野嵜健秀といふ人

一昨日の日記で、かう書きました。

榎村陽太郎といふ醫者が「稽古」は「啓古」で良いと言ひましたが、それでは「古を啓く」となり、古いものから習ふのではなくて、古いものに教へるといふ全く逆の意味になつてしまひます。

さうして脚注に、「榎村陽太郎『日本簡体字のすすめ』」と書きました。すると同じ日の闇黒日記*1に、こんなことを書かれてゐました。

平成十七年一月二日
国語国字の根本問題を出してゐる新風書房日本簡体字のすすめなんて本も出してゐるんですね。:

それだけにあらず、一昨日の日記ではかうも書きました。

それらは書換へ語でも何でもないし、示されてゐるのは單なる古臭いだけの表記ではありませんか。正字正假名の價値は「レトロつぽい」ことですか。文法に忠實だとか、國語改革が餘りにをかしな方法で行はれたとか、さういふことはどうでも良いのですか。私はレトロつぽいもの、古臭いもの、保守反動的なものが嫌ひです。

すると昨日(三日)の闇黒日記では、

さう云ふスマートさが、國語改革に反對する正字正かな派のおつさん連中に屡々缺けてゐる事には、非常に腹が立つ。「日本語の美」を言ふ連中に、變なノスタルジアだけで物を言つてゐて、本質的な合理性とか、簡潔さとかに縁のない、言はば裝飾過剩の文章を綴つてゐる馬鹿がゐる事にも、俺は相當腹を立ててゐる。

と、書かれてゐた。變なノスタルジアといふのは、「レトロつぽいもの、古臭いもの、保守反動的なもの」とほぼ同義ですよね。
――偶然だとは思ひますが、もしも野嵜氏がCoold's Weblogを見てゐたら、と思ふと、少し、否、かなり恥しうございます。
――と思ひましたが、「日本語のために」といふ人が假名遣についてでかうかいてゐます。

一方、字音仮名遣はその性格から表音的に改めたとしても国語の文法体系を破壊することはない。このことから、丸谷才一氏のやうに字音仮名遣いを表音的に改めても良い、といふ考へが生じる。しかし、この理窟の全くの裏返しで、これを改める必要がないとも考へることができる。

私も昨日、似たことを書きました。

私は、字音假名遣も元のままで良いと思つてゐます。確かに和語と違ひ、何の役にも立たず、難しいものでもあります。が、字音假名遣などといふものは結局「やう」「はう」などを除けばルビくらゐにしか使はれないので、言ひ換へれば役に立たないからこそ、本當にわざわざ改めるべきか、疑問なのであります。

日本語のために氏が書いたのは一昨々日で、私がこれを書いたのは昨日です。が、私がこの文章を讀んだのは今日ですから、私が眞似た訣でもない。即ち、偶然似た訣です。かういふ偶然があるやうです。
といふ訣で、野嵜氏はCoold's Weblogを讀んでゐないといふ結論に達しました。少し殘念です。終。

*1:野嵜健秀氏のWeblog正字正假名論者には有名。

生活を科學してみたりする

袋に入った冷凍のマグロがあるとします。それを解凍する手段としてうちの親は鉄板の上に置くのですよ。鉄板は熱伝導性が良いから、マグロと鉄板はすぐに熱的に定常状態になります。つまり鉄板に空気から流入してくる熱はマグロにも行き渡るので結果的に表面積が増えたことになり、解凍が早くなると言う仕組みです。
でも私としては水の中に放り込んだ方が良いのではないかな〜って思っております。水は熱伝導性が非常に悪いので、水からマグロに熱が流入しても水の温度があまり下がらないので恒久的に温度を下げることができると思ったからです。
空気と水の温度に大きな差がある場合と大してない場合とでは結果は変わるような気もしますね。また、空気や水の循環具合の如何によっても結果が変わりそうです。結局どちらの方が解凍が早いのか分からなくなりました。

鐵板のほうが良い氣がします。熱傳導率が惡いといふことはそれだけマグロから熱を吸収しないといふことではないでせうか。