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Chikirinの日記 RSSフィード

2007-08-25 大事なものはコストで決めない。

居住用不動産について「購入か、賃貸か」という比較や論争をよく見ますが、その大半が「お金の比較」であることに、ちきりんはいつも違和感を覚えます。

「自分の住む家って、大事じゃないの?」と思うからです。そもそも人間は、大事なものは経済的比較で選んだりしないんですよね。「経済的な比較で決めるものは、大事じゃないモノ」だけなんです。


例えば、結婚相手を選ぶ時に「こいつと結婚したら、一生で費用がいくらかかるか」とか「この人なら5億は稼いでくれるわ」とか考えないですよね。

誰かと友達になる時も同じです。職業を選ぶ時だって「医者になれば一生で○○億円儲かるから僕は医学部に行く」と真剣に言う高校生はいないでしょう。

つきあう相手とか友達、職業など、人生において一定以上重要なことについて、人は「経済的理由を考慮はするけれど、決め手にはしない」のが普通です。


だから、自分が住む家についても、それが自分にとって大事なことであるなら、経済的な要因以外に重要な基準があってしかるべきです。

ところが、不動産の購入か賃貸かの議論に関しては、その大半が「買った方が得かどうか」であって、「非経済面の比較」を見かけるのはとても稀です。なので今日はそれについて書いてみます。


<不動産保有のメリット>


(1)内部使用方法の自由さ

賃貸にはリフォームの自由度がありません。中古マンションを買えば丸ごとリフォームできるし、新築一戸建てならゼロから設計できます。


(2)ローン終了後はキャッシュフローに縛られない

ローンが終われば、「いつ失業してもホームレスにはならない」という安心感が得られるし、「嫌な仕事に我慢せず、給与は安くても好きな仕事を選択する」ことも容易になります。

過大なローンを抱えては意味がないですが、10年以内に返済が終わる程度の中古で小さな部屋を手に入れるのは自由な生活へのワンステップとなるでしょう。


(3)高くてもお気に入りの家具を使おうと思える

ちきりんは、ソファを買った時に玄関から入らないのでベランダの下からつり上げてもらいました。賃貸だったら玄関から入る大きさのソファしか買わなかったと思います。賃貸だとどうしても「仮住まい」的な発想になるから、思い切った投資ができません。


(4)コミュニティに投資しようと思える。

ずっと住む場所と思えば、コミュニティへの参画とか、近所づきあいもする気になれると思います。



<不動産保有のデメリット>

(1)移動の困難さ

ストーカーにつきまとわれたり、迷惑な隣人がでてきたり。また近隣地が荒廃してきたとか、そういう時に引っ越すのが大変です。

特に、隣人が時々テレビで報道されているような迷惑おばさんだったり、向かいの一戸建てに庭にがらくたを大量に集める変人おじさんが出現したら、引っ越そうにも借り手さえ見つかりません。

ローンが残っている不動産で、貸せない、だから住み続けるしかない、という状況でこれは、かなり厳しいですよね。大きなリスクです。


(2)形有るものを保有することによる一般的なリスク

形あるものは必ず壊れます。大地震は、買った翌日に起るかもしれません。地震保険でもすべてが補償されることはごく稀です。


(3)買い間違うリスク

「人生で初めてコレをかった」という場合、その購入の選択はたいていほろ苦いものです。人生で初めて自分で選んだ服、靴、車、パートナー、仕事・・。だいたい間違っていませんか?

最初の購入では、自分がホントは何が欲しいのか、何に気を付けて選べばよいのか、なかなかわからないものなんです。不動産だって本当は「3軒買って初めてわかる」のかもしれません。


(4)コミットリスク

メリットの反対です。一度なにかあれば、近隣の人はいつまでも「あの家は昔・・」と言い続けます。また、気の合わないご近所の人がいても、将来を考えればあからさまな喧嘩はできません。いやいやながら付き合っていくしかないのです。その点、賃貸なら引っ越して逃げ出すのも簡単です。


さてこう考えると、自分がなぜ「マンションを購入しよう」と思ったのかもわかります。

ちきりんは「自由度」が欲しかったのです。好きに改装して住める自由度、(ローンさえ終われば)いつでも仕事が辞められるという自由度、そして、好きな家具などを心おきなく揃えられる自由。

そして、その自由度への希求度合いと、不動産を保有することのリスクを比較して買うことにしましたた。


つまりちきりんがマンションを買う時に比較検討したのは、「得られる自由度」と「保有することのリスク」であって、「一生の間にかかる費用」を賃貸と購買で比較して、購買のほうが得だと思ったからではありません。

多くの人は、大事なことについてコストで決めたりしていません。「家賃を払い続けるのがバカらしいから家を買う」という考えは、「光熱費が節約できるから結婚する」というのと同じです。そんな大事なことを「費用の比較」なんかで決めてはいけないのです。


んじゃね。

2007-08-23 どっちが正しいか

若い人が言う。「大人の言うことは信じられない」「自分たちの生き方を押しつけるな。」

大人達が言う。「時間がたてばお前にもわかる」「お前のためを思って、言っているのだ。」


たとえば、勉強が嫌いな中学生の息子に親が言う。「勉強しろ」

子供が言う。「勉強なんか嫌いだ。得意でもない。大学なんか行かない。」

親が言う。「お前は世の中がわかってない。大人になればオレに感謝するだろう。とにかく大学だけは行っておけ。」



たとえば、離婚したいという娘に母親が言う。「夫婦は耐えるものなのよ。」

娘は言う。「もうだめ。我慢できない。この人と一生を過ごすことはできない。」

母は言う。「私も(あなたの)お父さんと何度も別れようと思ったのよ。でも、あなたも年をとったらわかるわ。あの時、別れなくてよかったと。」


どこにでもありそうな一般的な会話です。「大人の言うことは嘘ばかり」と思う若者に、「若者は世の中がわかってない。」というシニア。

これ、どっちが正しいのか?

というのが今日のテーマ。

★★★

まず直感的に「どっちも嘘はついてない」と思う。若者の「論理」も正しいし、シニアの「経験」も正しい。お互いに「正しいと思って言っている。」

ちきりんは昔は、これは「論理と経験のぶつかり合い」であり、したがって、包括的にみれば「シニアの方が正しい」と思っていた。だって世の中は論理だけでは動かない。実際に何が起るかを体験してからモノを言っているシニアの方が、論理で「こっちが正しいはず」と主張する若者より「現実的には正しいだろう」と思っていた。

でも今はそうは思わない。「若者が言っていることの方が正しそうだ」と思うこともたくさんある。つまり「どっちが正しいのか?」という“主語・主体”の問題ではなく、「何について話しているか」という“対象”側によって、若者が正しい場合とシニアの方が正しい場合にわかれるのだ、と気がついた。


では、「何に関しては若者の方が正しく」「何に関しては、シニアの言うことの方が正しいのか?」

その分かれ目は「数十年以内で変わること」と「変わるのに百年はかかること」だ。

数十年で変わることについては、年配者のアドバイスは無用などころか、誤りを誘いさえする。30才で生んだ子なら、自分とは30年は違う時代を生きることになる。したがって30年以内に変わることについては、親の経験に基づいたアドバイスは役立たない。

たとえば教育制度、雇用制度、結婚のトレンド、経済制度などの社会的な制度や枠組みは30年もたてばすっかり変わってしまう。今から30年前の1970年代後半には、一流大企業がリストラをするとは誰も思ってなかった。大学が生徒集めに必死になる状況も想像できなかったし、バブルが来るとさえ誰も思っていなかった。

ちなみに「百年変わらない」というのは1907年(明治40年)から今まで変わってないってことです。「そんなに長い間、変わってないことが何かあるのか??」と思うほど昔です。

社会慣習や社会制度などにおいて、こんなにも長く不変ということは余り存在しない。しかも変わるスピードはどんどん速くなっている。つまり、大半の“社会的な常識”は数十年で変わってしまうのだ、と思った方がよい。

というわけで、両親や先生、もしくは、40才も年上の会社の経営者の方が言う「大学だけはでておけ」とか「籍だけはいれるべきよ」、「○○業界は将来有望だ」、「とにかく若い時は我慢しろ」みたいなアドバイスは、必ずしも有用とはいえない。

★★★

じゃあ百年変わらないこととは何か?

