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Chikirinの日記 RSSフィード

2010-09-30 “ようやく”航空ビッグバン?

本格的なローコストキャリア(格安航空会社、LCC)の日本への参入が始まりました。

ニュースで羽田とマレーシアを 5000円で結ぶエアアジアのキャンペーン価格を聞いて、驚かれた方も多いでしょう。

台湾と関空の間も 1万円を切り始めたし、ANAまでもが LCCに資本参加すると発表。

2010年は日本におけるLCC元年、となりそうです。


10年前まで、世界の全人口 60億人のうち、飛行機に乗って海外旅行をするのはせいぜい 6億人程度でした。

世界人口の 9割は、これまでは一生、飛行機での海外旅行をすることなく人生を過ごしていたのです。(“飛行機に乗って”と書いたのは、電車や車、徒歩で地続きの隣国に行く人はたくさんいるからです。)

その 6億人とはアメリカ人、日本人、西欧諸国の人と、ごく一部のお金持ちの人達(アラブ人、中国人、インド人のお金持ちや東欧やアフリカの特権階級の人など)です。

世界の“海外旅行市場”は、世界人口のトップ 10%だけを相手に設計、運営されていたのです。


これからは違います。中国やインドの人の半分が飛行機に乗れば、それだけで 20億人が飛行機で他国に行くことになります。

従来の世界市場の3倍規模の市場が、いきなりアジア地域だけで“新設”されるのです。それは今までとは全く違う“飛行機による海外旅行市場”です。

金融行政と同じように、日本の航空行政の規制緩和は世界から大きく立ち後れています。アメリカや欧州では 20年前から起こり始めたことが、確実に日本でも起るでしょう。

これは日本人としては諸手をあげて賛成すべき事です。だって、金融業界の場合は日本でしか通用しなかった金融機関の数が非常に多く(潰れたり合併したりの)影響も大きかったし、決済機能という社会インフラをもっている企業を潰すのはそれなりに慎重さを求められる話でした。

でも航空行政の場合は、日本には 2社しか会社はありません。しかも日本は道路や鉄道網も発達しています。

たとえ日本の飛行機会社がやっていけなくなったとしても、むしろ規制緩和によって消費者が得られるメリットの方が社会全体としては圧倒的に大きいです。

ちきりんはもはや、JALや ANAが将来どうなるかなどということには関心さえ持てません。

むしろワクワクするのは、数千円でアジアの各都市に行くことが出来る新しい海外旅行時代の到来だし、それにより海外からやってくる多くの“今までなら日本には来られなかった訪日旅行客達に影響される日本の姿”を考えることです。


今アジアではチケットを巧く買えば、数千円どころか千円前後で飛行機に乗って他国に行くことができます。

またどの国にも千円以内で泊まれる宿泊施設や、数百円で食事が出来る屋台があります。

飛行機さえ安くなれば、飛行機 5000円、ホテル 3泊 3000円、食事等経費 1日 1000円で、1万1千円で 3日間の海外旅行ができるようになります。

1週間で 2カ国回っても 3万円程度です。

これなら経済的に“今までなら海外旅行なんてまずできなかった人”でも海外旅行ができるようになります。

また、2ヶ月に一回は週末をアジアですごすというような、国内旅行より海外旅行の回数の方が多い人もでてくるでしょう。

むしろその場合コスト阻害要因になるのは「日本はパスポート取得費用が高くて海外に行けない」とか、「羽田や関空までの交通費が高すぎて海外にいけない」という点だと思います。

しかし、羽田が国際空港化し 24時間化まで検討しはじめた今、これまでは農家保護だの騒音だのと時代錯誤な主張で補助金狙いの運営をしていた成田空港が、いきなり発着時間の延長やカジノ併設案まで検討を始めました。

“マーケットメカニズム“の力はかくもすばらしいのです。それにより空港の競争が促されれば、消費者の空港へのアクセスも急速に整備されるでしょう。

羽田と成田が競い合ってどんどん便利になれば、さすがの関空も「やべっ」と思うはずです。

地方空港もどこかで「補助金頼みはもう無理だ」と諦めて、潰れるところと、なりふりを構わず頑張り始めるところに分かれるでしょう。

いったん空港間の競争が始まれば、空の旅は一気にその様相を変化させる可能性があります。

20年もたてば、「海外旅行は誰でもできるけど、日本国内の旅行は金持ちしかできない」という時代になるかもしれません。

実際には新幹線を除く国内旅行も安くなりますので、将来は海外旅行と国内旅行の価格差はほぼ意識されなくなるでしょう。


★★★


国交省は“管轄産業を国際的に勝てない産業に育てる”というミッションを掲げている役所です。(ちなみに農水省のミッションも同じです。)

このミッションは着実に成果をあげており、おかげで韓国の仁川空港は無事にアジアのハブ空港になることができました。

この国交省による“国際競争力のない産業を育てるという目標”は、航空関連だけではなく、空港バスやタクシー、鉄道などの国内交通や、旅館等の宿泊施設産業まで広範囲に適用されているため、海外からの格安旅行客が日本に来てくれて、日本で消費をしてくれる時代の到来にはさらに時間がかかるかもしれません。

それでも少子化と若者の年収低下で売上減少に悩む多くの国内産業が、海外からの旅行客を歓待するためにあの手この手の努力を始めるでしょう。

民間の“生きる力”が、役所の後ろ向きの努力を克服するのは時間の問題だと思います。


20年前、現金を自分の口座から引き出すためには駅前の銀行の ATMに行く必要があり、その ATMは休日には当然のように休んでいました。

平日でさえ夕方6時には使えなくなりました。だからいつも休日前の夕方には、ATMに長い行列があったのです。また振込みに至っては、午後3時に閉まる銀行の窓口に行く必要がありました。

もちろんネット銀行もコンビニ銀行も存在せず、かわりに 13行もの“都銀”が存在していました。

それらから内定を勝ち得た学生は、就職活動市場における紛れもない勝ち組であり、まさか自分が部長になる40歳の時に、その銀行が存在していないなどとは想像もしていませんでした。

1990年の金融ビッグバンから今年で 20年です。変わるスピードが先進国の中で際だって遅い日本でさえ20年でここまで変わります。

さすがの日本も過去よりはこれからのほうが変化のスピードも早いでしょう。

航空ビッグバンが起ったらその10年後、20年後にどんな世界が現れるのか、楽しみで楽しみで眠れなくなっちゃうくらいです。


あー楽しみ!


