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Chikirinの日記 RSSフィード

2015-07-29 『昭和史 戦後篇』 を読んで

今日は下記の本を読んで学んだ「戦後の歴代首相がやってきたこと」をまとめておきたいと思います。

昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー)
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この本を読んでわかったのは、「日本は今でも戦後処理をしてるんだな」ってことです。


戦後の歴代内閣の取り組みをまとめると、↓

<戦後内閣が達成したこと>


1)吉田茂 1946-1947, 1948-1954  

アメリカを中心とする戦勝国と講和条約を締結して米軍による占領時代を終わらせ、日本を独立させ、同時に日米安保条約を結び、日本は経済復興を優先すると決定。

・片山哲、芦田均 (社会党政権)

2)鳩山一郎 1954-1956  

ソビエトと国交を回復

・2ヶ月だけ石橋湛山

3)岸信介 1957-1960  

安保条約の不平等部分を改定

4)池田勇人 1960-1964  

所得倍増、経済復興 東京オリンピックを成し遂げ、先進国の仲間入り

5)佐藤栄作 1964- 1972  

沖縄返還を実現。韓国とも国交回復

6)田中角栄 1972-1974  

日本列島改造論による地方の経済発展 + 日中の国交を回復


次はひとつずつ詳しく見ていきましょう。


戦後、アメリカに占領された日本の首相となった吉田茂氏は、悲願の独立を成し遂げるため、「日本はアメリカ側につく」と決めました。

当時、日本の知識人の多くは「戦争を繰り返さないためには、ソビエトなど共産主義国を含めた、世界すべての国と和解し、講和条約を結ぶべき」と主張していました。

「西側諸国だけでなく、世界のみんなと仲良くすべきだ!」と。これを「全面講和案」と言います。


「みんなと仲良く」というのは、確かに言葉としてはキレイです。

でも現実派で実務派の吉田首相は、そんな(頭がお花畑な)知識人たちを、「学者は国際政治をわかってない」と一蹴し、アメリカが率いる資本主義陣営のみと講和します。

さらに、「防衛(軍備)はアメリカに任せ、日本は経済復興に専念する」とも宣言しました。


今の日本があるのは、吉田首相の、このふたつの判断のおかげです。

まずは、「アメリカ側につく」という判断。


もし「全面講和でソビエトとも仲良く」とか言ってたら、当時から北海道への色気を隠していなかったソビエトは、

「アメリカが沖縄に基地を残すなら、ソビエトも北海道に基地を残す」

とか言い出し、ひいてはその後の米ソ対立の中で、日本だって南北分裂、最悪の場合、日本も韓国やベトナムのように、米ソ代理戦争の舞台=戦場にされていたかもしれません。

「日本はアメリカ側につく。そして防衛は丸ごとアメリカに委託する」

この吉田氏の英断により、ソビエトは日本に手を出せなくなったのです。なぜなら「アメリカの核の下にある日本に手を出せば、核戦争を誘発してしまうから」


一方で吉田首相はアメリカの要求に屈せず、日本の欲求を通すことにも成功しています。

実は終戦直後こそ日本の非武装化を主張していたアメリカですが、そのわずか数年後には日本に再軍備を求め始めました。

終戦のたった 5年後の 1950年には朝鮮戦争が勃発し、米ソ東西対立が明確になっていたからです。


でも、餓死者がでるほど貧しかった当時の日本が本格的に再軍備を始めたら、経済復興は進みません。

実際、北朝鮮と対峙していたため再軍備が不可欠だった韓国は、貧しい国民生活を置き去りにして軍備にお金を使わざるを得ず、

その後はアメリカの要請に応じてその軍をベトナム戦争にまで派遣させられるなど、非常に厳しい状況に追い込まれました。


再軍備を受け入れたらきっとそういう事態が起こると予想(懸念)した吉田首相は、極めて不平等な日米安保条約を結んでまで、

「アメリカが日本国内に基地を持つことを認めるから、その基地を自由に使って、アメリカ単独で共産主義国に対抗してくれ。日本軍の再建はあきらめてくれ。今の日本の経済力では無理だ」

と主張したのです。


中国などアジアにおける共産主義勢力の伸張に強い危機感を感じていたアメリカは、それでもしつこく日本に再軍備を要求し、1950年には自衛隊の前身である警察予備隊が創設されましたが、

日本側の負担を極めて軽装備な“警察予備隊”に留めることができたのは、吉田首相の大きな功績でした。


しかしこういった日本側の主張を通すには、譲らねばならない部分もでてきます。

実際、吉田氏が結んだ当初の日米安保条約は、様々な面で日本に不利な「不平等条約」でした。

そしてもちろん吉田氏は、それが屈辱的な不平等条約であることを理解していました。


だから通常は首相の他、外務大臣など複数名が署名する独立条約に、(他の人にはサインさせず)ひとりで書名します。

「将来の歴史家が、こんな酷い条約を結んだのは誰だと調べた時、自分ひとりで歴史の責任を負えるように」というのがその理由。

それだけ不平等な条件を呑んでも「再軍備だけは避けたい」、これが吉田氏の判断だったのです。


★★★


吉田氏の次は、鳩山一郎氏と岸信介氏が首相になります。

戦前から親米・新英派であり、戦争にも反対だった吉田氏と異なり、鳩山一郎氏は GHQ から“軍国主義者”として公職追放をくらっているし、岸信介氏に至っては A級戦犯でした。

ふたりとも、戦争を起こした大日本帝国の権力者だったのです。

にも拘わらず彼らが首相になれたのは、ひとえに冷戦のおかげです。


冷戦が起こり、「さっさと強い日本に戻って欲しい、日本まで共産主義国になったりしたらトンデモない」と考えたアメリカが、戦争犯罪者の追及をストップしたため、ふたりとも表舞台に返り咲きます。

政界に復帰した彼らは、明治以来の日本が目指してきた“欧米列強と並び立てる強い日本”(もちろん軍隊を持つ国)を再興しようと考えます。

そのためには、戦争を放棄した平和憲法を一刻も早く改正したい。


んが、国民の強い世論がこれを阻止します。

憲法改正も再軍備もイヤだ!と、多くの国民は考えました。

そのため鳩山・岸の両氏は自分たちの野望を諦め、とりあえず、鳩山内閣は(吉田首相が積み残した)ソ連との国交回復を実現します。

そして岸内閣は、(吉田首相が呑んできた)不平等条約=日米安保条約の改定を目指すことにしたのです。


このとき岸氏が担当した 1960年の日米安保改定にたいしては、大学生を中心にものすごく大きな反対運動が起こりました。連日、国会前に多くの人が集まり、大規模な反対デモが起こったのです。

