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模型とかキャラ弁とか歴史とか このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2007-08-28

[]2007年8月28日のコメント収集

>金スラモテズ 女ニモモテズ

>職スラ 友達スラモテズ

>ブヨブヨノ体デ 無駄ニタクサン食ベ

>働ク気モナク 税金モオサメズ

>イツモネットデ 不満ヲ書イテイル

>毎日誹謗中傷シ スレニ吸イツイテ 離レズ

>朝カラ 煽リハジメ 祭リガアレバ 記念カキコ

>アラユルコトヲ 自分中心ニ考エテマワリヲ見ズ

>持論ヲクドクド 注意サレテモ聞カズ ソシテスグ反論

オタクグッズニ囲マレタ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ

>東ニ公務員アレバ 嫉妬ニ狂ッテ税金ドロボウトイイ

>西ニ朝鮮・シナアレバ 馬鹿ニシテ自分ヲナグサメ

>南ニ困ッタ人アレバ 自己責任ダトイイ

>北ニ事故ヤ不幸ガアレバ 喜ビイサンデザマアミロトイイ

停電トキハ オロオロ迷イ

>ミンナニ ネトウヨト呼バレ

>関ワラレモセズ 愛ヤ優シサモシラズ

>ソウイウ風ニ ダメニナッテイク

(宮沢賢治がこれ↑を見たらなんというのでしょうか‥)

ネトウヨと愛国とお金と陰謀(補足情報) - 2ちゃんねるとネット右翼(ネトウヨ)ウォッチング&その分析

ネトウヨに対するネガティブキャンペーンだ!と言ってみる。

2007-08-25

[][][]だまされにくくなるためのヒント

だまされる人と抵抗する人

このような多様性は、物理的構造と同様、心理学的性質にも影響する――感化に対する感受性、あるいは抵抗性を高める性質を含む。ある人は拷問にも屈せず、あるいは詐欺師のブラシで毛を刈られることなく逃れることができる。彼らは、友人をうらやましいと思わせる物事や、絶望を偽る慈善事業やセールスマンに対してノーと言う能力を持っている。そのような人々がスタンレー・ミルグラムに出会うと、彼の実験方法(第四章参照)に初めから従わないであろう(もちろん、彼の実験対象にも少数例そのような人がいた)。彼らは、内的強度、つまり自信が強く、このような形の社会的圧力から隔離された状態にある。だが、われわれの多くは、このような防御機構を欠いている。われわれは、自分が抵抗力を持っていると考えるが、現実は常にそれが間違いであることを証明する。われわれは詐欺師の犠牲になり、怪しい売込みに同意し、不必要な物を買ったり、実際には全く気にかけていない慈善にお金を寄付したりする。もしわれわれが誠実であれば、われわれの被暗示性によって、コンプライアンス技術の専門化であるロバート・チャルディーニに同意することと思われる。彼の(大きな影響を及ぼした)著書『影響力の武器』の冒頭は次のように書かれている。

今や私はそれを自由に受け入れることができる。生涯を通じて私はだまされやすい人間であった。私が思い出すかぎりにおいて、行商人、募金者、あらゆる種類の策士の格好の標的であった。間違いなく、それらの人々の一部は卑劣な動機しか持っていなかった。他には、−例えば、ある種の慈善団体の代表など−最も善良な意図を持つ人々もいた。しかしそれは問題ではない。自分でも心配になるような頻度で、私はいつも不要な雑誌を講読したり、清掃作業員のためのチャリティー・ダンスパーティーの切符を手にしていた。

−チャルディーニ「影響力の武器」

感化の試みは、その標的である精神と同じくらい古く、したがって、今日の技術が標的とする脳と極めて適切に調和するまでに進化してきたことは決して驚きではない。言い換えると、感化と、それに抵抗しようとする試みは、進化の武装競争の中での敵対者であったのだ。その武装競争における最近の進歩は、例えばロバート・チャルディーニなどの社会心理学者の本を買って読むようにすることだが、それでさえ、感化の武器に対する防衛を保障するものではない。われわれは、自分自身が精神を持った独立した存在であることを常に覚えているわけではなく、時にわれわれは疲れていたり、忙し過ぎたり、怠けていたり、弱っていたりする。しかし独立した存在であることを意識していることもしばしばある――多くの感化の試みにとって、どちらでも問題にはならない。私は、使えさえすれば、どのブランドの食器洗剤が流しの厖にあっても気にしないので、それが明らかに高価なものでさえなければ、最も宣伝に出てくるものを手にするだろう。手に入るすべての洗剤の相対的利点を細かく考慮することは、私の能力の範囲内ではあるが――全く時間の無駄である。食器がきれいにさえなれば、誰が気になどするだろうか?

信念を変える

しかし時にそれが問題になる。時にわれわれは操作されて、自分自身が最も興味を持つことに反した行動をとり、それが自分には全く必要の無い物を買うことで借金を作ることや、殉教を目指して爆発物を体に縛り付けることになる。洗脳の目的は、思想と行動の両方をコントロールすることであ――理想的には、標的者の頭の中に入ってそれを行うことである。第十四章では、現代の神経科学がいかにしてそれを実際に可能とするかを考える。しかしながら、感化の技術の大部分は直接脳を変化させることはできず、その代わり、脳が囲まれている環境を変化させるのである。

これが機能するためには、感化の過程における二つの段階に障害を置くことが必要である。一つめは信念を変化させるのに必要な時間と努力の量で、信念の変化に意味があり長時間続くものでなければならない場合には特に必要となる。感情を煽ることは有効だが、新しい信念が習慣――無意識なもの――になり、攻撃される可能性を極度に減らすためには、繰り返し強化されなければならない。

洗脳の世界―だまされないためにマインドコントロールを科学するP273-275より。

大抵の人は自分で認識しているほど騙されにくいわけではありません。

騙されにくくなるための基本の一つは詐術に対する弱点となりうる人間の心理学的性質について知ること。

そういう社会心理学的知識を身につけることはマインドコントロール技術に対する抵抗力をつけることに役立ちます。しかし、それが完全ではないということも覚悟しておくべきことでしょう。

集団規模で信念を変えることは、現代社会の大きさを考えると、集団の支持のない個人にとっては、ほとんど問題外であることは間違いない。この支持を獲得するために、感化の専門家は本書で議論してきた方法を利用する。感化の専門家は、関連する連想を被害者の脳に押し込むために巧妙な言葉を用い、自分の主張を明解で覚えやすいものにすることで、自分のレトリックを霊的概念と結びつける。プラトンが報告している話におけるソクラテスのように、洗脳者は被害者を変える試みのすべての段階で被害者の同意を得ようとする(19)。洗脳者の目的は被害者さらに不幸と感じて、自分が与えようとしている「援助」を彼らが求めるようにすることにあるが、力ではなく愚弄することによって自分の考え方に対する反論を抑え、自分が持っている聴衆との共通点を強調することによって、自分をユーモアと人間味があり好かれるように見せようとする。洗脳者はまた、健全な議論の印象や自己批判でさえ導入する(例えば追従者を壇上で議論させる)が、実際に発せられるメッセージは、たとえ洗脳者が逆のことを言っているように見えても常に同じである(20)。洗脳者はまた、単一の目的を持っているという自信を見せることによってカリスマ性を高め、曖昧に見せないように十分注意する。これらすべてにおいて、メディアヘの接触の規制を確立し、人々を議論に参加させ、自分の考えが正当なばかりでなく全く当然のものと尊重されているという権威を信じさせることによって、自分の根拠が周知されることを目指す。

ヒトの脳は変化を見つけ出したり、自分の蓄積された経験と現在受けている情報との不一致を検出するように調整されている。感化の専門家は、それを利用して自分自身を新しく、ユニークかつ異なった者として提示することで注意を引こうとする。彼らが押し付けたいと思う概念と標的の脳を現在占めているものとのギャップが大き過ぎると、新しい概念が受け入れられる可能性が低下するのが欠点である。これに対して、小さな一歩は受け入れやすい(小さな一歩を十分積み重ねることで、尊敬すべき中産階級の市民を冷血の殺人者にすることもできる)。標的の聴衆を知ることはまた、表現法を確立するのに役立つ。洗脳者は、ストレスと変化に対する脳の反応を利用するとともに、既存の社会的圧力を自分の利益のために利用する。自分が選んだ外集団に、利己主義、欺瞞、堕落、疾患、大規模な疫病など、社会的に容認されず集団にとって脅威的な特徴を結びつけることによって、脅威の感覚を強化するとともに、彼ら自身は利己的ではなく、不快でもなく、非道な地球上の疫病でもないことを確実にする(21)。これらはすべて集団にも個人にもあてはまり、状況によっては、潜在的な方法は素晴らしいものに見える。

