羨望は無知

…夜明けが毎日訪れることを当然だと思っていたのが最大の誤解でした。

2005-04-14 本当によく遊ぶ子供はよく学ぶ

[][]日本のゲームデザイン研究は今?

欧米のゲームデザイン研究は、近年かなりの量と質を誇るようになっている。オンラインリソースだけでも、igda.org、Gamasutra、game-research.com、などなどに大量のリソースを散見することが出来る(もちろん学会系のデータベースは言うまでもない)。その意味でゲームアカデミックの中でもかなりホットなトピックであることは間違いない。

特に、「Rules of Play」に代表されるような良質のテキストの登場によって、思考の継続性が確立し、加速度的に(公開される、いわゆる『外在知』の)研究量が増加している。もちろん質についてはピンキリではあるが、量のインパクトというのはやはり存在する。"Game Designology"が存在すると言っても過言ではない。

一方、日本国内はというと、研究自体が無いわけではない。だが、現にそれを学ぼうとしている学生である私が苦労している事からも明らかな様に、圧倒的に研究量が少ない。

もちろん私の調査不足ということも十分考えられる。が、少なくとも系統的な研究の流れは存在していない。殆どの場合それらの研究は散発的で、系統的継続性に欠ける。どこかの企業内には優れたゲームデザイン研究が存在していそうな節もあるが、それが表に出ることはない。したがって共通の語彙もなければ、認識の統一性も取れていない。一言で言ってしまえば、学問になっていない。どこになにがあるか分からない、そしてその紹介をするものもない、では調査不足にならない方がむしろおかしい。

「ゲームデザイン」という言葉はかなり浸透してきて多用されるようになったが、その認識については非常にばらつきがある。例えば、mixi内にある「ゲームデザイン」コミュニティにて、「ゲームデザインって何?」というトピックを立てたことがあるが、そこで集まった話をざっと見ても明らかな様に、個々人がそれぞれの認識をしている。

もちろん「ゲームデザイン」という言葉の意味が厳密に決められている必要性は無い。だが、ある程度話をしよう、意思の疎通を図ろうと思ったときに、その最重要キーワードがてんでばらばらな認識をされていたのであれば、話にならない。言葉だけが独り歩きしているが、実際問題使えない言葉になっている。日本では「ゲームデザイン」がそもそも議論の対象になりにくいのだ。日本に紹介されるゲームデザイン研究がごく基本的な基礎の基礎ばかりであるため、「なんとなく分かった気がするが使えないよね」という誤解を生むことと同様に、日本でゲームデザインに否定的意見が多い要因である様にも思われる。

学問がない、言葉がない、議論の下地がない…、IGDAで公開されている記事ではそれは「研究者や学生に広がる誤解である」と書かれているが、あくまでもそれは英語圏での話である。日本語ネイティブがネイティブの言語を使って研究しようという(ごく当たり前な)ことをしようとすると、誤解でもなんでもなく目の前に立ちはだかる巨大な壁として立ちふさがるのだ。

こうなってくると「生まれた場所を間違えた」とかいう話すら挙がってくる。確かに英語圏の人間であれば、すくなくとも最初の1段目でつまずくことはない。そんな話をすると、次に出てくる話が、「英語を勉強しろ」、「留学しろ」、という声だ。だが、その話には私は異論を唱えたい。

何故私が日本語での研究に拘るのか。その理由には主に2つある。

  1. 言語は思考のフレームワークであり、学問の成立には複数のフレームワークが必要であるから。
  2. ビジネスの現場で優れた研究が成されているが、そこで使われている言語は日本語であることが少なくないこと。

確かに英語に限って研究すれば容易である。だが、それでは明らかに不十分だ。まして目の前に研究材料が転がっているのに、何故遠くから見つめなくてはいけないのか。

英語の文献を当たっていると日本の開発者のゲームデザインに触れた発言、例えば宮本茂氏などの発言に出くわすことがある。「Mr.Shigeru Miyamoto saids...」という具合にだ。こういう文献に出会うたびに私は虚脱感に襲われる。何故、これが日本語で読めないのか。恐らくその話が発せられたときの言語は日本語である。その話を一旦英語に訳してニュアンスがそぎ落とされた後に、再びそれを日本語に訳して読む、という事ほど滑稽なこともあるまい。どうしてストレートに理解できないのか。同じ言語をネイティブに持つもの同士で、意見のやり取りが出来ない。なんということか。

「留学しろ」に至っては論外である。日本には「恥」という文化があるが、こういう発言をする人間は恥ずかしくないのだろうか。それは「日本ではそういう研究は出来ませんし、出来るようにする意思もありません」と語ることと同義だ。こういう発言を聞くたび、ああ日本にはアカデミックは存在しないのだな、としみじみ感じる。「誰もやっていない領域に飛び込んで産み育てる」というアカデミックの基本は存在せず、どこかで既に出来上がった学問を持ち込んでくることしか出来ない「あかでみっく」。ゲーム研究が、まず”最高学府”である大学ではなくて本来職業訓練校であるはずの専門学校で中心的になされてきた、という事実をもってしてもそれは明らかだ。ゲームデザイン研究もその例に漏れない。

こう書くとお先真っ暗であるが、希望が無いわけではない。ゲームデザイン研究のレベルがここまで開いてしまうと、確実に実際の現場、つまりゲームビジネスにも影響を与えてくる。ごく一部の優れた個人研究家以外の日本の開発者はお飯の食い上げという切実な問題に直面するだろう。そうなると嫌でもアカデミックなゲームデザイン研究の要望が出てくる。そこにわずかな希望の芽があるかもしれない。

ゲームデザインの重要性については既に語られつくされている訳で、本来は後は学問的に進めて行けばいいだけだ。難しい事ではない。だがアカデミック側にそれを受け入れる下地が無い。少なくとも私がアカデミックな場所に居る内は「有り得ない」。さて、後世の人間がきちんと研究出来る日はいつ来るのだろうか。

hallyhally 2005/06/16 07:10 ええと、こんなことは書くまでもなくご存知だと思いますが、海外のゲームデザイン研究というのはヴィデオゲームだけを対象にしたものではない―――というよりヴィデオゲームを対象に含みはじめたのは比較的最近の話で、そこに至るまでにボードゲーム方面での長い蓄積があったわけです。残念ながら、日本のゲームデザイン研究は、まだその蓄積を十分に吸収しているとはいえないでしょう。いわば基礎工事を欠いたところにアカデミズムを建てようとしているわけで、うまく育たないのも道理―――と、私の眼には映ります。複数のフレームワークが必要であるとお考えなら、実際に複数のフレームワークで思考してみることも大事でしょう。

ConquestArrowConquestArrow 2005/06/19 00:55 仰るとおりだと思います。いろいろ調べてみますと、ボードゲームデザイン研究もさることながら、遊び研究の流れやら、はたまたプラトンからの流れやら、それくらいの長さの思考の継続性が背景にあることに気づかされます。そういう意味では、基礎工事を欠くどころか、ただの地面にいきなり屋根を乗せようとしているのでは、とすら感じます。

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There is a time in every man's education when he arrives at the conviction that envy is ignorance; that imitation is suicide; that he must take himself for better, for worse, as his portion; that though the wide universe is full of good, no kernel of nourishing corn can come to him but through his toil bestowed on that plot of ground which is given to him to till. The power which resides in him is new in nature, and none but he knows what that is which he can do, nor does he know until he has tried.

— "Self-Reliance", Ralph Waldo Emerson,1848