しかし実際には、この改定は日本にとって極めて好ましい方向の改定でした。


吉田首相が結んだ安保条約は「アメリカは事前協議もなく、日本を基地として使える。でもアメリカには、日本を守る義務はない」というヒドイものだったのにたいし、

岸氏は、「少なくとも事前協議は必要。それに、日本は基地を提供するから、アメリカは日本を守ると明確にしてほしい」と主張し、条約を改定します。


国会周辺に大量に集まり、「安保改定・絶対阻止!」と連日デモをしていた若者達は、こうした条約改定の中身や意義を正確には理解していませんでした。

というより彼らが反発し嫌悪していたのは、「もともと戦犯だったのにいつの間にか首相にまでなり、古い日本を復活させようとする岸信介個人」であって、条約の中身ではなかったのかもしれません。

だから安保条約が改定され、岸内閣が退陣すると、デモは潮が引くように消えてなくなったのです。


★★★


その後の池田勇人首相は、吉田茂氏の「軍備はアメリカに任せて経済復興に専念」路線を引き継ぎ、「所得倍増計画」をぶち上げます。

この掛け声に応じて日本人はめちゃくちゃ働き、短期間で先進国の仲間入りができるほどの経済復興を成し遂げました。

このとき経済発展の原動力になったのが、昨日までは国会の周りでデモをしていたのに、岸首相の退陣後は一転、“会社人間”となって朝から晩まで働き始めた当時の若者達だったのです。


なぜ政治の季節がいきなり終わり、経済の季節になったのか? 

それは、国の未来を決める重要な政治論争に、この時点で決着がついたからです。


戦後、1960年の岸首相の退陣の時点までは、「日本はこれから、どういう国を目指すべきなのか」という議論に結論がでていませんでした。

戦後すぐの日本には、 3つの「目指すべき国の姿の選択肢」があったんです。それは、

a) 明治政府が富国強兵により実現を目指した、欧米列強と肩を並べる世界有数の強国 =天皇をトップとし、陸海空軍を備えた強国、三島由紀夫が求め、岸信介や鳩山一郎が作ろうとした国


b) 社会主義国家  左翼政党はこの時期、本気でこれが実現できると思っていたし、米国もそれを本気で心配していた。当時は、現実的な選択肢でした。


c) 軍備はアメリカに任せ、戦後処理以外の外交も一切やらず、ひたすら経済復興に邁進する通商経済国家 (吉田茂の主張)


1960年、

a) を目指していた鳩山・岸内閣が倒れ、

b) を目指していた左翼政党もレッドパージや反共政策にやられて“万年野党”となり、

c) を掲げる吉田派の池田勇人内閣ができた時点で、

戦後日本の「目指すべき国の形」論争には決着がつきました。


日本は「経済国家を目指す」と決まったのです。

目標が決まってないとデモも起こるけど、いったん目指すべき方向が決まったら一丸になって頑張るのが日本という国。

この後は池田内閣が経済成長実現のための政策を次々と打ち出し、国民も「豊かになるためにひたすら働く」生活に没入していきます。


★★★


こうして経済発展を成し遂げた池田氏の後を引き継いだのが佐藤栄作首相。

「経済復興は成し遂げられた。オリンピックを成功させ、OECDにも加盟し、日本は先進国の仲間入りをした。いまこそ、残っている戦後処理を進めなければ!」と考えます。

そして自ら韓国と国交を回復、続けて、アメリカから沖縄を返還させました。

「沖縄が戻ってくるまで、日本の戦後は終わらない」といった彼の言葉は有名です。

また、経済成長優先のためにあちこちで問題化していた公害被害にも手対策を打ち始めます。


沖縄返還を花道に退陣した佐藤氏のあとを引き継いだのが田中角栄首相。

当時、経済成長が実現していたのは都市部だけ。

新潟の貧農の生まれだった田中首相は、都市部に比べて復興の遅れていた地方経済を底上げするため“日本列島改造計画”や“国土の均衡ある開発”という経済政策をぶち上げ、

加えて戦後処理の一貫として、中国との国交を回復。


これで吉田茂氏が積み残してきたソビエト、中国、韓国との国交樹立もようやく実現し、沖縄も返還され、日本の戦後処理にひとつの区切りが訪れます。


しかし、積み残された課題もたくさんありました。


まずは、経済復興を優先して国防をアメリカに任せたため、日本には多くの米軍基地が残りました。その大半は沖縄に集中しています。これが、今の基地問題の源です。

安保条約を結ぶときも沖縄返還の時も、日本は沖縄の基地問題に目をつぶること(沖縄だけに犠牲を押しつけること)で、安全保障を確保、経済成長に専念できる体制を手に入れました。

これが、沖縄の人が「沖縄は戦前と戦後、二回、日本に見捨てられた」と感じている理由でしょう。

(この件については天皇の意向を含め、衝撃的な内容が冒頭で紹介した本に書かれてますので、興味のある方は本を読んでください。)


また、ソビエトとは国交回復はできましたが、平和条約の締結はまだできておらず、北方領土問題が残されています。


朝鮮(韓国・北朝鮮)との関係においても、朝鮮戦争で疲弊しきっていた韓国の弱みにつけこみ、国民から支持されているとは言い難い軍事政権に一時金を払うことで、

「今後いっさい戦後補償を求めない」と約束させてしまったことは、今も続く慰安婦問題や強制労働の賠償金問題などにつながっています。


中国との国交回復では、中国側が戦後賠償を放棄しました。その代わりに日本は多額の ODA を続けることを約束します。

中国が日本の ODA にほとんど感謝しているように見えないのは、「あれは受け取って当然の賠償金ですからね」ってことです。

中国側と田中角栄氏はこのとき、尖閣諸島問題も棚上げすると決めました。

そんな小さな島について長々と話し合うより、国交回復を早期に成し遂げるほうが、余程大事だったからです。

この大英断により日中関係は大幅に改善し、その後の“持ちつ持たれつ”による経済発展が両国で起こります。


この時の「尖閣列島問題は棚上げする」と決めた田中角栄氏の思慮深さや優れた政治センスと、

そのおかげで戦後まったく問題となっていなかった尖閣列島を突然、思い出したかのように「東京都が買う」と言い出して国際的な大問題にしてしまった石原慎太郎元都知事のひどい政治センス