同書P303-305より。

引用文が示すように、洗脳者は相手を感化するために相手に受け入れられやすい人格を演じようとすることがあります。

その際、洗脳者がどういう人格を演じるかということを知ることは、感化技術に対する警戒心を鍛錬するのに役立つというものでしょう。

立ち止まって考える−感化への抵抗手段

われわれが感化の試みに抵抗する方法の多くは、立ち止まって考えることを伴う(第十章参照)。批判的に考えること、懐疑的であること、とユーモア、それらはいずれも立ち止まって考える反応の例である。批判的思考と懐疑的であることはメッセージを分析し、それが論じている論点、情緒的言語の使用、実際の表現の正確性をチェックすることになる。それらはまた、メッセージの源の権威と動機を問うことでもある。ユーモアは、議論よりも感情を強調することによって権威に挑戦するものでもある。

立ち止まって考えるように反応するためには、われわれ個々人が生涯を通して記憶の中の事実関係にとらわれつつも、ジョージ・スタイナーが「具体的事実からなる現実的日常世界」(3)と呼ぶ進行中の経験に「根ざした状態にある」ことが必要である。これら二つの要素の調和は時間とともに変化する。

同書P328より。

代表的な感化への抵抗手段。それは、立ち止まって考える、つまり、思考停止しないこと。

しかしながら、それは簡単なことではありません。罪意識や恐怖感は容易に大抵の人を思考停止させます。

相手の罪意識に訴えかけるような言葉がネット上の「ディベート」で多用されていることからも分かるように。

もっとも、そういう言葉が多用されすぎたせいで、その手の「脅迫」にタフになっている人も多いですが。


以上、国民洗脳装置としての靖国 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかを書く際にスキャンしておいて使わなかった部分を利用してみたエントリー。

[]ブッシュ大統領の「超サヨク歴史認識」に基づいた演説に対して

朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?

この米大統領演説に対してウヨサヨ問わず色々と批判があるようですが、ウヨクな人はこの言葉に喜ぶべきではないでしょうか。

民主主義国」とか「世界最高の自由社会の一つ」とか最大級の賛辞の言葉を贈られているのですから。

アメリカにとって「自由」とか「民主主義」とかいった言葉は誉め言葉ですよ。

アメリカと南米独裁国家中東の王制国家との関係を考えれば、その「自由」とか「民主主義」の評価基準はどれほどアメリカに従順であるかということでしょうけどね。

何が言いたいかといえば、「ブッシュ大統領の日本に対する賛辞の言葉」はウヨクな人々が熱烈に支持したウヨクな政治家が対米隷属外交を行った結果であり、アメリカに対する従順さが評価され、このような「お誉めの言葉」を頂けたわけではないかということ。ならば、ウヨクな人々はそれを自らの成果として大いに喜ぶべきであり、それを批判するのはおかしいのではないかということ。

私は対米隷属外交の成果としての「お誉めの言葉」なんて喜べませんがね。

私の望む民主主義は「アメリカに対する従順さにより評価が決まる民主主義」ではありませんし。


戦前の日本が民主主義国か否かについては、ここでは置いときます。制度としては民主主義でも実態としては民主主義ではない国を民主主義国と呼ぶかどうかの問題がありますから。北朝鮮とかフセイン体制のイラクとか

2007-08-22

シャア専用ザク

[]シャア専用ザク

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カミさんのキャラ弁。今回はシャアザク

赤い部分はパプリカで黒い部分は海苔。

カミさん曰く、ご飯で立体として作るのは無理だったとのこと。

モモタロスもこうやって作れば良かったのではと思いました。

2007-08-20

[]コミュニケーション

tasoiさんへの応答・ラスト - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴

黒蜥蜴氏のこの記事を読んで思ったこと。

黒蜥蜴氏やTez氏のように相手が飲み込めるような言葉を選ぶべきだったのではないか。

根拠の無い侮辱と感じられる相手の言動に対してもっと寛容であるべきだったのではないか。せめてもう少し忍耐強くあるべきだったのではないか。

相手の問題点を相手が成長できるような形で指摘してあげるべきだったのではないか。

そういう風に相手にリソースを割くことが無駄に思えても、それを抑えて寛容さや忍耐強さをもって応答できなければ自省録を読んだ意味がないのではないかと。

2007-08-17

仮面ライダー電王のウラタロス(デフォ

[]仮面ライダー電王ウラタロス(デフォルメ版)

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カミさんのキャラ弁。今回は仮面ライダー電王のウラタロス(デフォルメ版)。

青く着色されていないのはイマジンの砂状態表現だからとのこと。

カミさんはシャアザクをどうやって作ればいいか思いつかないとぼやいておりました。

2007-08-16

[]国民洗脳装置としての靖国

概念

政治も宗教も、ある種の中心的概念(自由、国家、神)を声高に叫ぶが、これらはあまりに抽象的なので、ここでは「霊的概念」と呼ぶことにする。霊的概念は極めて曖昧なので、しばしば個人によって解釈が大きく異なる(政治理論家は、自由や平等など政治的な霊的概念を「基本的に議論されたもの」であると言う〈2〉)。この曖昧さは、それについての合理的な議論を不可能にしており、そのような議論に加わる人達は事実上食い違った話をしていることになる。演説者は、自分達の計画や目的が細かなところでは非現実的であり、隠れた落とし穴やその他の悪魔的なものを含んでいることを覆い隠すため、あるいは、聴衆の感情的反応を引き出して、その議題に対する集中度を高めたりするために、そのような「輝かしい一般論」(3)を用いることが多い。抽象的で曖昧であると同時に、霊的概念は価値観を含んでいる(これについては第九章参照)。それ自体が極めて重要とみなされ、感情をためこんだ巨大な荷物のように現れて、信奉する人達の優越感を高める。

洗脳の世界―だまされないためにマインドコントロールを科学するP47-48より。

結果

一般的に、霊的概念は血塗られている。人間の命より重要視されるため、それらは、第一に結果が方法を正当化し、第二にその概念の最高権威を疑う者は人間ではないとみなす、というような経過を助長する(4)。言い換えると、ロバート・リフトンが記述しているように(第一章参照)、霊的概念は全体主義的思考を促進するのである。したがって、それらはテロ行為を正当化するために頻繁に用いられる。犠牲者や、それを見ているわれわれにとっては、人間が他の人間に対してそのような行為をすること、すなわち意識的かつ冷静に満員の飛行機を超高層ビルに突っ込ませたり、ホテルを爆破したり、子供の目を見ながら頭を撃ったりすることがどうしてできるのか想像できない。われわれは説明を求めて、邪悪、狂気、洗脳(コントロールする力を感じる場合)などの言葉を使うのである。われわれはまた、感情からテロに走るような明確な外的脅威がある場合には、敵意と時に抑圧感を持って反応する。

同書P48-49より。

人間の感情はある種の入力に対して高確率で定型的な自動的反応をしてしまいます。この本で「霊的概念」と呼ばれる自由・国家・神などの概念も、そういう自動的反応を引き出し、それにより人間を操作するために使われることがあります。

それは「人間の命より重要視される」がゆえに殺人や自殺攻撃を正当化するために用いられ、「疑う者は人間ではないとみなす」ことにより、それに逆らいにくい「空気」を作り、その「空気」が霊的概念に対する同調圧力や同質化圧力として働き、全体主義的思考を促進します。

私にとって靖国神社はそういう人間の感情の自動的反応を利用して国民を誘導操作するために構築された神社、国民洗脳装置です。

国民の英霊に対する思いから自動的反応を引き出し、国民を操作するために使われているからです。

私とて遺族などの靖国に祀られている英霊に対する思いは分からないでもありません。

私自身、親族や個人的に尊敬する軍人が靖国神社に祀られていることに対し、そういう人々に対する思いから靖国に対して尊崇の気持ちが湧き上がってきますから。

しかし、それこそが狙いどおりの反応。

そういう死者に対する感情による人間の定型的な自動的反応を利用して誘導操作されてしまっているのです。

誰に?

戦争において国民に命を奉げさせるための手段として靖国を考えだした人々と、未だに国民感情の支配手段として靖国を利用しようとしている人々に。

私にしてみれば、そういう霊的概念を操る側の思いのままに「自分で考えて」行動させられてしまうというのは自らの精神を侵略される行為。許すことはできません。

私はそういうようにして自分の感情を支配されることを望みません。

ゆえに靖国を否定します。

人間はかなりの程度まで、期待通りに行動する。国民を奴隷や子供のように扱う国家に比べて、国民が政治的に洗練され、理性的に成熟し、社会的に責任ある個人であることを望む国家は、そのような国民を育てる可能性が大きい。教育と経済的自由、政治的自由、そして他の人々に関する情報を隠さず広めることはいずれも、その自由を喜びとみなし彼らの利益をより広く共有する心構えのある国民の育成を促進する。FACETのようなリベラルな方法に問題がないわけではないが、それによって意見が自由に交わされ、生活の質が高められ、――本書が中心的問題としてきた――霊的概念の害悪が最小限に抑えられることで、洗脳のような虐待は行われにくくなる。全体主義的思想は、追従者に約束してきた報酬を与えることに繰り返し失敗してきた。全体主義的概念の魅力を減らすよう努力することは、マインドコントロールのような悪意に満ちた考えから人々を切り離し、その代わりに個々人の自由を強調してマインドコントロールの夢に従う誘惑にかられる人達を攻撃することになる。

