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Chikirinの日記 RSSフィード

2008-02-29 「誰が」「なんで」嫌がってるの?

宮内庁長官の“皇太子様への苦言”について。

皇室ミーハーのちきりんとしては、ワクワクのトピックです。不謹慎ですみません。


ご存じない方向けに簡単に説明すると、

  • 平成 18年 12月に、天皇陛下が「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。いずれは会う機会も増えて、うち解けて話をするようになることを楽しみにしています」と発言
  • 平成 19年 2月に皇太子が、「(敬宮愛子さまが)両陛下とお会いする機会をつくっていきたい」と発言。
  • ところが、今年の平成 20年 2月に、羽毛田宮内庁長官が、「回数は増えていない。両陛下も心配されていると思う」と発言。

「陛下がお招きになられる場合は行事に伴って参内されることはあるが、皇太子殿下のご発意で、ご一家で参内されるのは年 2、3 回にとどまっている」「(皇太子)殿下ご自身が会見で発言されたことなので、大切になさっていただきたい」

もちろん長官はこのことを皇太子様にも伝えてあって、努力するという返事をもらっていたとのこと。


★★★

これほど皇室ミーハーの興味をそそる話はないよね〜。人格否定発言以降の超大目玉発言だと思うです。

参内頻度が少ないことは両方が認めているわけだから事実なのだろうとして、その原因ですよね。すなわち、誰がイヤがっているのか? どーゆー理由で? というのがミーハー的興味の対象。


まずは、「誰が嫌がっているのか?」

2年前の愛子様にそんな意思が有るとも思えないので、これは、皇太子様か雅子様のいずれかだよね。それって・・大問題でない??

「実の両親」、もしくは「舅と姑」に娘を会わせたくない(もしくは自分が会いたくない)というのは、あの家の特殊性を考えるとすごいことだと思う。一般人が「主人の両親と合わなくて」どころの話ではない。


次にその理由。これがまたよくわからない。別に同居しろと言われているわけではない。月に数回、お茶のみにいけばいいだけでしょ。

天皇・皇后も 74歳とか 73歳。普通の息子と嫁でも、ようやくできた孫娘を祖父母にあわせようとすると思う。

祖父母がこの孫をどれほど待ち望んでいたか痛いほどわかってるわけだし。すごい遠いとこに住んでいるわけでもない。

何がそんなイヤなんだ??


★★★


あたしが思うに、非常に高い確率で愛子様は皇族として一生を生きることになる。

悠仁親王の誕生で愛子様が天皇になる確率は低くなったとはいえ、彼女が今までの皇室の女性のように一般に降嫁する可能性もまた非常に低い。

そんなことしてたら、次の次の代の皇室は悠仁親王お一人になってしまうから。


今の天皇の兄弟の家の女性皇族がお嫁に行かれた時点で法律が変わるんじゃないかな。で、愛子様と、マコ様カコ様は、宮家を開き、皇族として一生生きる形になると思う。

マコ様、カコ様は悠仁親王のお姉様だしね。天皇となる弟を支える宮家がひとつもないなんてありえない。彼女たちが残らざるをえないでしょう。

彼女たちの夫として皇室に入ってくれる男性を捜すのは大変かもしれないが、ここを宮家として残しておかないと、悠仁親王に男の子が生まれなかったら一巻の終わり。

男も女も含め子供が生まれない家だってありうるわけで、そんなリスクはとれないでしょう。それにそもそも「宮家ゼロ、天皇家のみ」なんかにしたら公務も忙しすぎてもたないです。

だから、どこかでルールは変更され、この3人の女性は結婚しても「皇族」として生きることになる。これはもう確実だと思われる。


★★★


皇太子様はこうも発言した。「家族のプライベートな事柄ですので、これ以上立ち入ってお話をするのは、差し控えたいと思います。」

宮内庁側の匿名発言はこう続く。「これを家族のプライベートな事柄と位置づけるところからして、全く認識が違う」

天皇、皇后にとっては将来の皇族への帝王学問題であり、皇太子にとっては「家族のプライベートの根幹に関わること」なのかも。

つまり「愛子様」を「皇室の大事な人材」と見るか、“オレと雅子の子供なんだ、自由にさせてくれ!”と見るか、という綱引きなのかな。


おもしろすぎる。


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じゃね。


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2008-02-28 ニューヨーク恋物語

昔よくハリウッド映画の日本での封切り時に「全米で大ヒット!」「全米で感動の嵐!」というような宣伝文句が使われてたでしょ。

最近スカパー!で韓国ドラマに続けとばかり中国のドラマもよく放映されるんだけどね。その宣伝文句が「全中で15億人が泣いた!」


ほんまかい!


インド映画の宣伝は「インド人15億人が踊った!」でどうだ?

中国とインドで流行った場合は

「地球上の二人に一人が泣いた!」

とかかな。

★★★

“ニューヨーク恋物語”という、超古いドラマをスカパー!で再放送してて、もー画面から目が離せない。

知ってます?井上陽水が「ホォッテルはリバアサイ、かあわぞいリバアサイ〜」と唄い、田村正和と岸本加世子のでてるやつね。“もーあまりにすごくて目が離せません。

主演の田村正和。右から見ると古畑任三郎であるが、左からみれば“LEON表紙のオヤジ”である。そうか、コンセプト自体は昔からあったんだな、ちょいワルオヤジって・・と気づきます。

いやほんと、LEONの表紙そのものですよ。そして「私のことなんて全然愛してないのね」という女性にたいして、「お前は愛を求めてたのか?じゃあ、オレのところなんかにきてもしかたないだろ。」って言うんです。白いバスローブ着て。


白い。

バスローブ。




ほえ〜。


しかもピアノバーのバーテンやってるのだわ、田村正和。

すごい、すごすぎる。。。

NYのピアノバー・・・。。。

★★★

桜田淳子が、「日本社会で成功できず、だからNYに行って一発逆転を目指す」という、しかも「ウォールストリートでアシスタントディーラーなんだけど、あたしは体売ってでものし上がるわよっ!」というあまりにも80年代的な役回りで・・


“時代”だなあ・・


桜田淳子さん、セリフ噛みぎみではあるが演技力あるよ。統一教会なんて入らなければいい役者だっただろうに。せめて創価学会にしとけばよかったのにね。もったいない感じです。


女性陣は他にもいろんな人がでてくるのだが、「主演女優が岸本加世子である」というところがまた“時代”である。ああいう“アンニュイ”っぽい人が憧れられてた時代だと思うんだよね。ぷっつんな人生がかっこいい、みたいなトレンドがあったと思う。

ドラマの制作は88年。日本が永久に終わらないのだと信じていたバブルの崩壊まであと一年。富士銀行が世界のトップバンクであった時代。日本人はNYで恋物語のドラマを作ってた。

日本中のおじさんもおばさんも憧れた。「ニューヨークで恋をする!!」



ばぶるだ・・・


つまり、明大前とかじょーじとか、百万遍とかミナミとか、そんな地味なとこで恋してるばーいじゃないだろと。NYだと。恋するならと。なんたって、“Japan as Number 1”なんだから。天下の日本人だぞと。エンパイヤステートビルも買っちゃうぞと。


セントラルパークのレストラン、なんだっけ、たべるなおんざぐりーんだっけ、あそこがやたらと“きらぎらしく”でてくる。日比谷公園の松本楼みたいなとこなんですけどね。

で、田村正和シャブリをオーダー。しかもNYロケなのに、ぎゅうぎゅうのレストランでも田村正和、すかして煙草吸ってます。NYもそういう時代ってこと。


真田広之が「心のきれいな青年」役なのも今ではあり得ない気がするなあ。もったいなすぎるキャスティング。

これ何が一番おもしろいって、「韓国ドラマ」に似てるわけ。仰々しいセリフとか、海外ロケとか、わざとらしいキャラ設定とかね。

ああ、こういう超はりぼてちっくなドラマが好きなんだな〜、ちきりんは。とわかったです。

リアルなドラマとかおもしろくないわけ。ドラマなんてドラマなんだから、とことん「人工的」な方がいい。



テラスで髪の毛洗ってもらうのが永遠の夢かもね。


んじゃ!

