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2008-04-30

[]要は○○でしょ

批判対象の正しさを認めておいて、その正しさを主張すること自体を批判する人。要は批判対象が自らの正しさの証を立てることを妨害したいんでしょ。

自分は「仲間」を批判するのに、自分への批判は「内輪もめ」は良くないと批判内容に反論せずに批判行為自体を咎める人。要は一方的に批判したいんでしょ。

普段、他人を冷笑しておいて、自分が冷笑される側になると(あるいは自分が冷笑されていると解釈すると)それを拒絶する人(烈火の如く怒ったりする)。要は一方的に冷笑したいんでしょ。

自己欺瞞の壁が分厚い人はこれを無自覚にやる。

[]挑発

世の中には

相手を排除するために

「周囲の助け」の存在を前提として

相手を挑発して暴行を引き出して被害者ぶる人もいる。

まあ、よくあるチンピラの類の手法。


挑発はどちらに転んでも自らに有利な二択を相手に仕掛ける手段となる。

  • 相手が挑発に乗った場合、その時点で自らが「被害者」であることが確定する。さらに、
    • 「周囲の助け」を得られれば、それにより相手を排除できる。
    • 「周囲の助け」を得られなければ、それにより「被害感情」を増幅させて扇動に利用できる。当然、助けなかった「周囲」も「被害感情」による批判対象。*1
  • 相手が挑発に乗らなかった場合、
    • 相手を一方的に痛めつけることができる(痛めつけてやったと思い込むことができる)。

自己欺瞞の壁が分厚い人はこれを無自覚にやる。


挑発は対立を煽る行為。問題解決のために対立を避けねばならない状況に置かれた人には取れない行為。

その一方で、問題解決が目的ではなく、問題の存在が別の目的のための手段になっている人にとっては問題が存在し続けることの方が好都合だったりするわけです。

*1:安い煽動手法だなあ、おい!そんな煽動手法にホイホイとついて行ってしまってもいいのかい?

2008-04-29

モコナのキャラ弁

[]モコナキャラ弁

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カミさんのキャラ弁。今回はモコナ。

カミさん曰く、たまには作らないと、とのこと。

キャラ選択は昨日「xxxHolic継」を見たからだそうです。

2008-04-22 総統猫チョビ髭閣下13歳

[][][][]大日本帝国を糾弾するのに熱心な反歴史修正主義者が大日本帝国と同じようなことをしている中国に対して積極的に糾弾しているように見えないのは何故か?

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諸君、余だ。

大日本帝国を糾弾するのに熱心な反歴史修正主義者が大日本帝国と同じようなことをしている中国に対して積極的に糾弾しているように見えない、と諸君が疑問に思っているようなので余が答えよう。

簡単なことだ。

正しい情報が流布されている分には批判する必要がないからだ。

正しい情報の下、諸君がどのように判断しどのように行動するかは諸君自身に委ねられているのだ。

考えてみるがよい。

反歴史修正主義は歴史修正主義に対するカウンターアクション。そもそも歴史修正主義者が偽りの歴史を流布していなければ、そういう活動をする必要は無いのだ。

反歴史修正主義者にとって、歴史修正主義者の偽りを暴くことが目的であり、大日本帝国の負の歴史について発言するのは偽りを暴くための手段にすぎない。

全てがそうとまでは断定せぬが、反歴史修正主義者にとって大日本帝国を糾弾するのは目的ではない。

偽りを暴くための手段として大日本帝国の負の歴史について発言することが、諸君には大日本帝国を糾弾することが目的のように見えているだけなのだ。

つまりだ。そもそもの疑問がおかしいのだ。

そして、そのおかしさは諸君自身の勘違いに立脚している。

そう、諸君は勘違いをしている。諸君自身の政治性ゆえに勘違いしている。

では、諸君自身の政治性とは何か?ステレオタイプに毒されていることだ。

諸君が「反歴史修正主義は左翼。左翼は反日親中」というステレオタイプに毒されていることだ。

諸君の中には「ロリペドキモオタ死ね」的なオタクに対するステレオタイプな報道を不快に思っているものもいるのではないかと思う。

「反歴史修正主義者は左翼で反日親中」というのも同様のステレオタイプなのだ。

反歴史修正主義自体は史実を守るためのものであり、思想の左右や対国家感情とは無関係。

反日だから大日本帝国の負の歴史について発言するわけでもないし、親中だから中国を糾弾しないというわけでもないのだ。それは、中国のチベットに対する非道を南京事件否定論などの歴史修正主義と同じ手口で否定しようとする言動も批判対象となることから明らかというものだ。