これはすべて新しいことではない。われわれはその技術や知識、そして、たとえ現在の限られた資源(特に発展途上世界)の中にあっても最も重大な問題の一部を解決できる能力を持っているか、簡単に獲得できる。十分な動機、十分な政治的意思があれば、われわれは自分達の社会を――完璧にではなくても――進歩させることができる。確かに、少なくともわれわれは世界から、朝鮮捕虜キャンプやジョーンズタウンのような恐怖を一掃することができる。その目標への最初のステップは、われわれが保持し守っている信念を理解し、それらの力、危険性とそれらを変えるための方法を理解することである。

同書P351より。

社会心理学脳科学といった知識はマインドコントロールに利用される知識である一方、それらの知識により人間が自分自身の感情の仕組みについて知ることはマインドコントロールを無効化するためにも使うことができます。

人間は感情の自動的反応を利用する技術についての知識を広めるようにすることで、霊的概念の害悪を無くすことは無理でも、それを最小限にすることはできるというものでしょう。

そうすることは人間の社会を扇動政治やカルト悪徳商法などの害悪から護り、人間の社会をより進歩させる力になると思うのです。

2007-08-15

[]モビルスーツde電王

仮面ライダー電王のクライマックスフォームを見て、ぼんやりとバカなことを考えていたんです。

これをプラモデルのネタ改造の題材にした場合、各フォームにはどんなジオン軍モビルスーツが適当かなと。

ソードフォームはギャン(ビームソード)。

ロッドフォームはグフ(ヒートロッド)。

アックスフォームはザク(ヒートホーク)。

ここまではすんなり決まって、

ガンフォームは…ゲルググ(ビームライフル)かなと。

で、ギャン(赤塗装)の頭部上半分前面装甲を左右に展開させ、右肩間接カバーににグフ頭(青塗装)を、左肩間接カバーにザク頭(黄色塗装)を使い、胸部中央にゲルググ頭(紫塗装)の前半分を貼りつければ、それらしいネタになるかなと。

…頭が悪すぎる。

2007-08-13

[]サヨクからのお別れの言葉

貧困労働者の諸君。

私はサヨクだ。今日は諸君にお別れを言いに来た。

諸君がいうようにサヨクは諸君を助けない。無力ゆえに助けられないからだ。

労働者の待遇改善を求め、社会保障の充実を求め、貧困層に負担を押し付ける政策には反対してきたが、格差は広がる一方だ。貧困者の支援活動にしてもホームレスの部分的支援が精一杯。私はあまりにも無力だ。

諸君の救済を願い活動してきたが、挙句の果てがこのざまだ。私はメシアにはなれない。「戦争」だの「ひっぱたきたい」だのと尻を叩かれて嗾けられても諸君を助けることはできない。諦めてくれ。

私は諸君がサヨクを叩くのはサヨクに救済を期待しているがゆえのことだと聞いた。それが真実であるならば、諸君の期待に添えなくて本当に申し訳ないと思う。非難されても仕方がない。

私には何もできない。何もできないものが居ても仕方がない。だから私は去ることにした。

これからはサヨクをあてにすることなく自力救済してほしい。

私が知る自力救済の方法は三つだ。

一つ目は選挙。投票により貧困労働者を救済するような政策を行なう政治家議席を増やすことで、政府が貧困対策を行なうようにすることができるかもしれない。

二つ目は労働組合での労使交渉。待遇改善を企業に求めることは個人でも可能だが、普通の人間は個人では企業に対して余りにも無力だ。団体交渉の方が待遇改善できる可能性は高い。

三つ目は転職。自分の能力をより高く買ってくれるところに転職すればいい。

二つ目は、労働組合や組合活動を蔑視するように仕向けられた刷り込みによる感情的反応や、御用組合のような組合自体の腐敗や、雇用条件など企業側が組合を組織すること自体を困難にするような社会的構造を作っていることにより封じられ、実施は困難だ。

三つ目は労働市場の供給過剰による労働力の安売り競争により、飛びぬけた実務能力とか処世術とか縁故とかを持っていない限り無理だ。そもそも飛びぬけた能力があれば貧困労働者にはなり難いというもの。

実質的に残るのは一つ目の選挙しかない。諸君の選挙活動で世の中を変えてくれ。選挙民として当事者意識を持ち自己責任で自力救済を完遂してほしい。

企業は宣伝に金を使っているし、創価学会とか統一協会とか霊友会とかの宗教団体は選挙活動に頑張っているぞ。何もしなければ、この世は奴等の思うがままだ。負けるな!*1


申し訳ないが、先程、自力救済の方法は三つと言ったがそれは嘘だ。もう一つ方法がある。そして、それは最終手段でもある。

四つ目。それは革命だ。諸君自らの実力をもって、諸君を貧困に追い込んでいる社会を打破し、諸君が幸福になれる社会を築け。

私からは以上だ。

諸君がもっと良い自力救済の方法を実施できるのであれば、それを実施してくれ。

諸君が救済される日が来ることを願いつつ私は去る。

さらばだ。

[]貧困の構造

ホームレスは何故都市部に集中するか。

それは都会の方がホームレスの生存に有利だから。

まずは大量の廃棄物

ホームレスは廃棄物の中から生存に再利用できるもの(衣食住の「住」のダンボール、「食」の廃棄食品等)を収集することを、自らの生存の助けとしており、大量の廃棄物が出る都会の方が生存に有利。大量の廃棄物が発生することは、廃棄物の再利用で生存できるホームレスの人数も多いことも意味する。

都会の廃棄物は人口密度に応じて面積当たりの量も多く、地方より短い徒歩時間でより大量の廃棄物との接触が可能。この点も生存に再利用できる廃棄物の収集において有利。

一般開放されている公共施設の数や雇用機会も含め、都市部の環境の方がホームレスの生存に有利であり、その結果、ホームレスは都市部に集中する。

ホームレスは必ずしも働く意志が無く都会に寄生している人ではない。必ずしも能力的に働くことができない人でもない。

働く意志があり働く能力があっても労働市場の供給過剰や年齢制限などにより労働市場から閉め出された人も多い。雇用状態により日雇い労働・ホームレス・ネットカフェ難民(やマクドナルド難民)の間を行き来している人もいる。

働く意志があり働く能力があるのに働ける仕事がない人がいるこの状態。(「働ける場所との断絶」など、他にも理由はあるものの、)それは概ね労働者の需要に対し労働者の供給が過剰であること、つまり人が余っていることを意味する。働く意志があり働く能力があるのに、働ける場所がそれ以上の人を必要としないために働ける場所から押し出されている人がいる。


では、働ける場所の方で人が足りているかといえば、そうではない。

勤務時間内で処理できる労働量を超える労働の割り当てにより、残業による長時間労働が常態化していることが少なくなく、その上にサービス残業という無償労働を強いられている場合も少なくない。

このように働ける場所では労働力が不足している状況が存在する。

これは雇用の減少の原因の一つが労働者一人当たりに対する労働量の過剰な割り当てにあることを意味する。不況(やOA化などの技術導入*2による生産効率向上)により労働力需要が減ったことだけが原因ではないことは明らか。

バブル崩壊後の不況下で行われた日本型リストラは需要減少に合わせた企業の再構築であると同時に労働者に対する労働強化でもあった。

需要減少に伴う企業が必要とする労働力の減少以上に人員の削減が行われサービス残業が常態化した。

企業は採算向上のために人員削減による雇用コスト削減を行い、それによる労働力の不足に対しては、労働量の過剰な割り当てにより労働者一人当たりの労働力を増やすことで補ったのだ。

過剰労働による疲労の蓄積は肉体を損なうだけではなく精神疾患や自殺の原因にもなっている。

労働市場から閉め出されたことによる貧困によりホームレスになったり自殺したりする人がいる一方で、過剰労働により使い潰されていく人がいる。


労働市場において人が余っている状況なのに関わらず、経団連は労働者としての移民を望む。

少子高齢化社会による若年労働者の不足を補うため」とかの建前の下。

しかし、就職氷河期世代が曝されている現実の前では、その建前にはあまりにも説得力がない。

その一方で不法就労を含め、外国人労働者単純労働において日本人より低賃金で使役されている現実がある。

このことから、経団連が労働者としての移民を望むのは、採算向上のために、より低賃金で働く労働者を求めているためと考えられる。

それは日本人の低賃金労働者から仕事を奪うことであり、日本人労働者に対する賃金引き下げ圧力*3であり、日本人の貧困層をより貧困へと、ときには死にまで、押し出していくことだ。

仮に、このまま、そのような形で低賃金労働者の「輸入」が行われた場合、貧困層の増大による経済犯罪の増加など治安に対する影響を含め、経済・社会に対する多大な影響は避けられない。

私は単純労働者の移民に反対ではないが、そういう事態を避けるために、移民の条件としては外国人労働者を含め最低賃金の引き上げや雇用の維持・拡大・安定といった雇用保障の充実が必要と考える。日本人労働者と移民労働者が作られた構造の中で労働市場で職を求めて争い憎しみ合う社会はいらない。必要なのは移民と共存できる社会であり、それを実現する社会制度の整備。