百年変わらないことの多くは「人間の本質」に関わるようなことだ。生まれて、成長して、成熟して、老いて、死んでいく、というサイクルは千年単位で変わらない。

また、嬉しいとか好きだとか楽しいとか、反対に、羞恥心、嫉妬心、憤りのような気持ちも変わらない。人間の感情のありようが太古の昔から変わってないことは、歴史を見ればよくわかる。

つまり、社会制度ではなく人間の“生物としてのサイクル”や“感情や心”に関わるようなことは百年たっても変わらないから、そういうことに関しては、シニアな人が言うことをよく聞いておけば役に立つ。


昨日、薬害訴訟の元原告で今は国会議員の川田さんが記者会見で、「中学、高校の頃から“いつまで生きられるか”と考えつつ生きてきた」とおっしゃっていた。

そんなこと、普通の人は中学、高校時代には考えもしない。しかし70才になれば死を意識しない人は寧ろ少数派になる。つまりシニアな人の多くは、「死」というものを意識した時に人はどのような心持ちになるのか、人生はどうみえるのか、ということを知っている。

それは、大半の健康な若者にとって考えたこともない、未知の世界だ。が、それは将来必ず自分にも訪れる気持ちの変化、人生への姿勢の変化なのだ。若い頃からそのことを意識しておけば、生き方が変わることもあるのではないだろうか。

また、「親が子供にどんな気持ちをもつものなのか」「大事な人を失ったら、どういう気持ちになるのか」、そういう“人間の感情”も若い時には想像がしにくいが、いずれは誰もが感じることになる感情だ。

「年をとらなければわからないことがある」というのは、事実なのだ。


というわけで、

<本日の結論>

人生の先輩方へ:後輩へのアドバイスは、“人間として”“人との関わりにおいて”どうすべきかという点に絞って与えてください。社会について、仕事についてのあなたのアドバイスは、残念ながら多分役に立たないです。そういうことについては、若い人が若い人のやり方でやるのを、信じてあげましょう。


人生の新米の人達へ:人生の先達が、勉強や仕事などについて何かもっともらしいことを言ってきても、おそらくそれらはあなたの人生には関係がありません。

でも、人として、人との関わりにおいて、こうなのだ、という話があれば、それには謙虚に耳を傾けましょう。ずっと後から、あなたもそのことがわかるでしょう。



なんだけど、更に一歩進めるともうひとつ大事なことが見えてくる。それは、

「人として、人との関わりにおいて、生きてきて、学んでこなければ、後輩に残せる言葉はひとつも得られない。」ということだ。

いくら“社会的に”様々なキャリアを積み、ビジネスで大成功しても、“人”として、体験し、感じ、成長してこなければ、何も誰かに伝えられない。


つまり「仕事ばっかりしてたらあかんのよ」と、いうことだ。子供や親や友人や同僚と人として向き合い、ポジティブな感情だけではなくネガティブな経験や感情も含めて、“人として”感じ考えたことが、次の世代の誰に伝える価値のあるなにかを生む。


これがわかったのは、実は結構、役立ったかも、と思う。


じゃね。


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2007-08-21 朝青龍問題の本質

どっかの市職員で、市長が音頭をとった「メタボ対策チーム」に入り、太った体で真夏の朝からジョギングしてて突然死された方がありました。

かたや、高齢でヘビースモーカーのタレントが24時間走るという無謀なイベントに視聴者の半数がチャンネルを合わせる。

この国の人が、「スポーツに対して何を期待しているか」ということが非常によくわかる事例だと思います。


日本がスポーツに求め続けるもの、それは「根性」です。もしくは、「さわやかさ」とか「スポーツマンシップ」と呼んでもいいけど。

これ、アメリカだと「金と成功」ではないでしょうか。南米でもそう。「栄光と経済的な成功」。ロシアや中国など大国主義の国にとっては「国家の威信」でもあるでしょうし、北朝鮮では「特権」であり、「生きる術」とさえ言えます。

ベッカムのように、労働者階級の学も常識もない若者が、超人気スターと結婚し、貴族のようなお城に住める。それが、スポーツが世界の頂点を極めた成功者に提供している価値なのです。


っていうか、実は日本でも、長らくスポーツは「金のツール」にすぎません。しかしながら、この国は「金の臭いのするもの」をやたらと嫌うのです。

間違いのないように。「金」が嫌いなわけではないんです。。「金の臭いのする金」が嫌いで、「金の臭いのしない金」が大好きなんです。

★★★

高校野球があんなに人気なのは、金の臭いのしない、巨額の金脈だからでしょう。オリンピックも「アマチュア精神」という隠れ蓑があるから大好き。頑張るマラソンランナーの笑顔のCMに、何千万の金が動いていることが見えないから、汗と努力しか見えないから、みんな大好きなのよね、

貧しくても高貴であれ!というのは、歴史的に長い教えだからなのか。儒教か、神道か、武士道か知らないけど、とにかく、やたらと信じられ、根付いてる、と思います。

イチローも松井も松阪も、「世界の頂点を目指したい」と匂わせて渡米したから「許せる」けど、もしも、「なんで僕の実力で、年に2億円しかもらえないんですか?」と言って渡米していたら、皆、彼らを罵倒するはず。

「かっこが大事」です。

★★★

朝青龍はちがうんだよね。この国の長い歴史にはぐくまれた価値観など持ってない。彼にとって相撲というスポーツは、ブラジルのサッカー少年にとってのサッカーと同じです。「貧しさから脱出し、富と栄光と権力と人生の意義を手に入れるための手段」なんです。

言葉も通じない国に来て、ようやく頂点を極めたんです。実力社会を実力でのし上がった。ようやく目的が達成されたのに、「一生清貧でいろ」というわけ? 「清貧である振りだけはしろ」と?

彼はそんなの待ってられないよ。彼の一族、親族や友人、故郷の仲間達がみんなして、彼が手に入れたその富を分けてくれるのを待っている。なのにそれを責める日本の相撲界、そして、相撲ファンだという人達。


なんで、最近はもう日本人の大関も横綱も登場しない? なんで日本人が相撲取りにならない?

