらえた方がうれしい」という国が世界にはたくさんあるんです。

そういう国の物価は基本的にすごく安いので、20ドル札なんかより1ドル札がちょうど便利、というわけです。


この「自国通貨より米ドルが欲しい」という感覚が、昔は理解できなかったのですが、ある頃から、「円でいいよ。別にドルなんていらないんだけど?という日本に生まれ育ったことの価値」、というのを理解するようになりました。

それは、中央銀行や政府が、自国民に対してきちんとした仕事をしている証であり、国民が自国を信じている最大の証、なわけです。日本でも「政治不信」「政府批判」などよく言われますが、実際のところ日本人は自分の国をとても信頼している、信頼できる幸せな国です。(嫌みではなく、本当に幸せなことだと思っています。)

世界には、自国通貨より米ドルがもらえた方が嬉しい!と感じる国の方が、圧倒的に多いんです。北朝鮮やキューバなどの社会主義の国であっても、メキシコやチリやペルーなど南米の国も、インドやパキスタンやらも、アメリカと敵対する多くの中東の国でも、アフリカでも、そしてロシアでも、一般の人たちが「米ドルが欲しい!」と思っているんです。

これらの国には「自国通貨では買えないが、ドルなら買える」ものが必ずあり(時には違法な商品、麻薬とか、の場合もあります)、自国通貨の価値は国家によって恣意的にコントロールされている。もしくは、自国通貨のコントロール権が外国に握られている、というわけです。

そして、「特権階級」とは「ドルを持っている人たち」という意味だったりするのです。

★★★

タクシーに乗ったときに、ドル紙幣を差し出し、「ごめん、現地通貨がないからこれでいい?」と聞けば、これらの国のタクシードライバーで「やだ、銀行で替えてこい」という人はほとんどいないんです。で、これは結構おもしろい「見分け方」です。

実はちきりんは、時々この「実験」をやっています。現地通貨を持っていてもあえて「ドルでいい?」って聞いてみるんです。町の人がどちらを好むかを調べるために。

たとえばバンコクなどは昔はドルで受け取りましたが、経済発展に伴い結構「バーツがいい」という人が増えてきたんです。「ああ、政府の国家運営が成功しているのね」と思いました。

ところが通貨危機とかがあったので、バーツへの信頼は失墜。当時はドルも手に入らず、人は「金」に殺到しました。また今バンコクはクーデターで混乱していますが、これが続くとバーツより金やドルの方がいいと思い始めるでしょう。

あと、バンコクって円への信頼も高い。円で受け取る人もたくさんいます。自分の通貨より日本の通貨を信頼してくれる。こそばゆいくらいありがたいこととも思います。



ちなみに中国人も同じですね。やたらと金を買います。預金通帳にいくら多額の「元」を貯めても意味がないと思っているから。元東欧の紛争地域も同じです。ドルは戦争で焼けるかも?だし、多額になるとかさばります。だったら金!です。自国通貨など持っていても全く安心できないのだから。



自国通貨への圧倒的な信任。それは日本が、押しも押されもせぬ、世界トップ10の先進国であることを意味しています。最近はG7からG8だのG9だの、どんどん拡大していますが、「ドルより自国通貨が好まれる国」は、おそらくこの10ヶ国くらいしか世界に存在しないのです。

ドルを、金(Gold)を貯めておかなくちゃ!という危機感を持たなくていい、安心して暮らせる国、それが、ちきりんの生まれたにっぽんなのでありました。


ではね!