の間には、驚くほど大きな違いがあります。


また、長年にわたり国防と(戦後処理以外の)外交を棚上げし、経済復興だけに集中してきたため、日本の外交能力は全く鍛えられることなく、ここまで来てしまいました。

これも、1960年に選んだ道(=外交も再軍備もしない! 経済復興だけに集中する!と決めたこと)からでてきた派生課題のひとつでしょう。


さらに、最初は日本を徹底的に民主化しようとしていたアメリカも、冷戦が始まったことで方針を転換。日本の民主化は極めて中途半端な形で放置されてしまいました。

アメリカは当初、軍国主義日本を支えた大日本帝国の官僚を全員まとめて公職から追放しようとしてたんです。

ところが、行政運営能力の高い人を全員、追放してしまうと、そうでなくても戦後で混乱してるのに、ますます国が混乱する。

そうなると、冷戦の狭間、餓えた庶民の不満が高まり、社会主義革命への呼び水になってしまう。

そう怖れたアメリカは、「共産主義よりは、戦前の官僚統制システムの方がマシ」と考えを変えてしまったのです。


この結果、日本では、戦時下の国家総動員体制を作り上げた官僚統制システムが解体されず、

グローバル競争時代には全く通用しない「計画経済的で中央集権的な霞ヶ関主導の国家運営体制」が、今に至るまで残ってしまっています。


これはホントに残念なことでした。

とはいえ見方を変えれば、政治家はここに書いているような(独立や沖縄返還や戦争相手国との国交回復など)大きな戦後処理問題にのみ専念し、

細かい制度設計や経済運営は官僚がすべて粛々と担当する、という役割分担があったからこそ、焼け野原の日本は、早々にここまでの復興を遂げられたのかもしれません。


そして最後がこれ → アメリカが冷戦開始後すぐに求め始めていた再軍備を、日本は何十年もの間、断り続けてきました。

そのために使ったのが、「日本はまだ貧しいので、軍備なんかに手をだしたら経済復興が進まない。生活が苦しくなると国民の怒りが高まり、社会主義革命が起こってしまうかも。そうなったら、アメリカさんも困るでしょ?」というロジックでした。


しかし 1990年代、最初のイラク戦争が起こった頃からはアメリカも

「あんたらもう十分、復興したでしょ? いったいいつまで経済に専念するとか言うてるわけ? もう日本が共産化するなんてありえんし。そろそろ西側諸国の一員として、応分の負担をすべきでしょ?」

と言い始めました。

バブル経済を謳歌した日本は、すでに世界第二位の経済大国になっていました。

日本の電気製品や自動車はアメリカ企業が苦境に陥るほど売れていたし、

NY では日本企業が次々と巨大なビル(不動産)や米国債を買いまくっていました。

「もうそろそろ一人前になってくれ」と言われるのは、あたりまえっちゃ当たり前です。


それでもアメリカの要請を日本はノラリクラリと避け続けてきました。

とはいえ、1960年代の日本が選んだ「目指すべき国の形」、すなわち

「外交も軍事もアメリカに任せて、ただひたすら経済発展を目指す国」は、

既に日本の目指すべき国の形としては、完全に賞味期限切れであることも、また自明でした。


安倍政権が今回やろうとしている安全保障法制の整備は、さすがにそろそろ日本も独立した大人の国として、応分の負担をすべき時期だろうという判断でもあり、

また、

「戦後に仮決めした日本の目指すべき姿」が完全に時代遅れになってしまったので、ここでもう一度、設定しなおそうという流れの中にある話なのです。

a) 明治政府が富国強兵により実現を目指した、欧米列強と肩を並べる世界有数の強国 =天皇をトップとし、陸海空軍を備えた強国、三島由紀夫が求め、岸信介や鳩山一郎が作ろうとした国


b) 社会主義国家  左翼政党はこの時期、本気でこれが実現できると思っていたし、米国もそれを本気で心配していた。当時は、現実的な選択肢でした。


c) 軍備はアメリカに任せ、戦後処理以外の外交も一切やらず、ひたすら経済復興に邁進する通商経済国家 (吉田茂の主張)


安倍さんは日本が目指すべき国の形を、吉田首相が選んだ c 路線の賞味期限が切れたので、安倍総理の母方の祖母である「岸信介」が望んだ a 路線に移行したいと考えているわけです。

そして今の野党の問題は、「a はよくない!」と言うだけで、目指すべき姿をまったく示せていないことにあります。

c は今の日本には、もはや許される(選べる)路線ではありません。

c は「戦争でボロボロに負けて焼け野原になった弱小国が、巨大な共産国に狙われていたから仕方なく許されたモデル」だったのです。

安倍さんの提唱する a モデルに反対するなら、野党は「どういう国を目指すべきか?」を示すべきでしょう。

そうでなければ彼らは、永久に「反対する野党」のまま終わってしまいます。


★★★


それにしても、

こうしてみると今の日本が抱えている、

・沖縄の基地問題

・ソビエトとの北方領土問題

・中国との尖閣諸島問題

・韓国および北朝鮮との戦後補償問題

・アメリカとの集団自衛行動を可能にするための安全保障問題

・日本の外交下手問題

・中央集権的な官僚による国家運営体制から脱皮できず、経済が停滞している問題

などはすべて、“戦後復興の中で解決できなかった積み残し課題”だとわかります。


もちろん、戦後の政治が間違っていたのでも、サボっていたのでもありません。

日本政府はその時点その時点で、もっとも日本の国益にかなう正しい選択をしてきました。だからこそ、長らく自民党は政権与党の座を維持できたのです。


ただ、問題が余りに大きかったため、すべてを一気に解決することはできなかった。

そのため、優先順位の低い問題や、そこにこだわると前に進めなくなるような複雑な問題は先送りし、現実的に“実を得る”判断をしてきたのです。


それは責めるべきことではなく、褒めるべきことであり、感謝すべきことです。

そして、残された問題をひとつづつ解決してくことは、これからの時代を生きるわたしたち国民の務めだと考えるべきでしょう。


80年前、私たちの国は、ものすごい愚かな戦争に突入しました。

そのツケは 70年たった今でも払い終えられていません。

今もまだこの国は、(そして私達は、)延々と続く戦後処理のさなかにいるのです。


★★★


今日は戦後内閣の歩みについてまとめましたが、下記の本からはそれ以外にもたくさんの学びがありました。戦後日本の歴史に興味のある方は、ぜひ一度、読んでみてください。


f:id:Chikirin:20150810175729j:image:medium

そんじゃーね!