結局のところ、オタクに対するステレオタイプな報道に影響される人々同様に、諸君が歴史修正主義者による反歴史修正主義者に対するステレオタイプな主張に影響されたにすぎない。

メディアリテラシーという言葉を好むところの諸君がそのように影響を受けてしまうのは実に嘆かわしいことだ。

だが、それも無理からぬことかもしれぬ。

国家の不名誉を自己の不名誉のように感じる人は未だ多い。そのような人が大日本帝国の負の歴史について発言する反歴史修正主義者に悪感情を抱きやすいのはやむを得ぬこと。そして、それは悪感情の対象に対するネガティブな評価を受け入れやすくする。これは構造的に避けられぬことだ。

しかしだ。歴史修正主義者の現実の姿を見てみるがよい。

彼らは議論において実に憐れな存在だ。彼らの拠って立つところの歴史修正主義が史学的には話にならないどうしようもない代物だからだ。

敵は間抜けな絶対悪と信じ込んだ憐れな新参歴史修正主義者が使い古された穴だらけの否定論を振りかざし敵も知らず己も知らずに反歴史修正主義者に突撃して返り討ちにあい、「えーマジ否定論?」「キモーイ」「否定論が許されるのは小学生までだよねー」「キャハハハハハハ」と笑われるのはもはや風物詩である。

敵を間抜け扱いして返り討ちにあった歴史修正主義者が笑われているのを見たウヨクが「ウヨクをバカにするなー」と逆切れするのもまた風物詩。「俺は御前らの感情に配慮しないが、御前らは俺の感情に配慮しろ」というわけだ。ウヨクが歴史修正主義と親和的ゆえの悲喜劇だ。


繰り返し言おう。

反歴史修正主義者にとって、歴史修正主義者の偽りを暴くことが目的であり、大日本帝国の負の歴史について発言するのは偽りを暴くための手段にすぎない。

何故、偽りを暴くかといえば、正しくない情報が判断材料として無価値などころか判断に際し悪条件となることをその理由の一つとして挙げられよう。

そうやって確保された正しさの下、諸君がどのように判断しどのように行動するかは諸君自身に委ねられている。

大日本帝国の負の歴史に対し、諸君はどのように判断するのか。

大日本帝国と自己を切断して糾弾するのか。

同胞の行為として自省し教訓とするのか。

古今東西の人類の非道を掻き集めて「他国も同じことをしている」と相対化するのか。

選択肢は様々だ。

もっとも、切断と相対化のように、不快さと向き合うことを避けている点では同じな選択肢もあるがな。

諸君、余は「昔は自虐史観教育のせいで左翼だったがネットで真実に目覚めた」と主張して歴史修正主義者になる人間がいることをまったく不思議に思わない。

そういうのは他罰的で不快さと向き合う勇気を持たぬものが向きを変えただけ。非難の対象が大日本帝国から「自虐史観」に変わっただけ。主張は変わっても内面が変わったわけではないのだ。


さてだ。

チベットの人権問題が脚光を浴びることにより大日本帝国と同じようなことをしている中国が問題になったわけだが、それに対し諸君がどのように判断しどのように行動するかも諸君自身に委ねられている。

人権問題を重視して人権団体に自ら助力するのも判断。

人権問題より中国との経済関係を重視して沈黙することを表明するのも判断。

複雑な問題ゆえに判断を保留することも判断といえよう。

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問題は、何らかの行動をした方が良いと判断したのに、そのための責任と手間を厭うものたちだ。責任と手間を厭うゆえに、自ら行動するのではなく、行動させられることを待ち望むものたちだ。自ら判断し行動できるのにかかわらず、その責任と手間を他者に転嫁することを恥とせぬものたちだ。

