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2011-08-08

[]かじいたかし - 僕の妹は漢字が読める

僕の妹は漢字が読める (HJ文庫)

僕の妹は漢字が読める (HJ文庫)

祭に便乗するには出遅れすぎた感があるけれど、前回とライトノベルつながりでこれも。

はじめに

このライトノベルは発売前にさんざん話題になり、様々なところで取り上げられたばかりか、SF界隈にも話題が広がり、最近芥川賞候補で話題になったSF作家円城塔までが言及する事態になった。

なぜここまで話題になったかというと、まずはこのタイトルだろう。

ラノベ界隈というか2chというかまとめブログあたりでは、最近のライトノベルのタイトルがよく話題に上る。

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そこらへんはここでもまとめられているようにいろいろあるけれど、去年アニメもやった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のような「文章タイトル」、「(ヒロインのフルネーム)は○○ない」という「否定形タイトル」がよく指摘され、「最近のラノベはこんなにひどい」という叩きの格好のネタになったりしていた。この種の長いタイトルは良くも悪くも最近のラノベの特徴として知られていたと言っていい。

そこへきて、『僕の妹』までは普通なのに、『漢字が読める』と来た時のインパクトといったらなかった。困惑というか脱力というか、何とも言いようのないセンスで、文章タイトルの流れに強烈なカウンターを決めたことだけは確かだと思う。このタイトルセンスには感嘆を禁じ得ない。

さらに決定的だったのは版元サイトで試し読みできるようになっていた第一章の内容だった。本作の舞台の二十三世紀では、文章はひらがなとカタカナで表記されるようになっていて、漢字が読めることが特筆すべき技能となったばかりか、萌えが社会を覆い尽くし、総理二次元美少女だし、「正統派文学」の代表的作家オオダイラ・ガイの作品では、義理の妹ができて、その妹は野球拳での決闘を挑まれたときに逆転の発想で先に全裸になるという意味不明な展開があるというのだからたまらない。

その展開について、漢字が読める妹から必然性がない旨指摘されると、主人公は

正統派といったら無意味な脱衣シーンがあってこそだろ。野球拳は脱衣シーンを書くための辻褄合わせだよ (中略) 野球拳をして服を脱ぐことが重要なんだよ。正統派文学とはそういうものなんだ!

と力説するあたりのとんでもなさ。

そのうえ幼稚さを極端まで突き詰めたようでいて独特のリズム感をもつ、何かをキメたでじこが喋っているようなオオダイラ文体の破壊的な気持ち悪さもまたすごかった。アレを打ち込むのはつらいので、試し読みの44〜45ページを参照してくださいね。

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HJ文庫から出る『僕の妹は漢字が読める』への大勢の期待感 #kanji_yomeru - Togetter
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ここらあたりでライトノベル的感性が日本を覆い尽くした世界、というディストピアSFなのではないか、という話が囁かれ、これはすごいと話題になった。個人的には、試し読み二ページ目で、本書は二十三世紀に書かれたものを二十一世紀人にも読めるように翻訳したものです云々の前置きを読んで、SFマインドというかメタフィクションマインドを刺激されてこの時点で俄然気になった。

この発言にもあるように、よくいわれる筒井康隆以外にも、笙野頼子を思わせるところもあった。確かに、作中のオオダイラ文体なんか笙野頼子の作中で出てきてもおかしくないほど狂的な雰囲気をまとっていた。なら読まなきゃならんわな、と。


ただ、これは後出しになってしまうけれど、一章を読める段階でどうもみんな騒ぎすぎでないかと思っていたことも確か。SFとしてはそこまで奇抜でもないと思うし、いくらか先行作品も指摘されていた。あるいは、本作をパンクライトノベル批判として持ち上げる向きもしばしば見られた。ライトノベルあるいは携帯小説(この論者はこれらが低俗な表現だという前提で発言している気配がある)的な、軽いあるいは「低レベルな日本語」が社会を席巻した未来を批判的に描いたディストピアものとして見ているのだろうけれど、一章を読んだ段階でもはっきりわかるように、「妹もの」ジャンルをパロディとしてネタにしているのは確かとしても、否定すべく批判的に扱っているわけではない。「義理の兄が大好きなツンデレ妹」を扱ったライトノベルとしてこの先進むだろうことは予想がついた。それは妹の容姿を描写するその仕方でもうはっきりしていたと思う。