2007-01-20 素人コメントの大きな価値

最近、団塊世代を特集したテレビ番組がやたらと多い。雑誌や本も調子に乗りすぎで、「団塊世代のための資産活用」とか「団塊世代のためのクルーズ入門」とか、枕詞的にやたらと“団塊”“団塊”という。

そんな番組のうちの一つを少し前にNHKで見たのだが、とてもおもしろいやりとりがあった。視聴者参加型の番組で、多くの団塊世代がアンケートに回答を寄せていて、それに基づいて番組が進行する。

ある人が「自分の人生を採点すると?」というアンケート問題に「今までの人生を採点するとゼロ点に近い。結婚、離婚、子供なし、転勤8回、今は緑内障の内縁の妻と同居。こんな人生に誰がした?」と回答した。

NHKが揃えていたパネラーの一人が「誰がしたって、自分の責任でしょう?」と言った。

で、回答者本人と電話がつながる。パネラーのコメントに、その本人の方が反論した。「それはサラリーマンをしたことのない人の言葉ですよね。」と。


なるほどね。


ここで、一気にNHKの番組の欠陥が明確になった。団塊問題とはサラリーマン問題なんです。だって、団塊の世代が60歳になるから騒いでいるわけではない。団塊の世代が“定年”になるから騒いでいるんです、世の中は。

もし、現在の定年年齢が55歳なら、大騒ぎは5年前に起きていたし、定年が65歳なら大騒ぎは5年後に起きていた。今年、この話がピークを迎えて騒がれているのは、定年が60歳だからで、今年から彼らがその年齢になるからです。

つまり、「なんで今年、やたらと団塊の世代が注目されるか?」というと「今年から大量定年だから」です。問題は「定年」です。ということは、自営業の人には関係ない話です。


実際、今年60歳でも(まさに団塊世代なわけですが)、自営業の人は別に騒いでいないと思う。いきなり60だから隠居しよう!とも思わないでしょう。

自営業の人が引退しようと思うのは、病気をして体力的に限界とか、一定量の資産がたまったとか、息子が継いでくれてるから別にやりたい趣味があるとか・・・年齢以外のことで引退時期が決まる。


で、話を戻すと、それなのに、そのNHKの番組にパネラーとしてでていたのは・・・30代の漫画家、団塊世代の漫才師、団塊世代の映画監督、多分同世代の経済評論家・・・全員自営業やんか?という状態だったのでありました。

「あ〜、こりゃあかん」とちきりんはじめ、多くの視聴者が思ったことでしょう。あのアンケートの回答をした人は、全国テレビの生中継で、極めて鋭いコメントをしたわけです。「なんでサラリーマンの定年問題を、自営業の人だけで話し合ってんのん?」と。

これ、超おもしろかった、です。

★★★

というわけで、NHKも次回からは「今年NHKを退職する団塊世代のスタッフ」を出演させて番組を作った方がいい。そしたらまさにリアルな番組になると思いました。

実際この「定年問題」ってのは、サラリーマンと自営業で全く“受け止め方”が違うよね。そもそも自営業には「定年」という概念がない。「隠居」「引退」であって、定年の“定”められた年ってのはないわけです。

だから自営業の方が圧倒的に「自然な判断」がなされるよね。各自が自分の健康や経済状態、家庭環境に合わせて判断する。サラリーマンは画一的に「○歳ですから」で決まるんだもん。

しかも、サラリーマンはお金について「異常なこと」が起こる。定年前は「給与=定期的な収入フロー」だったのに、定年後は「一時金ドカン!」と「年金」に変わる。

この「一時金ドカン」というのが、すごい特殊なわけです。

実は世の中が「団塊団塊」と騒いでいるのは、この「一時金ドカン」があるからだよね。給与が年金に変わるだけなら、「時間をもてあます老人*1が大量発生!」という問題にすぎないのだが、退職金のおかげで「今まで見たことない額のお金を手に入れる人が大量発生!」という事態ととらえられている。

で、世の中大騒ぎ。基本は退職金狙いビジネスが大騒ぎしている、ってことだと思う。実際、暇な老人がたくさんでてきます、だけではここまで騒がないのではないかな。

などと思いました。


というわけで、世の中ひょんなことから本質的な課題が浮かび上がることがあるよねと思いました。

あのコメントをした団塊世代のおじさんは、大きな価値ある発言をしたと、思います。今後も自営業ばっか集めて定年退職問題の番組を作るとしたら、NHKってやっぱり○○だ、と思うよね。