このような雇用条件向上の主張、あるいは国家の再分配機能向上のための(欧米先進国並みの)大企業増税の主張に対しては、そのようなことをするとコスト増大に対抗して企業が海外に逃げたり、生産における自動化を進めたりすることで、さらに失業者が増えることになるという人がいる。そういう風な「脅迫」を行う人がいる。

それらの言葉は正しい面もあるし、正しくない面もある。

それらの言葉が必ずしも正しいわけではないことは北欧諸国の高税率・高賃金を見れば明らか。

確かに雇用の国外移転は現実だ。

卑近な例でいえば模型の金型作成と生産。

日本の模型メーカーもアメリカの模型メーカーも金型作成と生産を中国韓国に発注するようになってきている。

塗装済み完成品模型の製作販売にしても中国の労働者の低賃金抜きには考えられない。

作業内容の問題や設備投資コストの問題などで機械による自動化が困難だったり割りに合わなかったりする労働で、高度なインフラに対する依存度が低く発展途上国程度のインフラでも可能な産業は、より低い人件費を求めて発展途上国に移動していく。*4

高税率・高賃金だとやっていけない低税率・低賃金依存型の産業はより低い税と賃金を求めて海外に逃げる。

だが、そういう低賃金依存型産業の海外流出を防ぐために低賃金で対抗することは国民の幸福につながらない。

低賃金な発展途上国に低賃金で対抗するということは、国内に低賃金労働者を生み出すということだ。雇用コストの面で、国内に「発展途上国」を作ることだ。

構造改革」により出現した多数の不正規雇用労働者は日本の企業が低賃金依存型産業において発展途上国と競争する上で欲し、政府に働きかけた結果ではないのか。

だとすれば、それは低賃金労働者を使い潰すことで発展途上国との製品販売競争の結果の低賃金依存型産業の破滅を先延ばしにしているだけではないのか。

それらの低賃金依存型産業の方が欧米のような高付加価値型産業への転身を図るべきではなかったのか。

現代の貧困の原因の一つは低賃金によって発展途上国と対抗しようとしている日本の産業構造にあるのではないのか。

生産における自動化が進むことで失業者が増えるというのには賛同できない。それが示す未来が絶望であるがゆえに。

自動化コストの方が雇用コストを下回るので労働者を機械に置き換え、その分、労働者を解雇するという理屈は分かる。それは論理が企業内で完結している分には真。

しかし、機械により労働が自動化されることは、その分、人間が労働から解放されることではないのか。同様の生産物を得るに当たって、人間の労働時間は少なくて済むということではないのか。人がより少ない時間の労働でより豊かになれるということではないのか。

それが機械に仕事を奪われることを意味するというのは、分配の方がおかしいのではないか。

そういう労働からの解放が、何故、失業者の増大とそれによる貧困という形で現れるのか。

それは個々の労働者の労働時間の短縮という現象になって現れるべきものではないのか。

適切な分配を行うことにより、それを実現することはできないのだろうか。

「企業内で完結している分には真」な論理を国家というより大きな枠組みで上書きすることで国民の幸福に貢献する論理に作り変えることはできないのか。*5

勿論、こういう主張が自動化コストや製品の価格競争を無視した暴論であることは分かっている。

だが、労働の機械による自動化が失業による貧困を生み出し、働いている人間は相変わらず長時間の労働に拘束され続けるというのは、ただのディストピアだ。


書いた内容が雑多過ぎるし、気が滅入ったのでですます調に直さない。

*1:超無責任な言葉

*2:技術導入には投資が必要な上、必ずしも生産効率が向上するわけではない。かえって手間が増える場合もあるので導入に当たっては見極めが重要。

*3:それは労働者同士に労働力の安売り競争をさせ、リスクの高い仕事でも生きるために低賃金で請け負うように追い込むことでもある。高い賃金を支払わなければ誰もやりたがらないようなリスクの高い仕事にはリスクに見合った賃金を支払うべきだ。

*4:高度なインフラに依存する産業が人件費の安い発展途上国に逃げだそうとした場合、インフラの整備から始めなければならない。

*5:個人的には「失業しても貧困にならない社会」という選択肢が欲しい。

2007-08-11

[]2007年8月11日のコメント収集

「謝罪」

◆ 美しい壺日記 ◆ 「慰安婦決議案が可決」日本はどうするべきか……。のMeifumadoh氏のコメント。

>>土下座外交

こんなイヤな語も無いですが、でも例えば戦後ドイツなんかだと「謝罪」なんて事より、実を伴う具体的な政策…例えばトルコ移民への積極策とか、ナチ戦犯追求への時効廃止とか、表現の自由を曲げてでもナチ礼賛を禁止するとか、他国から文句をつけにくい「実践」ってヤツを伴って動いてきたのです。ネオナチとか歴史修正主義とか色々ありますけど、「オレの戦後の誠実さにケチはつけさせないぜ」と、ドイツ自らが啖呵を切れるだけの事はちゃんとしてきた訳です。


翻って日本の場合は、戦後の借款やODAで侵略先各国への国家賠償を兼ねさせ、日本国内での侵略戦争美化や隣国蔑視・敵視は放ったらかしのままずっとごまかしてきたみたいで。

要は金とモノだけあてがえばモンク無ぇんだろ?!っていう態度ですから、「真摯さに欠ける」だの「腹の底では反省してない」だのと外国から言いがかりを付けられてツッ込まれうる部分を、改めずにずっとやって来た訳です。

これじゃまるでモノとネット回線でだけ外界と繋がるヒッキーキモオタクみたいですが(w、そもそも東西冷戦構造下、奇跡的にモノと金だけで大国になってしまえた戦後日本自体が、そういう対外関係ってなモノをろくに努力せずに来たという経緯がある気もします。

日本の過去の戦争犯罪が未だに国際的に問題となり揉めるのは、日本の戦後処理がドイツと比較して拙いのも原因の一つ。

人治主義

とりあえずメインカルチャーでは、裁判員制度をめぐる議論……いやそんな上等なもんじゃねえ、吹き上がりが典型であろう。民度の低さではもはや2ch並のmixi日記で、いかにも世の人々の癪に障る凶悪犯が逮捕されたり、判決が出たりするたびに「さっさと裁判員制度導入してこんな連中即刻死刑にしろ」と叫ぶ者のなんと多いことか。極刑を下さざるを得ないような重大事件ほど審理を慎重に行わなければならないのは大原則であろうに。「一般庶民の感覚と司法が乖離しすぎている」と彼らは言う。あのなあ、専門知識もない大衆様の気分に任せて安易に裁かれてたまるか! 何のために法律専門家がいて、膨大な法典と法学が存在すると思っているのだろう。そう言うと「こいつらは法律のことばかり勉強して人情のわからぬバカになっている」と主張する。ティピカルなエリート批判ありがとう。そんな「お代官様、おれたちの気に入らないやつを懲らしめてやってくだせえ」なんていうレベルの低い人情を後生大事に有り難がられても困る。ましてや「なんでおれたちの税金を、こんな糞野郎を何年も刑務所でメシ食わせるために使わなきゃならねえんだ」などとドン百姓根性丸出しでのたまうに及んでは……。それで、「お代官様も学者先生も信用できねえからおれたちで懲らしめてやる」と裁判員制度が支持されていくわけだが、この反権力の姿勢、彼らが左翼人権屋と呼んで非難してやまない死刑反対派弁護士とまったく同根である(そして反インテリ・反プロは左翼の専売特許)。ついでに言えば、法律は糞だと叫んで人情に基づいて処断しようとする態度は、彼らの大嫌いな中国にはびこる人治主義そのものだ。そのことに気づいているのだろうか?

はてなダイアリー

情に流されることを否定することを「情が分からない」と解釈して相手を「悪魔化」する「人情派」な人々の姿。

私は、人間が情に流されて判断を誤ることや情への刺激に対する自動的反応で扇動されることを克服できる方に賭けていますが、こういう反応を見る限りでは分の悪い賭けなのかもしれません。

人間がそれらを克服できず、人間を統治する方法としては衆愚扇動政治が適しているというのであれば、それはそれで仕方が無いことと思います。

まあ、分が悪いとしても、克服できないことが確定的になるまで、せいぜい足掻くことにします。

人間がそういうことを克服できないというのは、あまりにも絶望的ですから。

2007-08-10

[]風刺と説得

風刺バナーに噛みついている人の姿を見て、ある種の人々は風刺と説得の区別がついてないのかなと思いました。

対象の特徴を誇張して現実を戯画化した一コマ風刺漫画は対象にシンパシーを感じている人には不愉快なものでしょうが、そういう風刺はもとからそれを見て不愉快になる人向けのものではありません。(相手の精神的消耗を狙っている場合は除く)

どういう人向けかといえば、対象に対する「不満」を共有する人と皮肉が分かる人向けです。(皮肉が分からない人には誤解されやすい風刺もあったりするので、両方兼ねているほうが望ましいです)

対象に対する「不満」を風刺により「笑い」とし、対象に対して「不満」を持つ人々を共感でつなぐことができれば、風刺はその役割を果たせているわけです。(その点、bogusnewsは非常に巧み)

そういう風刺で不愉快になる人が、それを自らに対する「説得」と感じるのは自意識過剰というものですし、「説得」の手法として拙いと批判するのは的外れというものです。(毒気そのものが風刺の味だったりするわけですし)