簡単です。昔は、東北地方の「食えない農村」が相撲取りを輩出していたからでしょ。今は、東北でも「食える」から、誰もあんな生活をしたいと思わない。中学を出てすぐに親元を離れ、先輩力士からの理不尽な修行を受けたいと思う人はもう日本にいないからでしょ。

今までの日本人だって、「貧しいから相撲取りを目指していた」だけなんです。国技だからでも武士道に感動したからでもありません。子だくさんの農村で食べていけないから、親方に人生を預けた親と息子がいただけ。

日本は田舎でも食べていける国になった。だから、食べていけない国から力士を集め始めた。なのに、「金のためにやってくる若者達はどこでも同じ。変わらない」と思ってた。

でも、ちがう点もあった。


「金は悪くないが、金の臭いを漏らしてはならない。」という微妙な感覚が、彼らにはわからない。

「実力で手に入れた金ならば、おおっぴらに誇示し、おおっぴらにばらまき、おおっぴらに振る舞うべきだ」超のつく大豪邸に住み、親類縁者に贅沢をさせ、超美人の奥さんに、超高給クルーザーに別荘に・・・。

それが自分の後を担う若者への夢を与えることになる、それが、成功した者の責務なのだ。

という世界を、今度は、日本人側がわからない。

★★★

相撲の世界における「お茶屋さん」、力士や部屋の「後援会長」そして、「親方株」、地方巡業の興業。

どれもこれも「金から、金の臭いを取り去るため、長い時間をかけて作られた仕組み」だよね。検察も、国税も、「国技」の御旗の前に手を出せない、守られた、万全で安全な「金のパイプ」が相撲界の周りには、ものすごい巧妙に張り巡らされている。

日本人の横綱なら、そういった先祖先輩が用意してくれた隠れ蓑を利用して、「金の臭いのしない金」を入手できたし、必要な人にばらまけた。

しかし、モンゴルからやってきた出稼ぎ青年には、そんな仕組みは使えない。彼らが金をばらまきたい人達に、既存のパイプを使って、お金を届けることはできない。横綱は日本人であるということを前提として作られた既存のパイプは、モンゴルまでつながっていないのだもの。


彼には夏巡業なんかにでているヒマはなかった。モンゴルでは、彼が立ち会わなければならない様々なビジネスの予定がぎっしりだった。彼が行かなければまわらない仕組みが既にできているわけです。

夏巡業が「つらいから」逃げたなんて、あり得ない。彼は「甘やかされた日本人」とは全然違う。そんな発想は彼にはないよ。なんだって我慢できるはず。どんなつらいことでも耐えられる。金と権力を手に入れるためならなんでもできる。だから彼は今、横綱になってるんだよ。

「夏巡業が暑くてつらいから逃げた」と報道するマスコミの記者ほど、本質が見えてない人達はいないよね。彼らこそ「暑いと働く気がしない」などという贅沢が許される社会で育ってきた。

朝青龍が育った環境は、そんなんじゃなかったと思うよ。



「金の臭いがしない金の仕組み」を守ろうとする相撲協会。

出稼ぎで成功した錦を故郷に還元しようとする若者。



「国技とスポーツ道の精神を理解せず、わがままで、つらい夏巡業を嫌い、金に走る、モンゴルの若者」を責める日本の常識ほど、気分悪いものはない。


じゃね。



<追記>

既存の金のパイプと「異なる金のパイプ」を作ろうとした人達は、過去、日本人にもいます。貴乃花夫人の景子さんとか、20年くらい前に地方巡業から「入れ墨のある人」を取り除こうとした親方とか。

でも、誰も「日本相撲協会」には勝てなかった。既得権益ってのは、尋常じゃない力をもっている。

2007-08-15 人件費が安いという意味

最近、あちこちの食品会社のでたらめさが報道されますが、これって「内部告発」ですよね。昔はほとんどなかった内部告発が、最近はすごく増えているんだと思います。

いったい誰が告発するのか?

正社員で、告発の時点でまだ働いている人、これからも定年まで勤めようと思っている人は告発しませんよね。下手すると会社潰れちゃうわけですから。

つまり告発しているのは、辞めた社員なんです。正社員もいるだろうけど、派遣社員など含めてね。

で、なんで内部告発が増えているか、明らかだよね。そのメーカーに頭にきたっ!って人が増えているのですよ。労働力として使い捨てにされたことにたいして。


かなり構造的だと思う。

まずふたつの不正がありうる。

(1)材料や賞味期限をごまかす。衛生管理にコストをかけない、など

(2)労働力にコストをかけない。


このふたつ、やってる会社はどちらもやる。材料や賞味期限をごまかしてるけど、働いている労働者の給与はたっぷり払います、なんて会社は存在しない。

(1)の不正をやっている会社の大半は、労働者からも搾取しまくり、無茶な働き方をさせた上で解雇して・・・みたいなことを、かなりの確率でやっている。これ、構造的に「内部告発者育成コース」が内臓されてる会社みたいなもんです。一方で不正をやり、一方でその不正を告発するに躊躇しない人を内部にどんどん輩出している、ということ。

なので内部告発って今後もどんどん増えると思う。

★★★

そもそも昔は野菜に産地表示なんかなかったよね。当時から野菜のすべてが国産だったわけではない。しかし表示なんかなかった。単に100円の椎茸と300円の椎茸があるわけ。で、消費者は思った。「なんで同じ椎茸が3倍も値段が高いのだ?」と。その理由は「安いのは中国産だから」と説明された。この「中国産だから」という言葉を、“誰かが勝手に”

A) 中国産だ→中国は人件費が安い→だから椎茸が安くできる

と考えた。

しかし、可能性としては別の可能性もあった。

B) 中国産だ→日本で禁止されてる農薬が使えるから生産性が高い→だから椎茸が安くできる。

という可能性。そして、実はこっちだったと。(もしくは、こっちも理由の一つだった。)


消費者がBの可能性を考えず、Aの可能性をすんなり信じてしまった理由はなんでしょう?


理由は簡単。皆こー思っているのだ。「日本産のものも昔は安かった。だって、日本の人件費は当時安かったから」と。それとダブらせて考えてるんだよね。

でもそれも嘘だよね。日本の人件費が安く、日本産品が世界に「格安品」としてどんどん輸出されていた頃、日本産のものが安い理由は必ずしも人件費だけであったわけでもないと思うよ。今の中国産の問題と同じように、品質にも問題ありのものがたくさん混じっていたと思う。流れ出しやすい鉛とか有害物質の使用とか。

では、この「発展途上国の商品が安いのは、その国の人件費が安いからである。」という言葉が、無批判に広く信じられているのはなんで?

この理由、ちきりんは「あまりにも単純化された経済モデルの問題」だと思うのよね。つまり「原価=人件費と材料費」だ、とか「人・もの・金」とか。

「モノは、材料を加工すればできる」という欠陥単純化モデルが、価格競争の原因だし、危ない商品を市場に溢れさせてしまっている理由だと思う。


「中国のモノが安いのは、中国の物価が安いからだ」という嘘を、

「昔の日本のモノが安かったのは、日本の物価が安かったからだ」という嘘を、

私たちはどこで信じるようになったのか。


本当は、

「物価が安い」

=「人件費も安い」

=「人の値段が安い」

=「人の価値が低い」

=「人に害のあるモノが商品に含まれていても、たいした問題じゃない」社会でつくられたから、安いのだ。

ってことなんだよね。


じゃね。

2007-08-14 怒り+感謝=一定

この前、尾崎豊のステージの様子を特集番組で見てたんだけどね。ビンビンと“怒り”が伝わってきたんだよね。ほとんど“怒り”が服着て唄ってます、みたいだった。

で、ああ、これって若いことの特権だよね、と思った。特権というか特徴というか。

どの時代でも、若い時って“怒り”に溢れている時代だと思う。大昔から、今までずっと同じだ。時にそれが革命(明治維新とか)という形になったり、学生運動の形になったり、親殺しになったり、自傷になったり、形を変えて現れる。

荒れる学校も、ひきこもりも、家庭内暴力も“いじめ”も、基本はそういう怒りの噴火口だと思う。

どうしようもないんだよね。理不尽な怒りをどう扱って良いか、その方法を知らないのだもの。自分の怒りでありながら、しかも、何に怒っているのかさえ、つきつめて考えればわからなくなる。そういう理不尽な怒りがある時期が、若いって時期なのだ。と思います。


別に大上段に構えなくても大半の人は経験があるんじゃあるまいか。何かにすんごい腹立たしいし、いらだつし、耐えられないし、どうしていいかわからなくて焦る。このまま何もできないままに人生が終わってしまいそうに思えるし、そんな人生には何の価値もないように思えるし。それでも自分にはなんの力も知識もなくて、だから何もできなくて・・

