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Chikirinの日記 このページをアンテナに追加

2010-01-26 辺野古への基地移転問題に思うこと

一昨日、沖縄名護市長に、名護市への基地移転反対を訴える稲嶺進氏が当選した。投票率は76.96%、負けた現職の島袋吉和氏は基地移転容認派だった。

勝った稲嶺氏は民主党、社民党などの支援を受けており、負けた島袋氏は自民党と公明党の支援を受けていた。昨年夏の衆議院選でも、沖縄の合計4区で選ばれた議員は、民主党2人,社民党1人,国民新党1人の4名で、自民党は全滅だった。

もはや地元の民意は余りに明確だ。


それでも名護市で基地移設反対派の市長が選ばれるのは、基地が争点化した過去4回の選挙で今回が初めてのことだ。今まではずっと「基地容認派」の市長が選ばれていた。だからこそ辺野古沖への移設が決定されたのだ。

なぜ、今までは容認派の市長が選ばれていたのか?


ひとつの理由は、基地の見返りとして約束されてきた膨大な「地元振興対策費」だ。地元の人がそれに踊らされたわけではない。自民党時代の地方政治はどこも同じだ。

多額の国費が大規模建造物の建設費として投下され、ゼネコンや地元の工事業者、それにまつわる“様々な”人達を潤す。彼らはその膨大な利権維持のために強固な“組織選挙”を展開する。この構図が、これまで基地容認派候補の当選を支えてきた。


“地元振興対策費”はしかし、必ずしも地元の人達を潤すわけではない。大規模な工事の間は、建設作業員の飲み食いだけでも地元の商店街や飲み屋は潤うかもしれない。しかし、そもそも市場性のない多くの建造物は、工事が終われば地元になんら経済的な利益を残さない。

後に残されるものは“基地”という地雷のようなお荷物だ。日本の警察や司法が手を出せない外国の兵隊による性犯罪、治安の悪化、騒音、事故の危険、発展性のない基地依存の地元経済。

沖縄はこういったものを、半ば宿命として受け入れながら戦後の60年余をすごしてきた。


1990年までの東西冷戦時代。日米安保は自由民主党が選んだ戦後体制の要の一つだった。日本政府は「日米安保」の錦の御旗の元に国民を欺くこともなんら厭わず(いわゆる“密約問題”)、「基地を受け入れずして、沖縄に未来はない」と無情な圧力をかけ続けた。

地元の人達はそれらの圧倒的な力に諦念した。圧倒的な権力である中央政府と、巨額の利権に群がる既得権益業者の前に、住民達にできることは多くなかった。


言うまでもないことだが、沖縄は日本で唯一地上戦を経験した地域だ。いつも暮らしている自分の村、その道角や丘の影から、武装した米兵が銃口を向けて自分に向かってくる図を私たちは想像できるだろうか。

地上戦というのは、B29が爆弾を降り注ぐ空襲とはまた全く風景の違った戦争だったろう。多くの証人達が語るように、しかも住民に死を選ばせたのは、必ずしも敵兵ばかりではなかった。本土の子供達は田舎に疎開していた。しかし沖縄の子供達にはその時、逃げる場所もなかったのだ。


その沖縄を日本は敗戦で手放した。日本で唯一地上戦を経験した沖縄は、米軍に占領されたまま、朝鮮やベトナムの地上戦に投入される米兵達の、最前線基地となった。

沖縄が本土復帰を果たしたのは1972年。実に敗戦から27年後。本土は既に高度成長を謳歌していた時代だ。車の通行方向が変更され、沖縄に行くのにパスポートが不要になった。“沖縄返還”は、沖縄以外の人にとって、“戦後という時代の完了”を意味した。しかし沖縄はそれからもずっと、「基地の島」として放置された。

日本政府も本土の私たちも、米軍基地の7割を抱える沖縄を「問題」として可視化できなかった。高度成長においていかれた沖縄の失業率は、常に全国平均の倍近い。つい2年前まで好景気に沸く名古屋地区の自動車工場に、片道交通費丸抱えでつれてこられた期間労働者の中には、仕事のない沖縄で採用された若者達が多く含まれていた。

