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Close to the Wall

2008-01-03

[]「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見

いくつかの記事で、歴史修正主義についての議論が行われているのを見て、ちょっと考えをまとめてみることにした。タイトルはこの記事から。

なにが歴史修正主義の問題なのかが未だに知られてない件 - 喚いて叫ばざれば

ちなみに、私は南京事件慰安婦問題についての事実関係についての議論には応えられないし、応えない。私は専門家ではないし、個々の史料や多数の書籍にアクセスできるわけでもない。私は、歴史学の通説に信を置き、反歴史修正主義の方々の議論の方が客観的かつ妥当な学問的方法に基づいて事実を判断していると信ずる。なお、その時々の歴史学の成果を一般に普及する役割をもつ、各社の「日本の歴史」の太平洋戦争を扱った巻(中公版とか小学館のとか講談社のとか、または岩波新書の「近現代史」や半藤一利昭和史」とか)を目につく限り拾い読みしてみても、南京事件否定論を支持する書籍はひとつもなかったことを付言しておく。素人が事の正否を判断するにはこれで充分だと思う。それだけの書籍が捏造や虚構によって成立しているというのはさすがに陰謀論が過ぎる。ピルトダウン事件や神の手の捏造のようなものがあると言うかも知れないが、事件の実証を根拠づける史料はそれらに比べれば非常に膨大で、そのすべてが捏造とするのは無理がある。

しかし、文章が長すぎるし、いろんなところに喧嘩売りすぎだし、紛糾する話題に突っ込みすぎてすごーく炎上しそうな記事になってしまった。結構おおざっぱな議論になっているのも問題だ。まあいいや。


自称中立という問題

歴史修正主義についての問題点はいろいろある。南京事件のように学問的には数十年前にすでに決着がついている問題についても未だにそれが幻であったかのように否定論を唱える人間の存在もさることながら、たとえばこのブクマコメントに

はてなブックマーク - 2008-01-01 - ▼CLick for Anti War 最新メモ

見られるように、傍観者を気取り議論を相対化して、肯定論も否定論もどっちもどっちだなどと賢しげに俯瞰してみせる者などが現れる。

彼らは相対化してみせることが中立であると勘違いしているのだけれど、学問的通説とデマとを同等に扱ってみせることが中立だなどということはありえない。私も以前はそうだったけれど、よく知らないのでどっちに理があるのか分からない、と言う人はこのことをまず肝に銘じておくべきだ。ある人物の否定論は「学問的研究の名に値しない」とまで裁判で判断された訳だし。

上記のような言動が行われることについては二通りの説明が考えられる。事件についての基本的知識を欠き、また議論を丁寧に追う手間を惜しんで、肯定論と否定論という一見対立しているもの同士をとりあえず喧嘩両成敗として裁いておけば良いだろうという、無知と怠惰からくる暫定的な判断。もうひとつは、両者が議論において対等な価値を有するという印象を与えるための戦略的な相対化という、否定論擁護の一類型。

はてなブックマーク - なにが歴史修正主義の問題なのかが未だに知られてない件 - 思いて学ばざれば

後者の例は

2008年01月02日 lovelovedog ぼくには反歴史修正主義者によるレッテル貼りのひどさのほうが気になるんだけどな。水はいろいろな条件でいろいろな結晶になるし、人類の進化は偶然と必然の両方がある

というのがある。まあ、対等な価値がある思わせるのではなく、相手を貶すことでバランスをとろうとする反応だが。このコメンター、何かと自分は中立であるかのような態度を装いながら旧軍擁護に資するような振る舞いを行うことで、まあ知っている人は知っているネットの有名人だけれど、最初の一文の偏向ぶりは凄い。歴史修正主義者による歴史家ブロガーへのここに書くにもはばかられるような程度の低い罵詈雑言やレッテル貼り反日売国奴工作員とか、最悪なのはおまえは朝鮮人かというような露骨な差別主義まで)がネットにはしばしば見られるんだけれど、それをどう考えているのか。それを考えれば反歴史修正主義の論者でレッテル貼りをやるのは、話題になっているClaw氏とか数はかなり限られてくる(ネトウヨとかニートとか、オタクとか感心できないレッテル張りがあるのも事実だ)。

