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2007-08-01

[][]貧困の再発見

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書 (659))

ワーキングプアは「貧困の再発見」

それはともあれ、ワーキングプアに注目が集まったのは、まじめに働いているのに、なお貧しいということに世間が驚いたということであろう。逆に言うとそれは、高齢や病気、障害などで働けない人や怠けて働かない人だけに貧困が見られるという感覚を多くの人が持っている、ということだろう。

おまけに、つい最近までの日本では、その気になれば働く場はどこにでもあると皆が信じてきたので、その気になっているのに働く場がなかったり、働いても貧しいというようなことは想像しにくく、そのこともワーキングプアという現象への驚きとなって現われたのかもしれない。

現代の貧困P17より。

「高齢や病気、障害などで働けない人や怠けて働かない人だけに貧困が見られるという感覚を多くの人が持っている」だけで、働いても貧しい人は昔からいました。

例えば、手の離せない幼い子供がいる母子家庭。こういう家庭環境は就職に不利なだけではなく、できる仕事の種類自体の制限も大きくなります。幼い子供を置いて家から離れずに済む内職の場合、長時間働いても収入は知れています。

そういう貧困の存在は忘れられていただけであり、そういう働いても貧しいという貧困の存在が「再発見」されたのは、そういう境遇の人々がこの十年くらいの間に無視できないくらいに増えたことが大きいと思います。

排除されるホームレス

以前、学生たちがコンビニ店で捨てられる弁当をホームレスに配るという計画を立てたことがあって、いくつかのコンビニ店と交渉したことがある。学生たちにしてみれば、片方で地球規模の資源の無駄遺いがあり、もう一方でホームレスのような貧困があるという矛盾への、彼らなりの答えであったといえよう。が、見事に断られた。

そこには、たとえホームレスであろうと、「賞味期限切れの食品は渡せない」という理屈と、「ホームレスに品物を渡していると、顧客に非難される」という理屈があったようだ。

前者は、賞味期限切れの食品はもはや食品ではないという、現代の高度消費社会の論理にのっとっている。この論理の下では、食べ物がなくて飢え死にしても仕方がないが、自分のところの賞味期限切れの弁当で腹をこわされてはかなわない、という理屈が通用することになる。生命維持よりも、消費社会のルールの方が大事なわけだ。

後者の、ホームレスとの関わり合いは避けたいという理屈は、イギリス皇太子がホームレス訪問などを行っていることを考えると示唆的である。もっとも日本でも、戦前には皇族などが、家のない人々に対する慈善活動を行っていた。それがいつ頃からか、日本社会は、ホームレスなどの貧困者との関わり合いをことさら避けるようになった。ホームレスが区役所の前にいても、「わが区にはホームレスなどいない」と言い放った区長が東京にはいたが、多くは見て見ぬふりをする、という態度であろう。

こうした、ホームレスとの関わり合いを避ける社会の態度は、ホームレスの人々の貧困がたんなる貧困でないことを暗示している。ホームレスは、食ぺるものや寝場所など生活資源が決定的に不足しているだけでなく、社会から、その関わり合いを拒まれているのである。弁当の提供を拒否するコンビニだけでなく、社会のあらゆる制度が彼らを拒み、排除するのである。これが、ホームレスの貧困を社会的排除という観点から見たときの大きな特徴である。これには以下のような三つの局面がある。

第一に、ホームレスの人々には居場所がない。居場所がないので近隣との交際から遠ざけられ、住民登録もできない。住民票の提示や住所の明記が一応の前提となっている公的制度を利用することもできない。

第二に、居場所がなくても生きて』いくためには、寝ること、食ぺること、その他の生活行為を道路や公園など公共スペースで行わなければならない。その意味でホームレスの人々は、不法占拠者として、つまりはアウトサイダーとして認識される。

それゆえ第三に、彼らの生存は普通の人々の生活権の主張(公園で楽しみたい、道路を安全に通行したい等々)と対立し、次第に周縁へと追いやられる傾向にある。大きな駅の周辺から近くの公園へ、公園から遠くの河川敷へ、という具合である。

こうして周縁化されたホームレスは、彼ら自身ドロップアウトした青少年による「浮浪者狩り」の格好の標的となって、しばしば痛ましい事件の犠牲者となってきた。

同書P119-121より。

「生命維持よりも、消費社会のルールの方が大事なわけだ」

憲法にも記載されている基本的人権である生存権*1よりも優先される消費社会のルール。

ホームレスは引用文が示すように社会から排除され、貧困がホームレスの段階にまで進めば、その貧困状態を脱することは著しく困難になります。

このような現実を前にして、私はある種の人々が唱える「中所得層の没落により貧困層が増えれば貧困層のための政治が行なわれる可能性」に対して懐疑的にならざるをえません。