分厚い本なのでキンドル版をお勧めします!

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2015-07-22 メディアと市場とイノベーションとロジック

新刊 『 マーケット感覚を身につけよう 』 の出版記念対談として、お二人のすばらしいビジネスクリエーターと対談しました。

とてもおもしろい内容となったので、対談記事へのリンクをまとめておきます。


第一弾は、LINE株式会社 上級執行役員 田端信太郎さんとの対談でした。

f:id:Chikirin:20150722125542j:image:w500

(写真は疋田千里さん撮影)


テーマは「メディアと市場」です。インターネットメディアと雑誌という新旧ふたつのメディア分野で活躍された田端さんは、小さな頃からマーケット(市場)が大好き。

「メディアと市場」というと多くの人が、「市場にメッセージを届けるためにメディアを利用する」というマーケティングや広告手段としてのメディアばかりを想像しますが、

田端さんが魅せられたのは「新たな市場を創りだせるメディアの力」だと思います。


ビジネス分野でよく言われる「差別化」というのは、「市場の中でいかに選ばれるか」という方法論です。

でもそれよりも、市場を創る人(胴元!)になるほうが、よほど世の中に提供できる価値は大きくなる。

田端さんは、このことを心底よく理解されており、かつ、それをお仕事でも、また個人生活でも実践されています。

そういえば田端さんは ツイッターでも大活躍ですけれど、これも、ツイッターが「メディアであり、かつ、極めて市場的である」からこそ、ものすごくフィットしたってことなんでしょう。


★★★

もうひとつは、monogoto 代表、ビジネス・デザイナーの濱口秀司さんとの対談です。

濱口さんてよく、「日本初のイントラネット構築、USBメモリの発明など、幅広い業種のイノベーションに携わってきた」などと紹介されるのですが、

私はまさか自分が、“ USBメモリの生みの親" と対談する日がくるとは思ってませんでした。( USB メモリを持参して、サインしてもらうべきでしたね!)


f:id:Chikirin:20150722125543j:image:w500


といっても、こちらは対談というよりは、私から濱口さんへのインタビューといった趣です。

だって話している最中に、「こんな人の前であたしのつまらない意見なんて言ってる場合じゃないよね。濱口さんからできるだけ面白い話を引き出して、可能な限りいろいろ聞き出しちゃった方がトクざんす」と思えたもので。


で、こちらのテーマは、「イノベーションとロジック」

対談を読んでもらえればわかりますが、濱口さんは個別の突発的なイノベーターというより、イノベーションの研究者なんです。 天才発明家ではなく、“イノベーションのプロフェッショナル”と言ってもいい。

だから、話のテーマは確かにイノベーションだけど、その話は「これでもかっ!」ってくらいロジカルなんだよね。


「確実にイノベーションが興せるプロセスを設計する」などというと、その言葉自体に矛盾が含まれてるようにも思えるし、設計しすぎると画期的なイノベーションなんて出てくるはずがない、というジレンマもあるなかで、

そういう矛盾に満ちたイノベーションという現象(?)&、そこに至る道筋を、非常に高度な、メタレベルのコンセプトで“ロジカルに”説明することにチャレンジされてる。


しかも(これがスゴイところなんだけど)それを自ら実践し、リアルな商品やサービスにつなげてる。

・・・すごすぎでしょ・・・


★★★


まとめると、

田端さんのテーマが「メディアと市場」

濱口さんのテーマが「イノベーションとロジック」なんです。


そして私のテーマが、「市場とロジック」

だからそのふたつについて、本を書いてきた。

↓ 

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自分のアタマで考えよう
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今回の対談は、全部読むと本一冊分くらいの内容となっており、しっかり読み込もうとすると、けっこうな時間がかかります。

それでも、ビジネス企画、マーケティング、メディア、イノベーション、商品開発、そして、組織経営などに携わる方には、極めて得るところの多い内容になってるはず。

私自身もとても勉強になりました。


それと、田端さんとの対談で「なぜシャープの亀山モデルはブランド化に失敗したか」という話がでてるのですが、濱口さんとの対談では、「テレビのように画面の面積が大きく、デザインの自由度が低くて難しい商品もある」という話がでてきており、私の中ではすごく“つながってる”感のある対談でした。

時間のあるときに、ぜひ皆さん、お楽しみください。


そんじゃーね!


<田端さんとの対談>

第一回 マーケットで負けるのは、「求めるもの」を決めない人

第二回 就活で成功するのは、就活の前にマーケットにさらされていた人

第三回 マーケットの面白さを味わえる情報の「価値」分析とプライシング

第四回 なぜ、亀山ブランドは失敗し、ヨガは大きな市場になったのか?

第五回 マーケット感覚とは、他者への想像力をどれだけ持てるかということ

<濱口さんとの対談>

第一回 最も創造性が高い思考のモードは、論理と直感の間にある

第二回 世界的イノベーターの人生を方向づけた仮説とは

第三回 「ストーリー価値」の台頭が経営に与える革命的なインパクト

第四回 なぜ、人間はストーリーを重視してしまうのか?