長年にわたり巨額の地元振興費が注ぎ込まれていても、沖縄の若者達には、好景気に沸いていた2年前でさえ、島に残るための仕事はなかった。


基地がある限り、沖縄の戦後は終わらない。けれども基地以外の仕事は何もない。食べていかねばならない地元の人達、日米安保を絶対支持する自民党、巨額の公共資金を逃したくない既得権益のパイプ、無関心な本土の人達。それらが過去3代の基地容認派の市長を選出し、普天間基地の辺野古沖移転を決定させた。


2009年8月末、民主党・社民党・国民新党の連立政権が誕生したことで、沖縄の人達は“希望”を取り戻した。彼らの民意は常に「これ以上、新たに、沖縄に基地を作るなんてありえない」というものであったろう。

今になってまだなお「補助金をやるから新しい基地を造れ。お前にもそれが得策だ」と言い切る中央の横暴を、政権交代がなければ彼らには受け入れるしか道がなかった。


アメリカはいらついているかもしれない。でも別にこんなことで、日米関係が壊れたりはしない。アメリカは他の多くの国と、もっともっと大変なこじれた関係を抱えている。アメリカが逃したくないのは、あまりに潤沢に日本政府が払ってくれる、相当額の軍事支援費にすぎない。

今回の名護市長選が終わるまで、この件になんの結論も出さずにひっぱったのは、鳩山首相の作戦だろう。彼は危ない橋を渡ろうとしている。この問題は政権を揺るがす可能性がある。辺野古の住民は喜んでも、問題が先送りされる普天間の住民は複雑だ。

住宅地の真上を軍用機が飛び、時には学校に墜落し! なんども繰り返される地元少女らへの性犯罪に絶望しながら、普天間がこれまでに払ってきた犠牲も、それこそ目を覆いたくなるような悲惨なものだ。移転先が“ゼロベースでの再検討”に戻れば、ふたたび普天間は見通しのない未来をぶら下げられたまま“軍用機の空の下の街”であり続ける。


それでも、この時期に来て、

「まだ、今から沖縄に新しい基地を造るなんて正気なのか?」とか、

「この“環境”の時代に、世界に誇れる辺野古の海に本気で巨大なコンクリートと鉄骨をぶち込むのか?」

という、もっともベーシックな幾つかの質問に、私たちの関心を向かわせてくれるだけでも、今回の基地移転問題の議論には意味がある。


55年から続いてきた自民党政治が、ここでも終わろとしている。冷戦構造の中で日米安保を国家存立の基本とし、国民の犠牲と不満はゼネコンに巨額の税金を投下することで(選挙をゼネコンに助けてもらうことにより)押さえ込む。

こういう仕組みが昔の日本にはあったのだ、と、私たちは次の世代に過去形で語ることができるだろうか。


潜りにいくだけじゃなく。ちょっとは関心をもってみようと。そう思えたニュースだった。


そんじゃーね。



   

2010-01-23 裁判員制度の意義

昨夏に始まった裁判員制度。熱狂報道もようやく一段落しましたね。一般市民が重要犯罪の裁判に参加するこの制度を、次の3つの理由により、ちきりんは高く評価しています。


(1)司法判断に多様な価値観が反映できる

日本で職業裁判官制度への支持が厚い背景には、「国民の大半が同じ価値観を共有している。だからみんなで話し合って決める意義は小さく、知識と経験のある職業裁判官が代表して裁けばよい」という前提があるからでしょう。

しかし今や日本人の価値感も相当に多様化しており、それらの“多様な考え”を判決や量刑に反映することには大きな意義があります。

たとえば、年老いた病気の妻を何年も介護し、その生活に疲れた夫が妻を殺害したというような事件に関して、有罪か無罪か、どの程度の量刑が適切か、という意見は人によって違います。

裁判官になるような人は、その多くが似通った環境で育っています。「老老介護の現実」について思い浮かべることも、裁判官と一般市民では大きく異なるかもしれません。そうであれば、多くの人の考え方を反映した判断がくだされることの意義は小さくないはずです。


ちなみにアメリカでは、有罪か無罪かのみを陪審員が決めるのですが、彼らから見れば職業裁判官に総てを委ねるなんて“ありえないくらい不公正な裁判制度”に見えるでしょう。

被告が黒人やヒスパニック、犯罪被害者が白人の場合、白人の裁判官に裁かれると聞いただけで「そんな不公正な裁判では勝てるはずがない」と考える人もいます。人種差別云々の話だけではなく、価値観や人生において“見知ってきたこと”が大きく違うと考えるからです。