2008-02-27 絶対手にいれるだす!

ご存じかもしれませんが、ちきりんは「家にあるモノの体積を減らす運動」を主宰しております。http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20071003

で、ヒマさえあれば片づけたり捨てたりしているわけですが、同時に「増やさない」ことがとても大事。なので旅行に行っても最近は全くものを買わなくなりました。お土産屋とか雑貨屋にいくと「うわあ“将来のゴミ”がいっぱい!」と思えます。

でも、「買い物することの楽しさ」を捨て去っているの?というと、そんなことできないです。「買う」ってのは本当楽しい。ストレス解消にもなるし、るんるんする。これはそんなに珍しいことではないと思います。女性の多くがそうだと思うし、男性でもモノ買うの好きな人いるよね。

「ショッピングアディクション」(買い物中毒)という言葉(病気?)があるらしいけど、わからなくもない。派手に買い物するとほんと爽快、気持ちよい。

★★★

ものを増やさないと決めてからは、この「買う楽しさ」と「モノが増える」という現象を「切り離す」よう意識してる。つまり、「買ってもモノの体積が増えないものを買う」ことにしています。

ここは重要ポイントなんです。だって、買うこと自体を我慢してしまうと続かないです。なんのために働いてるのか?とかいう哲学的な問いにまで発展しかねない。そんなお金貯めてどーする?という話になる。だから、「買うのはいいが、モノは増やさない」という方向で解決をはかることが大事なんです。


で、何を買っているか、というと、

(1)形のないモノを買う。つまりサービスを買うってことね。典型的なのが旅行。リーズナブルな普通のホテルではなく高級ホテルや旅館に泊まるようになった。移動にタクシーを使うのもいとわない。「お金を使ってモノが増えない」ってのはありがたい。食事に行くレストランの値段も気にしない。おいくらでも払いますよ、って感じだ。


(2)消耗品にもバンバンお金使う。化粧品とか食材とかね。こんな高いお肉買ったこと無いぞ、みたいなお肉を買う。化粧パフとか、前は一箱100円のを買っていたのに、今は一箱600円のを使うようになった。ふわふわして超きもちよい。


(3)最後に“買い替え”ですね。形として残るけど、今持っているものを処分して買い替える、というパターン。これも買い物してもモノは増えない。

というわけで、最近いろんなものを買い替えてます。いやもちろん、ある程度古くなったり壊れたものを、だけどね。

そのうちの一つで最近探しているのが「枕」。枕屋さん(正確には布団屋さん)に言わせると、枕は3年程度で買い替えるべき、なのだそうだ。


皆さん、今の枕、何年使ってます??


そんなん知らん、という人もいそうですね。ちきりんはなんと10年目!!!あー驚いた。こんな長く使っていたのね。たいしてへこんでる感じもないし、もちろん汚れているようにも見えないのではあるが、さすがに買い替えるべきではないか?という気がしてきた。

こういうのって引越の時に買い替えるパターンが多いのではないかと思うのですが、ちきりんは最近引っ越しをしてない。んで、放っておくと永遠に使ってそう、と思ってちょい怖くなった。ダニのお墓になってたらどーするよ?って感じ。


もちろん、枕屋が「3年で買い替えろ」と言ってる、ということはおそらくその倍の6年くらいは大丈夫なんじゃないの?と思うけど、それにしても10年は長すぎかも。

で、西川っていうお布団屋さんがあるじゃない。あそこでいろいろ「お試し」してみた。

うーん。


ちきりんが欲しいのは、欧米の一流ホテルにある「ふかふか」「どでかい」系のまくらなんだよね。できればダウン100がほしい。

でも、なかなかない。ダウンを50%混ぜると残りがフェザーでも「ダウンピロー」という表示が可能になるんです。なので、ダウンは50%だけ、という枕が多い。サイズも50×70がせいぜい。なんでかっていうと、それでも値段が1万円になるからです。

これより大きくして、これよりダウンの比率を高くすると2万円以上のまくらになるわけで、そんなのなかなか売れないだろうと、だから余り売ってないのよね。

欧米のホテルのまくらだと、多分大きさは50×110近いと思う。ダウンの比率と量ももっと多い感じだ。50×70で50%で1万円と考えると、ちきりんの欲しいものだと3万円くらいしてもおかしくない。まあ、新規のモノをあんまり買わなくなっているから予算はたっぷりあるんで値段は問題ない。


で、是非ほしい!

と思っているのだが・・・



結構見つからないもんだね。ネットだと売っているのだが、でも、やっぱり触ってから買いたいじゃん。ふわふわ感が勝負なのに触らずに買うのはいかがなものかと。

というわけで、そのうち日本橋三越とか玉川高島屋とかお金持ちの方が行きそうなデパートを探してみようかな〜と思っています。3月にNYにいくのであっちのデパートも回ってみよう(持ってかえれるんだろうか?)



ただね、ちょい時間かかりそうで、放っておくとそういう枕が見つかるまでまた数年かかったりしたら困るので、とりあえず日本橋西川でダウン50の枕を買ってきた。1万円。

家で今まで使っていたのと較べてみた。大きさは同じ。見た目は変わらない。10年使ってたのは「羽根枕」と表示してあるから詰め物は大半がダウンではなくフェザー。だからある程度違うのはわかるのだが、なんと・・


重さがすごい違う!!!


もった感じの重さが違うわけ。詰め物の量がそもそもちがうのか、フェザーとダウンの比重の問題か?古い枕の方が3倍くらい重い。これなにさ??(そもそも新しい枕も半分はフェザーなのに・・)


もっ、もしかして・・・10年分の埃と垢とダニの死骸の重み〜???とか想像されて怖くなったよ。



とりあえず買い替えてよかった。


というわけで、ホテル枕探します。あのふわふわ、超大きい枕、探すです。絶対見つけるだす!

あと、多分ベッドパッドも違うと思うのよね。ああいうところのベッド、めっちゃふわふわなんだよね。あれを家でも是非実現したい。でも、どんなベッドパッドなのか確認したことないので、次の出張で見てこよう。これも買い替え品ですからね。。


楽しいね、物を買うって、考えただけで嬉しい。楽しい。


買い替え品以外は買えない体(?)になってしまったので、「これは買ってもOKなモノなんだ」と思えると、とてもウキウキします。


でか枕、ふかふか枕 手に入れたらご報告します。ベッドパッドも研究して、あのふわふわベッドをお家に実現するぞ〜!


そんじゃね!

2008-02-26 洗脳されやすさチェック!

例えば40歳で、病気や障害などの理由で働くことができなくて、貯金もなくて、生活できないという人が杉並区か中野区あたりに住んでいるとしましょう。

九州か東北などの遠く離れた田舎にはその人の年老いた親御さんが、古い一軒家の持ち家に住んでいらっしゃると。そんな貯金があるわけではなく、細々と年金で暮らしていらっしゃると、してみましょう。

その人(40歳の人)が区の生活保護を申請しに来た時に、「生活保護もらう前に、田舎の親の家に戻って住んでください。」といって保護申請を断るべきか、という問いに対して。

「働くことができないのに、それでも独立して一人で暮らしていきたいなんて贅沢でしょ。保護費は税金なんですからね。わがまま言わずにそれくらい我慢して、田舎に帰ってください。」といって保護申請を断るべきか、という問いにたいして、



4日前と、今日で意見が違う方は、

洗脳されやすい方ですよ!!