もっとも、そういう行動は風刺の対象にシンパシーを感じていることの自己表明でもあるわけで、わざわざ自らの偏りの表明お疲れ様ということでもあるわけですが。

2007-08-09

Z33

[]ステアリング可能でないキットもある

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最近、完全新金型で新発売されたアオシマの1/24フェアレディZ(Z33型)のパッケージ横の説明の『前輪は左右にステアリング可能』という言葉。

タミヤのZ33に対するあてつけかーっ!」

いや、なんとなく。

『前輪は左右にステアリング可能』なんて言葉、あまりキットの説明文で見たりしない(ステアリング可能なのが「当然」という前提があるからかもしれません)ので、既製品に対して勝っている部分をわざわざ書いたのではと思いましたので。

タミヤの1/24フェアレディZ(Z33)のキットは前輪が左右にステアリングできないので、ステアリングできることはアオシマのキットの利点になることでしょう。私もそれ目当てで買ったわけですし。

1/24 ザ・ベストカー No.83 33フェアレディZ バージョンST‘06 オプションモデル

1/24 ザ・ベストカー No.82 33フェアレディZ バージョンST‘05 ノーマルモデル

2007-08-08

ハロ(黄)

[]ハロ(黄)

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カミさんのキャラ弁。今回はハロ(黄)。

カミさん曰く、単純な造形のキャラを選択したのは、指先を負傷したため今は細かい作業が出来ないからとのこと。

ハロの黄色はウコンによる着色。

2007-08-05

[]久しぶりに「丸」を買ったら陰謀電波の出力に笑った

月刊「丸」2007年9月号、モスキートとAr234の記事が良さげで、かつ「近未来型ウルトラ先進戦術兵器」の記事が放つある種の臭いに惹かれたので買ったわけですが、新刊ガイドの陰謀電波が高出力なので笑ってしまいました。

さて先の大戦は「スターリンの戦争」だったといわれるが、それはアメリカイギリス蒋介石も日本もスターリンの謀略に踊らされていたからである。彼はホワイトハウスと国務省に一二七名のスパイを送り込み、ハルノートを通して、日本に真珠湾を攻撃させるという離れ技をやってのけたのだという。悪玉のスターリンは愚者のルーズベルトを手玉にとった。ルーズベルトは日米戦争に関係ないソ連に対日参戦をもとめる一方、蒋介石はそそのかされて日本に敵対政策をとりつづけたのである。

『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか』光人社

共産党の陰謀力スゲー!東部戦線での苦戦とかが嘘のようだ」とか、「いいように誘導されている日本、情けない。非道い自虐史観だ!」とか思いながら、何故か腹痛気味。

「国内の論争で負けた反日勢力が外と結んで逆噴射を仕掛けようとしている」と西岡氏は指摘し、こうも言う。「日本を孤立させようとする大きな枠組みがある」と。

『よくわかる慰安婦問題』草思社

「日本を孤立させようとしているのは国内の歴史修正主義者の方ですが、何か?」と苦笑。

趣味から軍事情報誌を結構読むのですが、「丸」とか「世界の艦船」とか*1の奇妙な「右傾化*2に笑わされつつ、寂しい思いも感じる、そんな日々。

こんなことを書くと「御陰で良い本を知りました。早速買いたいと思います」なんて皮肉コメントを書き捨てていく奇妙な「右傾化」をした人が現われたりして。

*1ホビージャパンとかも

*2レイシズム+歴史修正主義+陰謀論

2007-08-03

[]絶望した!年収が結婚条件な社会に絶望した!

はてなダイアリー経由。

年収500万円が男性の結婚の条件

男性の年収と配偶関係の相関を見ると、年収が上がるほど既婚率が高まることが明らかであり、実にエレガントなS字曲線を描く。

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階層意識別に異なる団塊ジュニアの意識と行動

(生活レベルを含む)生存と収入の関係を考えれば生存戦略的には妥当な結果ではあるわけですが。

愛より生存、生存には高収入の方が有利、と書くと身も蓋もないですね。*1

逆にいえば、(社会保障や地域共同体での相互扶助や配偶における扶養形態の変化などにより)低収入でもあまり生存に不利にならない社会であれば、低所得層の既婚率の向上を望めるかもしれません。*2

*1:愛の一面として、それが生存戦略に根ざした感情とすれば、生存に有利な条件を備えている相手に愛を感じるようになっている、なんて書くともっと身も蓋もないです。

*2:地方では低所得でも既婚率が高いとすれば、地方の方はそういう条件を満たしているのかもしれません。

2007-08-02

[][][]社会心理学的技術による思想改造

マインドコントロールを扱っている本には色々ありますが、その中から私が初心者向けに一冊を選ぶとすれば「マインド・コントロールとは何か」になります。

この手の知識を扱っている本としては安価で、人間の認識構造を利用した社会心理学的技術による思想改造の手法の実態について書いてあるだけではなく、チャルディーニの「影響力の武器」、ミルグラム実験、スタンフォード実験、帰属過程、集合的無知など社会心理学的知識の総集編としても優れているからです。

状況の拘束力

状況の拘束力を利用する

特定の状況は本当に個人の意思決定や行動を拘束するのだろうか。たとえば、ある社会的事件が私たちの前に表面化するとき、人は一般に、その事件の原因と責任をそこに介在する重要な人物の性格や動機などの素質的な要因に求めてしまう傾向にある。これは第3章において説明した、ロスが指摘した「基本的錯誤帰属」という現象である。こうした傾向が、人びとに事件の真相に潜む、重大な別の原因を気づかせなかったり、その原因を軽視させたりすることがよくある。

たとえば、古くは天変地異の原因を「魔女の呪い」と決めつけたり、戦時中の大虐殺の原因は、ナチや日本兵には格別に残忍な性格があったとされたりする。あるいは、学校でのいじめ事件で自殺者などが出ると、すぐに、いじめることを何とも思わない冷酷で非情な性格をした「犯人」を探し始めようとする。同様に、破壊的カルトという非合法的、非道徳的な活動を目にすると、すぐさまその組織のメンバーの生育歴などをたどって、そのどこかに事件につながりそうな個人的素質をみつけようと、一部のマスコミが先頭に立って躍起になる。

しかし、そこには満足のいく原因究明の証拠が用意されていないことが多い。多くの人は少し考えれば気づくのだけれど、日頃無視している影響の源が存在する。

そもそも人間の行動というものは、檻や牢獄の中であったり、病気であったりしない限り、個人がそれぞれの自由な意志にもとづいておこなっている、というふうに考えていることが多い。

しかし社会心理学では、そうは考えない。すなわち人間の行動は、自由意志の源泉とでもいうべき、個人の趣味や趣向、癖、欲求、能力、性格といった素質だけで決定されているのではなくて、そうした素質的要因のはたらきがある方向へと行動を導くのと同時に、他者や社会から明らかな、あるいは気づきにくい形で、ある方向へと行動を導こうとするなんらかの別の要求があるとみなす。要するに「状況の力」というものが、個人の行動に常に作用しているのである。天変地異などは、いうまでもなく自然の力だけで生じる現象であり、いじめ事件や殺人事件などのような社会的な現象であっても、この状況の力を見なくては片手落ちといえる。つまり、行動の主体者は何らかの環境からの影響を受けている。もちろん、その影響力の規模は時と場合によって変わるが、個人をある特定の行動へと自動的に導く原動力がある。

たとえば、人は一般に、カッとして本気で相手に暴力をふるいたいという衝動にかられても、相手からの報復やトラブルの懸念、後から罰せられる可能性などが、実際には暴力をふるわない方向へと行動を拘束する。つまり、これは個人的な欲求を、状況のもつ影響力で抑制させられたということになる。

また、バスや電車で先に乗ってすわっている人に対して、自分がすわりたいから席をゆずれと、何人の人が要求するであろうか。そういうことは、なかなか実行しにくいものである。またそれから、ファースト・フード店で「メニューはこちらにもございます」と手招きされたり、デパートでまだ買う意志も定まっていないのに「どういったものをお探しですか」といわれて、何かを買わねばならない気になるとか、あるいは早急に立ち去らねばならないとかいった気分になるといったことはないだろうか。

それぞれの状況に存在するこのような暗黙の拘束力は、個人が行動するあらゆる場において、明らかにはたらいているし、その影響力をうまく利用すれば、ときとしてかなり強力にもなる、他者の行動統制の「武器」となりうる。このような特定の状況に対する個人の固定化された自動的反応を引き出そうとするのが、一時的マインド・コントロールである。

つまり、それは個人が行動する場所や時間が変わると、影響力の持続しないコントロールである。これは、優秀なセールスマンが多用する方法であったり、プロパガンダの常套手段であるともいえる点が多い。しかし、破壊的カルトもまたこの影響力を駆使して、とにかく、まず自分たちの主張を聞かせるチャンスをつくろうとする。この過程は、引き続いておこなう永続的なマインド・コントロールヘとつなぐための、重要な第一歩となる、一時的マインド・コントロールである。