自分だけがそういう暗黒から逃れられないような、絶望感というかあほらしさというか。

怒りが深ければ深いほど、豊かな青春時代であると、そのただ中にいては思えるはずもない。

★★★

音楽や芸術にその怒りを表現できる人がいると(尾崎のように)、それに共感する人達がそこに集まってくる。いろんな形をとってそれは現れる。


なんだけど、なんで年をとるにつれ、その怒りがなくなるのか。

現実と理想の差は全く変わらない。それなのに、人は怒りを忘れる。怒りを感じなくなる。



いろんな理由がある。諦める。自分をいいくるめる。客観的にものを見るようになる。感情をコントロールするスキルがつく。いろいろ。

でも、基本的には怒り自体が少なくなると思うのよ。年をとると、怒らなくなる、と思う。




そしてね、年を取ると、“代わりに”感謝しはじめる。


いろんなことに。


すべてに。


★★★

ちきりんの仮説1:「怒り」と「感謝」の合計量は一生一定である。

ちきりんの仮説2:成長とは、加齢とは、老いるとは、大人になるとは、自分の中の“怒りを感謝で置き換えるプロセス”である。



怒りに充ちた青春時代を送ってました。ちきりんも。

とても懐かしいです。

とてもみすぼらしい、ガリガリの、世の中にひねくれた女の子でした。何に怒っているのかもわからなかった。でも、怒っていた。ちがうと思っていた。なんで皆怒らないのか、と憤っていた。


そして今は、

感謝に溢れるおばさんです。


なるほど、そーゆーことかよ!って

感じです。


わかります?

人間、感謝なんかし始めたら終わりってことです。感謝なんかし始めたら、もう何も成し遂げられない、ってことです。


若者よ、怒れ!


じゃね。

2007-08-12 インプットの最小化が、その答え

ブラジル旅行記のところで書いたけど、日本人が移民するまでブラジルでは、“収穫を増やす=作付け面積を増やす”でした。そこへ日本人が“同じ作付け面積で収穫を増やす方法”を持ち込んだのです。

これは非常におもしろい話です。

つまり、「ブラジル農業に“生産性”という概念を持ち込んだのは日本人移民である」ってことなんだよね。


「耕作面積を 10倍にして収穫を 10倍にする」、というのがそれまでのブラジルのやり方でした。そうではなく、いままでと同じ畑で 10倍収穫できる工夫をしようというのが日系人の持ち込んだ方法です。

収穫は同じ「10倍」でも土地はブラジル方式の 10分の1で済むし、移動時間や必要な水の量など、それ以外のコストだって1の面積を耕作する方が圧倒的に低いはず。

つまり日系人の方法は圧倒的に効率的=“生産性が高い”わけですが、じゃあ、なんでブラジル農業には“生産性”という概念がなかったか?


これは日本人の教育水準とか能力とかとは全く関係なくて、単に「日本は狭いから」ってことなわけです。


生産性とは、「アウトプット÷インプット」の比率です。

インプットされるのは、労働力とか土地面積とかお金とかいろいろですが、農業における最も重要なインプットの一つである土地が、日本は非常に狭いんです。特に小作農の場合は、勝手にそのインプットを増やすことはできません。だから、同じインプットからアウトプットを増やそうとするわけです。

一方のブラジルでは土地は無限に近い。だから、アウトプットを増やしたければインプットを増やせばいいという発想になります。生産性なんて気にする必要はない、だから誰も工夫をしようとしなかった、わけです。


★★★


さて、人間にとって「最も限られたリソース」は「時間」です。

誰にとっても 24時間は 24時間。しかも誰でも必ず死ぬし、その時期のコントロールもできません。時間に関しては“格差”という概念さえない。もっとも重要なインプットリソースである“時間”は、完全に平等な条件で与えられてます。

このように同じ時間しかもっていない人間なのに、アウトプットの量は人によって全然違います。

行き着ける場所が相当違う。「なんで、この人はこんなことができるの?」みたいな人がいるでしょ。

その理由は“生産性が違うから”以外にはありえません。私たちが一生の間に何ができるか、は、“時間の生産性”にかかってるんです。


じゃあ、この“時間あたりアウトプット”を最大化するにはどーすればいいか?

この答えを、ちきりんはブラジルの移民博物館に見たわけです。


なるほど!


と思いました。


生産性をあげたいなら、インプットを制限すればよい、と気がついたわけです。

潤沢に持っていると、生産性に着眼できないのだよね。もしくは、生産性をあげたいという切実な気持ちにならないんです。


たとえば、「仕事の生産性をあげたいなら」、つまり「仕事が速い奴」と言われたいなら、「仕事ができるやつ」と言われたいなら、「仕事を早く終わらせられるようになりたいなら」、


働く時間を短くすればよいのです!!


たしかに 3時間しか寝る時間が確保できないと眠りは深くなります。不眠だの寝付きが悪いの悩んでいる人は、寝る時間を短くすればいいと思う。そしたら寝付きなんてすぐに改善するよ。

仕事もね、5時に帰ると決めたら早くできるようになる。


「時間がたっぷりある」とまでは思わなくても、

「できるまでやるんだ」とか「徹夜してでも仕上げる!」とか、「とにかく頑張る!!」と思っているうちは、あなたは「できる人」にはなり得ない。


超論理的?


で、ちきりんも働く時間を3割にしてみた。そしたら、アウトプットは 7割くらいになった。つまり、「インプット 10割でアウトプット 10割=生産性は1」だったのが、「インプット 3でアウトプット 7=生産性は 2.3」になった。2.3倍です。そして超すてきなライフスタイルになってます。

ずるいって?



ずるくないよ。ほんとに仕事早くなったもん。やればできんじゃん、って感じです。

一番大きく変わったのは、「やらなくていいことをやらなくなった」こと。あと、優先順位も厳しくつけるようになり、もちろん、仕事のやり方も工夫するようになった。


全部、前からやりたいことだった。やらねば!と思っていたことだった。でも、できてませんでした。「インプットを制限して」はじめてできるようになった。

で、ブラジル農業の話を思い出した。


そう。頭で考えても無理です。とにかく「インプットを減らす」ってのを実現しないとできない。これやってみて初めてわかる。



「仕事が終わらない」「仕事が多すぎる」「私は仕事が遅い」などとお悩みのあなた。「働く時間を減らさない限り、仕事ができるよーにはならない。」

と、思います。

ところが人間、まじめなんで、仕事が終わらないと「働く時間を延ばす」という暴挙にでる。そんなことしたら・・・生産性が下がるやん!


式をよく見てよ。

「生産性」=「アウトプット」÷「インプット」なのよ。


インプットなんか増やしたら=働く時間を増やしたら、どんどん仕事の効率が落ちるってことです。


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2007-08-10 いいじゃん 食料自給率40%で

ニュースで「食糧自給率が13年ぶりに40%を割り込んだ」と言っていた。

ふううん、と思ったのだが、まずはこの40%ってのが何だか知らないことに気がついた。

これは、「総消費カロリーの40%なのか?」

「総消費グラム数の40%なのか」

「総消費額(円)の40%なのか」

とかね。


カロリーなら「カロリーの高いモノを日本で作ればよい。」ということ。脂身の多い霜降り肉とかお米とかかな。

総グラムなら重いものを日本で作り、軽いモノは海外から輸入すべき、となるし、総消費額なら高いモノを日本で作ればよい。というか、同じモノでも日本で作れば高いのですが。

というわけでよくわからないので調べてみたが、いろいろな計算方法があるみたい。グラムの場合とカロリーの場合とお金の場合と。

ふうん。なんか、適当に都合のいい数字を使っているんじゃないかという疑いがでちゃいますね。


それにですね、40%って海外と比べると悪いのかもしれないが、絶望的な数字じゃないと思います。

だって日本で消費されてると計算されている食料のうち、4割近くは廃棄されてます。これら廃棄分も上記のどの定義でも食料として流通したとして計算に含まれていると思います。だって個人がスーパーで買った食品は全部消費されてるという前提なんでしょ。でも実際にはそんなこと全然ないよね。

だとすると、実際に必要な食料は現在の流通量の6割くらいのはず。

そして、日本人の多くが「カロリー過多摂取」状態です。今より2割くらい摂取量が低くてちょうどいいくらいでない?成人病も少なくなってちょうどいいじゃん。


というわけで、今、輸入されている食料を全部ストップすると、食料の量は4割になってしまうわけだが、「それで十分なのでは?」という気もします。

もちろん、大半が輸入される大豆がなくなって醤油がなくなると困るとか、そういう偏りはあるでしょう。でも全体としては、「輸入分は、まるまま“不要な食料の分”」って感じがします。


じゃね

2007-08-09 条件が揃いすぎ

欧米はもちろん、中国や韓国でも、40代で大企業、一流企業の社長や政治リーダーになる人は珍しくありません。そういう世界の潮流に逆らって、日本ではそのひとつ上の世代がリーダー層として実権を握り続けています。これはなぜなのでしょう?