んじゃね。

*1:60歳が老人ではない、云々のコメントは別課題ということで・・

2007-01-19 移動中の映画・雑誌

着いた。


飛行機の中でみた映画は「メトロ(地下鉄)に乗って」。これは予想外によかったです。

ちきりんがいつも使っている地下鉄永田町駅がタイムマシンへの入り口になっていて、そこを通ると、自分が子供だった時代(昭和39年、オリンピック年)や、父親が若かった時代(戦中)に戻ることができる。

その中で、自分の父親の生き様を見て、すごい毛嫌いしていた父親を理解していく、という物語。その父親の生き様ってのも、「生き様」というほどのものではなくて、戦中、戦後を生き抜いた人なら、まあ、いろいろあるでしょう、という程度のもの。

なんだけど、それを見て、自分だって子供から見ればなんの憂いもない馬鹿な親父かもしれないけど、実はいろいろあるじゃん、と。だったら、親父にだって、おふくろにだって、いろいろあったはずじゃん、と。そういう普通のことが理解できるようになっている。

傾向として「私はいろいろある」けど「周りの人はなんも考えてない」とか、「俺はいろいろある」のに「周りの人はわかってくれない」的な思考の人にあっている映画だと思った。「みんな」「いろいろあるのだ」とわかる。

涙腺弱いちきりん、ずっとぐじゅぐじゅになりながら観てました。本当によい映画だったよ!




★★★

もうひとつ、久しぶりにSPA!熟読。SPA!って超適当な記事が多いのだが、センスがいいのだわ。今回うまいな〜と思ったのは、「非正社員の中の格差」と。正社員と非正社員ではなくて、非正社員の中に、収入やスキルや希望の面でいろいろ格差があるという話。なかなかいいセンスの記事でした。


加えて、対談ページで「“夢”を禁止にしろ」という発言もあり、これも超おしゃれで、的確にポイントをついていて素敵な発言だと思った。

趣旨としては・・・あの妹を殺した歯学部の浪人生は「お兄ちゃんは夢がないね」と言われて激怒していた、という話を引きながら、同じような事件がいろいろあるでしょ、と。でも実は「夢なんてなくていいじゃん」と。夢がない人生はまるで罪悪のように受け止められるのはおかしいでしょう、という趣旨です。

これ、ちきりんもそー思う。


やたらと「夢はなんだ?」とか聞く人、勘弁してほしい。「夢を持たなくちゃ!」とか説教する人もヤダ。

悩んでいる若者に「おまえの夢はなんだ?」と聞くのって、そろそろ「犯罪」として構成した方がいいんじゃないか?とさえ思う。

人生に生きること以外の「意味合い」を求め、その「意味合いの強弱」によって人生をランクづけるような思想(充実した人生、とかね)は、病気の思想だと思う。


まっ、というわけで、SPA!とちきりんは感性が合う。なんでだ?全然ターゲット層と違うんだけどね。


そんじゃあね。

2007-01-14 非規範的環境

先日書いた「東京と地方の違いは、平均点の高低ではなく、ばらつき度合いの大小だ」という話の続きです。ばらつき度合いが大きいということは、多様なものが混在しているということです。そして多様なものが混在しているということは、「自由である」ことを意味します。

結婚しない女性を「売れ残り」と呼び、男性の場合なら「一人前ではない」と断じるのは、「結婚するのが普通であり、それ以外は普通ではない」という意識があるからです。でも、結婚する人、しない人が混在してくれば、どちらが普通でどちらが普通でない、という感覚はなくなります。多様性は自由度につながるのです。

性的な嗜好、職業の有無や選び方、お金や時間の使い方、家族の形態など、何をとっても、その地域にいる人の選択や性向が多様であればあるほど、個人の自由度は高くなります。生活スタイルのあらゆる面において圧倒的な自由度があること。これこそが大都市が人を引きつけ、膨張し続ける一番の理由でしょう。