全体の感想

ここら辺までが読む前にだいたい考えていたこと。

びっくりしたのは店頭に並んでいるのを見た時で、帯にでかでかと「おにいちゃんのあかちゃんうみたい」と書いてあるのを見た時はまさにshit! この帯に耐えられる者だけが読むことをユルサレル。

で、読んでみると、基本的には「正統派文学」を奉じる主人公に妹が絶えずつっこみを入れたり、タイムスリップ先での現在の文化を誤解しまくるポンコツ主人公を効果的に使ったコメディ、さらには「痴漢」や「童貞」って何なのかという質問に妹が狼狽するというようなシーンとか、主人公と仲良くなるもう一人の少女が出てきて妹も気が気でない三角関係などが主軸のラブコメ作品。

その舞台として、萌え文化が極度に拡大した社会とそれに疑問を抱かない人物が出てくるわけだ。この舞台と人物を転がして、萌え文化、オタク文化を幾つか角度を変えつつネタにしている。萌え文化をまったく知らない二十一世紀の少女と一緒にアキバで「おっぱいマウスパッド」を探して四苦八苦する、というようなトンチキな展開の馬鹿馬鹿しさ。

タイムスリップ、といったけど、後述のリンク先でも指摘されているように第三章からは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』風のSF展開になる。他にも、大長編ドラえもんの個人的には『魔界大冒険』とかを思い出した。

そういうスタイルなので、ディストピアSFという要素はほとんどなく、そもそも作中の二十三世紀はディストピアとして描かれているわけではない(読者にディストピアにしか見えなくとも)。そもそも、主人公たちが二十一世紀に行っても普通に言葉が通じるとか、SFとして緻密に設定を詰めるようなことにはほとんど気を使っていない。

なので細かいところをつっこむのもあまり意味がないけど、文章があれだけ破壊的な変化を被っていながら口語がほぼ変わりないというのはちょっと無理がある。文章があれなら、二十三世紀の言語は確実にウォマックの「ポスト文学」のような代物になっているはずだろう。

Jack Womack : postliterate

たとえば、"Bookstore me"で「本屋しろ(本屋へ連れて行け)」とか、"Bread Me"で「パンして(パンをくれ)」とかいうのが「ポスト文学」で、詳細は上記リンクを見て欲しいけれど、オオダイラ文体との近似性たるや。

ヒーザーン (ハヤカワ文庫SF)

ヒーザーン (ハヤカワ文庫SF)

これはまだ一例で、他にも整合性を放り出しているところ、ネタで押し通しているところも多く、整合性や設定や辻褄を気にする作品ではないというオーラが作品から滲み出ているのでもう別にいいや。ベースはノリの軽いコメディだし。

まあ、何にしろ、タイトルの圧倒的インパクトと、わりにさわやかなSFエンタメだったこと、メタな仕掛け(後述)が面白かったことは評価しておきたい。しかし、幾つかの感想であのエンディングを次巻への引きだと思ってる人がいて、いやいや、アレはああいう終わり方なんだよ、カッコいいラストじゃないか何言ってんだと思って、後書きをきちんと最後まで読んでみたら、さらっと次巻告知があって目が点。この感想をだいたい書き終わった後で気づいたわ。ほんとにBTTFじゃねーか。

とはいっても「兄ラブな義妹」という一般的には致命的な要素を作品の核に置き、全肯定する作品なので、それを乗り越えられなければならない点でかなりハードルが高く、ラノベのお約束やテンプレをガンガン詰め込んでくるので、ラノベを読み慣れない人、あるいはオタクネタに理解がない人には正直読めたものじゃないだろうと思う。基本的に詰めも甘い感じなので、B級としてまあ面白いかもという結論になるのだけれど。いや、もうちょっとぐだっと萌えに傾倒した方向を予想してもいたので、さらにあのラストで案外面白いじゃねーか、とずいぶん甘い評価になっているとは思う。減点法で評価すると値がマイナスになりかねない作品でもあり、酷評も理解できる。

でも、BTTFや大長編ドラえもんのような、日常から異世界、そして日常へ、というような子供心をくすぐる冒険SF要素がちょいちょい感じられて、その点嫌いではなかった。いまのライトノベルってこういう風な作品がなさそうな勝手な印象があるけれど、マイナーなものにはあったりするのかな(ネルリみたいに)。