第五回 イノベーションを生むための「ブレイク・ザ・バイアス」

おふたりともスピーチ&プレゼンテーションが非常にお上手なので、機会があればみなさんも是非、聞きにいかれるとよいかと思います。


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2015-07-19 おごり返せる人生を

“ちきりん”として人に会う時、相手の年齢や性別によって、どんな形で会うかがけっこう異なります。

たとえば、20代の人と会う場合、相手は圧倒的に男性が多く、大半が起業をしているか、NPO を率いている人、もしくは、それらを検討している学生です。


ごく普通に就職しようとしてる子は、私になんて会いに来ないし、来ても私も会いません。

おそらく 20代で起業するのって、男性が圧倒的に多いんですよね。だから 20代の場合は、男性ばかりと会うことになるんです。


ところが 30代の人に限ると、会うのは女性のほうが多くなります。このあたりから「レールを降りよう!」と決断する女性が増えるからです。

どんなに制度が整った大企業で働いていても、自分に与えられたチャンスが必ずしも男性と同じでないことや、専業主婦にフルサポートされた男性と同じペースで働くことの限界が見えてきます。

自身の出産や子育てと仕事との関わりについても考える必要がでてくるし、そもそも男性のような働き方を自分はずっと続けたいのか? という疑問もでてきます。


このため女性の場合は 30代あたりで「思い切ってレールを外れてみよう」と決める人が増え・・・そうすると“ちきりん”との関わりがでてくるわけです。

反対に男性の場合は、20代の時はレールを外れるのも怖がらなかったのに、このあたりから「家族のため」という理由で一気に保守化します。

だから私が会う人の性別比率が、20代と30代で逆転するのです。


ただここまでは、会う目的の大半が「相談事に答える」「アドバイスする」「煽る」などです。つまり私と相手は対等ではなく、私=アドバイスする人、先方=アドバイスを求めてる人、という関係なんです。


★★★


これが、30代後半から50代前半くらいまでの人と会う場合、その関係性は“対談”や“トークショー”、もしくは一緒になにかプロジェクトをやる、みたいな話になります。

つまり、若い人と会う時とは異なり、対等な関係で会うようになります。どちらかがどちらかを煽ったりアドバイスしたり、といった会い方にはなりません。


当たり前と言えば当たり前です。そんな年になって「ちきりんさん、アドバイスください」みたいな人と会っても仕方ないでしょ。そしてそう思うのは相手も同じ。

お互いに相手のやってるコト=仕事なり生き方の姿勢なりを「おもしろいな」「すばらしいな」「この人の話を聞いてみたいな」と思うからこそ、対談も、そして出会いも成立するわけです。


で、さらに年齢が上がって、60才とか 70才の方と会う場合、さらに関係性が変わります。

まず、こういう年齢で“ちきりん”に会おうなんて人は、ものすごく気持ち的に若いですよね。

肩書きや学歴、職歴ではなく、「本人に価値があるかどうか」を自分で判断する人じゃないと、私に会おうなんて思いません。


だから 60才を超えて会う人というのは、

・好奇心旺盛で、

・新しいモノに肯定的で、なにかというと“できない理由”を探すような高齢者とは全く違う。そして、

・気持ちだけでなく体力的にもやたらと若いです。

みんな、あたしの 5倍くらい活動的なんじゃないかな。


ここでは、先方は新しいスタイルで世の中にでてきた“ちきりん”に興味をもち、

私の方は、年を取っても常に前向きでいるための秘訣と、長い経験からそれぞれの方が学ばれたことを、ちゃくっと教えてもらおうとする。いわば、世代間の知恵と知見の交換ですね。


このように、いろんな年代の方と会いますが、それぞれの方との関係性は、性別や年齢によって少しずつ違っているわけです。


★★★


でね。


振り返れば 20代の頃、私も今の私くらいの年齢の人から、よく話を聞いていました。今とは反対の立場で、煽られたり、教えてもらったり、怒られたり、励まされたりしてたんです。

あの頃、経験豊富な先輩方に世の中と人生と仕事について惜しげも無く教えてもらえたことは、本当に大きな意味がありました。それらがあったからこそここまでこれた、といっても過言ではありません。


とはいえ、若者に有意義なアドバイスができる人はそれなりに忙しいので、若者なら誰とでも会ってくれるわけではありません。

つまり、20代の時にずっと年上の経験豊富な先輩に時間を使ってもらえる若者と、そうでない若者が(現実に、そして今も昔も)いるんです。


そしてさらに重要なことは、そこから数十年たった後、20代の時にいろんな先輩からアドバイスをもらえた若者のうち、ごく一部の人だけが、今度は次世代の若者から「会ってください!」と言われる人になるってことです。


若者だって「人生の先輩だから」などという理由で、自分の親より年をとったおじさん、おばさんのすべてに会いたいわけではありません。

「この人なら自分の未来に役立つ話をしてくれるだろう」「頭が固く、保守的でダメだしばかりするのではなく、おもしろい、目鱗な話が聞けるだろう」、そう思う人を選んで会いに行くわけです。


つまり、若者の中に「人生の先輩から、アドバイスをもらえる若者とそうでない若者」が存在するのと同様、人生の先輩側にも「若者から会って欲しいと言われる人とそうでない人」が存在するんです。


そして、この話のポイントは、

人生の先輩が会ってくれる若者 30% 対 そうでない若者 70% 

くらいの割合なのにたいして、

若者がアドバイスを求めてやってくる中高年 10% 対 そうでない中高年 90% 

くらいだということです。


若い時に人生の先輩からいろいろ教えてもらえていた若者のうち、自分が年をとった時に、若者からアドバイスを請われる立場になれる人は、3人に 1人くらいしか出現しません。


先日も 20代の大学院生にいろんなアドバイスをした時、私は最後にこの話をしました。

「今あなたは 10人の若者のうちの 3人に入ってる。だから私は時間とお金を使ってあなたに会ってる。でも、将来のあなたが、将来の若者に選ばれるかどうかは、今からのあなたの行動によって決まってくる」って。


そっちのほうがよほど難しく競争率が高いのだってことを、若い人はよーく覚えておきましょう。


20代の時に、ずっと年上の人から「アドバイスをもらいながら食事もご馳走してもらう」みたいなことが続いても、それを悪いとか、申し訳ないと思う必要はまったくありません。

なぜなら、あなたに食事代とアドバイスの両方を提供してくれている目の前の人は、ほぼ確実に、若い頃、同じように「人生の先輩に奢ってもらいながら、貴重なアドバイスを受け取る」という経験をしているからです。

彼らは、時を超えて「昔、自分がおごってもらった分を、おごりかえしてるだけ」です。だから気にする必要はありません。


大事なコトは、自分が年をとった時、若者におごりかえせないヒトにならないよう、気をつけることです。

その気もお金もあるのに、若い人に奢ることができない人って、たくさんいるですよ。

だって、もし若い人が誰もあなたにアドバイスを求めに来なければ、ご馳走することもできないでしょ?