宗教の勧誘に気を付けましょうね!


ではでは

2008-02-24 贅沢

ずいぶん前の話。『五体不満足』という自伝がベストセラーとなった頃、著者である乙武洋匡さんのインタビューをテレビで見ました。

「街の中の移動で一番大変なことは?」という司会者の質問に、乙武さんは「彼女とラブホテルに行くと段差があって大変なんですよ。場所柄、誰にも助けてもらえないし」とにこやかに答えられました。

ちきりんは、この答えを聞いて“プチ驚愕”しました。


お笑い芸人か深夜のお色気番組ならともかく、一般の人がテレビで“自分が彼女とラブホテルに行った時の話”をすることはほとんどないでしょう。

テレビでこんな発言をすれば、彼女の父親の耳に入ることも考えられます。

たとえ彼が未来の婿であったとしても、自分の娘とラブホテルに行ったと彼氏がテレビで語っているのを聞くのは、親としてどんなものでしょう?

嫁入り前の娘を持つ父親としては「ぶんなぐってやろうか」くらいに感じてもおかしくはないはずです。


もちろん乙武さんも、そんなことは十分に理解されていたと思います。それでも彼が、影響力の高いテレビ番組でわざわざそういう発言をした背景には、それなりの理由があったのでしょう。


“車いすが段差の多い街で大変”という話をしたいだけなら、駅前の放置自転車の話でも、近くのスーパーマーケットの入り口の段差の話でもいいんです。なぜわざわざラブホテルの段差なのか。

乙武さんは「ラブホテルに行くことも含めて、障害者が健常者と同じような生活をすることは当然であって、贅沢なことでもおかしなコトでもないのだ」というメッセージをこの発言に込められたのではないでしょうか。

彼が言いたかったのは決して“町中にある不便な段差”の話だけではなかった。そんなことよりも、もっと重要なことがあった。だから敢えてそういう例を選ばれたのかなと思いました。


おそらく彼はずうっと言われてきたのでしょう。

「(そんな障害があるのに、)大学に行くなんてすごいね」

「(そんな体なのに、)彼女がいるなんてすごいね」と。


周りの人はもちろん彼の努力や成果に驚き、賞賛してそう言うのでしょう。

でもそのたびに「みんなにとって普通のことは、私にとっても普通のことであり、すごいことでも特殊なことでもないはずなのに」と感じていらっしゃったのでは?


あの時の彼の、とても自然な「なんの気負いもなく僕はこの発言をしています」というその態度もまた、「僕はこれを言わねばならない」という気持ちをストレートに伝えていました。

青筋をたてて主張するのではなく、さらりと自然に伝えることの効果も含め、よく理解されているように見えたのです。


五体不満足

五体不満足


育児中の母親や、親を介護中の人にとって、冠婚葬祭などどうしてもはずせない用事がある場合には、誰かに「明日、手伝ってもらえませんか?」と頼めても、自分が美容院や同窓会に行くとか、ましてや友達と遊びにいくという理由で、他の人の支援は頼みづらいと聞きます。

これも同じ心理でしょう。「そういう立場の人がそこまで望むのは贅沢だ」という気持ちが、頼まれる側のみならず頼む側にも存在していて、だから頼みにくいと感じるわけです。


そして、自分が頼む時にそう感じる人は、誰か他の人がそういう依頼をするのをみれば、「自分の楽しみのために子供の世話を他人に頼むなんて身勝手だ」と思うのでしょう。

一般的な子育てでも 10年は子供から目が離せない時期が続きます。介護なら 20年続くこともあるし、自分の子供に障害があれば、自分の寿命の限りそういった生活が続きます。

そんな中で、たまに自分が遊びにいくために人に支援を要請するのは、そんなに“贅沢”なことでしょうか。


世間には、「この世には、生きるのに必要不可欠な最低限の活動と、楽しみのための“贅沢な”活動のふたつがある」と考えている人が多いのです。

そして後者については「すべての人に許されているわけではない」らしい。


“楽しみのための贅沢な活動”は、自分ひとりで生きていける、自分で稼いでいる、そういう人だけに許される。そうでない人は“生きるのに不可欠な最低限の活動”だけで満足するべきだ、そんな考え方があるように感じます。

本人に障害があったり介護されている場合はもちろん、そういう人の世話をしている家族にたいしても、往々にしてこの考えが適用されます。

「自分の子(親)なのだから貴方が面倒を見るのは当然であり、そんな最中に他人に世話を頼んで自分が遊びにいくなんて我が儘だ」という話になるのです。


でも、たまに息抜きしたり楽しみのために出かけたりすることは、本来は、苦労の多い生活をしている人にほど必要です。

育児中なのだから、介護中なのだから、障害を持つ子供がいるのだから、遊びに行くなんて我が儘だ、贅沢だと言われたら、つらすぎるでしょう。


楽しく笑いながら、時にはバカ騒ぎしながら生活を楽しむことはすべての人に許されています。どんな立場の人であれ、ただただ息をして生存できていれば満足するべきだ、などと言えるはずがありません。

誰かにとってごくごく普通の生活が、他の人達にとっては手の届かない“贅沢”なものである、なんてことはあってはならないのです。


障害があっても大学生活を楽しみ、時にはラブホテルにだって行くのかもしれない。介護や育児をしている人が、お酒を飲みにいったり、時にはカラオケで深夜まで騒ぐこともあるかもしれません。

そういう行動が(自分には当然に許されるけれど)“彼らには許されるはずのない贅沢”として非難されたり驚愕されるのではなく、ごく自然に、ごく当然のこととして受け止められる社会になればいいなと思います。


そんじゃーね。


関連エントリ 「豊かになる意味」


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2008-02-23 豊かになる意味

先進国になると必ずでてくるのが「これ以上、豊かになる必要があるのか?」といった議論です。

真夜中でも煌々と電気がついた街で、24時間多くのサービスが受けられるし、猛暑の中、クーラーで冷やした部屋でサマーセーターを着用し、冬にはシャツ一枚で歩けるくらい家全体を暖める。

「こんな生活をする必要が本当にあるのか?」とは、誰もが一度はもつ疑問でしょう。

政府は毎年、当然のように「何%の経済成長を目指す」と目標を掲げます。しかしいったい私たちは、何のために経済成長を目指すのでしょう?


私も以前はこの質問に明確に答えられなかったのですが、20代の終わりにアメリカに留学した時、その学生街でみた光景からこの問いへの自分なりの回答を手に入れました。

ちきりんが留学した大学のある街は、当時のアメリカにおいてさえ注目されているほど、極めて社会的に実験的な街でした。

ホームレスや障害者、まだ効果のある薬が開発されていなかった時期の HIV ポジティブの人など、

「弱者と呼ばれ社会から疎外されていた人達に、強者と同じ機会を与えるべき」

という思想と理想を、大学はもちろん街全体が実践しようとしていたんです。


バスはすべて自動昇降ステップがついていて、実際に多くの停留所で車いすの人が乗り降りしていました。

授業には聴覚、視覚、四肢様々なところに障害をもつ学生達が出ているのですが、彼らにはボランティアの学生が授業ごとに一対一でつき、ノートをとったり教科書のページをめくる手伝いをします。