そして、それにより彼らは「特権」を得られるのだ。

彼らは自身が行動しない理由を導くべきものが導かないことに責任転嫁できる。

また、導かれて行動した際、行動が失敗であれば導いたものに責任転嫁できる。

責任を自身で負わないがゆえに彼らは「無辜」でいられるのだ。


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しかしだ。

余は彼らの存在に感謝せねばなるまい。

扇動政治が未だ有効なのは彼らのような存在があればこそとゆうものだからだ。

彼らのような「行動させられるもの」は煽動者にとって好都合な存在だ。

だからといって煽動者は彼らを一方的に利用しているというわけではない。むしろ煽動者と彼らは互恵関係にある。

扇動者は彼らを率いることで数的優位を得ることができる。そのようにして自らの望みの実現に近づける。

扇動者に率いられる彼らは彼らで責任を扇動者に「外注」できる。それゆえ、何があろうと「無辜な国民」でいられる。

そこに扇動者と「無辜な国民」の「美しい共犯関係」が成立するのだ。

そうではないかね?

2008-04-17

[]内ゲバ

内ゲバとは組織内での異論を暴力などの実力で抑え込む際におきる現象と私は解釈しています。

そういう意味では、仲間内で異論を出し合うより、仲間意識や集団圧力を利用した操作などで異論を抑え込もうとする方がよっぽど内ゲバ的。

内ゲバの本質は組織内暴力より組織内の異論を暴力で抑え込もうという姿勢の方にあるというものではないでしょうか。

2008-04-14

[][]マルクスに懺悔する日

私はまた自らの腹黒さと不謹慎さの誘惑に負けてしまいました。自らが発した言葉に対する相手の悪感情による反応を楽しんでいる私をお許しください。とかなんとか。うぎゃー。

ここでいうマルクスはマルクス・アウレリウス・アントニヌスのこと。自省録を著した哲人皇帝

「ふっと自省録の内容を思い出す→自らの行動を鑑みる→凹む」を度々繰り返してしまうんです。

宗教書の教えは全然心に響かなかったりするのですが、自省録の言葉はガンガン響きます。というより、打ちのめされます。

それは、宗教書の教えが多分に「統治の道具」であるのに対し、自省録の言葉は哲人皇帝が自ら思い悩んだ軌跡*1であり、生身の人間の心情の吐露として私の心の中にも同調する部分があるからかもしれないなあなんて思います。

というか、そうでなければこの痛いところを突かれた気持ちは説明し難いです。

腋臭のある人間に君は腹を立てるのか。息のくさい人間に腹を立てるのか。その人間がどうしたらいいというのだ。彼はそういう口を持っているのだ、またそういう腋を持っているのだ。そういうものからそういうものが発散するのは止むをえないことではないか。

曰く「しかしその人間は理性を持っている。だからどういう点で自分が気にさわるか少し考えればわかるはずだ。」

それは結構。ところで君も理性を持っているね。それなら君の理性的な態度によって相手の理性的な態度を喚起したらいいだろう。よくわけをわからせてやり、忠告してやりなさい。もし相手が耳を傾けるなら君はその人を癒してやれるだろう、怒る必要なんか少しもないさ。

悲劇役者でもなければ遊女でもない。

第五巻二八章

自分にとって自然であり有利であると思われるものに向かって行くことを人に許さないのはなんと残酷であろう。ところが人が過ちを犯したといって腹を立てるとき、君はある意味で彼らに以上のごとく振舞うのを許してやらないのである。なぜならば人は一般に自分にとって自然であり有利であることに惹かれるものである。