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そんじゃーね。 


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2010-09-26 おちゃらけ)紙芝居と大喜利

昨日の続編で“紙芝居で大喜利”を作ってみました。先に昨日のエントリを読まれることをお勧めします。



昨日のエントリを読んで、「議論なんてズレてねーよ」と今の若者が言いました。

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大喜利コーナー

最後の絵の「今の若者」のセリフを考えましょう。

発表は、ブックマークコメント(100字以内)、Twitter(140字以内)、もしくはご自身のブログに書いてトラックバックで回答してください。

パンチが効いていて声を出して笑えたセリフには“おちゃらけ大賞”が与えられます。(該当者なしの場合もあります。)世界平和のために頑張って下さい。


そんじゃーねー

2010-09-25 図解)若者と高齢者の対立

将来、年金をもらうことさえ絶望的な若者と、福祉と年金に守られて暮らす高齢者。現在の議論はこんな感じ↓

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しかし高齢者に言わせれば、若い頃は貧乏で当たり前。若いくせに仕事が大変だとか言うな。仕事が少々きつくても若けりゃなんとかなるだろうよ、と。

なぜ彼らがそういう意見をもつかというと、彼らが比べているのは“今の自分”と“過去の若かった自分”だから。彼らは“今の自分”と“今の若者”を比べているわけではない。


図解するとこんな感じ↓ 

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上記ふたつをひとつの図上で表すとこんな感じ↓

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実は若者だって、将来の“高齢者になった自分”を想定し、今の自分(若者)と将来の自分(高齢者)を比較すれば、たぶん「今の方が楽しいかも」と思うでしょ。

だって、今も将来も貧乏で、今も将来も孤独。それなのに今は健康で将来は不健康なんだから・・

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つまり“若者vs.高齢者”という対比でモノを語る場合、何と何を比べているのかが不明確なんだよね。


たとえば、若者と若者を比べるならこんな感じ↓

この比較なら今の若者の方がいいでしょ。食べてるものの質も量も圧倒的にマシだし、生活の便利さも比べものにならない。

お見合い2回ほどでよく知らない相手と結婚して、当然のように親と同居。土曜日も含めどんだけの時間働いてたか。しかも日曜日は“会社の運動会”だったりするんだよ、当時の若い人って・・。

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でももし、こういう比べ方をするなら↓今の高齢者の方が圧倒的に幸せかも。これから国は貧しくなって消費税は20%、なのに将来の若者は年金ももらえない。

きっと治安も悪くなる。今の若者が年をとってからヨボヨボ歩いてると、すぐにひったくりにとかに遭っちゃうんだよ。んで、コケて骨折して寝たきりになっちゃったりね。超ヤな感じの未来でしょ。

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それとも、こう比べたいの?

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この比較なら若者の方が幸せだと思います。「全財産投げ出しても20歳に戻りたい」高齢者はそれなりに存在する。でも「100億円もらえたらいきなり65歳になってもいい!」という20代の人なんていないでしょ。何が貴重なのか、という意見は一致してると思う。




というわけで、何と何を比べてるのか明確にしないと議論がずれまっせ、というのを図解してみた。


そんじゃーね。

2010-09-22 成長が無理なら、流動性を!

先日来、掲載が始まっている赤木智弘さんとの対談。(第六回目はこちら) その準備のためにいくつか本を読み、そこからいろいろ考えて新)4つの労働者階級というエントリを書きましたが、その中で一番最初に読んだのが赤木さんの「若者を見殺しにする国」です。

対談でも話しましたが“書き手の怒り”が伝わってくる文章で、ちきりんもこんな感じの文章を書きたいと思いました。


若者を見殺しにする国 (朝日文庫)

若者を見殺しにする国 (朝日文庫)


この本の副題は、「私を戦争に向かわせるものは何か」となっています。元になる論文「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(論座 2007年1月号)を受けたもので、センセーショナルなタイトルが話題を呼びました。

「希望は戦争」・・・その意味するところは、ちきりん的に解釈すれば下記のような感じです。



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左上のボックス。戦後の焼け野原から始まった日本の経済復興は、当初「ぐちゃぐちゃな経済成長」を始めます。既存の秩序は崩壊して存在せず、一流大学をでた人ではなく、闇市で巧く立ち回った人が財をなす世界であり、東京の名家に生まれた二世ではなく、田舎から一人で東京にでてきた一匹狼の少年が「財界のドン」と呼ばれるまでにのし上がれる世界でした。

急速に経済が復興するなかで、流動性の高い、きわめてダイナミックな、一言で言えば“固まっていない社会”だったのです。

田中角栄氏のように地方の貧しい家庭から高等教育さえ受けないままに歴史に残る宰相が生まれ、丁稚だった松下幸之助氏が国民的企業である“ナショナル”を育て上げ、低学歴で職を点々としていた根暗な青年が、日本を代表する社会派作家、松本清張となった、そういう時代です。


第二段階は、高度成長が続き、最後の仕上げの80年代に突入する頃までの日本です。経済は順調に成長を続けますが、その中で「社会の流動性」は急速に低下し、左上から左下のボックスに移ります。

良くも悪くも豊かな社会は“秩序”を求めます。高卒の初任給はいくらで大卒ならいくら、何年勤めて評価がトップ10%に入っていれば係長になるとか、うちの会社はこれらの大学からのみ採用します、といったルールができてきます。そうなってくると「一発逆転」や「最初はいまいちだったけど、だんだん成功して・・」みたいなことが起こりにくくなります。

さらに、制度的な秩序によって上位の席を得た人が、自分の席を守る目的で、その秩序をより強固なものにしようと画策し始めます。いわゆる既得権益を固守するための動きが起こり、それが社会の流動性をさらに押し下げます。

“逆転”が難しくなると、誰も彼もが“最初から失敗しないように、準備をして人生を進めよう。冒険なんてしてたらだめだ。回り道なんてしてたら取り返しの付かないことになる”と考え始めます。

小さい頃から塾に行き、いい学校に進んでいい会社に入って、何があってもそこにしがみつけ、となるわけです。流動性の低い社会では、途中でのやり直しが不可能なため、誰も冒険をしなくなるのです。


それでも経済が成長している間は問題は顕在化しませんでした。それが1990年を境に、日本は左側から右側の世界へ移ります。経済成長の時代から経済停滞の時代に移行したわけです。(左下から右下のピンクのボックスへ)

全体としてパイが縮小していく中での「社会の流動性の低さ」は、“下層”にいる人に大きな犠牲を強います。特に、自分で選ぶこともできないままにそういう位置(家庭や場所や時期)に生まれてしまった子供や若者にとっては、社会全体が「希望のない社会」と映ります。

もちろん全体のパイが縮小する中では、下層の少し上でかろうじて水面の上に顔を出している人たちも必死で自分を守ろうとします。そんな彼らの動きが、より固定的な社会を作っていくのです。


もう一度、この4ボックスの表を見てください。右下のピンク色の箱から脱出するにはふたつの選択肢しかありません。ひとつは左に戻ること。すなわち、再度の経済成長をめざすこと、もうひとつは上に移動すること、すなわち社会の流動性を高めることです。

左に行くことを目指すべき、という人たちは「どうやったら経済成長できるか」を論じます。方法論としては、規制緩和や市場主義を徹底すべき、という人もあれば、とにかくまずは紙幣を印刷しろ、という人もいます。いまだに“産業政策”なんてものを支持する人さえいます。

けれど、すでに何十年もそれらの試みは成功していません。右側から左側に戻るという試みは全く成功していないのです。その責任は、政治家、官僚、経営者など、社会の各分野で指導者の地位にあった人たちにあります。

彼らももちろんそのことを理解し、忸怩たる思いでいるでしょう。しかし彼らの“失敗”の犠牲になったのは彼ら自身ではなく、被指導者層にいる人たちです。


「経済停滞」×「流動性の低い社会」の組み合わせで、20年もの長きにわたり社会の下層に固定された人たちは、指導者達の無能さに業を煮やし、「何をやっても左に戻れないなら、上にいくほうがましだろ!」と言い出します。

