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Chikirinの日記 RSSフィード

2012-06-23 人格を創るのは「身体的な体験」

先日、台風5号の影響で一晩、新幹線&新幹線ホテルに閉じ込められ、新大阪から東京の自宅に戻るまで16時間くらいかかりました。

夜の8時頃に新大阪を出た新幹線は米原付近で停止し、夜中の12時まで4時間以上そのままでした。この間、私はお弁当を食べながらツイッターをしたり、日本語のアナウンスしか行われないため状況がわからない外人さんに説明をしてあげたり、本を読んだりしていたため、実はたいして退屈していませんでした。

ただ、日付が変わってから「新大阪まで戻ります」と言われた時にはさすがにがっくりしました。「5時間待って、振り出しにもどるわけ?」って感じです。

とはいえ他に選択肢はなく、新大阪へ。そこでは「朝の5時までこの車両で寝ていいです」というありがたい(?)アナウンスが。 仕方なく3時間ほど仮眠を取りました。


朝の5時、新幹線ホテルを追い出され、はてどうしよう?と考えました。正攻法の対応策は、1時間待って、6時始発の新幹線で東京に向かうことです。

でも、なんとなく気が進みませんでした。既に最初の新幹線で5時間、新幹線ホテルで4時間も閉じ込められ、さらにまだ1時間待って、この後、3時間、再び新幹線に乗るなんて気が狂いそうだと感じたのです。


で、駅をウロウロしてみると、新幹線の始発は6時だけど、在来線の始発は既に動いていることに気がつきました。私は発作的に「在来線に乗ろう!」と思い立ち、京都行きの普通電車に乗ってしまったのです。

朝の5時に大阪から京都に向かう普通電車、その女性専用車両に乗ってるのなんてキャバクラ帰りのお姉さんばっかりかしら?と思ったけど、案外普通の人達でした。


普通電車の駅をひとつずつ確認しながら、窓からぼーっと外を見ていました。途中、サントリーが死守している山崎の駅(「山崎って何?」という方はこちらのエントリをどうぞ→「めちゃ旨、サントリー山崎のしゅわしゅわお水」)にも止まったりして、「おー、山崎ってここなんだー!」と感激しながら京都へ。

終点の京都に着いたのが45分後。この時点で始発の新幹線はまだ新大阪を出ていません。「もうちょっと普通電車に乗りたいな。どれに乗ればいいんだろ?」とウロウロしてたら、長浜行きの普通電車を発見。「長浜ってどこだろ?」と思いつつ乗車。

あの辺って、東海道本線っていう表示がないんですよね。琵琶湖線とか、いろんな名前が付いててよくわからない。でも新幹線の駅でもある米原に止まると書いてあったので、「たぶん大丈夫」と判断して乗車。


この路線も素敵でした。途中の駅名がなんだかんだ聞いたことある感じ。「膳所? おーここが“ぜぜ”? あたしの元上司の高校のあったとこだー!」とか、「栗東? それってダビスタで馬場のあったとこじゃない?」とかね。

あと、近江八幡とか安土あたりの田園風景の美しいこと、美しいこと。田植えが終わったばかりの田んぼがキラキラ光り、伝統家屋の家が建ち並んでいます。これはそのうち夏に遊びにこよう!と即決。ほんとにキレイ。早朝だし寝不足で頭がぼーっとしてるし、なんだか夢のような光景でした。


そんなこんなで米原についた時は朝の7時くらいになっていて、ここで新幹線に乗換えるか、まだもうちょっと、たとえば名古屋まで普通電車で行ってみるか、ちょっと悩みました。

本当は名古屋まで(下手すると、東京まで)普通電車で行ってもいいかな? 混乱ラバーなんだからネタ的におもしろいんじゃないの? と思ったのですけど、実はこの翌日、200名の方の前で講演する予定がありました。

それで、「疲れて熱とか出たら皆にめちゃ迷惑」だと思い直し、米原からひかり号(のぞみは米原には止まらない・・)に乗って東京に戻ってきたというわけです。


★★★


なんでこんな話を長々と書いているというかと、普通電車にのって“ワクワクらんらん”で車窓からの景色を見てる時、あたしはずっと「ああ、これが身体的体験ってやつだよね」と感じていたからです。