そういった人達も学生寮で暮らせるよう、毎週1時間でもボランディアができるような仕組みになっていて、多くの学生が洗濯などの日常の手伝いや、外出の手伝いをします。

外出は、買い物や授業にいくなどの不可欠なものだけではなく、フットボールを見に行くとか、デートに行くとか、そういう外出も含めてサポートしてもらえます。

様々な条件をもつ人が「普通の生活を望むことの当然さ」を、街全体が受け入れていたのです。


その結果、全米から、そして世界から障害のある学生がこの街に集まっていました。

ここなら彼らも親元を離れ、大学生として一人暮らしや寮生活をすることが可能になるからです。


★★★


障害者は隔離されて教育されるという時代の日本で義務教育を受けてきた私には、それは衝撃的な光景でした。

そして、ようやく理解できたのです。「国が豊かになるとはこういうことなのね」と。

「こういう社会を実現することが可能になる、それが国が豊かになる意味であり、目的なんだな」と。


発展途上国に行くと、バスには溢れんばかりに人が乗っています。

走り出したバスのドア枠にしがみついて乗車し、降りる時は周りの人を押しのけて飛び降りる。

信号もない交差点を洪水のように走り続けるバイクや車の列の合間をぬって道を横断する。

駅の階段にはエレベーターもエスカレーターもない。


そういった環境では、車いすの人はおろか、杖をついているだけでも日常生活に大きな支障がでます。

事実上、ひとりでは街にでられないといっても過言ではないでしょう。


経済発展して何の意味があるのか、という問い。

人は本当に経済発展と共に幸せになっているのか?という問い。

便利なものはなかったけれど、昔の方が幸せだったのではないかという疑問。

「これらの疑問や問いは、強者が感じるものなのだ」と気がつきました。


階段がなんなく上れて、車やバイクで大混雑している街でも移動に困らない、

そういう人だから「贅沢では?」などと思えるのです。


私も若い頃あちこちに旅行し、発展途上国の大都市における無秩序でエネルギー溢れる様子に感動し、興奮しました。

しかしあの高揚感こそまさに、私が「強者」であったからこそ楽しめたものだったのです。


そのアメリカの学生街で過ごした後、私はクリアに答えられるようになりました。

「なぜ経済発展が必要か?」と問われたら、「弱者も生きること、生を楽しむことが可能になるからだ」と。

豊かになるとはそういうことなのだと、あの 2年間で強く印象付けられたのです。


経済状況が厳しければ厳しいほど、人間の社会も基本的には動物の世界に近づきます。

弱者にかまっていられなくなるのです。そして、力のない者は淘汰されます。

戦争になれば、乳幼児、お年寄り、ケガ人や病人、走ることのできない妊婦、体の弱い人から順に死んでいきます。

力の強いもの、生物としての生存能力の高い人しか生き残れなくなります。

災害が起こって、水や電気が止まれば、持病のある人、透析や人工呼吸器やペースメーカーが必要な人、共同生活ができない状態の人は、命の危機さえ感じなくてはなりません。

それは「疲れる」「よく眠れない」程度の話ではないのです。


弱者も生存でき、生活の楽しみを経験できる世の中にするためには、社会には一定の余裕が必要です。

強者にとっては贅沢に思える設備も、弱者には生活の必須アイテムかもしれません。

だから私は今の日本においてさえ、「もう経済発展しなくていい」とは思いません。

私たちは進み続けるべきなのです。


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んじゃね。


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2008-02-22 貧困問題その2

今回は「日本における絶対的貧困の定義」について考えてみます。

世界的には「その日の食べ物の入手に苦労する生活レベル」を絶対的貧困といいます。

つまり、「今日は、今日の食べ物を得るための人生である」という、文字通り「生きるために生きている」状態を絶対的貧困というわけです。


他に「一日を一ドル以下で生きる人」という基準もありますが、絶対的貧困の人達が住む国の多くでは貨幣経済が機能してないので、こっちの定義は先進国の人が机上で作った匂いがします。

前回のエントリでも書いたように、ちきりんとしては「日本における、ローカル基準としての、絶対的貧困基準」を考える必要がある思っています。

別の言い方をすれば、上記の世界基準を日本に当てはめて「貧困問題は日本には存在しない」という意見には賛成できないってことです。

では、「日本におけるローカルの絶対貧困基準レベル」はどう定義すればよいのでしょう。


★★★


個人的には「大人については」下記が満たされていれば、貧困とは呼ばないと思います。反対に言えば、どれかが満たされていなければそれは「貧困」とよぶべき状態だと思います。


(1)食料確保に不安がない状態

(2)プライバシーと一定の衛生レベルが確保できる住居があること。また、住居と生活様式について、一定の選択ができている状態

(3)家族形態、職業選択等に関する希望を、経済的理由で諦める必要がない状態


食料に関しては、世界基準とは異なり、「今日の食料」ではなく「ずっと手に入れられると見通しがある」ことが必要だと思います。


(2)は住居の話なのですが、一定レベルのプライバシーと衛生状態という部分はともかくとして、後半の“一定の選択ができていること”も必要かと思います。

生活コストには地域差があります。温暖な地域の中堅都市は、寒冷地や都心に比べて住居コストは低いです。暖房不要で、車も不要だし、バイトも見つかりやすい。しかも大都市とちがって家賃も安い。

だから、「生活保護の人はこの県のこの街のこのアパートに集まって住んでください」=「生活保護がほしければ居住地選択の自由は放棄してください」と言えば、生活費、もしくは保護費は安くできます。

実際、東京で生活保護を受けている人に全員地方に引っ越せと言えば、住宅保護費は安くなるでしょう。

一方で、長年暮らしてきた家で経済的に困窮した高齢者や病気の人にたいして、「生活保護をもらいたいなら、見知らぬ土地に引っ越してください」というのは、たとえそれで食料や住む家が保証されたとしても、適切な貧困対策だとは言えないですよね。


日本における最低限の生活保障というのは、贅沢は言わないまでも、「ここで生きていきたい」という個々人の自由度をある程度尊重できるというのが条件だと思います。

同じ意味で、ちきりんは生活保護の現物支給案に関しても賛成ではありません。

生活費の中から、米を買うのか嗜好品を買うのかは、支援される人の選択に任せるべきだと思っています。


★★★


最後に、「お金がないから子供が産めない」とか「経済的理由により、この仕事以外は無理」という状況もまさに貧困状態だと思います。

誤解のないように書いておくと、多くの人が子供の数を制限する理由として経済的な理由をあげますが、あれはここでいうところの「お金がないから子供が産めない」とは違います。

多くの人達は、子供に十分な教育を受けさせたいとか、個室の子供部屋がもてる住居を用意したいがそれは無理だから・・という判断をしています。

が、そういうケースではなく、もっと切実な意味で、お金がなくて子供が産めない人がいるんです。

たとえば夫婦2人がめいっぱい働いてぎりぎり食べていけるような家庭では、女性は出産のために仕事を一時的にもやめることができません。

派遣で働いていて産休もとれず、子供が生まれた後の職場復帰もできない場合も多々あります。そういう場合は、本当の意味で「お金がないから妊娠なんてできない。」という状態になります。

これはやっぱり貧困と言えるのではないでしょうか。

また、子供が高校や大学への進学を諦めて働かなくてはならない、という状態も貧困と思えます。

生活保護家庭で育つ子供達には、こういった判断を余儀なくされている場合も多そうです。

というわけで、「食べるに困らず、最低限の住環境が住みたい場所に確保できており、家族形態や職業選択について経済的な理由で断念しなくてよい暮らし」が、すべての人に保障されるようになれば、日本には貧困はない、と言える・・・これがちきりんの考える貧困の定義です。


もちろん上記は個人的な考えであって、いろんな人が多様な意見をおもちだと思います。

貧困問題は最近はよく議論されますが、「いったいどういう状態を貧困状態と呼ぶのか」「何が確保されていなければいけないのか」という点について、具体的に議論されることが少ないように感じました。

