実録・「おんたこ」とは何か

さて、二週間くらい続いている仲俣暁生批判もそろそろ終わりたい。仲俣暁生からはまともな反論もないうえ、反論が欲しくば実名提示の上論点を整理して改めてメールにてお伺いを立てろ、と意味不明なヘタレを決め込んでおり、おそらく以降直接の反論はほぼないものと見なせるので、一度まとめておく。*1

私にとっての起点は以下の記事だ。
【海難記】 Wrecked on the Sea -続々・小説のことは小説家にしかわからないのか
ここで、「文藝」での笙野頼子特集についての批判が行われた。仲俣暁生にとっては「批評の居場所」がなくなりつつあることへの危惧を表明する一連の記事の一つという位置づけになるだろうが、ここでは関係がない。

それに対する私の批判記事はこちら。
隠蔽の手段としての陰謀論 - Close to the Wall

仲俣の記事で行われている批判は、徹底して「政治的」な視点からなされている。というより、政治的な視点から物事を解釈することでこの批判は成立しているといっていい。そのために、蓮實重彦の文章から中原昌也についての賞賛を勝手に読み込んで見せたり、高橋源一郎を文壇政治の象徴と見なしたりしている。

そうしたあるかないかも分からないような「文壇政治」を想定し、その内部に蓮實や高橋、笙野などを配置し、その外部に田名和生や自分自身を位置させ、今回の笙野特集において、田中、仲俣両名がさも文壇政治の抑圧にさらされているかのような印象を付与しようとしている。

そのために、笙野頼子田中和生批判が徹底してアンフェアなものであるという印象を与えようとしているが、仲俣はその文章を問題になっている当の「だいにっほん、おんたこめいわく史」を読まずに書いており、その説得力は皆無だ。田中の批判が妥当であるという印象を述べるだけで、具体的な根拠はなにもない。笙野読者には笙野がそれほど怒るだけの歪曲があったことは明白だった(田中論文が発表された時点でバカにされていた)が、仲俣は両者の主張をすりあわせることもせず、読んでもいないことにも触れずに、曖昧に田中論文をこともあろうに表向き「フェア」であることを理由に擁護して見せた。これこそが悪しき政治性の発露であることは明らかであり、田中=仲俣ラインを被害者の位置に置くためのトリックであることもまた、明白だ。

【海難記】 Wrecked on the Sea - 読書の自由について
続いての記事では、作家が批評家を批判するのは、作家と批評家の間で、作品の読み方が違うからだ、という議論を展開した。ここでは主に笙野頼子が扱われている訳ではないが、明らかに前記事のフォローとして書かれていると見なせる。

私のこれに対する批判。
貧しい「誤読」 - Close to the Wall

さて、ここでの仲俣暁生の振る舞いは、田中和生笙野頼子の論争を、読書全体への一般論で解釈してみせることで、田中の論文の中身、質に議論が及ぶことを回避するものだ。前記事においては、「文壇政治*2」を仮構することで、この記事では読書論を展開することで、田中和生の「おんたこ」批判の内実を誤魔化そうとしている。

そこで展開される読書論もきわめて恣意的なもので、少数の作品を分析的に読む作家(高橋、保坂)で作家の読み方を代表させてみたりと、慎重に考えた形跡がない。また、「誤読」全般を、豊かな読みの多様性を開くものと称揚してみせることで、田中和生の「誤読」をも擁護する。そのとき、田中和生が対象をきわめて単純な二項対立で図式化することで、実際には対象をあまりにも貧しいものとして描き出したことにはまったく触れない。

なお、以下の日付の二つの記事には非常に特徴的な文章がある。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20071009
ひとつめの記事から

トラックバックでいろいろ書いている人がいるけれど、田中和生の書き方は笙野の言うほど酷いものではなく、批評としては「フェア」つまり許容範囲内である、という判断はかわらない、ただしその論旨への私自身の賛否や、批評のされ方に対して作家の側が尋常な書き方で反論することの正当性は別である。私は笙野頼子田中和生に対する批判の仕方は、まったくもってフェアでないと考える。