南京事件慰安婦問題に言及する反歴史修正主義的なブログに現れるコメンターなんて、いきなり罵倒やレッテル貼りからはじめる連中ばかりなのに比べれば、歴史修正主義者のブログなどに批判的なコメントする人の冷静な態度はかなり目立つと思う。自称中立の人にも、ネットには左派歴史家ブロガーに対する罵詈雑言が、その逆をはるかに上回る数で存在することくらいは同意して貰えるとは思うのだけれど。

この御仁、反歴史修正主義者のレッテル貼りは気になると表明する割には、歴史修正主義者の罵詈雑言、差別発言等はどうもスルーされる様子。あるいは、歴史修正主義者よりも、反歴史修正主義者によるレッテル張りの方がひどい代物であるかのような印象を与えようとしている。これが相対化による歴史修正主義擁護の一例であることは明らかでしょう。

二つ目の文は何が言いたいのやらわからない。創造論擁護もしたいのかな?

内向きの論理という問題

で、ここから本題。

上でもちょっと触れたが、私は歴史修正主義の最大の問題点は、往々にして差別主義と渾然一体になっていることが多いことだと思っている。人種差別民族差別性差別的な主張がしばしばセットになっている。中国朝鮮韓国人へのレイシズムが特に多い。

慰安婦問題ではそれが目立った。

日本で慰安婦問題について発言する右派の人々の言動には、しばしば韓国人朝鮮人、あるいは性労働に従事する女性についての差別的発言が含まれており、韓国朝鮮人は何々な文化の連中だからとかの差別的な内向きの論理はネットなどでも広汎に見られた。

しかし、そもそも慰安婦問題がアメリカで決議案が出されるような問題となったのは、それが現在も回復されていない人権問題として認識されたからだ。人権が重要な問題なのは、それが現代の国際社会においてきわめて大切な価値であると見なされているからだ。女性差別人種差別と言った人権抑圧を克服していくことは、国際社会において尊重される理念だと言って良いだろう。それがじっさいに達成されているかどうかということについてはどの国も問題を抱えているだろうし、そのことについての批判はあっても良い。しかし、国際社会において、人権を尊重しないかのような発言を公的に表明することはきわめて大きな問題を引き起こす。

人権という概念自体については、いろいろ議論もあるだろうし、絶対正義の尺度とまで言うつもりはない。国際社会の反応が絶対正しいとも言うつもりはない。しかし、様々な人権抑圧を克服し、個々人が人権を尊重されるような社会を目指すという近代以降の人類の歴史があり、奴隷制の廃絶や女性の地位向上といった達成をこの社会がもっていることを忘れてはならないだろう。現代の社会はそうした土台に上に立っているのであり、人権の価値はきわめて重大であると言わねばならない。

国際社会はそのような人権についてのコンセンサスを共有しており(あるいは、そのようなコンセンサスを共有しているという建前で動いており)、守られ尊重されるべきものと見なしている。しかし、日本の右派歴史修正主義者は、慰安婦問題が人権問題であることを解しない反慰安婦キャンペーンを張ってしまった。

その最大の自爆例がかの「The Facts」だ。このワシントン・ポストに掲載された意見広告で、個人的に問題だと思うのは、たとえばこれだ。

FACT4:下院の決議案は、元慰安婦の証言が基礎になっているとし、元慰安婦は最初は強制されたと言わなかったが、反日キャンペーンの後変化し、強制されたと言うようになったとしている。

被害者として証言した慰安婦たちを、実質嘘つき呼ばわりしている。さらに「反日キャンペーン」などという日本の右派にしか通じない言い方をしたうえで、それに従って証言を変えたと主張し、一部アジアの陰謀の手先だという印象を与えようとしている。これにはラントス委員長が「生存する慰安婦を中傷するものだ」と批判し、結果として非難決議可決への動きを加速させるものになってしまった。