「健康で文化的な最低限の生活」とはどんな生活だと私たちは思っているのか、みんながより具体的に議論してみるのもこの問題を考える一歩になるかもしれない、と思います。


そんじゃーね。

2008-02-17 お宝デッサン

本日の写真は、若き日のちきりんを、とある絵描きさんがデッサンしてくださったもの。モノを減らすためあちこち片付けていて見つけました。


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この頃、ちきりんは二十代前半。デッサンなのに「若〜い」と思わず嘆息。着物を羽織っているところ。同ポーズで(記録のため)写真も撮ってあり手元に残っています。

最終的には油絵になったと思うのですが、その絵が今どこに行きついているのか。確か展覧会の壁で見た記憶はあるんだけど。


★★★


こちらは、同じ方から届いた手紙の、便せんの端に書いてあったちきりん。

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「丸の内のキャリアウーマンになったちきりんは、きっとこんな感じで颯爽と歩いているのでしょうね」と。

勝ち気そうな視線。意思をもった姿勢。こんな表情をしていたのだね、きっと私は。




この絵を見て一目でこれがちきりんだとわかる人は、ちきりん含め世界で3人。いや、もしかしたら4人だろうか。



青春時代には、ちゃんと青春ぽいことが起こる。



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2008-02-16 資本主義と民主主義

今日は、「資本主義」「民主主義」という言葉の使い分け方法についてです。

私は、

(1)富の配分方法の差異を強調したい時は、資本主義(vs社会主義、共産主義)という言葉を使っています。

富を「その富を創造した人に配分する=すなわち私有とする」のが資本主義、

「富を、創造した人ではなく、社会や国家の共有物と扱い、必要な人(=富を創造した人とは異なる)に配分する」のが共産主義という感じ。


(2)一方で、富の話ではなく、「権限が一部の人にのみ与えられている=集中している、か否か」を強調したい場合は、民主主義(vs独裁、封建主義)という言葉を使います。

富とは関係なく、社会の意思決定、制度設計が、特権的な地位、権力をもつごく一部の人によって独占的になされているか、もしくは、全員の多数決=民主主義によって決められているか、ということです。


この使い分けは時にかなり微妙です。

たとえば欧州の美術館、博物館の多くは、昔は貴族・王族しか入れない宮殿でしたが、今は誰でも入れます。

「貴族の宮殿に、わずかな入場料さえ払えば誰でも入ることができ、王族、貴族しか触れられなかった財宝、絵画を、たいして富を持たない一般人も鑑賞し、楽しむことができる」現代社会は、非常に“民主的”です。

これを、富の配分方法の話だと考える人もいます。

しかし私はこれを富の配分の話ではなく、「文化・芸術を、特権階級が独占しているか、皆が平等にアクセスできるか」という話ととらえ、民主主義的な社会か否か、という話だと解釈しています。


それにそもそも昔の貴族社会も資本主義ですよね。

“にもかかわらず”その頃は、庶民はこんな宮殿(=今の美術館)に入ることも、そこに展示されてる絵も見ることはできませんでした。

だから「今、庶民の私たちが、この絵を見られる理由」が「資本主義のおかげである」と書くことには違和感があります。

当時と今の違いは「資本主義か社会・共産主義か」ではなく、「一部の特権階級である貴族の独裁社会」か「一般選挙で権限が平等に分散している社会か」の差なのです。


★★★

このふたつの言葉(概念)の使いわけ方は、人によってかなりブレがあります。

その理由は、「民主主義」という言葉がとても耳障りが良いため、かっての西側諸国、すわなち資本主義陣営によって、長きにわたり、かなり都合良く使われてきたためでしょう。

アメリカは「資本主義以外の体制をとる国に、民主主義は存在し得ない」と主張します。民主主義は、資本主義を前提とするという考えです。

一方の共産国の多くは「プロレタリアート“独裁”」という方法論に縛られ、「共産主義と民主主義は相容れないものである」という概念に有効に抗弁できませんでした。

“一党独裁”でありながら民主主義とはこれいかに?ということになるからです。


本当は人口の99%が労働者である状況で「労働者独裁」なら、それって民主主義と言えるのかもしれません。

でも私たちはずううっと西側諸国の考えを刷り込まれて育っていますから、多くの人が「資本主義でなければ民主主義は成立しえない」、

すなわち、このふたつの言葉の間には「必然的な関係性がある」と感じています。


★★★

他にも、この二つの概念が混乱しがちな理由が存在します。

それは「原理的に考えるか」「実質的な結果論で考えるか」という話です。


たとえば、上記には「必要な人に富を配分するという考え方が共産主義」と書きましたがこれは原理原則の話にすぎません。

実際、共産主義の国で「必要な人に富を配分してる国ってどこ?」っt感じです。

寧ろ資本主義国家の方が、様々な社会再分配機能(税金、社会保障制度)を充実させ「必要な人に富を配分している」と言える状況です。

だから、原理原則で考える場合と、結果論で考える場合では話が真逆です。

なんでそーなるかというと、「生み出せる富の総量」が資本主義と共産主義では圧倒的に異なる、ことが歴史的に証明されてしまったからです。

★★★


富の総量の拡大(富の創造)と、富の配分方法は、別の話です。

どっちの体制がより経済発展するのか、という話と、経済活動の果実である成果物をどう分配するのか?という話は、理論としては別です。

しかし、富の創造の絶対量に圧倒的な差が生じると、話は別ではなくなります。たとえば、

A国は、国全体で100億円の富を創造し(GDP100億円でもいい)、100人の国民の内、ひとりが90億円を配分され、のこりの99名が10億円を分けて配分される場合、庶民はひとり1000万円ほど受け取れます。

B国は、国全体で1億円の富を創造し、国民100人で平等に分けました。ひとりあたり100万円です。

こうなると、不平等なA国の方が、庶民のもらえる額は10倍も多いのです。


ここから、「富の配分方法なんてどーでもいいじゃないか=格差はあってもいーのだ、気にするな!」という話がここから生まれます。

とりあえず富の総量(全体のパイ)をでかくすることが大事なのだ。それこそが解なのだ!という理屈です。


原理原則の世界では「富の配分」に関しては、

資本主義=格差があり、底辺の人は悲惨

共産主義=格差がなく、底辺の人という概念さえない

となるはずですが、


結果論としての現実では、生み出せる価値の総額=富の総額、が大きく違うため、

資本主義=格差はあるが、底辺の人も悲惨ではない

共産主義=格差がなく、底辺の人という概念さえなく、皆が貧しい

ということになったわけですね。

★★★

そして本来的には「富の話と、権力の話」も別の話です。

権力を持つ大名、武士より、権力を持たない大商人の方が富をもっていた江戸時代がその例でしょう。

封建時代にも王室・皇室ほどの権力は持たないが、富はもっと多い地方貴族、はたくさんいたでしょう。富と権限は別々に存在しえるのです。

ところが、「富を持つと権力をもつことができる」というのも、また事実です。将軍の権力を“ワル”の越後屋が左右し、大企業が政治献金により政治家の意見を左右するようなパターンもあります。


反対に「権力をもつと富が持ちやすい」のももちろん事実ですね。

ブッシュは知事や大統領という権力をもつからこそ、自身のルーツであるエネルギー産業に富を集めるため、京都議定書にもサインしないし、石油価格高騰にも対策は打たないという行動が可能になる、ってわけですよね。

さらにさらに、権力を広く分配すると富も広く分配される、というのもまた事実。「民主主義だと、権限だけでなく、富も、ある程度平等に分配される」ということ。選挙でそういうプレッシャーがかかる。


というわけで、本来独立概念だと思われるものが、実質的には相互リンクしてる。

富=権限なら、このふたつの概念を分けて語ることに意味があるのか?いやない、ってことになる。

ちきりんが一番最初に書いた(1)は富の分配の話、(2)は権力の話ですが、富の分配・配分には意味がないわ、しかも富と権力をわける意味もなし、と言われると、あの定義分け自体無意味となります。


現代社会に生きる私達に、(ある程度)広く平らに豊かさをもたらしたものとは、果たして「民主主義」なのか「資本主義」なのか? どっちなのでしょう?