貧しい人から順番にそういう形で社会から排除され、投票という形で政治に参加する権利を失い、そういう貧困層の存在は顧みられることはないのではないのかと。

そうでなくても貧困は有料の情報源から切り離されることであり、自らの投票行動の基本となる知識を手に入れ難くなることでもあります。投票行動に割けるリソース自体が減少することもあるでしょう。

それらは参政権の有効活用が難しくなることを意味します。

貧困と未婚継続の関係

貧困と未婚継続の関係については、次のような興味深い指摘がある。労働政策研究・研修機構が、就業構造基本調査の再集計データで分析したところ、男性の年収と既婚率には明らかな関係があったという。

たとえば20代男性は年収500万円を超えると、30代男性は年収300万円を超えると、既婚率が50%を超える。つまり近年の晩婚化・非婚化は、結婚したくない男性が増えたために生じたというよりは、フリーターや無業者が増える中で、結婚したくてもできない人が増えたために生じたと言えるのではないだろうか。

これまで見てきたように、未婚でいることは、女性の貧困継続においても重要なファクターであった。貧困が、さまざまな「出会い」を奪っていくということが考えられる。

同書147-148より。

未婚と少子化に関しては、報道では「結婚したくない人」や「子供を作りたくない人」がクローズアップされ非難対象となることがありますが、むしろ貧困層の増大と貧困の進行により「結婚したくてもできない人が増えたため」と考えた方が正しいのではないでしょうか。

貧困と児童虐待

このように重度の児童虐待の場合、養育者側の情緒不安定や精神疾患といった問題との関連が見て取れる一方で、養育環境としての「経済的な困難」や「親族・近隣・友人からの孤立」との関連も無視できない。「豊かさの病理」という観点だけでは説明がつかないのである。

つまり児童虐待の中には、一方で、貧困な環境の中でひどくなるタイプのものがあり、他方で、そうした環境とは関係なく、もっぱら養育者の精神状態や性格が理由で生じるタイプのものがあるのではないか。あるいは、健康と貧困の関係を諭じたところで指摘したように、養育者の精神疾患や性格といったものと、養育者の生活環境とが何らかの関連性をもっているとするならば、ひどい虐待を行う人たちは、貧困な生活環境にあってストレスを抱え込んでしまったと捉えることも可能である。

児童福祉司として、虐待問題を抱えたさまざまな家族と長く向き合ってきた山野良一氏は、児童相談所による現場の支援が、あまりにもカウンセリングや教育プログラムに偏っており、「経済的なことを主として苦労してきた家族」の、そうした苦労に対応しきれていないのではないかと疑問を呈している。

山野氏は、「中学卒業のみで社会に出てしまった保護者たちが、かなりの数を占めていることが気になる」と述べ、この豊かな社会の中で、長時間労働にもかかわらず、「綱渡りのように」日々の生活をかろうじて送っている親たちのストレスや、狭い居住環境の中での家族関係の悪化が暴力につながるのではないかと警告している。同感である。

本章で論じてきたことからだけでも、貧困が単に貧困だけで終わらないこと、現代日本で「不利な人々」は貧困とはまた別の問題を同時に背負って生きていかざるをえないことが分かるのではないか。別の言い方をすれば多くの社会問題は、貧困問題の解決を視野に収めないとアプローチできない部分を、かなりのところ持っているのである。

それにしても貧困と社会問題との関連性が見過ごされて、「豊かさの病理」や中流家庭の事件ばかりに私たちの目が引き寄せられ、「心の闇」の解明にばかり力が注がれるのは、なぜだろうか。貧困と社会問題との関係から目を背けたがるのは、マスメディアや行政だけではない。それぞれの現場でさまざまな社会問題に取り組む人々の中にも、こうした問題の関連性を認めることに抵抗を覚える人が少なくない。

もしかしたらそれは、中流家庭に生じる問題群がいまだに「珍しい」存在だからなのではないだろうか。私たちは、そうはっきりとは意識していなくても、貧困によってさまざまな問題が生まれ、悪化していることを、どこかで分かっているのではなかろうか。分かっているのだが、それはあまりにも「当たり前」のことなので、そうでない問題が新鮮に思えるだけなのではないか。

高度経済成長期以降、貧困とはきれいさっぱり訣別したはずの日本は、「当たり前」ではない「豊かさの病理」に強く引きつけられ、いまや、そうした観点ばかりから社会問題を見るようになってしまった。しかし、そのことが逆に、さまざまな社会問題を解決する道を狭めているように思えるのである。

同書P184-186より。

児童虐待に対する報道では「豊かさの病理」や中流家庭の事件ばかりがクローズアップされ、「貧困がストレスとなり、そのストレスが虐待となる」という「貧困と社会問題との関係」が無視されているのではないでしょうか。