マインド・コントロールとは何かP85-87より。

人に望みの行動を取らせたいとき、相手が自分で考えてそういう行動をするような状況を作り出すというのは、非常に古典的な手法です。*1

そういう状況に対する人間の自動的反応を利用すれば、(高い可能性で)相手を自分の自由意志で考えていると思わせつつ望みの方向に誘導できるわけです。

人の行動はその人が置かれた状況に大きく支配されてしまうのです。

認知的不協和理論

認知的不協和の理論

一般に人は、正しいと思っていることや、好きなことにしたがって行動をすると思っているかもしれない。しかし逆に、行動することが正しいことになったり、好きになったりしていることをあまり認識していないであろう。しかし、社会心理学では、前者よりも後者のほうがよく起こりうることを確かめてきている。つまり行動することが、内面の認知や感情を変化させる。このような認知・感情・行動の関係を説明するのが、「認知的不協和理論(cognitive dissonance theory)」である。

この認知的不協和理論は、社会心理学においてもっとも多用されてきた代表的理論であり、一九五七年にフェスティンガーという人によって提唱された。フェスティンガーによれば、人は、知識、意見、信念などの認知要素のうちの二つが心理学的に不一致、矛盾しているとき、緊張を経験するという。そのとき、人はその緊張を低減させて自己の考えを適応させようとする。これが、この理論の基本的な原理である。つまり、一言でいえば、人間は自分自身の内部に矛盾がないように努力する、というわけだ。

同書P115より。

人は自らの内面に従って行動していると認識しがちですが、自らの内面にそむいた行動を取った場合、その行動に対して感じるストレスを低減させるために自らの内面の方を変えてしまうことがあります。

自らの内面にそむいた行動を自らの内面を変化させることで自らの内面に従った行動と認識するようになることにより、もとは自らの内面にそむいていた行動をすることに抵抗を感じなくなっていくわけです。

そういう人の内面と行動の関係を説明するのが認知的不協和理論であり、永続的な思想改造において重要な理論です。

不協和の低減の仕方

フェスティンガーによれば、不協和の低減の仕方にも、いくつかあるとしている。それには、大きく三つの種類があると述べている。

まず第一には、行動に関する認知要素を変えるというやり方である。わかりやすい例をいえば、ある人が予知された災難を信じて家を出なかったのに、何も起きなかった。それで考え直し、計画を変更して仕事などに出かけた。あるいは、タパコが健康によくないことをテレビや本などで知った人が、その後、タバコをやめてしまった。つまり、あることを知ったことで行動を変える。こうしたことが、この例に入るだろう。

ある人が、ある破壊的カルトの予言が正しいと信じたから入会する。あるいは、カルトのメンバーが、その予言は誤りであると信じたので脱会する。このようなきわめて合理的な行動パターンがこの低減の仕方の例だ。しかし、人の不協和低減は、なかなかこのように単純明快にはいかないのが常である。いま述べた第一の方法と異なり、以下のような第二、第三の仕方がある。

その第二は、環境に関する認知要素を変えるという仕方である。この仕方を用いた不協和の低減の例を「イソップ童話」からあげてみよう。あるキツネは、とある場所でよく熟れておいしそうなブドウがなっているのに気がついた。しかし、その位置が高いところにあるので、なんどジャンプを試みても届かなかった。最後にそのキツネは、「あのブドウはすっぱいのさ」といって立ち去った。つまり、「うまそうなブドウ」を「すっぱいブドウ」へというように、環境に関する認知を変えて不協和を解消したということになるのである。あるいは、ある災難の予言を信じて家に避難していた人が、その予言は正しくなかったと信じなおすこともこれにあたるだろう。

われわれからみると、ある宗教を装った破壊的カルトの予言が明らかにはずれているように見えても、内部のメンバーは、予言は的中してはずれたことがないと主張することが多い。その理由は、彼らはわれわれが認めないようなささいな事件を、予言にあったことと解釈するからである。特に、その予言が期日や規模などにおいてあいまいな表現でなされているときには、こうしたやり方での不協和の低減が簡単に起こるだろう。

そして第三の仕方が、新しい認知要素を付加するというものである。このやり方についても、例をあげてみよう。ある人が、タバコをすうことが健康を害するということに関連するある認知と、自分がタバコをすいつづけているという行動に関する認知とのあいだに不協和が起こった場合、人は不協和を低減させるような新しい情報を積極的に探し求め、それと同時に、既存の不協和を増大させるような新しい情報を回避しようとする。その結果、その人は、タバコが健康に有害であるという見解に批判的な情報を探しだすことによって、不協和を低減するのである。なぜなら、タバコが健康に有害であるという見解に批判的なその情報は、タバコをすっているという行動と協和関係にある。つまり、この新しい協和関係をつくる認知要素を付加することで、不協和関係にある認知と協和関係にある認知のバランスをとるというやり方である。

破壊的カルトは、この第三の理屈でもって、予言がはずれたり、約束反故の事態になったときの急場をのりきることが多い。たとえば、「われわれの祈りが神に通じた」あるいは「自分たちのメンバーの努力が足りないところに約束反故の原因がある」などの説明を新たに付加するのである。

P122-124より。

第三の仕方は「人は見たいものしか見ない、見ようとしない、見たいようにしか見ない、信じたいものしか信じない」といった人の愚かさの表現でしばしば出てくる仕方です。

人は認知的不協和を経験することを不快に思い、その不快を避けるために、自らの信ずるところに対して批判的な情報やその情報源に接近することを避けることがあります。そして自らの信ずるところを肯定する情報にだけ積極的に近づき、より「信仰」を強固にしていくのです。

この第三の仕方の例としては、南京事件否定論者など歴史修正主義者にトンデモ否定本などの本を薦めても読もうともしないどころか、ネット上の情報を引いて読みもせずにその本を非難したりする現象が挙げられるでしょう。

行動が人を作り変える

アイデンティティの剥奪とロール・プレイ

ところで、この理論の文脈でとらえることできる研究で、マインド・コントロールの理解にとって興味深い実験がスタンフォード大学の地下実験室でおこなわれた。ジンバルドーがおこなったその実験は、つぎのようなものであった。

まず、できるだけ健全な学生二一人を被験者として集めた。この実験では、コイン・トスで囚人の役割と看守の役割をする者に分けられ、二週間、大学に造られた模擬刑務所でそれぞれの役割を演じるというものであった。囚人の役割を割り当てられた人びとは、実験が始まるその日に、実験への協力を依頼された市の警察官によって逮捕された。そして彼らは警察署に連行され、囚人服を着せられ、写真と指紋をとられた。その後、囚人役の人びとは、囚人服を着せられ、私物をもつことも許されず、その模擬の刑務所に入れられて、実名ではなく番号で呼ばれた。しかも彼らは格子窓から常に見張られ、手紙を書くにも、トイレに行くにもすべて看守の許可を必要とした。一方、看守役の人びとは、制服と警棒、笛、手錠、監房と門のキーが与えられ、鏡面になったサングラスで匿名性を保持し、八時間交代の勤務をするようにいわれたのである。看守の役割は囚人を管理することだけであった。この実験の結果は、実験者さえも驚くべきものであり、予定を変更して六日で中止せざるをえなくなった。すなわち、被験者たちの人格は二日目には早くも変化が起こり始め、囚人は服従的で従順に、看守は支配的にまた残忍な行動をとるように変化していったという。

たとえば、看守はいつのまにか交替の時には必ず囚人を全員並ばせ、反抗的な囚人をからかったりするようになっていった。また囚人は、自発的な行動をやめ、指示に反応するだけになっていった。つまり被験者は、惨めな囚人の役割をわずか一週間足らずのあいだ、演ずるだけで、それまで築いてきたその人のアイデンティティを崩壊させ、服従的で卑屈な人格を築いていった。また同じわずかの期間、看守の役割をすることが、その人の人格を権威的で支配的なものへと導いていったのである。

この実験が示唆していることとして、たとえ最初は崇高な目的でメンバーに加わったどんなに善良な人びとであったとしても、その集団のメンバーでいるうちに、自らの内面的な変化を引き起こしてしまうと予想されることである。

同書P140-141より。

いわゆるスタンフォード監獄実験。

この実験は行動や所属集団がいかに簡単に人の内面を変化させてしまうかということを示しています。

人の内面と行動は情報と状況に支配され、人はそれに対して無自覚

『ザ・ウェーブ』

一九六九年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。

教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。

つぎの歴史の授業においてもそれは続いていた。教師はとても驚いたが、そこでやめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に、共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウェーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。

この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。

結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。

このように現実の場面で、高校教師という他者が大勢の高校生のこころと行動を操作してしまった。そして高校生自身は、そのことに操作者自身から告知されるまで気づかなかった。これが永続的マインド・コントロールなのである。