これにたいするちきりんの回答は、

→「私達に(ある程度)広く平らに豊かさをもたらしたもの」は、

=「広く平らに」by 民主主義

=「豊かさ」by 資本主義

です。


ただ、最後に皮肉なことを書けば、「ああいった超一級の芸術品を、誰でも鑑賞できる」のは確かに民主主義のおかげかもしれないのですが、

その一方で、そのまさに鑑賞の対象物であるコンテンツ、すなわち絵などの芸術品の大半は独裁的な封建主義、貴族主義のもとでこそ誕生したものだということです。

非民主的な社会だったからこそ、あんな宮殿がたち、あんな芸術品が生まれているのです。

民主主義で、かつ、一級品の芸術が生まれた国って、今の先進国がチャレンジ中なので、まだ将来的には可能かもしれないけど、今までのところ例はないですよね。

そもそも民主主義では、あんな宮殿自体(美術館の建物自体)を創り出すことができないのでは?とも思います。


そういう意味では、「あんなすばらしい美術館を堪能できる庶民の私たち」が感謝すべきは

(a) あんなすばらしい美術品を生んでくれた非民主的な社会(独裁社会)

(b) 全員にそれへのアクセスを平等にくれている民主的な社会

の組み合わせということになります。


つまり、「非民主的な社会がまず存在し、次に民主的な社会が到来する」という順番があって、はじめて、私たち庶民はあのすばらしい美術館とその所蔵品を楽しめている。

とも言えるのです。


ではでは!

2008-02-13 Tokyo is for...

現実のニュースで、韓国の李明博大統領が「大統領就任式の時は日本の首相のみと会談する」と発言し「日本重視」の姿勢を見せてるとのこと。「未来志向が必要だ」って言ってるらしい。


どーも信じがたい。

だって、この人はドラマの中では(“英雄時代”というドラマね)、朴正煕大統領が韓日国交正常化をしようとするのを「屈辱外交」と位置づけ、学生運動に身を投じ逮捕投獄までされている人なんだよ。それなのに、ずいぶん昔と違うじゃん?

まあ、日本だってあのナベツネが共産党活動をやっていたわけだから、時代というのはそーゆーもんかもしれんけど。

などと、現実とドラマの境界線がつかなくなっているちきりんなのです。

だって、テレビといえば今やニュースと韓国ドラマしか見ないちきりんなのに、どっちみても李明博氏が出てるんだから、そりゃあつながっちゃうわけだす。



一方で、2.26事件や大正デモクラシーの本を読みつつ、時代背景の全体感を掴むことに四苦八苦している身としては、「日本も近代史をドラマにすりゃーいーのに!?」と、最近すごく思うのよね。

日本の大河ドラマって、なんであんな“侍時代”の話ばっかりなんですかね???大半が幕末・明治の始め、で終わってるでしょ?

近代史に関しては解説番組はあっても、一気通貫して時代の背景を語るようなドラマが少なすぎる、と思うのだけど。その時代のドラマでも“できる限り背景の時代についてはサラッと流す”ようにしているみたいにみえる。つまり、「あえて時代を描くことを避けてる」という気がする。

明治から昭和への近代化から軍国化への歩みとか、戦後の復興と米国支配の確立期とか、テーマとしてすごくおもしろそう。

60年、70年の学生運動だってストーリー性に溢れた時代だったのに、映画もドラマも「超・変」なマニアックな記録(記憶)映画みたいなのしか存在しない。そーじゃなくて、お茶の間で見られるドラマで、そういう時代の普通の学生の生活を描くようなそういうドラマが(韓国ドラマには沢山存在するのに)なんで日本では少ないのだろう??視聴者が見たくないのかな??

ひとつの理由としては、構成作家とかテレビ局のダイレクターとか自身が、ちきりんと同じで(そして視聴者も同じなのだが)、近代史を勉強してない(学校がとばしている)から、具体的な関心が持てないからなのでは?とも思っているのですけどね。


確かに微妙な判断を伴う時期ではあります。中国での虐殺を「なかった」とかいうトンデモご意見まで存在し得る世の中だからね。ドラマにしようとするといろいろ気を遣うこともあるんだろう。なんだけど、そういう「いろいろややこしい」ことにたいするリスクの取り方も、日本と韓国ではすごく違う、という気もします。

“英雄時代”は、前にも書いたとおり、軍事独裁政権や財閥を評価しすぎであるとして韓国国内ではイマイチの評判であったらしいと書いたけど、財閥や当時の政権関係の人だって、手放しでこのドラマを喜んでいるわけでもあるまいに、と思います。韓国の近代政治史は自民党独裁が続いた日本よりよほど複雑なのだから。

“京城スキャンダル”にしても、あれでは日帝時代がまるで明るく楽しい時代のように描かれている、という批判も当てはまる、と思う。苦々しく思う人達はいるでしょう。

なんだけど、「まあ、ドラマなんだし」ということで「作っちゃう」という姿勢があるんだろうな、と思います。日本より韓国のほうが、おおらかというか、細かいことを気にしてない。大胆な感じがする。

それが、(こじつければ)日本製品の精密さが未だ競争力をもっている所以でもあり、少なくともグローバル企業に関していえば日本企業が韓国企業の経営にずいぶんな差を付けられてしまったことの理由のひとつなんだろうなとも思います。

★★★

ところで最近、韓国ドラマが放映されるとき、登場人物の「胸のあたり」にボカシがかかるケースがあるんです。これなに?と思いました。もちろんエッチな場面とかではないですよ。洋服を着ていて、普通のドラマのシーンで、特定の登場人物の「胸」のあたりに大きなボカシがかかる。

なんだろう????

とすごく不思議だったのですが、つい最近、思いついた。

「洋服の胸についているロゴ」を消しているんだと思うんです。日本ではテレビに映せないロゴ、がついているのだと思う。もちろんエロ系のロゴではありません。儒教国韓国はそういうことは日本よりうるさいので、そんな服は最初から使ってないはず。


じゃあ、どんなロゴがついている服なのか?


可能性はいくつかありますが、たぶん偽物ブランドロゴか、キャラクタープリントがついているんだと思います。キティちゃんとかポケモン、ミッキーマウスとか、全くロイヤリティが払われてないと明らかにわかる「偽物系Tシャツ」を着て演技してるんだよね。偽物シャネルとかもあるかも、です。

いずれにせよね、たとえ韓国国内でしか放映しないという前提の時期であっても、そんなロゴのついた服を使って撮影するという“おおらかさ”“適当さ”“いいかげんさ”がおもしろい。日本のテレビ局だともうちょとそういうの気にしていると思います。

で、そういう“おおらかさ“があるから、ああいう自国の近代史を、様々な思いを持つ人が存在する“ついこの間の記憶”を、いろんな形でドラマにできるのかもね、とも思います。

違う言葉で言うと、いろいろ考えすぎると、できなくなることが多くなるってことでもある。




関係ないけど。一つ前の出張で、ロンドンでこんなロゴが胸についているTシャツを見ました。

TOKYO is for US.

なるほど。うまいよね。



じゃね。

2008-02-11 南大門ショック

信じられない。ソウルの南大門が焼失。写真を見ましたが、驚愕。ちきりんがこれほど衝撃を受けるのだから、韓国の人たちがどれほどのショックか、想像に難くありません。

映像的には911と同じインパクトがあったし、韓国の人にとってはそれ以上の衝撃映像だったと思います。

日本も韓国も中国も、多くの文化財が木造だから、特に放火の場合などは防ぎようがない、というのが実態かもしれません。それにしても14世紀の、ソウル最古の、また、国宝第一号指定の南大門が焼失するなんて・・・

「こんなことは日本では考えられない」というコメントを、朝鮮日報日本語版で読みましたが、すぐにこーゆー方向のコメントになるのは、ほんとヤな感じ。2者が存在すると、すぐどっちが優位かという話になる。そんなこといっとる場合か?