それが「希望は戦争」であり、

「まずは破壊せよ」と望む“ぶち壊し屋”の政治家の本意であり

「混乱loverをうそぶくおちゃらけ社会派」だったりするわけです。


そんじゃーね

2010-09-20 法人向けのお花サービス

数週間前の最終出社日に、豪華な花束をもらったと書きました。そういえば最初の会社を辞めた時もブーケをたくさんもらった。てか、ちきりんが花をもらうのは会社を辞める時だけです。韓国ドラマ中の女性は、財閥二世からしょっちゅう花束をもらっているというのに・・。

思い起こせば、その昔ちきりんが働いていた丸の内エリアには一定の間隔で“花屋”があり、それらの店頭風景は法人カレンダーそのものでした。新役員発表の時期には立派な胡蝶蘭の鉢が店頭を埋め尽くして壮観だったし、3月末一斉定年の会社も多いから、期末にはひときわ多数の花束が並ぶ。ボーナス支給月の6月や12月末は“寿退職”していくOLさん向けのブーケが増える、という具合。

どこもそんなに大きくはなかったけれど、今から考えるとああいうオフィス街の花屋の売上げは相当なものだったかなと思います。実際、秘書室に配属になった同期の友人は、新聞の異動欄、慶弔欄を朝イチにチェックして花や電報を送るのが日課だと言っていた。いったい年間でどれくらいの額の花を注文していたんだか。


先日もらったブーケのうち一番大きかったのは会社の有志が贈ってくれたもので、“青山花壇”というお店の花束でした。すごく豪華できれいだったのでサイトを見てみたら「当店は法人様からのご注文を原則としております」と書いてある。そうなんだー。

法人が花を贈るイベント別にお勧めのお花スタイルが載っていたり、トップページには値段別のお花の写真が載っていて、実際に注文する秘書の人向けのサイトとして特化している感じでした。


見ていて、こういう「法人向けの周辺サービスをアウトソースして請け負う会社」って急速に増えるだろうなーと思いました。

アスクルが文房具を企業に届け始めてから既に相当期間がたつけれど、法人が日常的に使用、購入する物品やサービスで、専門業者がより高い付加価値を提供できる分野はたくさんありそう。ランチ弁当デリバリーの“玉子屋さん”もいいところに目をつけてるよね。残業飯の統合出前サイトもでてきたと聞いた記憶があるし。


以前は、大企業はそういう“本業以外の周辺サービスを提供する会社”を関連会社として自社グループ内に抱えていることが多かった。弁当や残業飯を頼まなくても自社ビル内に“社員食堂”があったり、社員の出張から家族旅行の手配までしてくれる旅行会社を系列会社として抱えていたり。中には、「ゴルフコンペに必要な一切合財を提供する商事会社」がグループ内にあるというところまでありました。でもさすがの大企業も今はそんな会社を維持する体力はなくなってきてると思います。

加えて、小さな会社が事業を始めようと思った場合、そういう周辺サービスをアウトソースできる専門サービサーがあれこれ揃ってくればすごく便利になる。

法人用のお花だって大企業なら「こういう時はこういうお花を贈るのよ」と教えてくれる生き字引的なベテラン秘書の人がいたり、懇意のお花屋さんに無理をいって急な注文を受けてもらったりもできるでしょう。でも、いまだにそんな“ベテラン秘書”を抱えているのはもうほんとに超のつく大企業だけだ。

特に“法人向けお花ならお任せ”みたいな花屋が一定間隔で設置されてる感もある丸の内や大手町ならともかく、新興企業の多い渋谷周りや外資系の多い港区エリアでは、個人向けのお花屋なのか法人向けの花屋なのかさえわかりにくい。

上記で紹介した青山花壇みたいに“法人向けですよ!”と明示して、購入履歴がきちんと残せたり、元秘書の人が注文をとってくれたり、お馴染みかどうかじゃなくてサービスラインの一環として緊急依頼ができるのは、外資系や中堅企業には重宝なサービスになるんだろうと思います。


というか、伝統的な日本の大企業というのは、“周辺サービス機能も含めてすべての企業関係業務を社内に保有する”ことによって、今まで小さな企業と圧倒的なサービスレベルの差をつけてきたともいえます。

アスクルがでてくる前は大企業だけが“出入りの業者”から文具を買って、彼らにいろんな個別の注文を出していた。それ以外の会社は文房具が必要な時は、社員がわざわざ文房具屋まで買いに行ってたわけです。一般消費者と全く同じようにね。

アスクルがでてきてネットを活用するようになり、小さな企業でも文具を専門業者に直接注文できるようになり、そのうち大企業まで「アスクルの方が便利で安くて履歴も残るしいいじゃん?」と乗り換え始めた。そういう“法人向け周辺サービス”ってのは、たぶんまだまだたくさんあって、これから随時、専門特化したサービス会社がたくさんでてくるんじゃないかと思う。


社員の食事、法人向けお花サービス、文房具、イベントに必要なグッズ一式・・本業とは関係ないけど付随的に必要になる基本的なビジネスインフラが市場から自由に調達できるようになるのは、企業にとって(特にゼロから会社を立ち上げる場合や、本業に集中したいという会社にとって)、すごく便利なことなんじゃないかと思いました。


そんじゃーねー

2010-09-17 新)4つの労働者階級の“論点リスト”

先日書いた、「新)4つの労働者階級」の図からは、様々な論点がピックアップできます。


論点1)  (1)の人の国際競争力

日本の(1)は、数も少ないしグローバルに戦う力もまだまだです。語学力、多様な経験、ITスキル、リーダーシップ体験、イニシアティブなど、世界でリーダーになるために必須な要件が何一つなくても、日本では一流大学に入れるし。一流企業に入れてしまうからです。

強い(1)を生み出すには、“できる人”への税金による教育支援(留学を必須にするなど)や、エリート教育の復活も必要です。けれど平等神話に侵された日本では、危機感はあれど、これが優先的課題であるというコンセンサスは形成されないでしょう。


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論点2)  (2)的な専門知識の偏重

日本は(2)的な職業への尊敬度が大きすぎます。“専門家”を偏重しすぎ、多くの人が「広く浅く」より「狭く深く」のほうが価値があると思い込んでいます。この根底には、職人文化があるのかもしれません。よく言われる「息子は医者か弁護士に」という言葉も、日本人の専門家好きを表しています。

この感覚が、「多様な経験をつみながら育っていく」という複線的キャリアの価値を認めず、「ひとつの会社で、ひとつの仕事だけを突き詰めた人」を“より正しく好ましい人”と位置づける価値観にもつながっています。

日本で今一番足りないのは“総理大臣”や“経営者”ができる人であって、“技術だけは一流”の人でも“財務のプロ”でもありません。

専門知識への偏重度合いが強すぎて、「総理大臣って、どういう資質や適性が必要なポジションなのか」さえ話し合われることのない社会になってしまっているのが問題なのです。



論点3) (3)の人を(2)にするための教育方法の不備

「オレの背中を見て育て」とか、「自分達も20年は下積みをしたんだから、お前も20年下積みをしろ」など、非科学的(精神論的)すぎる育て方が、日本ではいまだに主流です。「効率的に学ぶ」ことが「苦労して学ぶ」より価値がないと思ってる人は、さっさと引退してほしいところです。