上記の主張は典型的なセカンドレイプというものだ。レイプの被害者に向かって嘘つき呼ばわりすることがどれだけ非難を受けるかわからないのだろうか。事実を究明しているようなふりをしながら、元慰安婦への中傷が行われている。そもそも、自分が性労働に従事させられていたというあまり公言しにくい事実を証言することにどれだけの心理的負担があるかということについての無理解がここには見られる。

この意見広告は慰安婦人権を尊重しようという人々に対し、慰安婦人権を否定しにかかるようなやり方で意見を表明してしまっている。性暴力についてのきわめて甘い認識が露わになっている。

発起人たちはこの広告の文面がもつ認識が、国際社会でどう受け取られるかをまったく理解できていなかった。だからこそこのような意見広告が可能になるのだし、それは理の当然としてさらなる非難を巻き起こし、アメリカはおろか、カナダオランダEUフィリピン等の国で非難決議が提出されたり可決されたりという事態に立ち至っている。

彼らは、自らの主張が国際社会でどのように受け取られるかがまるで把握できておらず、内向きの論理のみで行動していた。それはまさに戦前の日本そのままだ。以前に書いた以下の記事では日中戦争期の日本についての以下の指摘を引用した。

小林英夫「日中戦争」 - Close to the Wall

戦時下にメディアを利用しようとしたのは、なにも日本だけではなく、どの国の指導者でも考えることである。ただ、その利用のしかたが、自国の弱さを逆手にとった中国のしたたかさとは比べようもないほど、日本は稚拙で、独善的であった。もしも日本の戦争指導者が本気でジャーナリズムを戦争に利用するのであれば、全世界の人々が共感しうる普遍的な表現で、中国人がいかに暴虐で、日本の正当な権益がいかに侵されているか、この戦争がいかに日本にとって大義名分があるものかについて国際的理解を得られるよう、各メディアに発信させるべきだった のではないか。もっとも、彼ら自身が本当にそう思っていたか否かは別の話だが。

 みずからも国際社会の一員であり、そこに向かってみずからの行動を説明すべきだという意識の欠如にこそ、日本のソフトパワーの弱さが表れているように思えてならない。

歴史修正主義の最大の問題点はこの稚拙で独善的な内向きの論理、内輪でしか通じない私的な論理を、内輪の論理だと気づくことができず、その独善的なときに差別的な認識を露わにしてしまうことだ。そこでは自らの認識を客観的に再検討することがなく、韓国人が、朝鮮人が、中国人が、慰安婦がどうしたこうしたという偏見を前提として物事が論じられている。

差別主義という問題

私が歴史修正主義者や右派の一部をひどく嫌う理由はここにある。彼らはある種の人々に対する差別的、攻撃的言動を好んで表明し、民族や文化を理由にしたレッテル貼りを繰り返す。歴史修正主義者とレイシストをおまえは一緒くたにしている、と言われればそうなのだが、やはりかなり被っていると思っている。

まともな人間ならば、そのような差別的、攻撃的言動が含まれた言論を簡単には信用しないだろう。その種の議論では攻撃性が勝ってしまっていて、まともな議論にならず、冷静に考えた末の結論ではなく、結論ありきの議論であることが透けて見えるからだ。

歴史修正主義、それもカジュアルなものにはしばしばこうした差別主義が透けて見える。むしろ私は歴史修正主義というのは現代における差別主義の一例であると言うべきではないかと思っている。歴史修正主義がまったくもって議論にすらならない代物であると私が認識しているのはそういう理由からだ。

そして、私が傍観者のつもりで中立を装う相対化論者にも同等の嫌悪感をもつのは、半島の人たちへの差別的発言や、売国奴だの、中国工作員だのといったいかにも前時代的なレッテル貼りが何かしらの批判になると思っているような連中の言動が、まともな考慮に値するものだなどとして、意識的にせよ無意識的にせよ、結果的にその差別主義をスルーしているからだ(まあ、歴史修正主義がつねに露骨な差別主義を伴っているわけではないので、そういえる場合は限定的だが)。