若い時は遠慮無く先輩にご馳走してもらいましょう。そしてその分を、しっかり次の世代の若者におごり返しましょう。

決して「若い頃はたくさんおごってもらったのに・・・今やおごり返す機会も得られない残念な人」に、なってしまわないように。


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そんじゃーね


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2015-07-13 弱者を追い詰めて爆発させる愚

8月 8日にソーシャルブックリーディング(みんなで同じ本を読んで、ツイッターで感想を共有し合うイベント 。詳しくはこちらら ) を行うので、課題図書の『昭和史 1926-1945 』を再読してます。

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今、安倍政権が安保関連法制を大きく変えようとしてるため、「戦争前の日本と全く同じだ」みたいに言う人がいるけど、『昭和史』を読めば読むほど、そんな感じはしないですね。


むしろ、すごく似ていると思えるのは別の国の状況と当時の日本です。

たとえばギリシャ。


彼らは既に 4年以上も緊縮財政を余儀なくされてる。

2010年、前政権の粉飾決算が明らかになって財政危機に陥った時、EU や IMF に助けてもらう条件として、年金など福祉施策をカットし、一方で税金は引き上げた。それ以来、ギリシャはずっと緊縮財政を続けてきてる。

既に単年度の基礎収支は黒字になってるわけだから(ちなみに日本はもちろん赤字)、彼らだって何も努力をしてないわけじゃない。

相当程度、支出を絞ってきたわけです。苦しい生活を借金返済のため我慢してきた。


そんな状態が何年も続いて、国民はもういい加減、疲れ切ってる。


ところが巨額すぎる借金はそれでも返せない。で、当然のように EU は更なる緊縮財政を求めてきた。

「これ以上どーしろというわけ?」ってのが、ギリシャ人の素直な心情でしょう。しかも国際社会の中で、ギリシャに理解を示す国はひとつもない。


今や彼らは追い詰められて、国際不信になってる。

「もうどうなってもいいから、ノーと言うべきだ!」と考える人が出てきても不思議じゃない。

そんな国民の気持ちを代弁して、あんな首相が選ばれた。*1


この状況こそ、戦前の日本に近いと思う。

・力も無いのに背伸びした

・そしたら、強い国からアレコレこづかれた

・なんなんだよ!と反発したら、次々と経済的な制約を課された


・生活がどんどん厳しくなる

・自国の政権は国際交渉に疎く、上手く状況を打開できない

・国民は生活に疲れ始める


・国民は次第に、国際社会がみんなで自国を「いじめている」と感じ始める

・こんな大変な生活が続くなら、いっそ(国連を)脱退して、自分たちで好きにやろうぜ!と考え始める


・そんな勇ましい主張をする政権に、国民の支持が集まり始める。

・いよいよせっぱつまって無茶をやる(パールハーバー)


そっくりでしょ?


反対に、今の日本なんて戦前の日本とは全く似てない。

安保法制の反対デモがやりたければ普通にやれるし、テレビで大声で反対しても、命の危険を感じることはない。


『昭和史』を読めばわかるように、当時(戦前)の日本では政治家の暗殺が頻発してた。

「アメリカと戦争するなんてあり得ない」「イギリスと仲良くするべきだ」「中国と戦争なんてしたらあかん」と、しごく全うなコトを言っていた人達はたくさんいたのに、彼らは次々と起こる要人の暗殺事件に震え上がる。

これ以上戦争に反対し続けてたら、自分もいつ、青年将校が家に押し入ってきて惨殺されるかわからない。

だからマトモな人はみんな次々と政界を引退し、モノを言わなくなった。


もし今、暗殺までいかなくても、デモを組織してる人や、メディアで安保法制反対を唱える人達が、狙われたかのように次々と税務調査を受けたり、微罪の別件で逮捕され始めたら、それこそ「戦前と同じだ!」と思える。

でもそうはなってないでしょ。

みんな楽しくデモをやってられるうちは、「戦前と同じ空気だ!」ってのは言い過ぎだと思う。


★★★


それより寧ろ、ロシアや中国の状況に、当時の日本と同じような傾向を感じます。

冷戦が終わった後、ロシアとアメリカの関係は一時、すばらしく改善した。でもウクライナを見る限り、ここに来て再び完全な対立構造に戻り始めてる。

最大の理由は、ロシアの周辺にある「元・親ロシア国」が続々と西側に取り込まれつつあるからでしょう。


冷戦の時、ヨーロッパ側には東ドイツ、ポーランドやチェコやスロバキア、そしてエストニア、ラトビア、リトアニアなど親ロシア国がたくさんあって、西側の西ドイツやオーストリアと国境を接してた。

ところが今やこれらの国は軒並みアメリカの軍事同盟である NATO の一員になってしまった。

ロシアにしてみれば、自国のすぐ近くまでアメリカの軍隊が迫ってると見える。


もちろんそれらの国がロシアよりアメリカを選んだ背景には、ロシアの自業自得的な要因も大きい。

彼らは「アメリカと仲良くするほうが未来が明るい!」と感じたからこそ NATO に入ることを選んだ。

とはいえ、アメリカがこれらの地域に“戦略的に”寛容な姿勢をみせ、札束をちらつかせて、親西欧の世論を盛り上げるために何の工作もしなかったか、といえば、やっぱりそれも「そうじゃない」でしょう。


経済支援をしたいなら支援だけすればいい。東西の中間地帯にある国を、軍事同盟である NATO に入らせる必要なんて全くないんだよね。

そんなことしたらロシアが激怒するとわかってて、敢えてそこまで踏み込むアメリカの行動は、明らかに“意識的”だし“意図的”だ。


そしてここに来て、ウクライナにまで親西欧政権が成立した。

この裏にも、資金源、そして武器の供給源として西側諸国(特にアメリカ)の支援があると見たロシアは、いよいよ怒りを爆発させた。それが突然の“クリミア編入”です。

こういう「追い詰めて追い詰めて暴発させる」というやり方を、アメリカは常用してる。


「クリミア(ウクライナ)から手を引け!」と言われている今のロシアは、アメリカに「満州から手を引け!」と言われた 80年前の日本によく似てる。

あの頃、満州は日本の生命線と言われてた。


だから「満州を手放せば許してやる」と言われても、それは「とうてい呑めない条件」だった。

満州から全面撤退することが唯一、戦争を避けられる道だったのに、日本はそれを選べなかった。それくらい満州は、(当時の日本にとって)大事な場所だったから。


ロシアにとってのウクライナも、まさにそういう土地です。

エネルギー収入に国が支えられてるロシアにとって、それを輸出するための主要なパイプラインが敷かれたウクライナは、文字通り生命線。

西側がここに手を出したら、最終的な対立は避けられない。

それを十分にわかってて、それでもアメリカはウクライナの親西欧政権を支援した。当時、中国で反日抵抗勢力を支援し続けたように。


★★★


中国だって「アメリカは世界中で好き勝手してる。シェールガス開発が始まる前は石油利権のために、「大量化学兵器がある」などの嘘まででっちあげ、他国に爆弾を落としまくった。