正義とは天から降ってくるものではありません。「誰か自分達より優れた人」が決めてくれるものでもないのです。その時代に、その社会に生きている人達がみんなで、「今のこの時代において、何が正しいとされるべきなのか」という価値感を形成するのです。

社会における価値感がますます多様化しつつある今、こういった制度を導入したことの意義を、ちきりんは高く評価しています。


(2)司法プロセスの質の向上が見込める

今まで検察官や弁護士は裁判において「いかに裁判官を説得するか」を競ってきました。検察官と裁判官、さらに弁護士は元々は同じ試験勉強をし、一緒に研修を受けた仲間です。過去の経歴も似通っています。

しかしながら裁判員制度になると、検察官は裁判官に加えて、“多様な一般市民”をも説得する必要がでてきます。

「自分のよく知っている人達」を説得するのと、「よく知らない、毎回違う、いろんな人達」を説得するのと、どっちが大変ですか?どちらが「より周到な準備」が必要でしょう?

当然、後者の方が難しいし、準備も大変ですよね。“あうん”の通じる部分が小さくなり、誰にもわかりやすい、世間で通用するロジックで資料を用意しなければ主張が通らなくなります。

裁判員制度について「プロの仕事の、市民への丸投げだ」という批判も聞くのですが、今回、司法関係者の仕事が(丸投げで)楽になったりしているわけがありません。寧ろ、その準備は格段に大変になったはずです。


今回の制度の導入で、検察側も弁護側も「仲間内だけで通じる論理と証拠」では公判ができなくなりました。彼らは「一般の人達は、どういうふうにモノを考え、なにを正しいと思うのか」を考えるようになります。「一般市民を理解する」ことが、職業司法人に求められるようになるのです。それってすばらしいことですよね。


(3)市民が国の運営に参加することに意義がある

上記は「プロ側が一般市民にたいする理解を深める」というメリットですが、反対に「一般市民が公権力や国の仕組みへの理解を深める」というメリットもあります。

裁判官や検察官が狭い世界で生きているように、一般の人だってごくごく狭い世界で生きています。裁判に参加することにより、私たちもまた広い世界を知ることになるし、その多様な人達のいる社会がどう運営されるべきか、考えを深めることができるでしょう。


死刑制度の存廃、脳死からの移植制度や少年法の在り方、責任能力の問題など司法に関することだけではなく、社会福祉の在り方やコミュニティの問題など、裁判をひとつでも体験し衝撃的な社会の現実を目にすると、人の考えは大きく変わります。

「自分とは全く異なる意見の人がいる」「自分には理解できない世界の人達がいる」と知ることの意義は、誰にとってもとてつもなく大きいはずです。


また、公権力がどういった力を持っているのか、について知ることも大事です。ちきりんは、司法だけでなく立法(国会)や行政(官僚組織)についても、国民がそれぞれ1週間ずつでも経験できる制度があればいいのにと思います。

参加する私たち市民には、社会制度への問題意識、社会を作っていく事への連帯感や責任感が醸成されるでしょうし、同時に、常に一般人に見られることになる公権力側にも確実にいい影響があると思います。



素人判断は危険という人もいますが、玄人の裁判官がやってきて、あれだけの冤罪があるのです。

裁判員を経験した人は、「人を裁くことが怖い」「本当にあれで正しかったのか今でも悩む」と取材に答えていました。まさにそういう感覚を持っている人こそが、人を裁くプロセスに参加すべきなのです。

万が一にもちきりんが被告席に立つことがあるなら、「人を裁くことの重さを、痛いほどに意識している一般の人」にぜひ裁判に参加して欲しいと思います。


もちろん、新しい制度ですから細部には改善が必要な点も多いでしょう。ちきりんは“細部まですべて完璧でないかぎり、一切始めないほうがいい”とは全く思っていません。新しいモノを創るプロセスとは、未完成なモノを継続的に改善していくプロセスなのです。

新しいことは、ある程度考えたら、後は実際にやりつつバグ出しをして直していけばいい。患者の命がかかっている外科手術でさえ、長い期間そういうプロセスを経て、現代の医学技術として確立されてきたのです。

裁判員制度が、今後も少しずつ改善され、日本社会に定着していくことを心から期待しています。


そんじゃーね。


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裁判員制度サイト

http://www.saibanin.courts.go.jp/


これ一冊で裁判員制度がわかる

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激論!「裁判員」問題 (朝日新書)

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2010-01-21 ニッポンの翼 5年後の破綻に向けて!