思いつくままに「シニア層が、パワー志向となり、権力を握る理由」を考えてみると、

(1)寿命が長くなった

日本人の平均余命はとても長いため、政治家や経営者、自治会長のような“年齢による一律定年が適用されない世界”では、元気な高齢者は80歳までなど、そのままリーダーポジションに残ります。


(2)人生における家庭の位置づけが低い

今のシニア世代には、「男は外で戦い、女が銃後(家庭)を守るものだ」という概念があります。長い間に染みついた、この男女の役割論的な感覚に基づき、「働き続けること=男であり続けること」、「引退して家庭や地域などの女の世界に入るのは、男として終わりを意味する」くらいに思っていそう。

「俺は死ぬまで働いていたい」などという科白がでてくる深層心理も同じで、彼等にとって家庭とは“女子供が暮している二流の場所”なのです。だからできる限り長く、職場にいようとする。


(3)階級なき年功序列社会である

たとえば欧州は「階級ある実力社会」、米国は「階級なき実力社会」=完全な実力社会、韓国は「階級ある年功序列社会」です。中国は米国型、サウジアラビアは韓国型でしょう。

その中で日本は、「階級なき年功序列」、すなわち「完全なる年功序列」です。この国には年齢を超えるヒエラルキー基準が存在しないのです。


階級があると、完全な年功序列にはなりません。韓国社会は非常に年功を重んじますが、リーディングカンパニーの多くが財閥支配の会社で、そこではトップ経営者は一族から抜擢されます。会長の息子や一族の青年は海外で勉強した上、若くして経営者ポジションにつきます。

欧州も同じです。特定階級の人は特殊な大学や職業学校からいきなりリーダー、経営者候補として社会にでます。カルロス・ゴーン氏が卒業した学校は社会のリーダーになる人だけが行くところで、東大のように、“卒業生は皆一兵卒として就職する”ような普通の学校ではありません。

つまり、アメリカのように年功よりも実力や成果が重視される国に加え、階級や特権層が存在する国でも「若くても権力を握る人」が一定数でてくるわけです。

ところが日本では年齢以外に重要な要素がなにもありません。優秀でも若いというだけで権限を与えず、「若い間は下積みが重要」などと公言します。

また、若い人までがエリートコースの存在を毛嫌いしたりします。若い人まで「成果主義」「実力主義」を肯定しないのなら、全員が納得できるヒエラルキー基準は(この国では)「年齢」しか存在しえないのです。


(4)実際、シニアな人の方が優秀だ。

この国には「経験を知識にして学ぶ」という仕組みがなく、「経験は経験として学ぶ」という方法しかありません。なので学ぶのに時間がかかり、学び終えた時には皆シニアになっています。

「経験を知識として学ばせる」のはアメリカが得意な方法で、彼等は「経験知をなんでもマニュアル化して、学校で教え、意識的に若い人を育てよう」とします。だから若い人の成長が早いのです。

一方の日本には「誰かが20年かけて学んだことを、システィマティックに3年で学ばせる」という概念がありません。さらにいえばそういう概念が嫌いです。「経験を知識として短期間で学ぼうなんてズルイ」、「時間をかけて、人生をかけて、学ぶべきだ」と思っているのです。

そのため、この国では「若い=未熟」です。頭がよく新しい分野の知識があって行動力もあるのに、精神的な未熟さ、視野の狭さ、場や雰囲気をつかむ下手さなどのために、狡猾なシニア層の手のひらで踊らされてしまい、時にはひっかけられて逮捕されたりもします。

リーダーとして必要なことを、誰しも「年齢分しか学べない」のであれば、若い人はいつまでたっても年をとっている人にかないません。

★★★

というわけで、、まとめると、

(1)寿命が長くなり、シニア層には長い時間がある。

(2)彼らにとっては家庭の価値が低いので、いつまでも仕事社会に居続けたがる。

(3)年齢だけによって機会を分配するので、若い人にリーダーポジションが与えられない。

(4)経験を知識や智恵として学ぶという教育方法がないため、学びに長期間が必要で、学んでいるうちに皆がシニアになってしまう。(結果として、シニアの方が優秀・・)


この国のパワーシニアは、出るべくして出てきたのです。


じゃね。

2007-08-08 引退とは

二十数年前に欧米を旅行した時、日本と大きく違うと思ったのが、シニア層の姿でした。当時の日本では“年をとる”ことは、間違いなく“ネガティブなこと”でした。みすぼらしくなっていくこと。元気がなくなっていくこと。楽しくない人生になっていくこと。

でも、当時の欧米では、若者は日本と同じように見えましたが、シニア層は“全然違う”ように見えたのです。昨日も書いたけど、まずは服装が派手で明るい。もちろん生物としてみればシワもあるし髪も白かったり無かったりするわけですが、老夫婦がカフェで談笑しながらお茶やディナーをしている様子は、当時ちきりんが持っていた“老いる”というイメージとはほど遠いものでした。

あちこちで“ゆったりとした時間を過ごしている”のは、ほとんどがシニア層です。引退しないと、平日の昼間から公園や美術館で過ごしていたり、ボートに乗っていたりはできないので当たり前なのですが。


そして、旅の途中でこういう人達とも話していると、「引退」ということに関する感覚が全く違うのだと気がつきました。日本では「働くのを辞める」というのは、「若い者に働く場所を譲る」ということです。つまり、「働く場所」は貴重でありがたいもので、その場所から「出ていくこと」が引退であり、年をとることだという感じでした。

ところが、向こうでは「引退できる」というのは特権や希望として捉えられているようでした。若い間は「働かざるを得ない」「引退なんかできない」けれど、年を取ると「ようやく引退できる」という感じ。そこには、「働く場所が貴重であり、働くことは、働かないことよりすばらしい」という感覚はありません。


日本も将来こうなるのかしら???