それなのに俺たちが自分の国の近くの海を埋め立てて、何が悪い?」って思ってる。


北朝鮮も「アメリカは原爆を持ってていいのに、なんで俺たちはあかんの? あんたら何様?」って思ってる。


当時の日本が、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン軍縮会議で決められた軍備の比率に「なんで俺たちが、英米と同じだけの軍備をもったらあかんの? あんたら何様?」と反発したように。


★★★


確かにギリシャは(国家財政の粉飾などという)考えられないほどアホなコトをしたし、今やリーダーまでめちゃなコトを言い出して国際社会を呆れさせてる。

それでも、疲弊しまくってる国と国民をこれ以上、彼らが堪えられなくなって爆発するまで容赦なく追い詰めても、国際社会がトクすることは何ひとつない。


ギリシャの首相が(松岡洋右のように!)席を蹴って ユーロ脱退を宣言し、国際的に孤立を深めてニッチもサッチも行かなくなったところに中国が「資金援助しますよ」とすり寄ってきて、

あそこが「親中国の非 EU 国」になってしまっても、ドイツはいいと思ってるの?


歴史の本を読むのは、ホントに役に立つ。

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そんじゃーね


8月8日のソーシャルブックリーディングについてはこちら

 上記エントリの下の方に、私の個人的な読書メモを公開しています。



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*1:緊縮財政にノーと言うという公約で当選したチプラス首相は、EUとの交渉を優位に進めるために国民投票を行い、その上“緊縮政策にノーと投票しよう!”とテレビで国民に呼びかけ、EUの首脳を呆れさせました。

2015-07-06 No plan で Social で 偶然を大切に

一昨日の夜、長野に着いた時、私は“長野市といえば善光寺”以外、なんの知識も予定も持っていませんでした。

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そこで、ツイッターで「善光寺の他、どこに行けばいいでしょう?」と聞いてみたんです。

そしたらアレコレ情報を頂けたので、「だいたいこんな感じで動けばいいのね!」とラフなイメージを持つことができました。(情報をくださった皆さん、ありがとうございます!)


で、それに沿って、朝から動いてみます。まずは長野電鉄というローカル線で、その昔、生糸で栄えた須坂という町へ。

長野電鉄って、特急には成田エクスプレスの車両(右)、各駅停車には東横線の車両(左)と、「どっかで見たことあるよ、コレ」な車両を使ってて楽しいのです。

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これが須坂の駅。ちきりんが大好きなローカル駅で、駅の向こうにはもちろんイオンの看板。

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ここにはたくさんの博物館があるんですが、特に昔の豪商の家が博物館になってて、彼らが使ったモノが展示されてる田中本家博物館は、家も庭も展示品も驚くほどのクオリティで、

海外から(特に欧米から)観光客を呼べるレベルです。

てか、須坂全体でグローバルな旅行先として十分に通用します。善光寺に来られた方には超お勧め。

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駅近くのクラッシック博物館も、障子や窓の枠などのデザインがすばらしかった。この辺の写真は後日パーソナルブログにアップしますね。

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で、その後は長野に戻って善光寺へ

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その後、蕎麦を食べて参道をブラついてたら、

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無料の戦争資料の展示会を見つけたんです。↓

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これがまたすごい展示で、びっくらたまげました。

東京でも同じような展示会や施設はありますが、これは展示の方法がとても粋でした。

「戦に関わる資料は敢えてもってこず、戦争による生活の変化がわかる展示品に絞ってます」と主催者の方が言われるとおり、

たとえば今もある女性誌の「主婦の友」。


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(以下、『主婦の友』の表紙写真はすべて『S12.S20 信州と戦争の時代』 前川英樹(戦場体験放映保存の会)著より)


日米開戦前の昭和 12年(上)は表紙もカラーで、女性は明るい笑顔を見せています。特集も「娘と妻と母の衛生読本」に、「夏の婦人服や子供服の作り方」です。 

当時の日本が豊かで文化度の高い国であり、みんな楽しく暮らしていたってことがよくわかります。


ところが戦況が厳しくなった昭和 18年あたりから・・・下記を見てください。

女性の表情はものすごく厳しくなり、新年号だというのにお正月の華やぎは全く感じられません。11月号にいたっては、防火ずきんを被った女性に「国土防衛戦」というコピーです。

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さらに戦況が進むと、暗い悲壮感の漂う絵柄となり、ページ数も以前の半分ほどに減ってしまっています。

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そして終戦間際にはいよいよ白黒、かつ、紙不足でページ数も激減(右)してるんです。これじゃあ、前と同じ雑誌とは思えません。

さらに左側は敗戦直後の昭和 20年 8月号。極度の食糧難に瀕した世相を反映し、特集内容も「どうやって生き抜くか」(野草や昆虫の食べ方?)に変わってしまいました。。。

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このように特定の雑誌をずっと追いかけることで、いかに戦争が豊かで幸せな生活を破壊していくものなのか、感覚的に理解できるというわけです。


他にもたくさんの興味深い資料が揃っており、とても感銘を受ける展示手法だったので、「これは是非、ツイッターでみんなに知らせよう!」と思ったのだけど、なんと展示は3日間だけで、この日が最終日とのこと。

あらま。ブラブラ歩いてて、偶然こんな展示会に遭遇できるなんて、私はとってもラッキーだったんですね。


その後はツイッターでお勧めされたコーヒーショップを目指しました。

ここですね。すごい賑わってました。

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で、どれにするかとメニューを見ていたら、すぐ後ろからピアノの音が流れてきます。

コレがまた素敵なリズムだったので振り向くと、フリースペースで無料のジャズピアノセッションが行われていました。

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パンフレットを貰ったら、けっこう凄い人っぽい。

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インパクトのある声に楽しげなリズムで、思わず聞き入ってしまうほど。