トラバはいっさい読んでいないと先日書いたばかりだが、つい数週間前に私などの笙野読者からのトラバをチェックしていることを明記してしまっている。まあ、それはどうでもいいとして、上記文章では、「フェア」かどうか、という非常に曖昧な基準で、田中を擁護し笙野を批判している(尋常な、というのは尋常でない、の誤記だと思われる)。しかし、このフェアの基準がサッパリ分からないし、これ以上の根拠がないので、仲俣の判断を他人が判断することができないという説得力に欠けたものになっている。フェアかどうかというのは、もしかすると、文章表現が上品かどうかだけなのだろうか。やはり、ここでも中身の吟味が行われていない(「田中和生の立論の是非を問うことがここでの本題ではない」とわざわざ明記されている)ため、無茶苦茶な読解を上品に表現することと、妥当な見解を罵倒を交えて表明することのあいだに、ひどい非対称性ができている。

二つ目の記事から

私は別に自分が「批評家」だとも「文芸評論家」だとも思っておらず*7、たまたま幸運にも公共の紙面で書く機会を得た「読者」の一人でしかないと考えている。その立場から改めて言うが、現代の小説を読んで考えたことを、文芸誌であれ他の公共の場所であれ、読者(批評家とは「プロの読者」ということでしかない)が自由に表明していくことは、その表明のレベルがどうあれ、小説が読まれ、書かれ、また読まれ…という再生産のプロセスが続くうえで必要不可欠だと思うので、私はひきつづき勝手にやらせてもらうし、そのために「ニュー評論家」と呼ばれようが一向にかまわない、ということを宣言する。

さんざん批評の居場所がなくなると騒いでいたくせに、自分は批評家ではないと言い出すこの神経が不思議だが、ここでもやはり表明、読みの質は問題ではないと言い抜けしようとしている。このあまりにご都合主義な「批評」の利用は、仲俣自身の「自分の立場にとって都合のいい限りで小説家を「神秘化」する蓮見某のような存在」という批判がそのまま当てはまる。

「自分の立場にとって都合のいい限りで批評家を「カジュアル化」する仲俣某のような存在」

初対面の人たち〜近況・その他 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
そして、この記事においては、笙野自身の発言を使って、笙野が一方的に権力の後ろ盾を持った国家テロを行っているとまで書いている。

笙野の田中批判の激越さのみを取り出し、田中和生を無垢な被害者として表象することで、元々の原因が田中和生の論文のまずさにあったことを、完全に無視している。これが悪質な印象操作でなくてなんなのか。

さらには、座談の発言を無理に解釈して、笙野頼子が自分で自分の発言がモラルが低く、論理的でない、と評しているかのように書いて、笙野の文章が非論理的な個人攻撃のみでできているかのような印象を与えるとともに、自己矛盾していると、鬼首モードで攻撃して見せた。

しかし、以下の私の記事でも書いているように、この仲俣暁生の解釈はひどい誤読だ。ここまで清々しい誤解もあまり例を見ない。
誤読の達人 - Close to the Wall

この素晴らしい誤読っぷりに、私は仲俣暁生に「誤読の達人」という仲俣批評理論にとっては非常に名誉ある称号を進呈いたしました。そろそろ永世名人とかに昇格(?)しても良いかも知れない。

そして、先日の最新記事で、
『双調平家物語』完結
なんと、仲俣暁生は彼に批判記事をトラバしている笙野読者に、仲俣のトークイベントの会場で論争しよう、だとか、議論がしたいなら実名で論点整理してメールしろ、だとかの発言に至った。

イベント会場というのはもちろん、仲俣暁生萱野稔人(この人は良い書き手だと思うので、仲俣とイベントやるからといって巻き添えにしてはダメですよ)の読者たちが集まるのであって、そこで笙野読者が論争するなんてマナー違反にもほどがある。また、パネリストと参加者という立場で、いったいどんな論争をするつもりなのか。もしかすると、イベント後に二次会とかで論争しようと言うことなのかも知れないが、それはそれで御免被るところだし、公開記事に対する議論を非公開でやろうとすることには筋が通らない。