と思いました。日本でも将来、皆が「早く引退したい!」というようになるのだろうか。半信半疑でした。

ちなみに、ちきりんの早期引退願望は明らかに上記の経験から来ています。当時、老若何女の別なく様々な人と話すなかで、ちきりんも「働くのも楽しいが、早期引退できるならそれにこしたことはない」と思うようになり、さらに一歩進んで最近は「早期引退にはすごいメリットがある」と考え始めました。

でも、ちきりんはそう思うようになったけど、日本全体がそういう傾向になっていく気配は全然見えません。定年を迎えた人の多くが再就職するし、それどころか今後は定年自体が65才に引き上げられるそうです。年金支払いが65歳からになったのが理由だと思いますが、でも欧米に較べても日本の退職金、年金制度は決して悪くないと思います。

でも日本では、定年を迎えた時に「これからは生活レベルを押さえてすごそう」と思うのではなく、「生活レベルは今まで通りですごしたいので、再就職しよう」と考えるんですよね。

「もう引退したのだから、家に住む息子からは市場価格と同じ家賃を取ろう」とは考えない。自分が再就職してでも、自宅に住んでる息子からは3万円しかとらないんですよね。

この背景には「働けることは、若いということであり、ありがたいことである」という感覚があると思うのです。反対に言えば、引退する、隠居するというのは、老いることであり、ネガティブなことである、という考えがあるということです。

★★★

ちなみに、この「できるだけ早く引退したい」というのは、欧州の方が若干強いけど、アメリカも大勢においてそうです。ビルゲイツだって40歳で引退したがっていたけど、会社から離れられなくて10年遅れた。それでも50歳でトップの座は退いています。

「なんのための人生ぞ」ということに占める「働くこと」の割合がこんなに高い国は本当に少ない。日本人は「働くこと」にものすごく重要な意味を与えていると思います。

なんで?


これを、文化的に後進性のため、という理由で片づけてしまうのは簡単なことで、最初はちきりんもそういう仮説を持っていたのだけど、最近はさすがにちがう、と思い始めました。

理由が文化的な後進性であるなら、ゆっくりでもそういう方向に進むはずなんですが、日本は全くそうなってはいない。寧ろシニア層はますます社会的に活動的になりつつあります。それは特に、団塊世代大量引退の時代を迎えてこれが明確になりました。

ちきりんは少し前のエントリで、嘲笑的に書きました。「都知事選なんて被選挙権も選挙権も70才以上に限定してはどうか?」と。余りに候補者の年齢が高いのであほらしくなって書いたエントリです。でもあのあたりから、具体的なイメージが涌いてきた。


この国って、年取った人が早期引退を望む国ではなく、パワーシニアの国になるのかも?というイメージです。やる気と体力とスキルのすべてを持ったシニア層が率いる国、ニッポン。


もちろん一部の人は欧米的シニアになり、早期引退を望むでしょう。でも、大勢はそうならない。大勢は60才から80才の間の20年間にこそ、社会へのインパクトを発揮する。20年って長いですからね、相当のことができる。

政治も経営や経済も社会でも。若者は引きこもり、働きすぎて精神を病み、もしくは稼ぐ力のないままにNPOで環境問題に取り組む。その横で、パワーシニア層が、政治家として立候補し、経営者として采配をふるい、コミュニティリーダーとして地域を支える。

そういう国です。

そしてこれは結構おもしろいモデルになる、とちきりんは思っているです。


んじゃね!

2007-08-07 明日のニッポン!

ちきりんが初めて海外旅行に行ったのは既に四半世紀前にもなります。その頃、つまり欧米先進国で20年以上前に見たことの多くが、最近は日本でも見られるようになってきました。

たとえば今は日本のコンビニやファミレスで中国人アルバイトを見るのは今は珍しくないですよね。でも当時の日本ではそんなのはほとんどなかったから、ロンドンの空港でハンバーガーを買ったちきりんは「あれっ、私はイギリスじゃなくてアフリカに来たんだっけ?」と驚きました。

街中でキスするカップルにも当時はびっくりしたけど、今は日本でも遭遇するし、中年以上のカップルで手をつないでいる光景も不思議ではなくなりました。久しぶりに会った友人とハグハグしている日本人も増えてきましたよね。

また欧米では当時から、どこの店も防犯システムが整備されていて驚きました。今、日本もそうなりつつあります。デパートの商品にも防犯タグやロープがつくようになり、あちこちに防犯カメラがある。でもまだまだ日本は治安がいい。大きな鞄は受付に預けないと入れてくれないという店は、日本ではまだほとんど見たことがないです。

あまり変わってないと思うのは、服と車の色合い。西欧先進国は色に溢れている。例えば中年以上の女性が真っ赤なコートを着ている。車もカラフル。一方の日本人は圧倒的に無彩色好きですね。特に年をとると地味な装いをする。60歳を超えて赤い車に乗るなんて「いかれてる」か「ロックスター」でしょ。最近は日本もかなりカラフルにはなってきたけど、まだまだ二十数年前の欧州より地味に見えます。

★★★

“欧と米の違い”も行って見るとよくわかりました。例えばGパンの比率。アメリカではヨボヨボのおじいさんでもジーンズをはいている。でも欧州だと、若い人でもアメリカほど多くない。これは、撮った写真の後ろに写っている人のジーンズ率をみるとすぐわかる。ロンドンとNYは全然違う。

欧州にはやたらとカフェが目についたが、米国にはファーストフード店とダイナーが多い。「お茶を飲む」というのは当時のアメリカにはなかったと思う。アメリカに“お茶する”店を初めて根付かせたのはスタバなんじゃないかな。

違うものへの寛容度も違っていた。欧州の方が圧倒的に「違うもの」(ちきりんを含む)に馴れている。これは不思議だった。移民の国、人種のるつぼといわれる米国の方がなんでこんなに画一的で排他的なのか。後から聞いたらアメリカ在住の黒人の友人も「パリにいったら余りに自然に周りに溶け込めて驚いた」と言っていた。

★★★

そうやってあちこち旅している時、「将来の日本は欧州と米国のどちらに似てくるんだろう」と考えていました。経済では米国を真似しているけど、人の生き方としては欧州志向の人が多いよね、などと思ってました。

でも最近、「どっちも違う」と思い始めた。日本は明らかに「第三の道」というか「独自の道」を進み始めているという気がします。どんな国かというと、それは「パワーシニアの国」なんじゃないかと。


ちきりんは、日本に「なぜ若い(=40代まで)のリーダーが育たないのか?」ということをずうっと考えているのだけど、これはその問いへの答えであり、かつ、諦めでもあります。「この国は、シニアが率いる国になる」、皮肉でも反対しているわけでもなく純粋な予想としてそう思うのです。

したがって日本では、グーグルもアマゾンも興らないし、ビルゲイツもブレアも現れない。全然別のタイプの国になる。ちなみに中国は日本と違う。アメリカ型の国になると思う。もしかしたら韓国もです。でも日本は“全然”違う国になる気がしてきた。


若い起業家が失敗して逮捕されたり表舞台から引きずりおろされ、もしくは成功した人達は小金持ちになったことで満足してしまって、初めての戦後生まれの総理大臣がぼっこんぼっこんにされて。

一方で丸山弁護士だの若尾文子の旦那だのが超ノリノリで選挙にでて、75才の石原さんが61才の猪瀬さんを副都知事に指名する。

のを見ていると、その思いが確信に近くなる。


長くなるので今日はこの辺でやめますが、これはおもしろいテーマだと思っているです。これからの日本がどういう国、社会になるのか。ちきりんのひとつの答えがこれ。


「パワーシニアの国、日本!!」

になるです。


ではまた明日。

2007-08-06 わかりにくい

“帰納と演繹”というのがありますよね。「いくつかの個別の事例から一般的な原則を導く」のが帰納で、「一般原則を適用して、論理的推論により結論としての個別例に行き着く」のが演繹、だと思います。

ちきりんはモノを考える時、圧倒的に帰納的に考えることが多いです。反対に演繹的に考えるのは苦手だし、気持ち悪いです。

「この前提が正しければ、個別にはこうなるはず」という時、一番重要なのは“その前提は本当に正しいのか”ということです。でもその前提自体が仮説であり、証明されてない場合が多い。なのに、その前提に基づいて、そこから論理展開するというのが、ちょっと強引な気がするのです。

たとえば演繹的な行動だと、「自分はこういうタイプの映画が好きだ」という前提の下に、そのタイプの映画ばっかり観るいうことになりがちです。「私はホラーが好き+この映画はホラー映画だ=私はこの映画が好きなはず、だから観にいく」という行動。よくあるパターンですよね。