しかも、東京だったら混み混みになりそうだけど、(上記の写真でわかるように)ここではイスも空いてて、座ってゆっくりジャズピアノ鑑賞ができるんです。

こうして午後は、ちょっとしたミニコンサートを楽しむことができました。


というわけで、完全 No plan で長野までやって来たのに、Social で「どこに行けばいい?」と相談したら進むべき方向性が見え、その上で当日の偶然に身を任せてあれこれ寄り道してたら、すごく素敵な1日になったというご報告。

こういう方法の方が、最初からガチガチに予定を決めてしまうより、圧倒的に豊かな結果につながったりする。

そしてそれは旅だけじゃなく、仕事でも人生でもたぶん同じなんです。


これからも私は、No plan で Social で、そして偶然を大切にして、生きていきたい。

そう思えた1日でした。


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そんじゃーね。


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2015-07-03 三浦半島で戦跡巡り 最後はなぜか・・

先日、チューク州やグアムで第二次世界大戦の時の戦跡をアレコレ観てきたというエントリを書いたところ、「ちきりんさん、僕らと一緒に日本の戦跡を探検に行きませんか?」というメールをいただきました。


こちらのお兄さん方から・・・↓

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「えっ? あなたたち誰?」

って感じではありましたが、戦跡好きの私、やる気まんまん(↓あたしの足)

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訪れたのは三浦半島。ここって、戦争の時、本土決戦(これこそマジ?)を控えて、アメリカが上陸してくるのを、大砲や人間魚雷(特攻隊の魚雷バージョン)で迎え撃つために作られた戦壕がたくさん残ってるんです。


たとえば、ここなんてごく普通の場所に見えますが、真ん中辺にブロックが見えるでしょ。

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このブロックで閉じられた穴も、おそらくそういう戦壕のひとつです。

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海沿いを歩くと、こんな感じでいきなり現れる戦壕も多数

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ネットで調べると、中がどうなってるのか、詳しくレポートしているサイトも見つかります。

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中に入ってみると、こんな感じ。大半の場所は立って歩ける高さ。

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広い部屋の部分では、誰かが家として使っていたような痕跡もあります。フロまで付けてるし・・・

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おそらく 70年代や 80年代、ここを勝手に家として使ってた人がいたんでしょう。難しい本が残ってたりもします。

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70年代の本なので、ホームレスというより、警察に追われてる活動家とかが潜伏してたのかもしれません。前のエントリでは、チュークの人が戦壕を住居として使ってるって驚いてましたが、日本も同じだったんですね。

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中は迷路のようだし真っ暗だけど、アチコチに出口があるので(迷って出られなくなる的な)恐怖は感じません。

ただ地質がもろいので(だから戦壕も掘りやすいのですが)、いきなり崩れてきたりしないよね??という不安はあります。一人で行くべき場所でないことは、理解しておきましょう。

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海からやってくる敵を迎え撃つための戦壕ですから、入り口の大半は海に面してます。でもね、ここまで米軍が来たら、すでに終わりでしょ。

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こちらはまた別の戦壕

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中はかなり広いですね。

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こういう戦壕に格納されてた「人間魚雷の回天」って知ってます?

ぜひこちらをご覧ください→ 回天の画像検索


当時は自動制御なんてできないので、この魚雷に人間がひとり乗り込み、アメリカの戦艦に激突していくわけですね。

それだけでも悲惨ですが、この回天、訓練のために乗せられ、そのまま中で窒息死してしまった人もたくさんいたようです。つまりは魚雷設計のための実験に、生身の人間の命が使われたのです。

そもそもコレ、中に一人乗り込むと外からネジをかけて密閉するわけで、乗員はその時点でもう「生きて帰れない」と確定してしまうんです。

こんなものに乗り込む時の青年の気持ちや如何に。


信じがたいほどのメチャをやってたんだな、日本軍・・・って感じです。


当時の兵隊さんも、これと同じ風景を見てたんでしょうか。

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というわけで、戦壕の中や周囲にはいろんなモノが落ちているので、それが戦争当時のモノなのか、それとも後の時代のものなのか、いちいちチェックして回るのも戦跡巡りの醍醐味です。

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こちらはまた別の場所。ここは一応、囲ってあります。

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戦壕の中には水が貯めてある場所もあり、懐中電灯を持ってないと、いきなり落ちてアウト!かも。

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いろんな生き物もいます。カニならかわいいんですが、大量のコウモリや大ゲジ虫が密集する壕も・・・

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下から上に外が見える場所もあります。地下壕って感じですね。

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こちらも戦壕の天井から地上に向けて開けられた穴。上から見張り役が「敵が来たぞー」とか叫ぶためのものかな?

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こういう柵はあとから誰かが付けたもので、

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しっかりしたドアまで付けられてる壕も・・まったくもって、チュークと同じですね。

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外はしっとりとした三浦半島の海

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しんみりしました。


そして戦跡巡りの後は、ガッツリ系お昼のカツカレー!

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ランチを頂いたのはスグ目の前が海という立地にあるマリンショップ。案内してくださったのはここのスタッフの方だったんです。

→ 三浦 海の学校

ダイビングのライセンスもとれるし、その他にもいろんなマリンスポーツのプログラムがあるみたいです。

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ご飯を食べながら、最初は「こういう戦跡巡りって、ツアーになりますかね?」みたいな質問を受けてたのですが、だんだん

「うちのサイト、どう直せばいいでしょう?」

「今度、こういうイベントやるんですが、どういうプログラムがいいと思いますか?」

「今売ってるこのツアーなんですけど、何をアピールすべきですかね?」

などと矢継ぎ早に質問されて・・・


最後はほとんど、ビジネスミーティングになってました・・・。

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行く前は「ゲジの大群なんて見たら、失神するかも」と思ってましたが、行ってみたらすっごく楽しかったです。

誘ってくださってありがとうございましたー!

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そんじゃーね!


<ちきりんの関連エントリ>

(動画必見!)南の海に沈む日本海軍の船が観られる!

グアムとチュークの戦跡


<戦後70周年 記念イベント>

『昭和史』をテーマにしたソーシャルブックリーディングは8月8日(土)です


『昭和史』によると、特攻で命を散らした若者の数は、海軍2632名、陸軍1983名、合計4615名。

この海軍の特攻の手段が、回天という人間魚雷です。が、訓練中に窒息などで死亡した兵士の数は含まれていません。


参考: wikipedia 回天


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