「ところがそうではないのだ。」

それなら怒らずに彼らに教え示してやるがいい。

第六巻二七章

いかなる出来事にたいしても悲しんだり不服をいだいたりする人間はみな屠られる小豚がじたばたして叫ぶにも似たものと考えるがよい。また寝床の上でひとり黙して我々の不幸を嘆く人間もこれに似ている。さらに思うべきは、ただ理性的動物のみ自分の意志をもって出来事に従うことが許されているが、他のあらゆるものは単なる服従を強いられているということである。

第十巻二八章


ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!(悶絶)

あらためて確認すると本当に凹みます。

にも関わらず、「ふっと自省録の内容を思い出す→自らの行動を鑑みる→凹む→思い出した部分を再確認するために読み直す→せっかく読んだ内容を忘れた行動をする→ふっと自省録の内容を思い出す」という行動を私は繰り返すのでした。(繰り返すなよ)

自省録 (岩波文庫)

*1:ときには自らを鼓舞するために書かれたのではとも思います。

2008-04-13

[]正直、内ゲバとは思っていない

はてなブックマーク - そういうのを論点ずらしという - 非行型愚夫の雑記とかで内ゲバ扱いされているのが心外。仲間内でやるからこそ内ゲバなわけで、その言葉は仲間扱いが前提になっているわけですから。

歴史修正主義・反レイシズムゆえにサヨクをやっている私にとっては、思想の左右を問わず反歴史修正主義・反レイシズムにコミットしてくれる人が「戦友」であり、そういう反歴史修正主義や反レイシズムへのコミットを否定する赤木智弘氏に与する人々は左派だろうが何だろうが「仲間」ではありません。

にも関わらず、漠然とした左派というくくりで

俺は「外部」から「左派の失策」だと言ってるんじゃない。「内部」から「左派の失策」だと言ってるの。

上で俺が「左派」というときは、「左派=あいつら」ではなく「左派=俺達」なんだよ。「俺達ももっと上手くできたんじゃないか?」と言ってるの。

論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

のように「仲間」であることを前提として「俺達」と語られるのは正直、引きます。気持ち悪い。

まあ、引用した言葉は再反論せずに仲間意識を利用した操作で反論を封じようとしている点でも不愉快なわけですが。感情屋は感情を利用した操作が効き難い人やそういう操作自体を嫌う人がいることを無視して、感情を煽ることで人を操作しようとするから鬱陶しい。ば〜〜〜〜っかじゃねえの?!byハルパゴスと思いますね。

後、おかしいと思ったことを指摘することも内ゲバとは言わないでしょう。

反歴史修正主義・反レイシズムにコミットする人同士でもおかしいと思ったことは指摘しあうわけですが、それを内ゲバと思ったことはありません。むしろ、そういう指摘を許さないような集団の方が不健全と思いますね。

共通の目的のために集団になるとしても集団自己同一視とか集団圧力とかとは無縁でありたいものです。

2008-04-12

[][]価値否定論法

価値否定論法は対象の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法。

主に対象の「正しさ」を否定できなくてもそれを認めたくないときに使われます。

認知的不協和という人間の心理構造により非常に強い効果を持ちうる論法です。

認知的不協和とは相容れない複数の認知を抱えたときに生じる心理的緊張状態(例えば不快感)のこと。

人間は認知的不協和を解消するために自分の認知の方を変更してしまいがちです。(認知的不協和理論)

例えばイソップ寓話の「狐と葡萄(ブドウ)」(酸っぱい葡萄)

食べたいブドウを手に入れられなかったキツネは「あのブドウは酸っぱい」と思うことにしました。

「あのブドウを食べたい」という認知(変更可能)と「あのブドウを手に入れることはできない」という認知(変更不可能もしくは変更困難)の不協和に対し、前者を「あのブドウは酸っぱい(から食べたいとは思わない)」と変更することで「あのブドウが手に入らなくても構わない」ようにし、後者の「あのブドウを手に入れることはできない」という認知との不協和を解消したわけです。

ちなみに、不協和を解消するためにタバコの害の科学的事実を否定しているのが猫猫先生。テストに出ますから覚えておくように。(出ません)