でも、こういう行動をしていたら「世の中には他にもすばらしいものがあるかもしれない」ということに気がつかない可能性があります。他のジャンルにも「案外、私ってこういうものが好きだったんだ」というような新しい境地があるかもしれないのに、それを事前にブロックしてしまいそうでしょ。「あの映画は恋愛ものでしょ?私は関心ないから見ないわ」みたいになりかねない。

ちきりんとしては、寧ろランダムに映画を観て「私はこれが好き!」と思えるモノの共通項を探し、一般原則として「私の好きな映画はこういうものらしい」と考える“帰納的な思考&行動”の方が心地よいです。こちらの場合はいったん仮説ができた後も、さらに様々な映画をランダムに観て個別事例を積み重ね、自分の好きな映画の共通点をさらに追求していく、という行動になります。そういう帰納的な思考で行動したほうが、世界が新しい分野に拡がるし、今まで知らなかった素敵なものに出会える可能性が高いと思うのですよね。


というわけで、ちきりんが「私はこーゆーものが好き!」と言う場合、それは極めて帰納的に導かれた結論であり、“それが前提として使われて、そこからちきりんの行動に影響を与える”ということは、まずないです。「○○が好き!」とは言いますが、実際にやっていること、選ぶことは必ずしも○○だけではないです。

こういう態度は、よく言えば「柔軟性がある」「幅が広い」となりますが、反対に「いいかげんな奴」「言うこととやることが違う」とされる場合もありますけどね。


ところで、自然科学系の学問では、演繹的な考え方は不可欠です。一定の仮説にもとずいて、その仮説を証明するための観察や実験に一生を捧げるような人がいないと科学は進歩しません。「観察したことから言えること」(帰納的思考)だけでは到達できる範囲が狭すぎるからです。

より高いレベルでの一般原則を証明するためには、「この前提が正しければ個別にはこうなるはず」という演繹的な思考に基づく実験や観察が必要で、それには時に人の一生を超えるほどの長い期間が必要であったり、国家予算レベルのお金を注ぎ込んで大規模な実験施設を作ることが必要です。

帰納でしか考えないちきりん脳は自然科学には向いていないと言えます。


★★★

このどちらの方法がいいかというのは、その人にとって「仮説を否定しやすい方」がいい、のではないかと思います。

いずれの方法にせよ、仮説なんて間違いまくってるわけですが、それを修正しやすい方法で考えるべきだと思うのです。そうしないと間違った仮説にしがみついている間に過ぎる(人生の)時間が無駄になってしまいます。

自然科学の学者なら、一生を投じた実験が「仮説が間違っていたために」成功しなくても本望なのかもしれませんが(本望ではないにしろ、覚悟していたことなのかもしれませんが)、個人が自分の人生を間違っているかもしれない仮説にかけ続ける必要はないだろうと思うのです。


身近な例で考えてみましょう。例えば新卒学生の多くは「自分にはこういう職業が合っている」という思いこみ(仮説)を前提として就職活動をするわけです。「自分は○○な仕事が好きである+この会社の仕事は○○な仕事である=自分はこの会社の仕事が好きなはず。だから応募する」という感じです。

でもその会社に入社して希望の仕事を実際にやってみたら、「実はその仕事が合っていなかった」ということもよくありますよね。その時に「自分は○○な仕事が好きである」という前提・仮説を疑わないと、「この仕事が自分に合わないのは、この会社の仕事が○○な仕事ではないからだ」と考えることになります。時には「○○な仕事だと説明されたから入社したのに、騙された」みたいな話になります。

そして、「本当に○○な仕事を探して、自分は会社を変えるべきだ」という話になる。「自分は○○な仕事が好きである」という前提は間違っておらず、「この企業の仕事は○○な仕事である」という方が間違っていた、と考えるわけです。


でも、「いや、そーじゃなくて、最初の前提・仮説が間違ってるんじゃないの?」とも思うのです。そもそも「自分は○○な仕事が好きである」という前提の方が間違っている場合もあるはずなんです。そして前提の方が間違っていたら、何度転職を繰り返しても満足できる仕事にはたどり着けませんよね。

「自分には○○な仕事があっている!」という思い込み的な前提に基づいて職を転々とするくらいなら、最初から仮説や前提をもたずに様々な職を体験してみて、後から「つまり、オレにはこーゆー仕事が向いてるの“かも”」って言ってる方がいいんじゃないかと。

「こんな種類の仕事が、こんなにおもしろいとは思わなかったよ」とか「自分がこういうものが好きな性格だとは自分でも気がついてなかったよ」という感じで、個別事例からだんだん自分のことがわかってくる、という方向の方がいいんじゃないの?と思うのです。


科学者なら自分の信じる仮説のために一生を捧げるのもありでしょうが、個人の人生に関しては一般原則を見つけることがゴールでも目的でもありません。だったら、若い時から特定の仮説(例:オレはこういう人間だ!)に固執するより、いろんな個別体験を重ねるなかで、人生のずうっと後になってから「オレってこういう人間だったんだな〜」という一般原則がぼんやり浮かんできました、というパターンでもいいんじゃないかと。


そんな感じ。

あんまり“仮説“にこだわらないで!ってことかな、と。


じゃね。

2007-08-04 人生を半分降りる

大学生の頃、同級生に「ちきりんに一番似合わない言葉は“努力”だ。」と言われました。

自他共に認める“努力できない女”ちきりんです。

最近はどっちかいうと“やる気のない女”って感じか。いや“女”とかいう必要はなく、“やる気のない奴”って感じですね。

昔はまだマシでしたが、最近はほーんと努力しません。“やーめた”って感じになってます。


そんな私の“お気に”の一冊が、7年前に読んだ中島義道さん著の「人生を<半分>降りる」。副題が“哲学的生き方のすすめ”で、序章のタイトルが

「あなたはまもなく死んでしまう」

です。

笑えるよね。


ちきりんを実際に知っている人は今頃、膝を打っているでしょう。“まさに、ちきりん的価値観”だよね、これは、と。



余りに素敵な本なので、チャプター等のタイトルから一部紹介しときます。それにしても哲学者っておもしろい人が多いよね。文春に連載書いてる土屋さんも好きです。

サブタイトルより

 

   「社会的に有益な仕事から手を引く」

   「ものを書けば書くほど考えなくなる」

   「自分はいかにエライか」

   「勝つことは醜い」

   「自己中心主義の勧め」

   「世間と妥協しないことの勧め」

   「他人を避ける」

   「“会いたくない”ことをどう伝えるか」

   「“不幸を自覚すること”の勧め」


著者の中島さんは現在東京電気通信大学の教授で、この思想を実践して生活されているそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E9%81%93



ちきりんもコレでいくです!


“あるべき論からの離脱”これが、人生のテーマだと、最近はつくづく思います。

いかに世間から逃れるか、如何に“あるべき論”から解放されるか。人間の人生はそれとの戦いだと思う。“自由”、“精神の自由”を得ようと思うと、「いい人」「できる人」「思いやりのある人」ではいられない。


悪いけど、私に「いい人」であることや「前向きであること」を求めないでください。

私は単なる“やる気のない奴”なんです。

そこんところ、わかってほしい。


f:id:Chikirin:20150810175729j:image:medium

じゃね。



↓ほんと、すばらしい!