自由度が高いということは別の言葉でいえば、「こうあらねばならない」という規範性が低いと言うことでもあります。画一的な人の多いエリアでは、「こういうプロファイルの人は、こうであるべきだ」というパターンが強固に残っています。学生は学生らしく、金持ちは金持ちらしく、男は男らしく、という感じです。

この規範性の高さが人の行動を縛ります。田舎の方が早く結婚すること、女性の喫煙率が低いことなどは、住んでいる人の性格によるものではなく、住んでいる地域の規範性の高さを反映しているのではないでしょうか。

また、規範によってプロファイルごとに生活スタイルが画一的なエリアでは、「高級スーツや高級車」と「ユニクロのTシャツ」は売れても、「ブランドもので2万円のTシャツ」はなかなか売れません。なぜなら「大金持ちなのに、Tシャツで働いている」という人がいないからです。良くも悪くも、人はパターン化されたスタイルで暮らしています。


一方、自由度の高い大都市では、そこに暮らす人は「自分であること」を問われます。上から与えられる規範がないため、「あなたは何者なのか?」と問われるのです。「私は大学生だからこんな感じ」、「サラリーマンだからこういう生活」という規範があれば、自由度はないけれど、選択する必要もありません。しかし自由度が高ければ、それぞれが自分で自分のスタイルを選ぶ必要がでてきます。

同時にそのスタイルを選んだ理由についても問われます。「なぜ働いているの?」「なぜ結婚するの?」というような、規範性の強い社会では、当たり前すぎてほとんど問われることのない質問さえ発せられることがあります。

こうしたことに、めんどくささや、とまどいを感じる人も沢山いるし、そもそも「自分でゼロから自由に選べと言われても困る」人もいます。周りが気になって自分の選択に自信がもてなくなったり、何かつらいことがあるたびに自分を責める人もでてきます。規範から押しつけられた生活であれば規範や社会に文句を言っていればいいですが、自分で選ぶと逃げ道がありません。それはそれでつらいことです。


また、「同じプロファイルの人は同じ生活スタイル」というパターンがないと、地域の半強制的なコミュニティが生まれません。30代〜40代の男性が全員で参加する祭りや消防団活動もないし、“近所の子供全員が通っている学校”のPTA、親の会もありません。

すると人は自分が所属するコミュニティを自分で探さざるをえなくなります。気に入ったコミュニティがなければ、自分で形成する必要があります。でも、そういうことが面倒な人も、不得意な人もいます。だから多くの人がお金を払って習い事をすることでコミュニティを見つけようとするし、時間的、経済的にそうする余裕がないと、“所属する場所”が会社以外に見つけられなくなります。

“都会は孤独”というワンパターンな言い方は、こういうところから来ているのではないでしょうか。同じプロファイルの人に同じ生活パターンや特定コミュニティへの帰属を求めてくる「おせっかいな他者」が存在しない場所では、人は簡単に孤立してしまいます。


というわけで、東京のような大都市での生活を楽しめるのは、

「圧倒的に自由度の高い非規範的な環境を楽しめる“確固たる自分”の持ち主」であり、

「個人でコミュニティを形成してしまえる程のバイタリティの持ち主」だということなのでしょう。


んじゃね。

2007-01-08 違いは「ばらつき」

大都市、たとえば東京が他の都道府県と比べられる時によく言及されるのは、その平均値の高さです。平均所得が高いとか進学率が高いなど。また男女とも初婚年齢がかなり高い(遅い)です。

たしかに東京の“平均値”は他よりかなり高い(もしくは低い)場合が多いのですが、ちきりんは“大都市の特徴”は、それらの数字の高さ、低さではなく、寧ろその“バラツキの大きさ”にあると思っています。

たとえば大都市は概して平均所得が高いですが、同時に生活保護率も高いしホームレス数も多いです。平均所得が高いといっても必ずしも「豊かなエリアである」とは言えません。また、高級住宅地と言われる田園調布や成城でさえ、六麓荘(芦屋)に比べれば慎ましやかに見えるおうちが多いですし、東京の高級レストランで食事をする方が、京都の老舗料亭で遊ぶよりはよほどお会計も安心でしょう。