論点4) (1)や(2)から(4)へお金を再配分する仕組みの欠如

「経済全体が豊かになれば、底辺の人も次第に豊かになる」という考えを、ちきりんは信じていません。パイを大きくすることは大事だけれど、パイの大きさは、自然な配分を促したりはしないからです。「日本には巨大な貧困層が存在する」という意識を共有し、少なくとも、生まれた家の財力に関わらず、子供達が必要な教育が受けられるだけの支援をする必要があるでしょう。



論点5) 経済力以外の基準を用意すること(明示的にすること)

お金の再配分はある意味、簡単です。しかし「経済力がないから結婚できない」といわれても結婚の機会を強制的に再配分するのは不可能です。

個人が自分の存在意義を感じる源泉となる家族の存在や、没頭できる趣味の有無など、人生に意義を与えてくれるすべてが“経済力”という要素に依存しているのが、今の日本社会の根本的な問題です。

この辺は「不平等社会日本」で提案されていた解の方向性も参考になるでしょう。



論点6) 日本的な(4)の再生

その昔、日本の強さは(4)の人の優秀さにありました。“ラインの改善サークル”とか“アメーバ経営のセル”では、現場の人が自分で考えて提案し、柔軟に非定型な作業をこなしていたのです。

欧米では(4)の人にそんなことは期待しません。だから、(4)の人が何も考えなくても回る仕組みを作ることが、(1)の人に求められたのです。

日本企業も今は欧米型の「システムによって、何も考えない人たちを使うモデル」を採用しはじめています。でも本当にそれが優位性のあるモデルなのでしょうか、ちきりんはそれも疑問に思っています。

前線の人の強さを生かせなかった(1)の人の能力不足が、(4)の人を「なんも考えずに機械のように働け!」といわれる世界に押し込めているのではないかと感じるのです。


そんじゃーね。

2010-09-14 新)4つの労働者階級

階級といえば“資本家 vs. 労働者”や、“経営者 vs. 雇われ人”という構造が定番ですが、最近は働く人の中に、新たな4つのグループが生まれてきていると感じます。


下図には淡い水色から濃い水色まで 4種類の人がいます。

一番上の (1) は、「システムを作る人」です。

ビジネスシステムを作る人の他、国のシステムを作る人もいます。

システムとは IT のことではなく、「物事の仕組み」という意味です。

「こういうビジネスをやろう!」とか「こういう制度を作ろう」と構想する人ってことですね。その人数はごく限られています。


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次に少し濃い水色の (2) の人たち。

(1) の人はビジネスの構想が固まった後、(2)の人に、構想の実現に必要な各機能分野について「具体的な仕組みを作ってくれるよう」依頼(発注)します。

仕組みとして代表的なのは IT システムですが、それ以外にも、物流システム、マーケティングや広告、コールセンターや店舗設計など様々な仕組みが必要となります。

(1)の人は必要に応じて専門家である (2) の人、もしくは会社に、それぞれの仕組みを作ってくれるよう委託します。


(2)の人は各分野のプロとして、(1)の人が求めるものを具体的なスペックに落とし、どの程度の予算でそれが実現できるか見積もり、(1)の人と話し合いながら詳細設計を提案します。

詳細スペックが決まれば、(2)の人が属する会社は実際にその仕組みを作りはじめます。

ここでは (2)の人に指示をされながら、(3)の人が具体的な作業をします。

プログラムを書いたり、店舗を改装したり、広告に必要な写真を撮ったり、コールセンターに必要な人員を募集して採用するなど、その仕事は多岐にわたります。

中にはクリエイターとかコピーライターと呼ばれる“クリエィティブな仕事”も含まれますし、プログラミングや建築のスキルや資格を持つ人もいます。

彼らは決して“下働き”をする人ではなく、専門性をもって働くスタッフです。


★★★


各種の作業が終了すると、(2)&(3)の会社は (1) の人にできあがった仕組みを“納入・納品”します。

こうして (1) の人は自分の構想実現に必要な仕組みを手に入れ、いよいよビジネスや制度が動き始めます。

仕組みが回り始めた後、それらのプロセスを実際に担うのが (4) の人です。

コールセンターで電話応対をしたり、倉庫で必要な商品をピックしたり、工場で組み立てたり、箱詰めして発送伝票を貼ったりします。

(4)の人たちはほぼ 100% が非正規社員で、時給で働いています。


★★★


4つの職業には、次のような特徴があります。


・上にいくほど給与が高い。


・上にいくほど仕事が非定型。つまり、上にいくほど「ゼロから考える仕事」であり、下にいくほど「ルール通り、マニュアル通りに進めることに価値がある」仕事であり、また、「余計なことは考えるな。それを考えるのはお前の仕事ではない」と言われたりもします。


・上にいくほど仕事をおもしろいと思っている人が増える。


・上にいくほど人数は少なく、世の中の大半の人は(3)か(4)として働いています。


・(3)と (4)には、時給で働く人が多い。(3)には正社員の人もいますが、サービス残業も多く、実質的な時給は (4)と変わらなかったりします。


・(3) の人は将来 (2) になれる可能性がありますが、(4)の人は一生 (4) のままです。


・(2)の人は正社員の場合もあるし、会社をやめて“エキスパート”として独立した人もいます。ごくたまに(2) から (1)になる人もいます。


・(1)の人には、大企業の社員や大組織の構成員(公務員など)と、自分で事業を始める起業家という 2種類の人がいます。 (1)には、超保守エリートとリスクテイカーが混在しているのです。


・世の中の“保守派エリート”の大半は大企業に入社し、(3) からスタートして、運がよければ (2) に昇格し、キャリア人生を終えます。


★★★


4つの仕事はすべて昔から存在してました。仕事としてはどれも必要ですから当然です。

しかし高度成長期の日本では、「全員が(4)からはじめ、成果によって段階的に選抜されながら、年齢を重ねるごとに(3)、(2)、(1)と昇っていく」モデルでした。

新入社員は全員が (4) の仕事を経験してから、数年後に (3)の仕事につかせてもらい、また何年もたってから(このあたりから選抜が始まり、タイミングには相当の差がつくものの、順次)(2)の仕事に移っていく。

それにそって給与も少しずつ上がる。これが、終身雇用組織における、年功序列システムでした。


当時だって本社における (1) や (2) のポストは限られていましたが、高度経済成長期にはいくらでも子会社が作れたので、「あなたは子会社の (2) をやってください」とか「孫会社の (1) にどうぞ」という形で、ほぼ全員にそれなりの処遇が用意できました。

だから (4) の仕事をしている人も「今の仕事はつまらないけど、将来は・・」と夢をもつことができました。


しかし、今は違います。

「若い間は (4) か (3) を 20年やっていろ」と言われ始め、それに耐えられない若者がでてきたのです。

「40才まで、言われたことだけを粛々とやれといわれる人生はアホらしすぎる」と思いはじめた人の中には、外資系企業に転職したり、自ら起業することで、若くして (1) や (2) に飛び移ろうとする人がでてきました。

また、伝統的な (4)→(3)→(2)→(1) というキャリアパスも崩壊しはじめました。

多くの企業は成長率が鈍り、上に進める人の数が大きく減ってしまったからです。同時に給与も上がりにくくなってきました。


すると (4)の人も、「この制度は、自分が(2)になるまで持たない」とか「このまま待っていても一生、(2)