19日に再生法申請をしたJALの件について、今のちきりんの考えをまとめておくです。

まず、今回JALをどうすべきであったかという点について。

1.破綻処理

2.更生法申請

3.私的整理

という3つの方法のうち、2番目の方法をとったことは、「よくやった」ともいえますし、「結局これではだめ」とも言えます。


またもや3の私的整理に持ち込もうとした“大株主かつ大口債権者”のメガバンクや、これからも甘い汁を吸い続けたいと考えた既得権益者の粘り腰に屈せず、最終的に“法的整理”の道を選んだことには大きな意義があります。

あるべき論と道理にこだわり続けた再生機構や公的金融機関(=元財務省筋)の英断に敬意を表します。また、政権交代がなければこれは実現していなかったとも思われ、この点についても一定の評価をしたいと思います。


一方で、更生法申請にあたってJALの経営者が「最後のチャンスを与えていただいた」と発言されていましたが、「本当に、今更またチャンスを与える必要があったのか?」というのは、当然の疑問として存在します。

ANAの経営陣のオフレコ発言として聞こえてくる「JALの人材も機材も要らない。欲しいのは発着枠だけ」という言葉はまさに「JALは解体すべき」と同義です。

今後のJALの戦略について「欧米や地方路線を大幅にリストラし、今後の伸びが期待できるアジア路線に注力する」などという未来図を示している人もいるようですが、これはまさに過去数年、(欧米路線でJALに劣る)ANAが進めてきた戦略です。

ANAから見れば、ライバル会社がいきなり税金という補助金を得て、自社の戦略を真似して同じ市場に乗り込んでくるなど受け入れがたい事態でしょう。これでは民業圧迫以外の何者でもありません。


企業の再生にはふたつの改善が必要です。ひとつがトップラインの改善、もうひとつがボトムラインの改善です。財務用語で、トップラインとは売上、ボトムラインとは利益です。企業再生にはこのふたつが不可欠で、どちらかひとつでは成功しません。

ボトムラインの改善にはコスト削減が行われます。このコスト削減は3の私的整理ではなく2の法的整理を選んだことで圧倒的にやりやすくなりました。しかし売上の上がらない中でのコスト削減では、企業は縮小しゆっくりと“消滅”に向かうだけです。ダイエーがそのよい例です。

トップラインの売上を増やすにはJALがどのような飛行機会社になるかという目標絵図が必要であり、それが「ANAみたいな飛行機会社になる!」という絵図では話になりません。(それじゃあJALの成功=ANAが赤字になるだけです。)


では、他の目標絵図にはどのようなものがあるのでしょう?

1.ANAと同じ戦略(日本と成長地域の間の路線に集中)

2.ニッチ戦略

3.LCC(ローコストキャリア)


JALがLCCなんかになれますか?それはトヨタにタタ自動車になれと言うようなものです。もしくは伊勢丹にユニクロになれと。

そんなアホみたいなコトをしなくてもスカイマークもあればアジアのLCCで日本に進出したがっている会社も山ほどあります。LCC市場はそちらに任せた方がよほどいいでしょう。


では2.ニッチ戦略は?

これ実はちきりんはあり得ると思っています。

詳しくは長くなるのでつーか実はまだなんも考えてないので書きませんが、○○○○○から○○○○空港にリニアをひいてそこを○○○○○○○○○○○とか、地方○○○○○○(○○ハブ○○○○○○○○○)とか、ネット○○○○○○など、いろいろ“おちゃらけアイデア”は考えられます。

でも、新生JALの経営者は、そんな大胆な案を考えるようなおちゃらけた人達ではありません。おそらく彼らは次の1ヶ月間、ものすごい真剣に考えたあげくに、ANAが5年前に設定した戦略に到達するでしょう。「これだっ!これしかない!」とか言って。

そして、JALがその戦略に成功して数年後にANAが経営不振に陥るか、もしくは、ANAがJALを迎え撃って撃墜し、2度目のJAL破綻が起こるか。JALがANAと同じ戦略を選ぶ限り、数年後のシナリオはそのどちらかでしかありません。


5年後に破綻するのはJALなのかANAなのか?

とりあえずちきりんは、JALの二度目の破綻の方に一票をいれておきましょう。


そんではね


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