ちきりんがソウルに行った最初の頃、1993年ですが、当時は、南大門の後ろに朝鮮総督府の建物があり、その後ろに、朝鮮王宮がありました。今は総督府の建物は既に取り壊されており、南大門が崩れ、今では、あの「歴史を語る3つの建物の直線ライン」上から、そのうちの二つがなくなってしまったことになります。

南大門の左右には本当は城壁があったのですが、それは日本統治時代に取り壊され、道路になってしまっていました。その日本軍でさえ残そうと考えた南大門は、巨大な建造物で、空にそびえ、堂々とその姿をソウルの街にうつしていました。

ソウルには王宮はいくつかありますが、あれほどの偉容を誇る美しい門は他には存在しません。

本当に残念です。

再建するにしても相当時間がかかるだろうし(まあ、大統領は現代建設出身だから予算は大丈夫?)、ああいう建物を建て直しても、それはあくまで偽物、というのは、日本人なら感覚的に理解できるところ。(日本にも偽物のお城があちこちにあるよね)



つらいなあ。

2008-02-06 いちご大福キット

写真は「いちご大福キット」

ちきりんは、冬はこの和風デザートがお気に入り。普通の大福にいちご5〜6個の割合で、自分で「いちご大福」を作りながら、食べる。だから“キット”。

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市販のいちご大福って全体にピンクだったり、いちごが少なかったり、乾燥したり、してるでしょ。でもこのキットなら、食べる直前まで両方の食感が保存できて超美味しい。

大福側に水分が沁みだすこともなく、イチゴ側が乾燥することもありません。それぞれを交互に口に入れるか、大福を半分に割って、あんこのところにイチゴを“むにゅ!”っと差し込んで食べます。


子供とかお客様に出す時は、イチゴを半分か4分の1に切って出すと食べやすいです。

大勢の時は、大皿に大福をつみあげ、いちごも大きな椀に山盛りにして出すのですが、すごく豪華でよいです。気軽な集まりならパーティーデザートにもお勧めです。

ただし、食べる時に口まわりがぐちゃぐちゃになるので、あんまり親しくない人との食事、皆がいい服を着ている時の食事にはお勧めしません。


超おいしい。



んじゃ。


http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+personal/  http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+shop/

2008-02-04 常に誰かをいじめたい

中国製の冷凍ぎょうざ事件の調査報道について。


「中国当局は、天洋食品で連日調査を行っていた日本の商社、双日食料を 追い出す形で 独自の調査を開始しました。」(日テレ)


この報道の言葉遣い、わけわかんないんですけど。

「日本の商社は追い出された」と報道すると、まるで、中国当局が日本に何か隠し事をしているに違いない、という印象を、ニュースを聞いている人に残すでしょ。それってフェアな報道なのかな?

公的機関が公的検査に入るんだから、部外者にはいったん出てもらうのは当然なのでは?




「日本では極めて入手が難しいメタミドホス」と、多くの解説者が言います。まるでそれが中国での混入の「有力な手がかり」であるかのように。

このまえ日本でも、スポーツセンターで銃の乱射事件があったでしょ。他にも選挙さなかに市長が狙撃されて亡くなった事件もあったよね。「日本では極めて入手が難しい拳銃で」

「ミスによる混入」なら、入手のたやすさが問題になるのはわかるけど、犯罪だとしたら、入手のたやすさなんて関係ないんです。


出荷した港が中国側一カ所、入荷した港が日本側二カ所なんで、「中国で混入したと見ている」なるほど、これは「一理」はある。

しかし、日本にこういう貨物が入る港が何個あるのか報道してもらなわいと、この「二カ所」というのをどう解釈すればいーのかわかんない。

もしその餃子が 10カ所以上の日本の港に入荷しているおり、「そのうち大阪と千葉の 2カ所に入荷したもののみから、検出された」のであれば、かならずしも中国側で混入したという証拠にはならないよね。

★★★


マスコミって、なんでそんなに中国に喧嘩売りたいのかわからない。


中国からの食品加工物の輸入をストップしたいわけ?

社食も学食も病院等の食事も、ファミリーレストランの食事も全部なくなるか、3倍の値段になってもいいから、そーしたい?ラーメン屋の餃子って、ラーメン屋のおにーちゃんが徹夜して作ってると思ってます?



若者とか中国とか、私たちの国は常に「叩く相手」を探している。

そんなにストレスがたまっているのか?みんな。

「いじめの文化」があるってことか?

中国は“遅れた国”なんだから、こういうことがあれば「絶対あっちが悪い」のだから、マスコミとしてはどんどん先走って叩くのがその仕事? そういえば、日本でも被害者を加害者として報道しまくったサリン関係の事件もあったよね。


いや今回の事件について、日本側の問題だとか、中国は悪くないとか、そんなこと言う気はまったくありません。ちきりんも蓋然性としては中国での方が混入しやすいかなと思っているよ。でも、個人がそう思ったり言ったりするのと、マスコミがそう報道するのは、全然違うだろ?とも思ってる。


意図的な煽り報道は、聞いててとても気分悪い。自分の国のかりにも“報道”と言われる分野に、知性や理性のかけらが感じられないのは、ちょっと哀しい。

★★★

もうひとつ。「手作り」の意味を間違えない方がよいよね。餃子なんて日本で機械で作ろうと思えば作れる。機械で作れば人件費が高いことは無関係だ。実際には日本は電力等も高いのだが、機械の方が人間よりは一定時間内に餃子を作る個数は多い。


なんで日本で機械で作らず中国で手で作らせるか?


「手作り」とパッケージに書くと「よく売れる」からです。「手作り」と書けば、消費者は、まるで「お母さんが愛情を込めて作ってくれた」ような気がするからね。

「手作り」とは、しかし、そういうことは意味しない。

「圧倒的に貧しい地域で、朝から晩まで機械のように、機械の代わりに働く人間が、マニュアルに沿って、思考停止状態で作っている餃子」というのが、「手作り餃子」の意味するところです。

機械製造の餃子の方が、多分、味のブレも少なく、衛生状態もまともなんじゃない?


ばかげてる。

★★★


ペルシャ絨毯とかもそうだよね。最高級品は必ず「手織り」だ。

10代〜20代の本当に貧しいエリアの女性が、日の出から日の入りまで、僅かな休憩時間だけを与えられ、来る日も来る日も、ものすごく細かい文様を、何年も何年も機に織り続ける。

彼女らの多くは幾ばくかのお金と交換に事実上“売られてきた”少女達だ。もちろん、機織りの細かい作業が向いていないと判断された不器用な少女は、「別の場所に」売られていく。


そしてこの機織りの現場には、30代後半以降の女性がいない。


なんでか。




その頃には多くの女性が視力を失うからです。


ほんとーに皆、手織り絨毯が欲しいですか?