こうした差別的発言は絶対に国際社会で受け入れられるものではないし、そもそも公的な場でなされるにふさわしい議論ではない。まっとうな人権感覚があれば、事実の当否は別としても、彼らの議論がきわめて乱暴な差別的言動に満ちていることはすぐわかるはずだし、そうなれば彼らの議論を眉に唾つけずには受け取れないはずだろう。

しかし、実際はネットの特に2chや管理者や閲覧者が痛いという意味かというような2chまとめサイト等々には、差別的言動とセットで歴史修正主義コピペ的文面がいくつも流布している。結局日本では、人権という概念は、なにやらうさんくさいものとしてしか受け止められていないということだろうか。そして一部の連中はその認識のまま国際社会に自分の主張を発信してしまっている人までいる。

たとえば歴史修正主義について活発に批判を行っていることで知られるApeman氏のブログにコメントをしに現れた人物の以下のような言動は以上の私の主張のまたとない実例を提供してくれている。

またすごいひとが現われた… - Apes! Not Monkeys! はてな別館

例えば、日本軍慰安婦を管理した意図は、「現地での強姦防止&性病防止」であったにもかかわらず、海外では「性奴隷にするために」と勝手に解釈されてしまっている(これを黙認すれば、「日本人=色情狂」と判断されれても文句言えません)。

かなり凄まじい論理展開だ。そして何が問題かをまったく理解していない。問題は「現地での強姦防止&性病防止」のために、女性を廃業の自由も認められない性労働に従事させ、「性奴隷に」していたことであり、特に強調されるべきは後者の事実だ。目的の妥当性はほとんど問題にもなっていない。明らかに死刑相当と言うほどの重罪を犯したものであっても裁判無しで殺害すれば当然問題になる(正当防衛という例外はあるが)のであって、手続きの妥当性の問題がまったく理解できていないようだ(慰安所にどのように女性を集めどのように管理したかが大きな人権問題として提起されている)。

この御仁は「現地での強姦防止&性病防止」という妥当な目的のためならば「廃業の自由のない性労働」が海外で「じゃあ問題ないね」ということになるとでも思っているのだろうか。だとすれば、たいへんに非常識な人物だと評さねばならないだろう。これは、上記リンク先のコメントでも、「崇高な目的のためにオンナは犠牲になって当然」だという主張だと指摘されているとおり、きわめて差別的な意見だ。こんな意見が人権の価値を尊重するという建前が掲げられている現代の国際社会で受け入れられるわけがない。私は前近代の野蛮人ですよ、と宣言するような行為だ。

歴史修正主義差別主義はやはり、密接な関係があると思う。歴史修正主義に同意すると言うことはそこに前提されている差別主義にも同意するあるいはスルーしてしまえると言うことだと私は考える。少なくとも私はそう判断する。

南京事件がきわめて政治的なイシューになる原因の大きな理由の一つは、それが中国人を殺害した事件だからだと私は思っている。アンチ中国の人々が、中国人から罪を糾弾されることに我慢がならないということがカジュアルな否定論が広まっていることの一因ではないか。同じことは、韓国朝鮮などが絡んだ戦争犯罪についても言える。まず、そうした国や民族への嫌悪があり、そうした人々に否定論や歴史修正主義が水がしみこむように吸収されているというのが、実状だろう。

そして、歴史修正主義のカジュアルな広まりは、この現代日本において、そうした民族差別的な考え方が問題視されないばかりかある程度共有されている社会であることをいみじくも露わにしてしまっているということだ。私はこのことを非常に苦々しく思っている。

はてなブックマーク - 「歴史修正主義の人達は本気だった」と思うようになった1年 - opeblo

2008年01月02日 fujiyama3 歴史修正主義 『海外であったり、あるいは裁判所であったり、彼らの内向きの論理が通用しない、負ける場所で戦っているから』そして日本は内向きの論理の歴史修正主義に甘い人が多いのだなと思った1年でした。