東京は豊か、金持ちのエリアというより、「金持ちも多いが、貧しい人も多い」エリアであり、その特徴は、「ばらつきが大きいこと」という方が正確なのです。


東京のばらつきの大きさ、多様性は、統計のとれる経済的な面だけではなく、様々な面で圧倒的に思えます。優秀な人からクレイジーな人まで、おしゃれな人からダサダサな人まで、24時間働く人から一生働かない人まで幅広く揃っているのが大都市です。

身近なところで言えば、東京で“関西風うどん屋”を探す方が、大阪で“関東風のうどん屋”を見つけるよりは簡単でしょう。関西人の大半は東京のうどんつゆの色を「(濃すぎて)許せない」と言いますが、東京ではどちらを楽しむ人もいます。この許容度の広さ、幅の広さが大都市の特徴であり魅力です。

これは他国でも同じで、NYの多様性、上海のばらつきの大きさは、それぞれの国の他都市とは比較できないレベルに達しているように思えます。

★★★

大都市の多様性の“源泉”は、その構成員が「多彩な場所から集まってきている」ことにあります。“東京は田舎モンの集まり”とよく言われますが、まさにその通りで、これが東京の多様性の源泉です。

反対に地方は「どんどん画一的になる運命」にあります。なぜなら「生まれたそのエリアが大好きな人」だけが、大人になってもそのエリアに残るからです。そうでない人は、より大きな都市に出て行って帰ってきません。こうして、大都市はますます多様性が増す一方で、人口の流出エリアでは「その地域が大好きな人だけ」が残り、年々画一性が高まるのです。


また、一定以上多彩な地方から恒常的に人口流入があると、“画一的なものが形成されない=多様性の排除ができない状態”になります。たとえば関西や名古屋に他地域の出身者が転勤すると、その地域への同化を求める非常に強いプレッシャーがかかります。地元の人とヨソ者の比率に大きな差があるからです。

でも東京では、新しく入ってきた人を“東京諷に染めよう”というプレッシャーをかける人は多くありません。なぜならそもそも周りの人の多くも“つい最近、東京にやってきたばかり”なので、他人にそんなプレッシャーをかけるほどのものを持っていないのです。

というわけで地方はより強固にその地域性を維持し、一方で他者に同化プレッサーをかけない大都市では多様性がそのまま維持され、それがより一層多くの“変わった人”を引きつけることになるのです。

NYなどは米国中だけではなく世界から人が流入するため、極めて多様性が高く、そこで暮らすために英語を話すことさえ必須ではありません。そのためますます世界中から多様な人を呼び込むことになっています。


このバラツキの大きさと、多様なものをそのまま許容する環境が大都市の特徴です。そしておそらく現代の大都市だけではなく、歴史上の大都市、たとえばローマやイスタンブールや西安などでも、同様だったのではないでしょうか。


さて、この「大都市の多様性の高さ」が何を意味するのか?について、もう少し考えてみたいのですが、今日はちょっと時間がないので次回に続く、にさせてください。


そんではね。

2007-01-05 崩壊

今年のテーマはなに?と考えてて、「崩壊」じゃない?って思った。

暗いですかね?ちきりん的には特に暗いというイメージはないんだけどね。崩壊って、その次に全く新しいモノがやってくる!という感じもして、必ずしもend of the worldではないと思ってるから。

少しずつ壊れていくよりガガンと一気に崩壊するのって、小気味いいし、次への展開も早そう。

日本ってソフトランディングを好む国ですが、どうやら今年は「崩壊」の年なんじゃあないかしら?というのが、ちきりんの見立て、というか、予想です。


「何が」崩壊するのか、という崩壊する主体の方に話を移すと・・・

(1)地方

(2)貧困層

(3)伝統的家族観

(4)?