んじゃね。

2008-02-03 雪の日、中学時代

今朝は起きたら窓の外が一面の雪で驚きました。

さて、今日はちきりんの中学校時代について書いておきます。


1年の時は 3組、2年の時が 2組で、3年生が 2組です。各学年 3組だけの中学校だった。

市の中心にある駅前の中学校なんだけど、ちょうど住宅地やスーパーが校外に移転、ドーナツ現象で中心部の人口がどんどん減っているタイミングだった。

そしてその頃の地方の公立中学と言えば・・・いわゆる「荒れた中学校」だったんだよね。


これは当時においては全国的な傾向であると同時に、私が行ってた中学はいわゆる「頬に傷」系の人が多いエリアにあって、同級生の中にも「父親が・・」という子がたくさんいた。

そういう家に生まれた彼らは先生なんて“へ”とも思ってない。

先生が何かを注意すると、立ち上がって(先生の)胸ぐらをつかみ

「なんやぁせんせ、ようじか? わいにもんくつけるやなんてええどきょうしとるな。おやじにゆうたろか。はぁ?」ってな感じです。


まじで怖いよ。


特に私の同級生には「大物の子供」が集中しており、先生も手が付けられなかった。

縄張り争いで授業中にいきなり窓ガラスが石で(外から)割られたりするので=「他校からの襲撃」があったりするので、窓側の席はかなり怖かった。

クラスのあちこちに違うタイプの万引き団が形成されてて、中学生なのに同級生の女子のひとりは梅田のキャバレーで働いてて補導されてた。


ある子は家(の商売)がラブホテルで、その一室を子供部屋として与えられてて、ちきりんら友達もそこに呼んでもらって遊んでた。

・・・「でけぇフロ!」とか、純真な男の子が驚いてましたね。


妊娠したといって肩を落とす同級生は、「今、ママのお腹にも○○(=お腹の子の父親の名前)の子供がいる。どっちかが堕ろさないと」などと困った顔をし、

友人の私たち女子は「そ・うだね」的によくわからない相づちを打っていた。

同じ中学校の卒業生でもある教育実習の先生は、1ヶ月でいきなり消えてしまい、後から聞いたら「お父さんが狙撃されて死んだため」だったし、(しかも現場はあたしの通学路!!)

ある日、職員室が凍り付くような空気に包まれていて「なになに?」と思った日は、同級生の一人が体育館の裏でシンナー中毒により死亡しているのが見つかった日だった。


★★★


2年生になる時、学校側は抜本的な対応をした。

女性の先生はすべて他の学校に転出させられた。

かわりにやってきた先生は「すべて」体育の先生だった。体育の先生が、社会も理科も算数も担当する。まずは先生の自衛ってこと。


次に、校舎と校庭を挟んだ反対側にプレハブの校舎が造られ、ちきりんなど 2年生はそのプレハブが教室として割り当てられた。

1年生や 3年生が入る普通の校舎とは校庭を挟んでいるから、かなりの距離がある。

“隔離”ってやつですね。


2年生のクラスが荒れていても他の学年に影響が少ないように。

他校が襲撃してきても、他の学年の子に被害がでないように。

警官が突入してきても、他の学年の子達を動揺させないために。


授業は行われなかった。

あたしはたいてい友達とトランプをやっていた。朝から夕方まで延々と「ど貧民」(大貧民?)というのをやっていた。

時々、万引きというか強盗&恐喝によって近隣の駄菓子屋から奪われたのであろう御菓子が大量に教室に配られた。皆で適当にわけあって食べた。


先生はチャイムとチャイムの間=授業時間中は、教室の前の方にいる。

時間をもてあました生徒が、「ミイラにしたるわ」といってトイレットペーパーを先生に巻き付け、ぐるぐる巻きにしてしまう。

先生は、チャイムがなるのをまって、足だけはずしてそのまま教室を後にする。

教育熱心なまともな親御さんは、自分の子供を 2年生から私立に途中受験で転校させたりもしていた。


★★★


ちきりんの通信簿。

一年の時の成績。年間通して“5”なのは、英語、国語、数学、社会、理科。

二年生の時は、同、国語、数学、体育、家庭科

三年の時は、社会、数学、理科

・・・成績がどんどん下がってる。


二年の時、「体育」が年間通して“5”なのは笑える。体育の授業なんて行われていた記憶はない。

私はクラブ活動で軟式テニスをやっていて、中学生の大会で、150ペア中、最高 2位(他の大会でも 3位、4位)になったりしてた。

だから“体育= 5 ”だったんだと思う。

適当もいいところ。

運動神経の悪いあたし、体育が年間通して 5なのは小学校や高校を併せて後にも先にもこの一年だけ。


一年時の所見:一年間よくやった。更に風格のある人間をめざして頑張ろう。落ち着きも必要。

二年生の時の所見:リーダーシップを更に磨いてください。言葉遣いにも注意されたし。

三年生の時の所見:なし(先生の手抜き)


言葉遣いが悪く、落ち着きが無く、リーダーシップと風格のある子供だったらしい。

今とたぶん同じだ。あたしはなんの成長もしてない。


★★★


当時は中学校の成績(内申書)だけで進学する高校が決定される方式だったから、公立高校でいいなら受験勉強をする必要がなかった。

だから三年生の時はどの教科書もほとんど開いてない。

家で、ではなく、学校でも、ですよ。どの教科書もほぼ新品のまま、3年生の一年間は終わった。


卒業式の前日、ある先生がちきりんを含め、ある公立高校に入学予定の 10人を集めて言った。

「あなたたちは高校へいったら、まず間違いなく落ちこぼれるだろう。授業もぜんぜん理解できないだろう。

でも、気にするな。それはあなた達の責任ではない。あなた達は何も習っていないんだから、わからなくて当然だ。

だから高校へいったら、最初からやりなおしなさい」と。


夕方の、西日の陽がアチコチ凹んだプレハブ教室の床に長く入り込み、先生の横顔を照らしていた。

でも先生が言っていることは、よくわからなかった。


高校に入学した翌日、「実力テスト」が行われた。

そこは公立とはいえ県下でもトップクラスの進学校。

とはいえ様々な中学校から集まった生徒達の学力には大きな格差がある。

だからすべての学生の学力を最初に試験で判定する。

そのテストを見て、あたしはあの卒業式前日の西日の教室を思い出した。


ああ、そういうことだったのか、と。

これがわからないのは、私のせいじゃないと(先生は)言ってくれていたのね。

算数の試験には、“数字の右斜め上に、小さな数字が”書いてあった。

「なんでこんな小さい字で書くんだろ?」と思ってた。

乗数なんて知らなかった。


★★★


この中学校に通えて本当によかった。

学校であるにもかかわらず「勉強」が機能していない場所だったから、「それ以外の何か」で自分の居場所を確保する必要がある 3年間だった。

それは私に、その後の人生に有用な、いろんなことを教えてくれた。

その後の人生では決して混じり合うことのない、触れあうことさえない、多様な人と交差する機会を与えてくれた。


あたしは小学校の時、本ばかり読んでいた。

現実より本の中の世界の方が圧倒的におもしろかったから。


小 5で「華麗なる一族」を読んでいた私には、その感想を話し合う友達さえ周りにいなかった。

休憩時間ごとに校庭に飛び出していく同級生がまったく理解できない。

なんでドッジボールがそんなに楽しいのか。


でも中学校に入ったら、世の中はとても興味深く思えた。

そこで私は初めて、本より現実の方がおもしろいと気が付いた。

そういうことに早めに気がつくことができたのは、本当にラッキーだった。

本の中に棲むより、現実社会を楽しむ方が余程エキサイティングだと気づいた。

今の言葉で言えば「リア充」に戻れたということだ。


ずっとあとから、大事に折りたたまれたノートの切れ端が見つかった。

それはトランプの大貧民の勝敗をすべて記録した表だった。

私の勝敗は“1300勝 2400敗”くらい。これが中学校 3年間の、私の成績だ。


トランプとテニスしかした記憶がない。

隔離されたプレハブの教室で、ちきりんの中学校生活は終わった。

あんなに多様性にとんだ世界に、これ以降所属することは一度もなかった。

だからやたらと海外に出始めたのかも。

と、今になれば思う。


「もっといろんな人がいるのに」

私が高校以降ずっと感じている“選ばれた人達だけで構成される集団の嘘くささ”

その感覚のルーツはこの時代にある。


楽しく、人生において大きな価値のある 3年間だった。


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