その直前、新幹線に閉じ込められている間に読んだ本には、孫正義氏というデジタル時代の旗手が「極めて泥臭い身体的体験から生まれてきた」と書いてありました。たしかにその“身体的体験”は強烈で、そのことがちきりんの頭から離れてなかったのです。


そして新大阪から米原まで寝不足のまま始発の普通電車に乗りながら、いつもの新幹線の移動との大きな違いについて再認識し、これがまさに身体的な体験だと理解したわけです。

東京駅で新幹線に乗ると、2時間40分で新大阪に着くんです。これ、大半の人はトイレにも行かず、その間一度も席を立たないような時間です。窓も開かないし、風も入らない。停車駅も数個しかないから、文字通り、2時間半カプセルの中に座っていると大阪に着く、という印象です。

特に何度も乗っているちきりんには、これだと550キロという距離を移動しているという実感がもはや全く持てません。頭では「私は550キロ移動した」と理解してるけど、身体的には550キロの移動は体験できないのです。

極端なことを言えば、あれって既に「ちょっと時間の掛かる“どこでもドア”での移動」です。2時間半という物理的な時間はあるけれど、そこには、「移動」という身体的な実感が欠落してしまっているのです。

今回、ごく僅かな距離だけど普通電車に乗って、私は「ほんとだ。あたしは移動してる」と感じました。頭だけでなく、体が「移動」を感じることができるのです。もちろん、歩いたり、自転車で移動すれば、もっと強烈な“身体的体験”が得られることは間違いありません。



この「身体的な体験」は、移動だけでなく、生活のあらゆる面で、その有無が分かれています。“ごく普通の家庭”に育った人は、23才まで「お金を稼ぐ」ということに身体的な体験がありません。せいぜい18才からバイトをして、少しそれを身につけるくらいです。

ソフトバンクの孫正義氏は中学生の頃から、いえ、そのもっと前から、豚の餌を集めるおばあさんの荷車に乗せられて、「お金を稼ぐ」ことの身体的な体験を得ています。これが、彼が「金を稼ぐ」ことに大成功している大きな理由だと思うのです。


料理なども同じです。店の厨房から運ばれてくる食事、母親が食卓に用意してくれる食事だけを食べていたら、「食べ物を用意する」ということにたいする身体的な体験が得られません。「食物を育てる」ということに至っては、もはや大半の現代人(日本人)は、その身体的な意味を理解できません。

家族を持つとか、働くとか、食べるとか、移動するとか、すべてにおいて、私たちの人格を大きく左右するのは、「身体的な体験」です。「頭で覚えたこと」ではないのです。極端なことを言えば、「生きること」の身体的な体験をもたずに大きくなると、そのことの実感さえもてない人生になってしまうのかもしれません。


普通電車に乗っていてそのことに気がつき、これっておもしろいなと感じました。人格や人生を規定するのは、小さい頃から「何を学んで来たか」ではなく、「どんな身体的な体験をしてきたか?」です。

私が今回『世界を歩いて考えよう!』を出版し、その発売告知エントリで、「旅することは生きること」と言えるくらい大事なことであり、旅のない人生なんて考えられない。それくらいたくさんのモノを私は、これまで「世界を歩くこと」から得てきたと思っています。と述べたのも同じことです。

物理的に地球のあちこちを歩いて、そこから私という人間ができあがっています。そこから得たものは、本やテレビや学校から得た知識とは、影響力のレベルにおいて根本的に異なります。


これからデジタル時代になれば、身体的体験が得にくいのか?というと、それもまた違うでしょう。なぜなら「起きている時間の大半、画面に向かって過ごす」というのは、立派な「身体的な体験」だからです。

そこからは、「個人のスクリーンを持たない」生活をしてきた世代とは、全く異なる人格が形成されるはず。



自分はどんな身体的な体験を得てきたのか?

これからどんな、身体的な体験を得ていきたいのか?

子供に体験させたい身体的な経験とはどんなものなのか?

(頭で学ばせたいことではなくてね)


そういうことに意識的になるのも、おもしろいよねと思えたのでありました。


そんじゃーね