近藤宗平氏の 「人は放射線になぜ弱いかー少しの放射線は心配ご無用」(講談社ブルーバックス)への疑問

「近藤宗平氏の「人は放射線になぜ弱いかー少しの放射線は心配無用」(講談社ブルーバックス 1998年第一刷、2011年4月8日第七刷)を読んだ。この書物は、LNT仮説に対する反論を唱える著者の立場を一般大衆にも分かるように書き下したものであるが、フクシマ原発震災の後、増刷されて書店に並んでいるので、これを購入された読者も多いのではないかと思う。
まず、この書物のタイトルとサブタイトルは、そもそも矛盾しているのではないだろうか、というのが私の第一印象であった。
「人は放射線になぜ弱いかー少しの放射線にも気をつけて」
あるいは
「人は放射線になぜ強いかー少しの放射線は心配ご無用」
なら、その内容に反対するにせよ賛成するにせよ首尾一貫したものを感じるが
「人は放射線になぜ弱いかー少しの放射線は心配無用」
というのでは、何を言っているのか分からない。
しかし、近藤宗平氏講談社ブルーバックスから出版された啓蒙書(?)のタイトルは、まさしくそういうものであった。著者には申し訳ないがフクシマ原発震災のあとにマスコミに登場された多くの「専門家」たちの発言
放射能の強さが基準値の××倍となりました。しかし心配無用です」
というのを思い出してしまった。
それにしても、福島の小学校の校庭の放射能汚染度が二〇ミリシーベルトでも安全だということを文部科学省の役人が勝手に決めた時期に、この本が店頭に並ぶことに私は大きな違和感を覚えた。放射能健康被害に関する国際基準は、一ミリシーベルトであり、我が国の安全基準、法体系もすべてこの国際基準にしたがっている。もちろん学問の世界では多数派が常に正しいとは限らないから、LNT仮説にもとづき弱い放射線被曝も健康障害を引き起こすという世界的にスタンダードとなっている理論に異を唱えるのは著者のご自由である。
しかし、この「啓蒙書」(?)を読んだ私の感想を率直に言えば、著者の主張の前半「人はなぜ放射線に弱いか」には賛成であるが、それと明らかに矛盾する後半部分、「弱い放射線は恐れるに足らない」という説は、誤りであると考えざるを得なかった。著者は量子力学基本法則を忘れているのではないか。光にせよ放射線にせよ、一個の素粒子が遺伝子を傷つけるエネルギーは、その周波数とプランクの定数の積に等しいのであり、その一個あたりのエネルギーは弱い放射線でも強い放射線でも同じなのである。放射線の強さは、そういう素粒子の総数に比例するから、弱い放射能の場合でも、細胞を傷つける力は同じである。我々が宇宙の彼方から来る恒星を見ることが出来るのも、その恒星から来る極端に微弱な光に含まれる一個あたりの光子のエネルギーが非常に高いからである。たかだか数個の光子でも我々の視神経はその影響を受けるが故に、恒星を肉眼で見ることも可能になるのである。放射線についてもそれと同じで、微弱な放射能であっても、その一個あたりの破壊力は極めて大きいのである。

それにあたれば急性障害を起こして致死的となる8グレイの強い放射線と謂っても、身体に及ぼす総エネルギーは僅かなものであり、我々の体温をせいぜい一〇〇〇分の二度上昇させる程度であるが、それでも造血組織などに致命的な打撃を与えるのは、その放射線一個あたりのエネルギーが、身体の細胞を安定した状態に保つ電子の結合エネルギーと比較して、圧倒的に大きいからである。そしてその放射線一個あたりのエネルギーは、「弱い」放射線でも「強い」放射線でも基本的には変わりはない。我々の身体には傷ついた細胞を快復させる能力もあるから、放射能が弱ければ弱いほど、傷つけられる身体細胞の個数はそれに比例して少なくなるが故に、放射線被曝を主たる原因とするガンや白血病になる確率は減少するであろうが、決して零にはならないと考えるのが妥当である。

また、統計的比較によって発がん率の増加に有意の差が見出されるかどうかという危険性に関する確率判断の方法は、癌を引き起こす因果的メカニズムが全く不明の場合には参考とすべきであろうが、放射線が遺伝子を傷つけ、染色体の異常を引き起こすことが知られているという事実をまず考慮すべきである。二〇年三〇年後の長期に亘る統計を待って結論を下す以前に、我々は、予想させる危険に照らして、本来危険であるものを間違って安全と宣言する愚行を避けて、速やかな予防措置を講じなければならないことは言うまでもなかろう。