この内向きの論理に甘い人が多いという事態は、それがいざ国際社会に出た際にかなりの実害を被るという点で、アメリカ創造論がかなり信じられているという事実以上に厄介な事態ではないかと思うのだけれど、どうだろうか。

長くなりすぎているので、次の記事に続く

[]続・「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見

(承前)

相対化という問題

もちろん、歴史修正主義の議論がすべて差別主義とイコールで結ばれるという訳ではない。否定論を少しでも認めることが、ただちに差別主義に加担することだなどと言われれば強く反発を覚える人も多いだろう。私もちょっと決めつけすぎだなとは思う。右派言論の多くが、そうした差別主義と親和的だからと言って、個々の修正主義的議論が必ずしも差別的認識を前提にしているわけではない。歴史的な問題についての議論に的を絞った洗練された南京事件否定論そのものは、必ずしも差別主義とはいえない。

だから、そうした差別主義的言動を脇におくとして、純粋に歴史的問題として考えようとすれば、素人目には一見判断が付かない厄介な問題なように見える。ただ、こと南京事件否定論にかんして大きな問題になるのは、ネットで蓄積されている議論というのが、否定論と反否定論だという事実に一因がある。

南京事件否定論はネットで非常な広がりを見せ、数多くのコピペ的主張が出回っていて、それを信用した人たちの議論がかなり膨大な数存在する。それを一種のオカルトと見なしてまともに相手にするに値しない、と多くの人間は判断していたのだけれど、そのあまりの盛り上がりぶりや議員などにもそれを信じる人間が続出するような事態になるにいたって、さすがにこれはやばいという危機感が広まり、否定論の定型的な主張に対する反論をFAQ化した、南京事件FAQが公開されたというのがここ数年の展開だ。だから、南京事件FAQは、基本的に以下のように、反否定論として存在していて、南京事件そのものの歴史的事実を筋道だって叙述するというものではない。

南京事件FAQ - livedoor Wiki(ウィキ)

ネットでよく見かける否定論に対して、ただちに反論できるようにFAQを作りました。事実と論理に基づいて否定論に反撃します。また、独自の資料庫やリンクを充実させて、反論の基礎を作ります。

また、以下のページやそのコメント欄を見ると分かるのだけれど、事件そのものの実証的叙述はいくつかの書籍に任せ、当該サイトでは反否定論の蓄積を旨としている。

南京事件の存在は実証されている - 南京事件FAQ - livedoor Wiki(ウィキ)

事件について、「あったと証明」するのは、すでに存在するそのような歴史学的な蓄積に譲っている。そのような事情になっているのは、ひとつには、南京事件否定論がその程度の入門書、概説書程度の基礎知識すら踏まえていないという代物だからというのがある。カジュアルな否定論は、ほとんどコピペ的なトリビアによって事件を否定しにかかるので、そのような人間に入門書をまずは読め、といっても通じないことが多い。しかし、歴史的実証は非常に手間のかかる仕事だし、分量も膨大になるので、基礎的な部分は書籍などに頼らざるを得ないという事情もある。

このことは、この南京事件FAQ的なやり方が、トリビア知識の応酬でしかなく、何ら本質的な議論を進めていないという印象につながりかねないという弊害がある。

その顕著な例が、最初に紹介したブクマの元記事に対する反応だろう。トリビアの応酬に見えるために、突っ込みどころ満載に見える人がいるようだ。(ただ、個人的には反否定論の人の議論はきわめて冷静で、根拠に基づいていて丁寧なので、これを見るだけでもどちらに理があるかは分かると思うのだけれど)

また、このような議論しか目にしていないような人たちが、否定論と反否定論とがどっちもどっちだという印象をもつことも、確かに一面しょうがない部分もあるだろう。しかし、だからといって、ある案件について、自分の主観的感想以上のかなり突っ込んだ議論をしようというときに、その件についての無知と勉強する手間を省こうという怠惰は決して許されるものではないだろう。