や (1) の席は回ってこない・・」と感じ始めます。

もちろん、市場の荒波にもまれることが怖かったり、住宅ローンや専業主婦や教育費のかかる子供を抱えているために「沈むかもしれない船」に残らざるを得ない人もいます。

しかしその一方で、「 (1) や (2) になりたいのに、(4)から我慢する方法を選ぶのは得策ではない」と考える人も増えてきました。


そんな中グローバリゼーションが始まり、4つのポジションはより明確に分断され始めます。どの人たちもそれぞれの海外ライバルと競争することを求められ始めたのです。

(1)の人たちは海外の起業家や事業家、時には国家と戦うことを求められます。

日本でオンラインショップで大成功!と思っていたら、海外企業であるアマゾンが殴りこみをかけてくるとか、日本で一番の空港だ!と思っていたら、韓国の空港にアジアのトップ空港の座を奪われるとか・・。

日本における (1) の人たちのふがいなさが明らかになるにつれ、「このままじゃマズイ」と考える“将来の(1) 候補”も出てきます。

彼らはもう「日本においては (1) である」ということには満足しないし、そんなことで喜んでいてはしかたない、と思い始めています。

彼らが見すえなければならないのは、海外の (1) との戦いだからです。


これは (2) も同じです。彼らも海外ベンダーとの競争にさらされてはじめます。

そして (3) や (4) の人たちもまた、インドや中国のワーカー達とコスト比較される時代になりました。

これにより、従来は縦に連続的につながっていた (1) から (4) の仕事は、横に分断されはじめます。

(1) は (1)、(4) は (4)であり、時間がたてば (4) の人もいつかは (1) になれる、なんてことはもう起こらない時代になったのです。


将来的には、この4つはいわゆる階級的に「最初から分断されたポジション」として確定していくでしょう。下図をご覧ください。

昔は全員が (4) からキャリアをスタートして、順位、(3) (2) (1)と上ってきていたのに、今や (1) の人は、最初からそういう教育を受けた人が横から入ってくるのです。


f:id:Chikirin:20100914140021j:image:w400


右側に付け加えた縦の赤線は、新規の労働者が社会に入ってくるときのラインです。

以前は (4) の下に横にひかれていた「社会に出る時のスタートライン」は、今は縦の線になり、学生が社会に出るその瞬間から「どのポジションとして働くか」が決まってしまう。


今でも唯一起こりえるのは、(3)から (2)への移動です。なので、(3)と (2)は同じボックスにいれ、右側にずらして書きました。

なお、(2) から(1)はありそうに思えますが、実はあまり起こりません。なぜならその差は、スキルや能力の差だけではないからです。



このように、現代における労働者は、

(1) システムを構想する人(システムより上に位置する)

(2) 構想されたシステムに、必要な機能パーツを設計する人

(3) 設計されたシステムを制作する人

(4) システムに沿って働く人(システムの下に位置する)

という 4つに分断されてしまったのです。


そんじゃーね。



<参考図書>

このエントリは、下記の3冊の本を読んで考えたことをまとめたものです。

・「正社員になりたい

・「不平等社会日本

・「若者を見殺しにする国



http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+personal/  http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+shop/

2010-09-11 赤木さんとの対談準備のために読んだ本

フリーライター赤木智弘さんとの対談連載が昨日から始まりました。週イチ(金)の掲載予定です。

Business Media 誠:ちきりん×赤木智弘の“ちゃかす”が正義(1):新聞が「若者は不幸である」と報じない理由 (1/4) Business Media 誠:ちきりん×赤木智弘の“ちゃかす”が正義(1):新聞が「若者は不幸である」と報じない理由 (1/4)



赤木さんは、2007年1月に“論座”という論壇誌に「丸山真男をひっぱたきたい、31歳フリーター、希望は戦争」という文章を発表されて以降 ロスジェネ世代の立場から発言を続けていらっしゃいます。著書を読んで是非お会いしたいと思っていたので、実現してとても嬉しかったです。

ブログがそこそこ注目されるようになって一番ラッキーだと思うのは、そうでなければ接点をもつことの無かった(であろう)方と、“話す”目的でお会いできることです。単にお茶やお酒を飲むのではなく、“何かを話すために”、その何かについて自分なりの意見をもっている方と会えるのはとても貴重な機会を頂いていると感じます。


最近ちきりんはブログ内で何冊かの本を紹介してきました。あれらの本にはひとつの共通点があります。実は紹介した本はすべて、赤木さんがご自身の著作の中で紹介されていた本なんです。

赤木さんの最初の著作(下記)はも出版された直後に読んでいたのですが、今回、対談に向けて再度読んでみました。そしたら他の本についていろいろ言及されていることに気がつき、「これは対談までに読んでおかなくちゃ!」と思って、詰め込み勉強をしていたというわけなんです。

若者を見殺しにする国 (朝日文庫)

若者を見殺しにする国 (朝日文庫)



というわけで、今日は、まだ紹介していなかった本も含め、今回、ちきりんが“対談準備”のために読んだ本をリストしておきます。



赤木さんの本の中で最も重視されていたのがコレ

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

ちきりんのエントリは、この本があつかう多彩なテーマのうちのごく一部を切り取って書いたのですが、たくさんの方に読んでいただきました。 → 結婚と恋愛のレート - Chikirinの日記 結婚と恋愛のレート - Chikirinの日記



不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

学者さんの本。エントリにはかかなかったけど、最後の「じゃあ、どうするべき?」の部分も、ちきりん的には比較的いい案だと思いました。→ 日本のエリート、その作られ方 - Chikirinの日記 日本のエリート、その作られ方 - Chikirinの日記



ルポ 正社員になりたい―娘・息子の悲惨な職場

ルポ 正社員になりたい―娘・息子の悲惨な職場

エントリは書いてませんが、いい本だと思いました。この本の著者の小林美希さんも氷河期世代の1975年生まれです。底辺労働者層に押し込められた人達がどんな生活を余儀なくされているのかという具体例と、そこに“自己責任”などという言葉を当てはめるのは、全く不当であることがよくわかります。ちきりん含め、“世の中の現実をよく知らない”と自認する人にお勧めの一冊です。



生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

これもエントリは書いてません。上記と同様、具体例が勉強になります。ただし、そこにでてくる社会学者の入江公康さんの言葉(たとえば下記)

小さな政府の本質とは、だから「病気しようがケガしようが失業しようが食えない賃金だろうが知ったことじゃない。なんとかできないなら迷惑かけずに死んでくれ」ということでしょう。

あたりは、ちきりんとしてそのまま受け入れるのは無理です。これが「小さな政府の本質」とは思えません。



いちばんインパクトがあったのはやはりこれです。

累犯障害者 (新潮文庫)

累犯障害者 (新潮文庫)

→ 累犯障害者 - Chikirinの日記 累犯障害者 - Chikirinの日記



最後はこれ。潜入ルポとかするジャーナリストの人ってほんと偉い。

アマゾン・ドット・コムの光と影

アマゾン・ドット・コムの光と影



読んでなかった赤木さんのもうひとつの著書も読みました。

「当たり前」をひっぱたく

「当たり前」をひっぱたく



赤木さんとの対談が決まっていなければ、私はこれらの本を読んでいなかったし、皆さんに紹介することもなかったでしょう。

というわけで、対談のおかげで8冊も本を読めたので、その意味でも赤木さんには感謝しています。対談の中で話したことからいろいろ考えたこともあるんですが、それらについては対談が掲載されていくのをみながら少しずつ書いていきたいと思います。


そんじゃーね!