(1)昨年を代表するニュースは、北海道の夕張市の破綻だったと思っているちきりんです。これは、「新しい時代の幕開け」だと思う。これから、地方はどんどん壊れていくだろう。平成の大合併ってのがあったでしょ。あれが終わった後、どんどん潰すってのが既定路線だったと思う。

今まで(田中角栄的価値観のもとに)、「地方も東京と同様の発展をすべきである!」という考え方があったと思う。できてたかできてなかったかは別としてね。それが、なくなるでしょう。地方はもうあきらめる、ということになるんだと思う。

東北や山陰等の小さな行政区はもちろん、関西などでも破綻する行政区がでてくるだろう。これが一番大きな破綻の主体だと思います。


(2)今ぎりぎりでぶら下がり生き残っている人たちの多くが「貧困層」として、「線より下」に落ちる一年になると思う。生活が破綻する人たちが相当数でるだろうと予測する。

消費者金融の多重債務の人たち、無年金で老年を迎え健康を害する人たち、ぎりぎりで暮らしていたのに社会負担の急増と金利上昇とその他の突発的な事象によって線を越えてしまう人たち・・・

昨年までは「格差」という言葉が流行っていましたが、これはある意味「甘い」言葉だと思う。「格差」はあるが、その「下の方の人」もきちんと生活できていたという感じだ。

でも、下の方の人たち、生活できなくなると、問題は格差ではなく「貧困」に変わるよね。


(3)伝統的家族観も、いよいよ崩壊かね、と思います。何が伝統的なのさ?ってのも、よくわからないんだけど、たとえば「親は愛情をもって子供を育てる」とか「夫婦制度を維持する」とか「親の面倒は子供が見る」とかですよ。

そういう伝統的な考え方はもう維持不可能だと思う。個人より家族が、一家族よりコミュニティの存続が、コミュニティより行政単位が大事であった時代の遺産だよね、伝統的家族観てのは。

今は、一番大事なのが「個人」なのよ。自分が楽しく生きたい人ばっかりだ。それは悪いことではない。でも、こっちが一番大事になれば、当然、家族やコミュニティは「個人の自由を阻害しない程度に尊重される」ということになる。


昨年は「親が子供を虐待した」とか「子供が親を殺した」とかいう事件に皆が驚いていましたが、今年は「あまり皆驚かなくなる」のではないかな。崩壊ってそういうことです。

★★★

それ以外にもいろんなものが崩壊しそうだな、とは思っているのですが、それはまたそのうち。


最初にも書いたけど、崩壊は悪いことではない。でも慣れ親しんだモノが決定的に消えていくのを見るのは、人にとって(特に年をとった人にとって)悲しかったり、感慨深かったりはするだろう。

ちきりんは混乱、変化好きなんで、崩壊も悪くないんではないかと思ってる。ちょっと楽しみな一年でもある。


そんじゃーね!

2007-01-03 同窓会にて

本日は高校の同窓会でした。うちの高校はどの学年も卒業後5年ごとに同窓会を開きます。

最初の同窓会は就職して1年目で、この会のみ高校側(先生)が企画してくださり、その後は、地元に残っている人を中心に有志の事務局が結成されます。

日程が1月2日か3日のいずれか、場所も駅前のホテル、とほぼ同じ。これは、うちの高校の「定番同窓会」なんで、ちきりんの学年だけではなく全学年が5年ごとにやってます。

つまり・・毎年、卒業後5年目、10年目、15年目、20年目、25年目・・・の同窓会がほぼ同じような日程でほぼ同じようなホテルで行われている状態です。


この「5年ごとの定番同窓会システム」は、非常によくできたシステムです。まず、同窓会ってのは「突発的に企画する」のはとてもめんどくさい。誰かひとりが「やりたーい」って言い出しても、まずは企画を手伝ってくれる有志を集め、いつどこでやるのか、連絡はどーするのか、とか、イチから考えないといけない。