ブログでの論争は疲弊するというのであれば、そもそも論争的なことなど書くべきではないし、トラバも受け付けなければいい。以前仲俣暁生がブログを一端閉じたときは、近代文学を読んでいないとか不用意なことを書いたら、批判コメントが殺到して、それで再開したときはコメント欄を閉じたように記憶している。まあ、仲俣暁生が消してしまった当時のことはどうでもいいとして、論争が不毛だというなら、言い訳みたいに細々したところに反論したりするべきではないし、自分の権力を最大化できる場所でのみ論争しようなどと言う卑怯なやり方を提示するべきではない。内田樹を見習って完全無視すればいい。


話を戻そう。仲俣暁生は笙野批判のそのはじめから、田中和生の批評の内実にまったく触れることなく、笙野のみをこまごまと批判し続ける。田中和生の批評の質こそが笙野の田中批判のきっかけのはずなのに、それを無視して笙野の批判のやり方だけを問題にすることで、田中和生があたかも被害者であるかのような構図を作り上げている。

これこそが最悪の意味での「文壇政治」に他ならない。中身にはまったく触れず、周辺状況への妄想や、個別事例を一般論ですり替えるとか、被害者を装うとかいった、仲俣暁生の一連の笙野批判は、ひとことでいえば卑怯そのものだ。

そして、被害者のふりをして元々の被害者を徹底して抑圧するというこの行動パターンこそ、笙野頼子が「おんたこ」シリーズで書き続けている「おんたこ」特有のものだ。

つまりこのにっほんにおける反権力とはしいていえば無責任な大権力の意であり、自己喪失の意味であり、また付け込みやすいところに付け込みながら被害者面をする事をただもう反権力と呼んでいるのである。

とか、d:id:dozeoffさんが引用した

結局、みたこが狙われた理由は弱いからだった。現にっほん政府は常に一番犯しやすそうなものを仮想敵にし、それを権力に仕立て上げて、そこに反逆するポーズを取る事で団結をはかるのだった。

とか、作中で「おんたこ」として描かれているパターンを、仲俣暁生は忠実なまでの再現度で実演して見せている。

田中の笙野を矮小化する批判に対して声を上げた笙野を、むしろ権力の側であるなどとするところなど、そのものだ。また、自分は批評家ではないなどという発言は、「無責任な権力」と通じるし、主張の首尾一貫しないところなどは、笙野が作中で「自己喪失」と評するパターンそのものだ。自らが「文壇政治」の外部に位置し、自分たち「ニュー評論家」は文壇政治を崩壊させるものとしてみられている、などという自己評価は、仮想敵を権力に仕立て上げ、それに「反逆するポーズ」を取ることで自分の正当性を主張するという「おんたこ」の行動そのものだ。

笙野を読んでいて、「おんたこ」が何かよく分からない、という人は、仲俣暁生の言動を注意深く見れば良い。彼が、「おんたこ」だ。

面白いのは、「おんたこ」を読んだ者のなかで、まさにその「おんたこ」と評すべき人物は、「おんたこ」を読んでも、「おんたこ」が何かがわからず、その反応で自らが「おんたこ」であることを露わにしてしまい、笙野頼子の「おんたこ」というアイデアの有効性を自ら体現してしまうところだ。

私は、「おんたこ」の特徴として、自分が決して「おんたこ」であることに気がつかないことというのを付け加えたい。

さて、そんな「おんたこ」シリーズ、第二弾がそろそろ発売になる。

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

だいにっほん、ろんちくおげれつ記

仲俣暁生との一連の論争?を見ていて、多少興味の出た人は、まずはこちらの第一弾からどうぞ。

だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、おんたこめいわく史

*1:ブクマ数とかがまったく伸びなくなったので、たぶんあんまり読まれていないっぽい。まあ、みんな飽きてるみたいだし、俺も飽きた

*2:私には、これが具体的になんなのかよくわからない