萌えディストピアSF

しばしば本作は萌えが社会を浸食したディストピアという見方をされるけれど、すでに書いたように二十三世紀社会はディストピアとして描かれているわけではない。二次元美少女総理*1誕生の理由は国民の関心を高めるためだったり、作中で主人公が二十一世紀アニメを見て、「正統派文学の源流」だと感動する描写があるように、現在の萌え文化の直接の延長にある。主人公が「正統派文学」を擁護する理由はいまの萌えコンテンツにもそのまま当てはまるようなものも多く、オオダイラ先生や主人公がパンチラだ義妹だと言いつのる様子は、いま現在アニメの話題などで、ブヒる、ポル産、オワコン覇権だなんだといったワンフレーズコミュニケーションの光景や、パンチラだ乳首だ湯気だ謎の光線だ、DVDBlu-rayで修正!修正!と騒いだりしている様子とそう違いはないようにみえる(オオダイラと主人公の言動には、性欲と信仰くらい違いがあるけれども)。

もちろん萌え文化が社会全体に拡大したことの質的差異は大きいものの、本作の未来社会ディストピアと呼ぶなら、いまの一部オタクコミュニティもまたディストピアと呼ばねばならないのではないかと本書は問い返すだろう。読めばわかるように、作者は萌え文化自体をネタにはしても否定はしていない。ばかりかどっぷりとそのなかに浸かっており、同時にその延長にある未来社会に対しても特に批判的とはいいづらい。後述の「仕掛け」も含めて、この作者、かなり強かだぞ、と思ったのだけれど、単にこの人の頭のネジが外れているだけという可能性が。とはいえ、この作品の設定のもつ「批評性」がどこまで仕組まれたもので、どこまで結果論的な、あるいは深読みによるものかはなかなか判別しがたい。ある種の鏡として機能している感はある(つまり、私の感想もそうだ、ということ)。

なお、当初予想されてたような、萌えが日本を覆い尽くしたディストピアSF、を読みたい人には笙野頼子を読むことをお薦めする。

だいにっほん、おんたこめいわく史

だいにっほん、おんたこめいわく史


笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」
笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』 - 猟奇カニ人間地下道に出現

『だいにっほん、おんたこめいわく史』をはじめとする「おんたこ」三部作は、オタク的なメンタリティというか、ポストモダン無責任*2というか、そうしたものの醜悪さを日本史宗教史のレベルから捉え直してきわめてグロテスクに描き出した「平成の奇書」。その前哨戦としての『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』から読むのもありか。

男には人権が存在しない女人国「ウラミズモ」を舞台にしたSF水晶内制度』も代表作。おんたこは三部作なので、何か一冊でというならこれが良いかも。

あるいは結婚願望に取りつかれた女ゾンビたちが、結婚していないくせにその境遇に不満を抱いていない主人公に、独身・醜貌の惨めさを認めさせようと徹底的な攻撃を繰り返してくる『説教師カニバットと百人の危ない美女』はいわゆる「鬼女」的なものを描いたものとして読むこともできるだろう。

余談だけれど初期の短篇「虚空人魚」は「90年代日本SFベスト集成」なんかが出るとすればもちろん収録されるに違いないと私は勝手に思っている。


仕掛け(以下ネタバレ

で、ここからは結構ネタバレになるけれども、この作品のメタな仕掛けには感心させられるところがあった。

どういうことかというと、この作品は、序盤を読んで「ディストピアSF」だと思った人や、そうした発想の前提にある、ライトノベル携帯小説をレベルの低いものとし軽侮することそのものを批判することがテーマともなっているからだ。

タイムスリップした先で、文学志向の文芸部長(途中でちょっと学園ものになる)と主人公が、それぞれ自分の信じる「文学」、方や二十一世紀現在の文学と、方やひらがなカタカナで書かれた妹もの二十三世紀の「正統派文学」をめぐって論争になる。そこで主人公は、彼らが書いた作品を認めようとしない文芸部長*3にむかって、

萌えという表面だけを見てくだらないと切り捨てている。表面しか見られない人間なんだ。

と啖呵を切る。しかし、彼らの時代に戻った後、主人公はオオダイラ作品こそが正統派文学として賞を受けるべきで、パンチラも妹も出てこない作品が賞を取るべきではない、と考えていた自分もまた表面を見ていた人間だったのだと気づく。オオダイラはそこで、作品にはいろんなものがあってよい、何にしろ、作品に込められた思いはどれも尊いのだと彼を諭す。ここでは、ライトノベル携帯小説、グロテスクな例としてばかり出されたと思われた、オオダイラ文体による作品さえもが、尊い表現としてその他の文学と並置されることになる。