2010-09-09 累犯障害者

山本譲司氏の「累犯障害者」を読みました。著者は元菅直人氏の公設秘書を経て衆議院議員になった、いわゆる社民的な政治家です(でした)。2000年に秘書給与流用の詐欺容疑で逮捕され、実刑判決を受けて栃木県の刑務所で服役。刑務所の中で経験したことをまとめて2003年に体験記である「獄窓記」を、ついで2006年にこの本を出しています。


これ、ここ数年間に読んだ中で最も衝撃的な本でした。

たった12ページの序章を読んで、もうそれ以上読むのはやめようか、と思いました。読まなくてもその後にでてくる世界の悲惨さは十分にわかってたし、読んでも自分には何もできないと知っていました。読むのがつらくてやるせない作業だとも十分に理解していたので、もうやめようかな、と。読んでどうなるわけでもないし。



序章からの引用です。

栃木県の黒羽刑務所に入所した私を待っていたのは、一般受刑者達に「塀の中の掃き溜め」と言われているところでの懲役作業だった。そこは、精神障害者、知的障害者、認知症老人、聴覚障害者、視覚障害者、肢体不自由者など、一般懲役工場での作業はとてもできない受刑者を隔離しておく「寮内工場」と呼ばれる場所。


この寮内工場での私は、刑務官の仕事をサポートする指導補助という役目を命じられていた。障害を抱える受刑者達に仕事を割り振り、日常生活においても、その介助をするという仕事だ。失禁者が後を絶たず、受刑者仲間の下の世話に追われるような毎日だった。


序章を読んだあと数日放っておいて、「それでもやっぱり読むことに価値があるのかも」と思い直して読むことにした。読んだ後ちょっとだけ救われたのは、著者が未来に向けた最終章を用意してくれていたからだと思います。


ちきりんは「世の中にあるどうにもならないこと」はできるだけ見ないようにしています。見ても仕方ないでしょ。つらいだけだから。自分には何も出来ないし、誰も本気で解決する気もないし。どんなに悲惨で、どんなにひどくても、どうしようもないなら「知らない方がマシ」だから、できるだけそういうものは見ないようにしてるんです。

だからこういうことについても「あんまりいろいろ知らない方がいいんだよね」と思ってはいるんだけど、なぜかいろんなことを見てしまう。意思というより偶然だったり必然だったり、なんだかしらないが、誰だかがそれをちきりんに「読め、見ろ、しっかり見ろ」と突きつけてくるような感じ。見たくもないのに見せられている。


で、読んだ。


読んでみて思った。なにもできなくても「知る」だけで意味があるのかもしれない、って。知らないのと知っているのは(たとえ何もできなくても)大きく違うかも、って。

たとえば、警察官になる人、司法試験の合格者、裁判所で働く人、刑務所での仕事に採用された人、市役所に採用された人(公務員になる人)、法務省や厚生労働省に入省することが決まった人、小学校と中学校の教員に採用された人などは、働き始める前にこれを読んだらいいんじゃないかな、と思う。

最初は「学校での推薦図書にすべき?」と思ったけど、戦争アニメ映画の「火垂るの墓」と同様、こういうのを読むことに耐えられない人もいる。だから、せめて職業として関係ある人くらいが読んでいてくれたらいい。読んでどうしろとまでは思わない。先に書いたように、とりあえず知ることだけで大きな第一歩だから。



本の中にでてくるデータによると、日本では知的障害者は46万人と言われている(内閣府・障害者白書、平成18年度版)。これが本当なら日本の知的障害者は人口の0.4%弱にすぎない。でも欧米では知的障害は人口の2-2.5%と把握されている。日本ももし同じ比率なら300万人くらいの知的障害者がいてもおかしくない。

これは何を意味するかというと、日本では知的障害者の7人に1人程度しか“国”=“福祉”にその存在を把握されていない、ということ。残りの6人はどうやって生きていっているのか、という話につながる。



ちきりんは著者の山本譲司氏が国会議員としてどういう活動をされていたのかよく知らない。だけど、この人が433日間、刑務所で過ごした経験は、この本になることによって、社会にたいしてものすごく大きな価値に結晶した。皮肉じゃない?国や社会のために尽くそうとして国会議員になった人が、犯罪で刑務所に入れられ、そこでの体験こそが、ものすごく大きな「社会のため」の価値を生む。

人生ってそういうところがある。すごく偶然に「自分がやるべきこと」に出会う。最初は全くそんなことを想定してなかったのに、いつのまにかそういう仕事をしている、というようなこと。


残念ながらちきりんは、この本の感想を文字で表現する力をもちあわせていません。だから下記に目次だけ書いておくです。それをみて、「自分はこれを読むべきだ」と思う人だけ読んでみてください。読むのがつらければ途中でやめればいいと思います。


累犯障害者 (新潮文庫)

累犯障害者 (新潮文庫)


目次

序章 安住の地は刑務所だった  (下関駅放火事件)

第一章 レッサーパンダ帽の男  (浅草・女子短大生刺殺事件)

第二章 障害者を食い物にする人々  (宇都宮・誤認逮捕事件)

第三章 生き甲斐はセックス  (売春する知的障害女性達)

第四章 閉鎖社会の犯罪  (浜松・ろうあ不倫殺人事件)

第五章 ろうあ者暴力団  (「仲間」を狙い撃ちする障害者)

終章 行き着く先はどこに  (福祉・刑務所・裁判所の問題点)


そんじゃーね

2010-09-07 ニートリトマス3原則

今年の春、会社を辞めようかなあと考え始めていた頃、日本一のニートを目指すid:phaさんと対談する機会があった。下記はその中の会話。


ちきりん インターネットがなければ、ひょっとしたらその仕事を続けていたかもしれませんか?


pha たぶん辞めてなかったんじゃないですかね……。それには3つの理由があります。1つは働かないと食べていけないこと、2つめは孤独になってしまうこと、3つめはやることがなくなるということ。その3つが怖かった。


http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1003/05/news006_4.html


つまり、phaさんは上記3つの問題がインターネットによって解決できると考えたから、ニートになる決断ができたということ。ちきりんは、この時からこの3つを密かに“ニート・リトマス3原則”と呼んで、これにそって自分の途を考えてきた。


まず1の「働かないと食べていけない」かという点。これはなんとかなると思う。当面貯金もあるし、そもそも、ちきりんは生きるのにそんなにお金がかからない。経済的には誰も扶養してないし、居住している分譲集合住宅はローンも終わっている。たいして長生きしそうな気もしないし、Loto6もせっせと買っている。

海外旅行はまだこれからも行きたいけれど、だからといって、ここから先、一回も海外に行けなくても既に海外旅行歴は日本人の上から数えてトップ10%くらいには入ってると思うので、これ以上何を望むのさ、って感じだ。

モノ系はもうほんとに欲しいモノがない。今、唯一欲しいのは、お風呂にレインシャワーが欲しいくらいだけど(今度ショールームに観に行ってみるつもり)、でもまあレインシャワーがなくても人生は十分に楽しい。

食費も安いもんです。大半は自分で料理するし、外食はたいていおごってもらっている。若い時はおごってもらうのは当然だと思っていたが、まさかこんな年になってまでこんなにおごってもらえるもんだとは知らなかった。