はてなグループ

上記のブログの記事では、事件について真面目に情報を集めようと言う手間を惜しみながらも(某所で、三十分で読めるサイトを教えてとかいっていた)、自分を賢明な振る舞いをする人間であるという風に印象づけることには余念がないような文章になっている。

傍観者がしばしば中立を自称し、両者の主張を相対化して、どっちもどっち、と言いたがるのはこのような賢しげな振る舞いを演じようとしていることにもひとつの原因があるだろう。さらにひどいことには、反否定論を印象操作であると断じ、否定論の主張の正しさがいかなるものなのかを具体的に説明せずに、否定論擁護へと走ってしまっている。

このブログの記事は、否定論者か否定論に感化された人間の反応のテンプレートと言っていいほど典型的な認識を示している。ほんと、何回こんな文章を読んだのか、というくらいおきまりの反応だ。「南京事件そのものはあった、けれど」という自分のポジションの表明から、事態の相対化を図るという文章の流れもそうだ。

知識人と呼ばれる人の間にもしばしばこうしたメタ的な視点に立った相対化をして自分は賢明であることをアピールしようとする人がいる。知的な人間であることを自認するような人物はしばしば、こうした相対化、相殺主義のエアポケットに落ち込んでしまう。

注目すべきなのは、記事タイトルからしてそうなのだが、この人は否定論の議論をなぜか一貫して「正しい意見」と形容している。否定論、肯定論に対してあまり知らないと自認するにもかかわらず、否定論がなぜか正しいことになってしまっている。

2008-01-01 - ▼CLick for Anti War 最新メモ

彼が上記記事について素人の立場に立つなら、上記記事で反駁されている意見が否定論のすべてとまでは言えないのではないか、と疑問を表明することは可能だ。しかし、なぜか彼は「正しい意見を間違っているかのように印象づけるテクニック」を使っていると断じている。これは不思議だ。こう主張する為には、彼はそこで反駁されている意見以外の否定論を知悉しており、なおかつそれ以外の否定論が正しい意見であることを確信していなければならない。説明しろ、証明しろとまでは言わないが、彼は否定論がなぜか一貫して「正しい」ものだとなぜか無根拠に前提にして書いている。そして否定論への反論をなぜか「間違った意見」とたとえている。

どういうことなのだろうか。素人ではなかったのか。ある一部の意見が否定論のすべてとは言えないのではないか、という以上のことは言えないはずだ。彼は、「ある正しい意見Aを主張している人が10人いたとする。」という部分は「ある意見Aを主張している人が10人いたとする」と書かねばならないはずだ。

「ある意見」の一部が間違っていたからといって、その意見すべてが間違っているとは言えないというのはその通りだ。しかし、だからといって、そこで反駁されている意見以外の意見が正しいことにもならない。そして、素人であるはずのfromdusktildawn氏は、なぜそこで反駁されている意見が否定論のうちの「一番的外れな議論をしている1人の意見」であると判断できるのか。そう判断するためにはやはり否定論をかなり知悉している必要がある。私見では、そこでの否定論は10人中8.9人が主張する意見だと思うのだが。

一見南京事件否定論への距離を表明しながら、細部の喩えや文章の端々で、なぜか一貫して否定論を正しいものと前提しているのは悪質な印象操作でなくてなんなのか。

Claw氏の記事だって、基本的にはテンプレート的な否定論に対するテンプレート的な反論をまとめたに過ぎない。そこに反論された以外の否定論すべてが間違っているとまでいっているわけではないし、そもそものfromdusktildawn氏の言うほど印象操作が顕著な記事でもない。fromdusktildawn氏がやっていることこそ、一部の論法のまずさから、その論全体の正当性を否定するという大がかりなアクロバット的レトリックだ。