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2007-08-02 病気の人向けの保険

海外旅行保険って、ご存じですよね。最近はカード付帯保険があるからかけない人も多いかも。ネットでも申し込めるし、空港でその場でも加入できる。

いままで病気になったことのない人なら。


というのは、こういう保険を申し込もうと思うと一番最初に自己申告すべき項目が「現在健康であるかどうか」という質問。文言は保険会社によって違うけど、「現在、病気やケガなど健康の異常がありますか?」とか、「現在、病院に通院、もしくは、治療を受けている疾病やケガがありますか?」とか、です。

この質問に「はい」と答えると、基本的には海外旅行保険に入れません。カードの保険は無申告だけど、多分同じように「現在かかっている病気等」に関しては一切保障されないと思います。

実は少し前にAIUという保険会社が「持病があっても申し込める海外旅行保険」を売り出したので、このことに気がついたちきりんです。

★★★

たとえば、最近のメタボブームで注目される糖尿病とかって、かかっていても病院に行かず、したがって診断されてなければ、上の質問で「はい」と言えます。でも、診断受けちゃうと「はい」とは言えないでしょ。高血圧とかも同じです。血圧降下剤とかをとりはじめると「治療」でしょ。

昔はそういう持病のある人は海外旅行なんてしない、ということだったのか、自分でリスクをとって海外旅行しろ、ということだったのか。

つまりね、こういう保険って、「超健康な若者」だけいれてあげますっていう保険なんだな、と気がついた。だからすんごい儲かるんだよね。

もちろん普通の生命保険や入院保険もいったん病気になるとほぼ加入できなくなる(もしくは、それに起因する疾病や死亡は一切保障されなくなる)ので、海外旅行保険も同じともいえる。のですが、「ああ、なんかつらい感じだな」と思ったです。

★★★

ちきりんの知り合いと友人に、ひとりずつ、20代後半〜30代でガンを発病し治療を受けて今は社会復帰している人がいます。ふたりとも数年間仕事を休んで入院しヘビーな治療を受けて戻ってきて、今はばりばり働いているし、とても前向きです。

彼・彼女らを見ていると、その姿勢には本当に頭がさがる思いですが、病気を克服して数年から10年たった今でも、彼らは定期的に通院しているし、予防のための治療もしています。

そして、上のような質問に「はい」と答えることはできず、海外旅行保険に入ることはできません。

(対面販売だと状況によっては入ることもできるでしょう。保障の免責範囲で調整されることもあると思うので。)



AIUの新保険は、ビジネスとして悪くないと思います。これだけの高齢化の国です。持病のひとつや二つ持ちながら海外旅行を楽しみたいシニアの方も増えるでしょう。様々な疾病の治療方法も進歩しているから大病をしても、その後回復すれば、例えば、“胃は半分ないけど海外旅行したい!”という人だって出てくると思う。そういう人達を市場から切り捨てるのが賢い方法とは思えません。

同時に、いままでそういう保険がなかったのだ、ということには驚愕せざるを得ないです。

国全体が高齢化するのは悪くないかもしれない。ビジネスのためではあるけど、結果として皆がやさしくなる。元気な人だけを前提とした社会システムが変わっていくとしたら、それは悪くないことかもしれない。と思います。

2007-08-01 危機管理

物騒なことが多い昨今、しばしば危機管理の必要性が叫ばれます。危機管理の方法は大きく分けて3つあります。

(1)対応動作を決めておく。

(2)予行演習をしておく。

(3)保険をかけておく。


(1)は「危機管理マニュアル」を作り、組織内で共有することです。自治体は台風や地震など災害時の対応マニュアルをもっているし、国際的な企業は、支社や工場がある他国で政変が起きた場合や、ストライキなど労働争議に備えた対応マニュアルを用意しているはずです。空港や軍隊には、テロを想定しての非常時マニュアルがあるでしょう。


(2)の予行演習の典型は防災訓練です。オフィス街のビルでは、防災放送があっても全くパソコンから目を話さず訓練に参加しない人もいますが、あれは一度は体験しておくべきです。

たしかに「火事の訓練です。エレベーターを使わずに避難してください。」と言われても、高層階から階段で降りるのは体力的にも大変だし、仕事も中断されてしまいます。けれど一度やっておくと、圧倒的に様々なことが学べます。会社は多くの人にとって最も長い時間をすごす場所ですから、毎年とは言いませんが一度は参加しておくことをお勧めします。


(3)の保険。ひとつは、分散や重複設備によりバックアップする方法です。たとえば緊急通信用の機器や金融機関のホストコンピューターは、一カ所ではなく複数地域に設置されているし、防衛関係や病院など特定の施設では通常の電力施設以外に自己発電施設を備えています。

また役員全員の出張が必要な場合、異なる飛行機に分散して乗るのも万が一に備える方法です。もちろん文字通り“損害保険をかける”という備え方もあります。

★★★

さて、この3つのうち最も効果が高く、一方で実行が難しいのが「予行演習」です。マニュアルを作ることや保険をかけることはお金さえかければできます。しかし、予行演習では「本当に起った時と全く同じ想定を作りだす」こと自体が困難です。

たとえば飛行機のクルーや、消防団、軍隊は「仕事としての予行演習」を頻繁にやっていますが、実際に災害や危機が起これば、多数の一般人が事態の一番の主役になります。けれど、その「パニックした一般人」が参加した予行演習をすることはほぼ不可能です。


ところが時々、「リアルな予行演習」といえるような事態が起る場合があります。

たとえば2005年の千葉県北西部地震の際、東京都は「緊急招集に応じるという条件で都庁付近の住宅に住まわせていた職員に、緊急招集をかけました。ところが34人中13人しか緊急呼び出しに応じなかっため、招集に応じなかった人は、後にこの都心の格安な住宅から退去させられます。

このケースは、来るべき「東京での大災害」に備えた予行演習として極めて効果的に機能したわけです。なぜならこれが最初から緊急訓練であったとしたら、職員は全員がちゃんと参集したでしょう。それでは何の問題も浮かび上がりません。このように「リアルな予行演習」というのは、非常に大きな意味があるのです。


ちょっと古い話ですが、1997年の金融破綻の時も同じでした。11月に三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が相次いで破綻した時期は、大蔵省(当時)も日銀もマーケット参加者も大混乱しました。特に、一番最初の三洋証券が会社更生法を申請した際、インターバンク市場でデフォルトを起こしたことは関係者に大きな衝撃を与えました。これについても、実際に起るまでそのインパクトは理解されていなかったのでしょう。

けれど、これらが「リアルな予行演習」となり、翌年の日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の破綻では金融市場のパニックを最小限に抑える策がとられました。さらに、2003年のりそな銀行国有化の段階では、金融機関の破綻救済方法について当事者内には相当の知見が蓄積されていたと思われます。

どんなに事前に備えていても、実際に起ってみないと学べないことはたくさんあるのです。

★★★

北海道夕張市の財政破綻も、財政赤字に苦しむ他の多くの地方自治体に「リアルな予行演習」として多くの教訓や教えを与えていると思います。

東京や、ディズニーランドなど特殊な施設が存在する市町村をのぞく、大半の地方公共団体は程度の差はあれ借金付けの財政状態です。景気動向によっては、次の10〜15年で複数の自治体が破綻してもおかしくありません。その時にいったい何が起こるのか、頭の中で考えただけではおそらく全くわからないでしょう。


「行政サービスはどこまで最小化できるのか?」

「給与をいくらにすると、公務員は何%辞めるのか」

「どこまでやると、住民の引越が始まるのか?」

「近隣地域はどういう対応をするのか」

「暴動が起こる可能性もあるのか?」などなど。


これから地方公共団体の破綻が現実化してきた時に何が起こるのか、行政関係者など、この事態を「どうマネッジするか」という視点にたつ人たちからみると、夕張市のケースは非常に貴重な「リアルな予行演習」ともいえます。

金融破綻の時と同じように、最初は地方の小さな市が破綻し、次に都市部の中規模市が破綻し・・・となれば、日本でも地方公共団体の破綻に市民が慣れ、破綻処理のプロセスについてノウハウや知見を蓄積する日がくるのかもしれません・・・。


そんじゃーね。