対談の後にphaさんと飲みに行った時に「“奢ってくれるなら一緒に夕食を食べます”とブログに書いたら、ちきりんとご飯食べたい(奢りたい)という人は月に30人くらい見つけられるんじゃないか。そしたら食費がいらないかも」という話をした。

phaさんには「きっと、いけますよ」と言われたのだが、その後、家族や友人に話したら「そのうち、草むらで死体で発見されることになるからやめろ」とか「それはかなりつらい仕事ですよ、たぶん」とか言われたのでやめた。

一度は体験してみたい“スーパーのレジ係”は駅前のスーパーが恒常的に募集しているので、いざとなればあれで時給を稼ごうと思っている。ただ、先日スーパーチェーンの経営者の方と飲んだ時にその話をしたら、「レジはきついから、大変ですよ」と言われた。そうなんだ・・・ちょっと考え中。

まあでも、なんらか食べていけるんじゃないか、という気がしている。


★★★


2つめの「孤独になってしまうこと」、これは自信がない。

家族・友人からも、そんな生活してたら、認知症になるよ、孤独になるよ、うつになるよ、等々、様々な警告をいただいている。これはたしかになるかもしれないよね、と思う。引きこもってひとりでブログ更新するだけの毎日にしてたら、ほんとにそうなるかも。なので、なんらか人と関わりながら生きていきたいと思う。

なんだけど、phaさんみたいにシェアハウスができるかというとそれは無理。ちきりんは「汚い部屋が苦手」なので。他人の家に遊びにいっても部屋の汚い人にはほんとうんざりする。ましてや自分の部屋が他の人に汚くされちゃうのはありえない。そんなことになったら喧嘩するどころか、殺しちゃうかもしれない。ぶっそうなのでシェアハウスとかは無理。

そうすると、どうやって孤独を避けるんだろう。やっぱり「ネットでつながる」とかいうベタなことを考えるんだろうか。なんかあんまりネットは得意じゃないのだけど・・でもまあ、街でいろんな人に話しかけるよりはネット上で話しかけてた方が逮捕されたりするリスクは少ないのかもしれない。


★★★


3つめの「やることがなくなる」という点、これはありえない。やりたいことはいくらでもある。むしろありすぎて困る。寿命がいつまでか知らないけど、たぶん間に合わないんじゃないかと予想してる。

てか、これが辞めた理由だもんね。やりたいことが多すぎて「働いてる場合じゃないだろ」という本質的なことにようやく気がついたのだ。


東京はいつでも、いくつ開催されてんの?ってほど展覧会が多いし、ここんとこ全然本を読んでなかったので読書もしたい。“人生で最も長い時間”を割り当てられている韓国ドラマはいくら観ても尽きないほどの数が(スカパー!で)オンエアされている。

工場見学とか大好きなのであちこち見に行きたい!だいたい中国の国会議事堂もイギリスの国会議事堂も見学したことあるのに、日本の国会議事堂の中を見たことないのは“なんでやねん”でしょ。

料理も好きだし洋裁も好きなのでそれらにも時間をかけたいし、ジムで泳いだり運動するのも好き。ITやウエブについても、もっと勉強したい。

韓国語は学ぼうと決めているけど、時間と脳力がついてくるなら中国語やスペイン語も勉強したい。そういう国に数ヶ月くらい住める方策がないかも探ってみたい。

本名の方でやってみたいこともあるし、家族や古い友人達、近かったのに全然話してこなかった人達とも、より密な時間をすごしたい。

日本の中でも行ってみたい場所はまだいくらでもあるし、こんな円高なんだからイタリア、南仏、スペインあたりで1ヶ月くらいすごしてみるのはどうよ?とも思う。

という感じで、書いていたらキリがないくらいやりたいことがあるのに、会社を辞めたあとのここ3日間にやったことといえば、部屋の掃除とブログ更新とエクセサイズくらいですからね。こんだけ生産性が低いと、上記を全部やるには140歳くらいまで生きている必要がある。ちょっと絶望的だ。


とかあほみたいなこと言ってる場合か?と自分に突っ込んでみたが、まあ、時間はいくらでもあるので、あほみたいなこと言ってる場合です。


そんじゃーね!

2010-09-06 コメント欄停止のお知らせ)

ブログのコメント欄を停止(閉鎖)することにしました。

背景と考え方は下記のとおりです。


(1)時間的制約

最近は頂くコメント数が急増しており、数十個から時にはひとつのエントリに100個以上のコメントをいただく事もありました。そして、これらのコメントの承認するために要する時間は、エントリをひとつ書く時間に匹敵するほどとなっていました。

もともと趣味で書いているブログであり、これ以上「承認制を導入したコメント欄」を維持する時間的余裕がありません。これがコメント欄閉鎖の理由です。


(2)承認制の必要性

なお、「承認制にしなければ手間はかからないのではないか?」というご意見もあるかと思いますが、承認制でないコメント欄を設置するつもりはありません。

昔はこちらのブログのコメントも承認制ではありませんでした。その結果、アクセスの増加に伴い下記のようなコメントが掲載されるようになりました。

・特定の弱者グループに対する誹謗中傷、差別意識をあらわにしたコメント

・「死ね」など脅迫に近いような文言を使ったコメント

・ちきりんではなく、コメントをくださった他の方を非難中傷するコメント

・自分のブログにアクセスを集めたい目的でのURL貼り付けコメント(コメント内容はエントリと無関係)

・自分の政治信条、思想を宣伝するためのコメント(コメント内容はエントリと無関係)


承認制を導入しないと、これらのコメントは私がそれらを読み、削除する時間がとれるまで、ずっと私のブログ上に表示されたままになり、多くの人の目にとまることになります。私は「Chikirinの日記」の管理者としてそれらの状況を放置することは妥当ではないと判断しています。

したがって、承認制を伴わないコメント欄の設置はあり得ません。


(3)フィードバックを受ける方法の多様化

他の多くの方と同様、私にとっても、自分が書いた文章に読者の方からフィードバックをいただけるのはとても嬉しいことです。そんな中、上記のような事情と制約によりコメント欄を閉鎖せざるをえなかったことは、とても残念です。

ただ、最近はブックマークを利用されている方、Twitterをされている方も多くなり、ご自身のブログをおもちの方もたくさんいらっしゃるため、コメント欄がなくてもフィードバックを頂く場所は確保されつつあります。

短いコメントならご自身のTwitterアカウントで、長いコメントはご自身のブログで表明していただければ、トラックバックはブックマークページに表示されますし、Twitterなら元エントリのURLを含めることでヒモ付けが可能です。



上記のような理由と背景により、コメント欄を停止させていただくことになりました。

今後ともちきりんブログをよろしくお願いいたします。

そんじゃーね。

2010-09-05 本の感想、本の紹介です。書評じゃなくて

ブログで本の紹介をすると、「ちきりんが○○という本の書評を書いていて・・」みたいな、つぶやきなどネット上での反応を見かけるのだけど、これは結構違和感ある言葉だなーと思う。

書評なんて書いたことないし、書きたいとも思ってない。ちきりんの書いてるのは“本の感想”だったり“本の紹介”にすぎない。書評ってのは全然違うもんでしょ、と思う。


ちきりんのエントリについて、“記事を読みました”と言われることもあり、まあこっちは書評ほどの違和感はないけど、本来であればやっぱり“ブログのエントリ”と“記事”と言われるものはかなり違うモンのはずではないかと思う。

