映画『kapiwとapappo 〜アイヌの姉妹の物語〜」上映とトークイベントに行ってきた

2017年4月1日〜30日『kapiw(カピウ)とapappo(アパッポ) アイヌの姉妹の物語』 | CINEMA Chupki TABATA
昨日、田端のCINEMA Chupki TABATAで行われた、映画上映および佐藤隆之監督と写真家の北川大氏のトークイベントに行ってきました。

映画は、佐藤隆之監督によるドキュメンタリー。床絵美――カピウ(カモメ)と郷右近富貴子――アパッポ(花・福寿草)というアイヌの二人の姉妹の生活を追いつつ、はじめてのデュオライブを行うまでの毎日や企画へのスタンスをめぐってのすれ違いを描きつつ、当日のライブをたっぷりと映したもの。トークイベントは、佐藤監督と『アイヌが生きる河』の著者北川氏によるもので、これがスリリングな興味深いものだった。

アイヌの普通の生活

まずこの映画、カピウとアパッポの物語は、前述したように姉妹のライブに至るまでを描いたもので、撮影者はその生活に黒子のように影に徹して撮影しており、その存在が消えているかのような印象すらある。私は当初映画でインタビューされている海沼武史という絵美さんの音楽プロデューサーで映像作家でもあると紹介された人が今作の監督なのかと勘違いしていた。インタビュー映像が挿入される場面もあるけれど、監督は徹底して介入しない、という立場を守っている。

そうして映し出されるのは、アイヌにかかわる仕事をしつつも、ごく普通に子供の世話もし生活している普通の人としての二人だ。劇中で海沼氏は、和人の侵略によってアイヌ語を話さなくなったことでアイヌは消えた、アイヌアイヌの歌を歌っているときにしかいない、という極端なロマン的芸術観でアイヌを捉えようとしているけれども、映画は全体として、普通の生活者としての二人とその生活のなかにアイヌがあるということを描いているようにも見える。

当然最後に待ち受けるクライマックスとしての二人のデュオライブはとても良くて、土着的な歌唱とリフレインには暖かみとともに呪術的な眩惑感がある。これについては実際に聴いた方がいいだろう。

さて、映画はアイヌ文化というものをこれこれこういうものだ、という解説をしない。歴史や文脈を説明しないし、あるいは政治的な現況について語ったりはしていない。これは非常にわかりづらさも生んでいる気はするけれども、そうした日本のなかでアイヌとして生きているということの日常、がそのまま提示されているともいえる。アイヌということが否定論にも晒されていたり、多くの人はアイヌの生活にどこかファンタジーを抱いているという現在において、そのままある、ということが見られることには想像以上に価値があると思う。

「透明」さの問題

そして、その介入しない立場についての問題を指摘したのが上映後のトークイベントでの北川氏だ。

北川氏は『アイヌが生きる河』の執筆過程において自分が直面した危機について語った。それは、二風谷に取材したこの写真つきの著書をまとめるさいに、アイヌと自分の関わりを少年時代に遡って思い出していたとき、アイヌの友人を揶揄する言葉としてアイヌという言葉が最初自分に入って来たと。そのアイヌの友人が揶揄されいじめられていた経験が、今二風谷でアイヌと暮らすきっかけにもなったけれども、よくよく思い出してみると、その友人をアイヌと揶揄する先頭に立っていたのは他ならぬ自分だったことを思い出したという。

アイヌが生きる河

アイヌが生きる河

この自己欺瞞に直面した体験の話は非常に興味深く、アイヌ問題とは和人問題に他ならないというテーゼの実例でもある。だから、北川氏は海沼氏のアイヌ観についてきわめて鋭く問題化する。海沼氏はアイヌにかかわる和人によくいる支配欲で動く典型ではないか、と。北川氏は、海沼氏のアイヌはもういないという発言の場面について、私ならそこで三十分は時間を掛けて掘り下げる、とも言う。確かに、海沼氏の物言いはプロデューサーとはいえ何かやたらと上から目線、というかパターナルなところが目についていて、それは私も気になっていた。アイヌはもういない、と言いつつアイヌの絵美さんに対応する海沼氏の態度は、あえて言えばモラルハラスメント的なそれだ。

映画において、後に車両誘導の仕事をしつつ、原発事故で逃げたヤツはもう戻ってくるな、殺すぞコノヤローという場面を入れているあたり、監督も海沼氏をヒールとして作中に置いているのではないかと思うけれども、否定論じみた持論を註釈なくそのまま映してしまうことの暴力性の問題は残る。

北川氏は映画について、撮影者、監督を消す「透明な文体」だと評したけれど、それはそのまま、否定論に場所を与えることになってしまう。

これはトークイベントで出た話だと思うけれども、阿寒湖のアイヌコタンは、二風谷と違ってもともとそこにコタンがあったわけではなく、ある種観光のための人工コタンだという。だとすればそこで民芸喫茶を営んだり船上でムックリを吹いて見せたりして観光客相手に仕事をしている富貴子さんが、デュオライブについての諍いで、私が出たいと言ったわけではなく、そういうことに決まっているからやるんであって、それは仕事だからだ、といった時の「仕事」ということにはかなり複雑な意味があるように思う。

この映画には普通に見ただけではわからない、そういう重層的な歴史性、社会性が裏にあって、それはアイヌという存在の現在と密接に繋がっている。それらをあえて切り捨て、ファンタジーとしてのアイヌ観を海沼氏に代表させて向こうに置きつつ、現実の景色と生活のなかのアイヌという存在を映したのがこの映画だろうと思う。

北海道の美しい風景、子供の声が騒ぎ立てる雑然とした生活、そして先祖から伝わるアイヌの歌、それらを受けとめつつ、そのまわりにあるアイヌをめぐる状況についての注視が求められる作品でもあるわけだ。

おそらくこの映画には、膨大な註釈が必要でもあって、だからトークイベントで批判的な見地から北川氏がさまざまに語ったのはとても良かったと思う。

というわけで、映画も面白かったけれども、それを問い直すトークイベントがあることで、より映画を立体的に捉えることができる面白いイベントでした。

ただ、イベントの時間が遅くて、七時から上映、トークイベント終了が十時前なのでそれがちょっとアレ。帰宅に二時間近く掛かってしまうので。