同書P144-145より。

この歴史教師の「教科学習の試み」は重要なことを示唆しています。

人の内面と行動が情報と状況に簡単に支配されてしまうということと、内面と行動を操作されている人がその操作自体に無自覚ということ。

情報と状況により人は自覚しないうちに容易に思想改造されてしまうのです。

現代教育とファジー耐性のなさ

マインド・コントロールの存在やその強力さを信じられない人は、戦前、戦中の日本社会を考えてもらいたい。多くの国民が軍国主義のもとにマインド・コントロールされていた、とはいえないであろうか。人びとは、与えられた情報だけを信じ、「自分で考えた」つもりで「戦うしかない」という結論を出し、「鬼畜米英」、「一億火の玉」などをスローガンとしてかかげたものだ。真剣にかつ真執に「考え」「行動した」結果がそうである。ある組織のなかで、そうならないとどうしていえるだろう。

破壊的カルトは、これと同じようなことをしようとしている。彼らがメンバーに与えている「自由」は、マインド・コントロールによって見せている「幻想」である。つまり、破壊的カルトは、全体主義思想による支配を、現代の自由主義社会の真ん中で、こっそりとおこなおうとしている。

約六〇年も前のことであるが、フロムという社会心理学者は、精神分析学的視点に立って、そうした時代の人びとを分析した。その時代とは、いうまでもなく全体主義が台頭していた頃のことである。この分析は、現代でも通用する。

彼によると、人間は根元的に不安をいだいている。現代人は共通して、その不安を克服しようとして、自らの自由を放棄し、強力な権威者に絶対的支配を受けたいと願う傾向にあるという。その傾向は、「権威主義パーソナリティ(authoritarian personality)」と呼ばれる性格構造としてとらえられ、非常に多くの研究がなされた。

権威主義的パーソナリティの特徴は、強者への服従、弱者への攻撃、白か黒かといったステレオタイプ的判断、因習主義などの特徴を共通してもつとされた。その後の多くの研究で、これらに共通の特徴は「思考の固さ(rigidity)」や「あいまいな状況に対する寛容性の低さ(ambiguity tolerance)」としてまとめられた。これらは、状況が変わっても、なかなか思考パターンを変えようとしなかったり、判断が明白につきにくい状況におかれると、不安感や焦燥感にかられやすいといった心理学的特徴といえる。

「思考の固さ」と「あいまいな状況に対する寛容性の低さ」とは、本質的には同じ問題をあつかっていると思われる。現在、それらについての心理学研究は、相対的な個人差の研究に重点がおかれている。しかし、私は現代人全体が一般的にあいまいさ、つまりファジーな状況に対する耐性が低く、思考が固い傾向にあり、この特徴が、全体主義的思考の本質であり、破壊的カルトの思考パターンでもあると考えている。

現代の教育システムは、ファジーを認めないスタイルになってはいないだろうか。すべての問題に必ず「正しい」とする解答があり、教育はそれを探させ、記憶させることに偏っている。この傾向が、歴史、詩や小説といった文学についてまでもつきまとっている。そうした教育を受けてきたせいだろうか、大学生になっても、単純で断定的な講義や権威主義的な教授を、よいと単純に評価するものが少なくない。あるいは人の複雑な性格を血液型のわずか四タイプで分類したり、誕生月などで単純に自分の運勢を理解しようとする学生もいる。

また、神秘主義と科学(自然科学)の区別がつかない学生が多いとも指摘される。これも、思考の固さと関係があるのかもしれない。人間や自然界の謎を前に、はっきりした明白な解答をすぐにも求めようとしたならば、現代の科学にはまだまだ未解決な問題が多いことはいうまでもない・しかし、それをすぐさま「科学の限界」ととらえ、霊界や超能力といった神秘的な解答で納得してしまうのはいかがなものであろう。そうした神秘的で単純な解答を、人びとにもたらしている源は、現代ではマス・メディアや出版界に代表されよう。科学とは何かについて、各人がもう一度理解しようと試みる必要がある。

同書P232-234より。

社会心理学的研究の成果は、情報と状況を制御することで、高い可能性で人を(操作された)「自発的意思」で望みの結論と行動に到達するように誘導できることを示しています。

そういう心理操作の手法は悪用されうるものであり、現実にカルトや悪徳商法などに利用されています。

そういう社会心理学的技術の悪用に対抗するにはどうすれば良いでしょうか。

私はその方法は多くの人が自己防衛のために実学としての社会心理学的知識を身につけることだと思います。

そういう知識を身につけること自体が社会心理学的技術を用いた操作の試みに対する防壁になるからです。

*1兵法書の六韜には、相手を篭絡したりするためのその手の策略が結構のっていたりします

2007-08-01

[][]貧困の再発見

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書 (659))

ワーキングプアは「貧困の再発見」

それはともあれ、ワーキングプアに注目が集まったのは、まじめに働いているのに、なお貧しいということに世間が驚いたということであろう。逆に言うとそれは、高齢や病気、障害などで働けない人や怠けて働かない人だけに貧困が見られるという感覚を多くの人が持っている、ということだろう。

おまけに、つい最近までの日本では、その気になれば働く場はどこにでもあると皆が信じてきたので、その気になっているのに働く場がなかったり、働いても貧しいというようなことは想像しにくく、そのこともワーキングプアという現象への驚きとなって現われたのかもしれない。

現代の貧困P17より。

「高齢や病気、障害などで働けない人や怠けて働かない人だけに貧困が見られるという感覚を多くの人が持っている」だけで、働いても貧しい人は昔からいました。

例えば、手の離せない幼い子供がいる母子家庭。こういう家庭環境は就職に不利なだけではなく、できる仕事の種類自体の制限も大きくなります。幼い子供を置いて家から離れずに済む内職の場合、長時間働いても収入は知れています。

そういう貧困の存在は忘れられていただけであり、そういう働いても貧しいという貧困の存在が「再発見」されたのは、そういう境遇の人々がこの十年くらいの間に無視できないくらいに増えたことが大きいと思います。

排除されるホームレス

以前、学生たちがコンビニ店で捨てられる弁当をホームレスに配るという計画を立てたことがあって、いくつかのコンビニ店と交渉したことがある。学生たちにしてみれば、片方で地球規模の資源の無駄遺いがあり、もう一方でホームレスのような貧困があるという矛盾への、彼らなりの答えであったといえよう。が、見事に断られた。

そこには、たとえホームレスであろうと、「賞味期限切れの食品は渡せない」という理屈と、「ホームレスに品物を渡していると、顧客に非難される」という理屈があったようだ。

前者は、賞味期限切れの食品はもはや食品ではないという、現代の高度消費社会の論理にのっとっている。この論理の下では、食べ物がなくて飢え死にしても仕方がないが、自分のところの賞味期限切れの弁当で腹をこわされてはかなわない、という理屈が通用することになる。生命維持よりも、消費社会のルールの方が大事なわけだ。

後者の、ホームレスとの関わり合いは避けたいという理屈は、イギリス皇太子がホームレス訪問などを行っていることを考えると示唆的である。もっとも日本でも、戦前には皇族などが、家のない人々に対する慈善活動を行っていた。それがいつ頃からか、日本社会は、ホームレスなどの貧困者との関わり合いをことさら避けるようになった。ホームレスが区役所の前にいても、「わが区にはホームレスなどいない」と言い放った区長が東京にはいたが、多くは見て見ぬふりをする、という態度であろう。

こうした、ホームレスとの関わり合いを避ける社会の態度は、ホームレスの人々の貧困がたんなる貧困でないことを暗示している。ホームレスは、食ぺるものや寝場所など生活資源が決定的に不足しているだけでなく、社会から、その関わり合いを拒まれているのである。弁当の提供を拒否するコンビニだけでなく、社会のあらゆる制度が彼らを拒み、排除するのである。これが、ホームレスの貧困を社会的排除という観点から見たときの大きな特徴である。これには以下のような三つの局面がある。

第一に、ホームレスの人々には居場所がない。居場所がないので近隣との交際から遠ざけられ、住民登録もできない。住民票の提示や住所の明記が一応の前提となっている公的制度を利用することもできない。

第二に、居場所がなくても生きて』いくためには、寝ること、食ぺること、その他の生活行為を道路や公園など公共スペースで行わなければならない。その意味でホームレスの人々は、不法占拠者として、つまりはアウトサイダーとして認識される。

それゆえ第三に、彼らの生存は普通の人々の生活権の主張(公園で楽しみたい、道路を安全に通行したい等々)と対立し、次第に周縁へと追いやられる傾向にある。大きな駅の周辺から近くの公園へ、公園から遠くの河川敷へ、という具合である。

こうして周縁化されたホームレスは、彼ら自身ドロップアウトした青少年による「浮浪者狩り」の格好の標的となって、しばしば痛ましい事件の犠牲者となってきた。

同書P119-121より。

「生命維持よりも、消費社会のルールの方が大事なわけだ」

憲法にも記載されている基本的人権である生存権*1よりも優先される消費社会のルール。

ホームレスは引用文が示すように社会から排除され、貧困がホームレスの段階にまで進めば、その貧困状態を脱することは著しく困難になります。

このような現実を前にして、私はある種の人々が唱える「中所得層の没落により貧困層が増えれば貧困層のための政治が行なわれる可能性」に対して懐疑的にならざるをえません。

貧しい人から順番にそういう形で社会から排除され、投票という形で政治に参加する権利を失い、そういう貧困層の存在は顧みられることはないのではないのかと。

そうでなくても貧困は有料の情報源から切り離されることであり、自らの投票行動の基本となる知識を手に入れ難くなることでもあります。投票行動に割けるリソース自体が減少することもあるでしょう。