ただこっちの方は、ネットニュースの記事とブログエントリの境界線がかなり曖昧になっているという現実のせいか、そこまでの違和感はないかな。ネットニュースの中には“それが記事?”みたいなのもあるし、紙の新聞でさえ「海外のブログにこんなことが書いてありました」とか紙面に載せる時代。だから、“エントリ”と“記事”という言葉の融合?の方はそんなに違和感は感じない。


でも、本の感想や本の紹介と、本の批評、書評ってのはやっぱり全然ちゃうもんだと思うよ。少なくともちきりんは本の感想を書く時に“評価”という視点は全くもっていない。どういう視点や基準で評価するのか、という“評価軸”を考えたこともない。


なんていうか、価値のあるものの呼称を、その辺の適当なものに使うってのはやめたほうがいーんじゃないか、とか思う一方で、混乱ラバー的には「まあでも、そんなことどーでもいいや」とも思う。


これからは時間ができるのでもう少し本を読んで、感想なり紹介なりを書いていきたいんですけどね。でもそれは“書評”なんかじゃありません。てか、本なんて評価してなにがおもしろいのか、さっぱりわからない。


そんじゃーね。

2010-09-04 出社最終日

素敵なランチから夕方のイベントまで、個別メッセージからオフィシャルなフェアウエルメールまで、色鮮やかなブーケからナノイー!まで、「私ってこんな送り方をしてもらえるほどの働き方をしてきたっけ?」と、ちょっと反省するくらい暖かく送って頂いた。


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これだけの経験をさせてくれた会社に心から感謝してる。

多くの(ちょっと信じられないくらい)すばらしい人達と出会えたことに、心から感激してる。


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次の10年を、前の10年と同じ10年にしたくない、と思ったから、やめることにしました。

18歳の時に、東京で一人暮らしを始めた時、「人生が始まった!」と思った。

今、あの時と同じ気持ちがします。

「人生が始まるかも!」


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これから何をやろうかしらん、ということはまだぐちゃぐちゃで巧く言えないのだけれど、


もうちょっと広い世界を見て、

もうちょっと新しいことを学んで、

もうちょっといろんな人と会ってみたい。


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どこか他の会社ですぐに働き始めるんじゃないか??と思ってる方もいるようだけど、

そうじゃないです。


“ちきりん”として売り出していくんですか?と聞いてこられる方もあるけど、

それも違います。


「そんな生き方もあったんだ?」と言われるようなスタイルを見つけたい。

ゼロから考えろ、と言われてきたし、

自分で考えろ、と言われてきたんだから。


f:id:Chikirin:20100903234356j:image:w360


それにやっぱり、ちょっとでも、微力でも、ゆっくりでも、

返していかないといけないことがある、とも思う。

このままもらってるだけじゃあかんでしょ、と思うじゃん。


f:id:Chikirin:20100903234431j:image:w360


なぜかナノイーまでもらった。眠りながらエステができるらしい。

左は写真とメッセージで作ってもらった記念アルバム

・・・忙しい中、みんなほんとにありがとう。


f:id:Chikirin:20100904003553j:image:w360


この組織の一員であったことは、

ちきりんの一番の誇りです。

みなさんにとっても、そうであることを信じて。


そんじゃーね。

2010-09-02 日本のエリート、その作られ方

10年前にでた本だけど、すごくおもしろかった。

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)


“ほほお!”な点はたくさんあるのだけど、特に紹介したいのが“日本における人の選抜方法とエリート”に関しての洞察でした。

よく“日本のエリートは自分の利害しか考えない”と言う人がいるでしょ。ちきりん的には、そんなことないんじゃない?と思ってるけど、そういう意見は確かによく聞く。で、だとしたらそれはなぜ?ということへの答えが書いてあった。


西欧のような明らかな階級社会であれば、たとえ形式的には競争という形をとっていても、選抜方法自体の不平等さが目に見えている。だから競争に勝ち残った人々は、勝ち残ったという事実だけでは自分の地位を正当化できない。自分がその地位にふさわしい人間であることを目に見える形で積極的に示さなければならない。そのため、「高貴な義務」(ノブレス・オブリージュ)という観念がうまれる。

つまり、西欧の“勝ち組”は、自分が勝っているのは自分の実力ではない、と理解している。もちろんそれは周りの人にもバレている。だから(後ろめたいから?)貧乏人に優しくしたり、進んで社会のために身を投じたりして、「ほら、ボクも頑張ってるでしょ」と証明しようとする、ってことですね。


ところが日本の選抜システムは形式的には高度に平等で、全員を同じ年齢で一律に選抜にのせる。その上、選抜の方法も主観的な偏りが入りにくいペーパーテストが主で、選抜機会は強く一元化されている。

日本では選抜競争が平等な競争であると信じられてきた。だからその「高貴な義務」という概念すらもたないエリート集団がつくりだされた。

一方の日本では、試験を勝ち抜いた人達があたかも「この結果は自分の実力で手に入れたものだ」と思い込み易い方式になっている。そのためノブレス・オブリージュもエリートとしての責務感もない、単なる既得権益層としてのエリート(オレが実力で得たのだから分け与える必要はない的な)を生んでいる、ということらしい。



この著者の方、ユニークな表現が多くてかなりイケテルと思うのですが、その例のひとつがこれ↓

親の学歴や職業といった資産が、選抜システムのなかで「ロンダリング」(洗浄)されているようなものだ。「本人の努力」という形をとった学歴の回路をくぐることで、得た地位が自分の力によるものになる。


日本では“実力主義ロンダリング”が行われてるってことなのなー。


★★★


もうひとつ。“エリートの自己否定”が社会の要請によってでてきた、という話も興味深かった。


選抜システムはどういうものであれ、必ず重大な問題をひとつかかえる。選抜は少数の「勝者」と多数の「敗者」をつくりだす。「敗者」とされた人はそのままでは当然やる気を失う。その結果、経済的な活力が大きく殺がれ、社会全体も不安定になる。「努力してもしかたない」という疑惑にとりつかれていれば、その危険はいっそう高まる。選抜社会をうまく運営していくためには、「敗者」とされた人々が、意欲と希望と社会への信頼を失わないようにしなければならない。(中略)


それゆえ、「選抜そのものが実は空虚なのだ」と選抜の勝者が言明する。エリートがエリートであることを自己否定する形で、「敗者」の意欲をそがないようにする。簡単に言えば、「ボク、テストでいい点とるのがうまいだけなんです!」とエリート自身が告白したり自己批判することは、この社会の選抜システムにとって、重要な「お約束」のひとつなのである。


そして、この“エリートの自己否定”はエリート自身にも都合がいいと著者はいいます。余計な責任を負わなくてよくなるからね、と。


ふむー。


と、他にも書きたいことはたくさんあるのですが、この“日本におけるエリートの選抜方法”と、“結果としてのエリートの行動様式”の間に、必然的な関係がある、という指摘は、なかなかおもしろい視点だと思いました。学者さんらしくデータも分析もしっかりしてるし。

この本、内心であれ「オレはエリートだ」と思ってる人には必読だと思う。


そんじゃーね!