より多くの人々の共通の利益としての貧困対策

貧困対策は貧困者のためだけではない

ホームレスのような空間的に「見える貧困」は、その数を減らすことによって「見えなくする」ことが可能である。たとえば駅や公園にオブジェに見せかけた円柱を多数設置することでそこに寝られなくするなどのエ夫をすれば、ホームレスはもっと周縁の場所へと移動せざるを得ない。公園にフェンスを設置し、所定の時間が来ると園内にいられなくするのも、そうした工夫の一つである。

アメリカのある州では、ホームレスをまとめて飛行機に乗せてよその州へ連れていってしまえ、という議論があったそうだ。日本でも、ホームレスが集中している地域では、行政機関が交通費を支給して別の地域へ行くよう暗に勧めることが珍しくない。

だが、ある地域の「目に見える」ホームレスの数が滅っても、一人暮らしの中高年男性が被らざるを得ない貧困や社会的な排除という問題が解決されたわけではない。それは別の場所のホームレスや隠れたホームレスとして、あるいは孤独死や路上死として、いずれブーメランのようにして、「私たちの社会」に戻ってくる。

この「私たちの社会」との関連で、積極的優遇策のもう一つの役割がクローズアップされてくる。繰り返し述べるように貧困は、人々のある状態を「あってはならない」と社会が価値判断することで「発見」される。この「発見」は、そうした状態の解消に社会が責任を持たなければならないことを迫る。こうした価値判断や責務は、他者への配慮に基礎をおく人道主義や平等主義から導かれる場合もあろうが、これとは別に社会の統合や連帯という観点から導かれる場合もある。

一般に社会保障生活保護などの制度は、人権という側面から見られてばかりで、社会統合や連帯という側面が取り上げられることはあまりない。だから貧困対策を強化すると、貧困者だけが「得する」とか、彼らの人権ばかりに光が当たるといった文句が出る。たとえば、ホームレスのための一時施設を公園に作ろうとすれば、公園における「彼らの(生きる権利)」と「私たちの(憩う)」権利とが対比させられ、前者ばかりがその権利を行使できるのはおかしいといった文句が必ず出てくる。

しかし、福祉国家の歴史が証明しているように、国家が貧困対策に乗り出す大きな理由の一つは、社会統合機能や連帯の確保にあった。階級や階層ごとに分裂した社会を、暴力や脅しによってではなく福祉機能によって融和と安定に導いていくことは、国家それ自体の存在証明にもなることであった。(強調は引用者による)

現在の生活保護における水準均衡方式の基礎となった格差縮小方式も、国家による統合政策であったといえる。所得倍増計画の下、低所得層の消費水準も上昇していたが、これに比して生活保護受給層のそれは依然低いままだった。こうして開いた格差を埋めようとしたのが、格差縮小方式であったといえる。

富裕層と貧困層への分裂が社会の安定を奪う例は、地球上で数多く見いだされる。生活保護制度の見直しについての委員会の席上で、生活保護の拡大には否定的なある市長が、途上国を視察したときの感想として、社会保障は社会の安定にとって不可欠だと思った、と発言していたのが印象深い。

少し前に「下流社会」という言葉が世間の話題をさらったが、戦前の日本の貧困層を表す言葉としては「下層社会」があった。「下流社会」にせよ「下層社会」にせよ、その意味するところは一つの社会の中にもう一つの社会が存在するという点にある。先に述べた社会的排除と闘うヨーロッパの社会的包摂(social inclusion)策は、現代の先進国を再び浸食しかかっている、このもう一つの社会の形成に歯止めをかけるごとによって社会を安定させることをそのねらいとしている。つまり、社会的包摂という新しい理念による貧困対策は、明らかに社会それ自体の救済を意図しているのである。

社会保障制度の「持続的安定」ということが最近政府スローガンになっているが、持続的安定が図られねばならないのは「私たちの社会」であり、社会保障制度はその手段でしかない。積極的優遇策は、貧困者のためだけでなく、それらの人々をも含めた「私たちの社会」それ自体の安定や存続と強くかかわっている。

同書P205-208より。

この本の素晴らしいところは、貧困者の救済の必要性を、「他者への配慮」の感情ではなく、統計と事例収集と論理の積み重ねにより「私たちの社会」共通の利益として述べているところだと思います。

それは低所得層を人間扱いしないような人にも訴えかける力になりますから。

多数派が世の流れを決める社会では、望む政策の実現のためには多数派を構築する必要があり、多数派を構築するためにはより多くの人々を動かす手段が必要です。

そして、より多くの人々の共通の利益であることを示すことは、より多くの人々を動かす手段となりえます。

*1:というか、最低限度の生活にすら達してないレベルだと思いますが

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