大元になったらしい上記記事が南京事件否定論への見事な対応、と呼ばれたのは、否定論者の疑問がほとんどFAQと言えるほどにテンプレート化されており、それに対してきちんと史料的根拠を用いて反論しているからだ。まとめた人間とまとめ方に問題はあるとしても、そこで行われている議論は否定論のおきまりのパターンであり、的外れな議論に見えるのだとしたら、南京事件否定論というのはそうした的外れな議論で成り立っている代物だからだと言うしかない。

こういう、論法を論うことで具体的事実について少しも勉強せずに大上段から物を言うというスタイルはほんといい加減にして欲しい。こういうやり方をすれば自分の知らないことについても物申せる(そして何となく頭良さそうに見える)ということなんだろうが、これを得意技にするのは内田樹だけで勘弁して頂きたいと思う。

また、この人物の考えがきわめて乱暴で底の低い代物であるということは、以下の記述を見れば一目瞭然だ。本当にびっくりしてしまった。

ポイントは、たとえ南京事件がなかったとしても、

南京事件はあった」ことにすること自体は、

とても簡単だということ。

そもそも、レイプも虐殺も皆無の戦争なんてほとんどないんだから、

よくある戦争中のレイプや虐殺に「南京事件」というラベルを

貼れば、はい、一丁、南京事件のできあがり!なわけです。

この意味で、「歴史的事実」などいくらでも捏造できるし、

それを立証することなど簡単だ。

歴史的事実の実証がその程度の基準で行われているとでも思っているのだろうか。そうだとすれば、この御仁には歴史について何かを語る能力が決定的に欠けていると言わざるを得ないと思う。ひどすぎる。

南京事件の論争について、この程度の認識しかない人物が、一方を印象操作だと論難したり、南京事件の政治的意味合いについての意見を表明したりするのか。それこそ、何も知らないなら黙っていろ、と言うしかない。少しは勉強してから物を言ったらどうなんだ。自分は素人だと自称しながら、一段メタな立場に立って、小賢しい印象操作や相対化を図る人物の知的誠実さを私はまったく信頼することはできない。

「素人」ということ

私事になるが、私も元々歴史は非常に苦手なジャンルで、まったく勉強してこなかったけれど、ここ一二年で古代史から中世をとばして近現代史についての概説書、通史などを少数ながら読んできた。それは、喧しく議論されている南京事件について、自分が判断できるほどの知識、教養がないことについて不安に思い、少なくとも近現代史についての通史的理解くらいはある程度把握してから、自分で判断しようと思ったからだ。

私が中高生のころは、小林よしのりの「戦争論」が非常に売れていて、「ゴー宣」をある程度読んでいた繋がりで「戦争論」を読んで、一時期感化されていた。ああ、「南京大虐殺」とか無かったのかあ、なんて思っていたし、肯定派の書籍に目を通すなんてことはなかった。その後読書傾向が変わり、小林よしのりについてはかなり批判的な立場に立つようになってからも、「南京事件」の議論は面倒で、厄介な政治的イシューになってしまっていて、私には判断できない問題だと敬遠していた。

が、ちょっと真面目に議論を追ったり、通史などの書籍を当たったりした結果、否定論はきわめてずさんなデマゴギーの一種だといまは判断している。途中敬遠していたせいだが、私が南京事件否定論を解毒するまで、十年近い時間が経ってしまった。単純に費やした時間にすれば一二年くらいだけれど、それまでは、あったともなかったともどちらとも言えない、という認識だった。そこから、ネットの情報を参照したり、本で読んだりして、わりと少なくない手間と時間を掛けてある程度自分の判断が確定するまで、南京事件などの紛糾しがちな議論にはきわめて禁欲的であろうとしたし、してきたつもりだ。

上記ブログの人物は、その程度の手間を掛けることもせず、自分の知識がきわめて些少であることも認めながら、ずいぶん突っ込んだことをいっている。手間も掛けず、知識もないなら、言えることは極めて限られてくるはずだけれど。どういう思考回路なのだろう。