それらは参政権の有効活用が難しくなることを意味します。

貧困と未婚継続の関係

貧困と未婚継続の関係については、次のような興味深い指摘がある。労働政策研究・研修機構が、就業構造基本調査の再集計データで分析したところ、男性の年収と既婚率には明らかな関係があったという。

たとえば20代男性は年収500万円を超えると、30代男性は年収300万円を超えると、既婚率が50%を超える。つまり近年の晩婚化・非婚化は、結婚したくない男性が増えたために生じたというよりは、フリーターや無業者が増える中で、結婚したくてもできない人が増えたために生じたと言えるのではないだろうか。

これまで見てきたように、未婚でいることは、女性の貧困継続においても重要なファクターであった。貧困が、さまざまな「出会い」を奪っていくということが考えられる。

同書147-148より。

未婚と少子化に関しては、報道では「結婚したくない人」や「子供を作りたくない人」がクローズアップされ非難対象となることがありますが、むしろ貧困層の増大と貧困の進行により「結婚したくてもできない人が増えたため」と考えた方が正しいのではないでしょうか。

貧困と児童虐待

このように重度の児童虐待の場合、養育者側の情緒不安定や精神疾患といった問題との関連が見て取れる一方で、養育環境としての「経済的な困難」や「親族・近隣・友人からの孤立」との関連も無視できない。「豊かさの病理」という観点だけでは説明がつかないのである。

つまり児童虐待の中には、一方で、貧困な環境の中でひどくなるタイプのものがあり、他方で、そうした環境とは関係なく、もっぱら養育者の精神状態や性格が理由で生じるタイプのものがあるのではないか。あるいは、健康と貧困の関係を諭じたところで指摘したように、養育者の精神疾患や性格といったものと、養育者の生活環境とが何らかの関連性をもっているとするならば、ひどい虐待を行う人たちは、貧困な生活環境にあってストレスを抱え込んでしまったと捉えることも可能である。

児童福祉司として、虐待問題を抱えたさまざまな家族と長く向き合ってきた山野良一氏は、児童相談所による現場の支援が、あまりにもカウンセリングや教育プログラムに偏っており、「経済的なことを主として苦労してきた家族」の、そうした苦労に対応しきれていないのではないかと疑問を呈している。

山野氏は、「中学卒業のみで社会に出てしまった保護者たちが、かなりの数を占めていることが気になる」と述べ、この豊かな社会の中で、長時間労働にもかかわらず、「綱渡りのように」日々の生活をかろうじて送っている親たちのストレスや、狭い居住環境の中での家族関係の悪化が暴力につながるのではないかと警告している。同感である。

本章で論じてきたことからだけでも、貧困が単に貧困だけで終わらないこと、現代日本で「不利な人々」は貧困とはまた別の問題を同時に背負って生きていかざるをえないことが分かるのではないか。別の言い方をすれば多くの社会問題は、貧困問題の解決を視野に収めないとアプローチできない部分を、かなりのところ持っているのである。

それにしても貧困と社会問題との関連性が見過ごされて、「豊かさの病理」や中流家庭の事件ばかりに私たちの目が引き寄せられ、「心の闇」の解明にばかり力が注がれるのは、なぜだろうか。貧困と社会問題との関係から目を背けたがるのは、マスメディアや行政だけではない。それぞれの現場でさまざまな社会問題に取り組む人々の中にも、こうした問題の関連性を認めることに抵抗を覚える人が少なくない。

もしかしたらそれは、中流家庭に生じる問題群がいまだに「珍しい」存在だからなのではないだろうか。私たちは、そうはっきりとは意識していなくても、貧困によってさまざまな問題が生まれ、悪化していることを、どこかで分かっているのではなかろうか。分かっているのだが、それはあまりにも「当たり前」のことなので、そうでない問題が新鮮に思えるだけなのではないか。

高度経済成長期以降、貧困とはきれいさっぱり訣別したはずの日本は、「当たり前」ではない「豊かさの病理」に強く引きつけられ、いまや、そうした観点ばかりから社会問題を見るようになってしまった。しかし、そのことが逆に、さまざまな社会問題を解決する道を狭めているように思えるのである。

同書P184-186より。

児童虐待に対する報道では「豊かさの病理」や中流家庭の事件ばかりがクローズアップされ、「貧困がストレスとなり、そのストレスが虐待となる」という「貧困と社会問題との関係」が無視されているのではないでしょうか。

より多くの人々の共通の利益としての貧困対策

貧困対策は貧困者のためだけではない

ホームレスのような空間的に「見える貧困」は、その数を減らすことによって「見えなくする」ことが可能である。たとえば駅や公園にオブジェに見せかけた円柱を多数設置することでそこに寝られなくするなどのエ夫をすれば、ホームレスはもっと周縁の場所へと移動せざるを得ない。公園にフェンスを設置し、所定の時間が来ると園内にいられなくするのも、そうした工夫の一つである。

アメリカのある州では、ホームレスをまとめて飛行機に乗せてよその州へ連れていってしまえ、という議論があったそうだ。日本でも、ホームレスが集中している地域では、行政機関が交通費を支給して別の地域へ行くよう暗に勧めることが珍しくない。

だが、ある地域の「目に見える」ホームレスの数が滅っても、一人暮らしの中高年男性が被らざるを得ない貧困や社会的な排除という問題が解決されたわけではない。それは別の場所のホームレスや隠れたホームレスとして、あるいは孤独死や路上死として、いずれブーメランのようにして、「私たちの社会」に戻ってくる。

この「私たちの社会」との関連で、積極的優遇策のもう一つの役割がクローズアップされてくる。繰り返し述べるように貧困は、人々のある状態を「あってはならない」と社会が価値判断することで「発見」される。この「発見」は、そうした状態の解消に社会が責任を持たなければならないことを迫る。こうした価値判断や責務は、他者への配慮に基礎をおく人道主義や平等主義から導かれる場合もあろうが、これとは別に社会の統合や連帯という観点から導かれる場合もある。

一般に社会保障生活保護などの制度は、人権という側面から見られてばかりで、社会統合や連帯という側面が取り上げられることはあまりない。だから貧困対策を強化すると、貧困者だけが「得する」とか、彼らの人権ばかりに光が当たるといった文句が出る。たとえば、ホームレスのための一時施設を公園に作ろうとすれば、公園における「彼らの(生きる権利)」と「私たちの(憩う)」権利とが対比させられ、前者ばかりがその権利を行使できるのはおかしいといった文句が必ず出てくる。

しかし、福祉国家の歴史が証明しているように、国家が貧困対策に乗り出す大きな理由の一つは、社会統合機能や連帯の確保にあった。階級や階層ごとに分裂した社会を、暴力や脅しによってではなく福祉機能によって融和と安定に導いていくことは、国家それ自体の存在証明にもなることであった。(強調は引用者による)

現在の生活保護における水準均衡方式の基礎となった格差縮小方式も、国家による統合政策であったといえる。所得倍増計画の下、低所得層の消費水準も上昇していたが、これに比して生活保護受給層のそれは依然低いままだった。こうして開いた格差を埋めようとしたのが、格差縮小方式であったといえる。

富裕層と貧困層への分裂が社会の安定を奪う例は、地球上で数多く見いだされる。生活保護制度の見直しについての委員会の席上で、生活保護の拡大には否定的なある市長が、途上国を視察したときの感想として、社会保障は社会の安定にとって不可欠だと思った、と発言していたのが印象深い。

少し前に「下流社会」という言葉が世間の話題をさらったが、戦前の日本の貧困層を表す言葉としては「下層社会」があった。「下流社会」にせよ「下層社会」にせよ、その意味するところは一つの社会の中にもう一つの社会が存在するという点にある。先に述べた社会的排除と闘うヨーロッパの社会的包摂(social inclusion)策は、現代の先進国を再び浸食しかかっている、このもう一つの社会の形成に歯止めをかけるごとによって社会を安定させることをそのねらいとしている。つまり、社会的包摂という新しい理念による貧困対策は、明らかに社会それ自体の救済を意図しているのである。

社会保障制度の「持続的安定」ということが最近政府スローガンになっているが、持続的安定が図られねばならないのは「私たちの社会」であり、社会保障制度はその手段でしかない。積極的優遇策は、貧困者のためだけでなく、それらの人々をも含めた「私たちの社会」それ自体の安定や存続と強くかかわっている。

同書P205-208より。

この本の素晴らしいところは、貧困者の救済の必要性を、「他者への配慮」の感情ではなく、統計と事例収集と論理の積み重ねにより「私たちの社会」共通の利益として述べているところだと思います。

それは低所得層を人間扱いしないような人にも訴えかける力になりますから。

多数派が世の流れを決める社会では、望む政策の実現のためには多数派を構築する必要があり、多数派を構築するためにはより多くの人々を動かす手段が必要です。

そして、より多くの人々の共通の利益であることを示すことは、より多くの人々を動かす手段となりえます。

*1:というか、最低限度の生活にすら達してないレベルだと思いますが

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