もうひとつポイントは、時空を超えるこの物語のなかで、物語は時間を超えるということが語られているところ。時代を超えて作品は読みつがれていくものの、あまりに時間を経るとその表現は理解が難しいものとなってしまう。そこで翻訳が、古い時代のものを蘇らせることで命脈を保つわけだけれど、ここで本書の冒頭に戻れば、本書こそ未来の(おそらくオオダイラ文体のような破格の)文体で書かれたものを二十一世紀人でも読めるように翻訳したものということを思い出す。

つまり、今読んでいるこれは、表面こそ異なるものの元々は未来のオオダイラ文体のような文章で書かれた代物だったのだ、という仕掛けでもって、表面しか見ない狭量さをメタ的に批判しているわけだ。普通の小説だと思って読んでいたら、携帯小説リライトしたものだったと明かされるようなものだろうか。まあ、これはそういう「設定」ではあるのだけれど。

この仕掛けはなかなかうまいなと思った。文体でラノベ携帯小説を叩いたりする人はしばしば存在しているけれど、ちゃんと読み込んだ上で言っているのか、と問うとともに、一般人がオタク文化を蔑んだり、オタク携帯小説的な文化(あるいはスイーツ(笑)とか)をバカにしたりするような行為自体もまた退ける。下記山本弘ブログでもまとめて取り上げられているけれど、まとめブログで叩いていたような人たちは既に作中で乗り越えられていたあたりは皮肉が効きすぎて笑ってしまう。


感想の感想

とここまで感想を書いて他の人の感想を読んでみる。以下では作品の感想と、まとめブログでのひどいコメントへの批判を同時に行っている。

山本弘のSF秘密基地BLOG:『僕の妹は漢字が読める』の感想がひどい件

SF作家山本弘は、やはり設定の詰めの甘さに大変不満があるようで、いろいろ指摘している。だいたい指摘の点はその通りかなと思うのだけれど、氏はちょっと勘違いしてるところがある。幾度か、ライトノベルの縛りから飛躍できていない旨指摘しているのだけれど、話は逆で、作者は真っ向から「ライトノベル」を書こうとしている。無理矢理に学園ものパートが始まるのも、文芸部長との対立が重要とはいえ、萌えラノベに学園もの要素は欠かせないから、だろう。

山本氏は、作者が妹ものライトノベルを書こうとして導入した手段としてのSF設定に目を惹かれるあまり、SFとして読もうとして不満が出ているように見える。まあSF的に面白くできそうなネタがそこかしこに放置されているのに不満一杯なのはわかるんだけれど。

かといって萌え方向で盤石なわけでもないかなとは思う。

個人的には、本書が翻訳されたものだということは前書きに明らかで、最後まで読めば訳者も明らかなんだけど、この二重性を全然生かせていないのが惜しい。語りに重層性を導入すると格段に小説として面白くなると思うし、作品内容に訳者がどう反応したかを読みとれるようにすれば、萌え方向でもポイントを稼げたハズ。訳注なりつけてしまうと、その付け方で最後のネタがバレバレになってしまうためなんだろうけど、そこはそれこそ工夫して欲しいところだった。

また、タイムパラドックスを解決しようとしたはずなのに、歴史の変化を起こしそうな未来の小説を、なぜ「二十一世紀のみなさま」にも読めるように翻訳してるのかってのとか。

あと、本作の設定について、ハングルハングルだ、と韓国の文字政策を連想している人(韓国批判だと思っている人も)が何人かいるんだけれど、まず想起すべきなのは日本の新字新仮名遣いなんじゃないかなと。ハングルほどドラスティックではないにしろ、慣れないと旧字旧仮名(正字正仮名)の文章って読みづらい。全くの新しい文字に変えるのではない点で、本作の設定に近いのは新字新仮名政策だと思うんだよなー。

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で、BTTFとの類似性等を指摘した有村氏の感想。これ、冒頭の段落だけ読んでネタバレ避けのためにやめておいたのを、いまはじめて最後まで読み通したのだけれど、大まかには一緒の感想になってるかな。発売日当日に上げられた記事。

漢字が読めない「僕」の文学――かじいたかし『僕の妹は漢字が読める』感想(修正版) - タケイブログ

筒井作品との比較や作中作への主人公の反応のおかしさについての考察。この路線を突き詰める方向にはいかない気がするけども。

これほど長い記事を書くほどの作品ではない気もするけれど、まあ、以上で。

*1:国民全員の実妹、という設定だそうだけど、これ、国民は「天皇の赤子」の逆バージョンに見えるんだよね。そこまで考えてはいないと思うんだけど

*2:出里田誤用之介という人物が出てきたりする

*3近親相姦だからダメだという文学志向ってのが不思議だ

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