知らないことについては黙っていろ、というのは実は正しくない。知らないことについて言えることはかなり限定されてくるのにかかわらず、この人物はその範囲を明らかに逸脱して物を言っていると言うことだ。否定論も肯定派の主張も知らないのならば、両者の主張のメタ的な立場に立つことは原理的にできない。知らないことを俯瞰することはできないからだ。この人物は知らないことについて俯瞰したつもりになってきわめて的外れなことをいっているという事態になっていることに気づいていない。

ついでだが、日本の戦争犯罪がことさら問題になることの理由の一つ(差分)は、慰安婦南京事件が特にそうだが、それが今現在の問題として否定論が活発に議論されているところにある。しかもそれが政府要人のレベルでなされていることが大きな問題になっている。慰安婦にかんする安倍晋三の発言や、慰安婦を中傷するような意見広告の存在が非難決議可決への後押しをしたことがその顕著な例だ。慰安婦に関しては基金もあり、河野談話などでそれなりに謝罪なども(議論はあるが)されてきていたのに、安部前首相が修正主義に感化されて、それを反故にするようなことを口走ってしまったため、国際的波紋を広げることになった。

事態がいまも政治的な問題になっているのは、過去の事実そのものの性質のみにあるのではなく、いま現在の対応にも多くを負っている。ちょっとアレな言い方になるが、現代日本の歴史修正主義こそが、事態を紛糾させている大きな原因になっている。

また、もうひとつ重要な点として、日本は敗戦時に戦後問題になりそうな資料のたぐいを大量に焼却処分してしまっている。このことは、証拠隠滅することで戦争責任を免れるためだったようだが、これは誰かから告発されたときに、自分の身の潔白を証明する根拠もないということでもある。証拠隠滅を図った者が、相手の言い分のおかしさを非難するというのがかなり無理のあることだということは分かるはずだ。

「ダメな議論」かどうかの簡単な基準

やたら長くなってしまったけれど、私がなぜ修正主義的な主張を嫌うかは、それがしばしば攻撃的、差別的主張と一体になっているからだと書いた。

もうちょっと詳しく言うと、私は、その主張そのものの当否について判断を下すほどの情報を持ち合わせていないとき、過剰な攻撃、中傷、差別的な発言が見られる場合は、その文章が語っていることの80パーは間違っているかデマだろうと判断している。

罵倒や非難、中傷が渾然になった文章というのは、その攻撃性が先に立ってしまうため、自身の主張を冷静に再検討するというプロセス、客観化して自身の主張の妥当性を判断するというプロセスが欠けていることの現れだと思っているからだ。

客観的かつ冷静な態度は、自身の主張を再検討することができる余裕があることを示している。そういうと、ここまでのおまえの文章だって攻撃的だったり乱暴だったりする部分が散見されるじゃないかと、まあ批判されると思うけれど、一応、その個々人の具体的な振る舞いについての説明を付けた上で批判的評価は下しても、一方的なレッテル張りをしたりそのことについての中傷をしてはいないと思う。まあ、書いていて熱くなることは多いので、書きすぎた部分は結構あるのだけれど、きちんと理のある批判があれば、訂正、修正謝罪に応じる準備はあるつもりだ。それに、個々人の属性、性、民族、文化などによる差別はしたことはないつもりだ。

私がここで「ダメな議論」の念頭に置いているのは、嫌韓と呼ばれる人たちの差別意識たっぷりの文章とかだ。そこでは、日本と韓国、という単純な二項対立が前提され、敵味方の二分法が前提されているため、冷静で慎重な議論が期待できない。相手を罵倒して溜飲を下げることが目的となっているので、議論が為にする代物になっていることが多い。胸がすく思いをするのが、重要だなどといっている人は一度ものを考えると言うことについて真面目に考えた方がいい。

ただ、もちろんこの理屈は、歴史修正主義のみにではなく、反歴史修正主義にも当てはまる。反歴史修正主義には、単純な二項対立に陥らず、冷静で客観的な議論が求められるということだ。まあ、私はあまり達成できたとは言えないが。やはりどうしても腹が立つし、それが文章に反映してしまう。あまり反省はしていない。