でも、「常に5年ごとの新年の2日か3日、会場は駅前のホテル」と決まっていれば、一番基本的な問いである、

「やるのやらないの?」

「いつやるの?」

「どこでやるの?」

が、最初から決まってる。とっても話がスムーズになります。


出席する方もそうですね。毎年だと結構飽きます。でも5年ごとだと、久しぶりだし行ってみようかな、という気がする。すでに、この故郷の街に拠点のない人も多いのですが、5年に一度くらいなら日帰りで東京からでも来てみるという人もいます。

で、ちきりんも高校の同窓会だけは皆勤賞。小中学校はたまーに行われる同窓会に行ったり行かなかったり。というか、行けなかったりします。この1月の2日か3日というのも、とてもよく考えられている。

「正月には故郷に戻る人が多いだろう」ということですね。うちの高校は公立なんで、みな実家は近くの校区内。仕事の関係で遠くにいても、正月くらいは戻ってくる人が多い。しかも1日は忙しい。でも2日か3日なら、ってことですね。


その市には公立高校が5校くらいあると思います。他の高校がどういうシステムなのか知りませんが、上記のシステムを売り込めば、ホテルはそこそこ儲かるのでは?と思う。毎年安定的に、ほとんど営業コストゼロで、宴会部屋が半年前に予約で埋まるって悪くないでしょ。

公立中学もあるし。このシステム自体を売り込むべきだよね、と思います。他の田舎のエリアでも使えますよ、これ。

なお、私立高校もいくつかありますが、私立だとこれは難しいだろなと思う。実家が遠い人が多いでしょ。公立ってのは、実家が一定エリア内にあるってのに加え、地元の会社のボンボンとか、地元で公務員になるとか開業するような人も多い。こういう人が一定数いないと、同窓会は開けないのだよね。

★★★

で、今日行ってみて思ったのは、「これぞ究極の格差だよな〜」ということ。それは・・・先生の元気さについてです。当時ちきりんが教えてもらっていた先生方。何名か来てくださっているのだが、みんな元気!

「今年75才です。母親が今年97才で・・・」とか、

「趣味はつりに登山に絵画で、」とか、

マイクを握りしめ、驚くほど長いスピーチしたりとか・・


・・・

長生き、で、健康で、エネルギーに溢れてて、たっぷりの年金をもらいながら悠々自適。別に悪いことではなく、非常にすばらしいことではあるのですが、それにしても「すごいなあ」って感じでした。

前にも書いたと思うけど、ちきりんは自分が長生きできると思ってない。だから、今日は「すごいなあ」と思いました。こういう「人生90まで楽しむ」という人と「40くらいから枯れていって60までもちません」って人って・・・人生が30年くらい違うのよね。これって、大人になってから考えると「人生倍!」みたいな格差だ。


実際、ちきりんの同窓生でも鬼籍に入る人が毎年いる。40代、50代になると、亡くなる人ってそれなりの数になります。40で亡くなれば、20才から数えて人生20年です。でも80才まであんな元気だと、同じく20才から数えて60年。これぞ、究極の格差だと思いました。

経済力なんてたいした問題ではないと思いませんか。人生の長さがそんなに違うことに比べたら?

大人になってから生きている年数が20年と60年だと、人生で成し遂げられること、感じられることの量が、相当程度、違う。人生の密度なんてたいして変わらないから、この差はほんと「3倍」ですよ。


人生短そうなちきりんは、毎日楽しく感謝して好きなことだけやって生きていこうと決めている。仕事ももう適当でいい。死ぬときにお金が余ってるって「すごい無駄」と思う。最後の1000円を使い切った日に人生が終わったら、すごく「無駄がない」のだが。

そういう悲痛な思いで(?)人生を謳歌しているちきりんにとって、70,80までお元気そうな先生方の姿は・・・ほんと一種のカルチャーショックでありました。

「世の中には、こういう特権を与えられてる人たちがいるんだよな〜」と、つくづく思いました。


かなわないよなあ。


と。


いやいや、先生方、みなさま・・・お元気で。


そんじゃまた!