価値否定論法のやっかいさはこういう認知的不協和の解消を提供するゆえに認知的不協和を抱えた人の支持を得やすいところにあります。

基本的に人間は「正しさ」や「一貫性」に対する欲求を持っています。しかし、自らが「正しさ」を得ることが出来ないときや、相手に「正しさ」があり、その「正しさ」を否定できないときや、「正しさ」自体が自らの願望に沿わないとき、手に入らないブドウを酸っぱいと思いたがる有象無象の人間が、不協和を解消するために「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法に飛びつくのです。

例えば愛国とか言うなら、まず否定論が他国の対日感情を悪化させる上に他国に政治カードを与えてしまうという現実を認識すべき - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで引用した「まあ、肯定派が愛国左翼だったら、「〜は否定できないから、(中国プロパガンダに対して)日本はこういう戦略で対抗すべきだ」のように建設的な意見を言うと思うけどね」という言葉。

これは、主観的な「愛国的行動ではない」という判断のもとに(南京事件)肯定派(史実派)の主張の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定しているわけです。

あるいは、そういうのを論点ずらしという - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで引用した「正しいことを言っているのに、なんで信者は増えても広がりがないのか、について、反・歴史修正主義者の人たちは考え直してみるといいと思います」という言葉。

これは、「支持の広がりの否定」をもとに反・歴史修正主義者の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定しているわけです。まあ、これはid:lovelovedog氏自身が抱えた不協和を解消するための発言の色が濃すぎて不発でした(ように見えました)けど。

不協和をありのままに受け入れられないという弱点を抱えた人間にとって不協和を解消してくれる価値否定論法はありがたいものですから、場合によって非常に強い効果を持つのは仕方がありません。

その一方で「手に入らないブドウを酸っぱいと思いたがる狐」の駄目っぷりも明白なわけで、そういう人が多数派を占めるようでは国が駄目なほうに流れていくのも仕方がないというもの。

とりあえず、政治家の駄目さは国民の駄目さの反映ということでファイナルアンサー。

[][](現時点では)「支持」を得られないのは仕方がない

歴史修正主義が「支持」を得られないとしても、それは仕方がありません。

歴史修正主義が不都合だったり不名誉だったりする不快な歴史を否定や捏造により作り変えて快い「大いなる物語」に改変するのに対し、反歴史修正主義は不都合だったり不名誉だったりする不快な歴史をありのままに受け入れることを要求しているのですから。

それは理性より感情が先に立つ人には不快ゆえに「支持」されなくても仕方がありません。


人々に理性に基づいた行動を求める人が、人々の願望を汲み取って行動すれば得られた「支持」を得られなかったことを非難されるのも仕方がありません。

人々に理性に基づいた行動を求める人にそういうことはできませんから。

何故ならば、人々に理性に基づいた行動を求める人にとって、人々の願望を汲み取って行動することにより得た「支持」は無価値だからです。

人々の願望を汲み取って「支持」を得るのはポピュリズム。人々に理性に基づいた行動を求める人にとってはポピュリズムでポピュラーになっても仕方がないのです。

そもそも、人々に理性に基づいた行動を求める人にとっては願望自体が否定対象。カメラマン転倒。いや、本末転倒。*1

応答が「勝手な願望を持つな。自ら為すべきことを為せ」というようなものになるのは至極当然。

願望を汲んだことによる「支持」も「支持」ですが、理性に対する「支持」を求める人には無価値な「支持」です。

「支持」を得るために人々の願望を汲み取って行動しろなんて論は、理性に対する「支持」を求めている人にとって「たわけ(nuts)」以外の何ものでもありません。

人々に理性に基づいた行動を求める人に対して、人々の願望を汲み取らないことを非難しても仕方がないのです。

そういうのは理性を説く人にとっては「政治」としては正しくても「運動」としては正しくないのです。


そう、まだまだ「支持」を得られないのは仕方がありません。

そんなことは理性を説く人にも分かっています。人間のどうしようもない心理構造についてそれなりに知っているだけに。

それでも不快に思われるのを覚悟の上で理性を説くのです。

そうやって思想に関わらず理性に基づいた行動をする人を少しずつでも増やしていけば、長期的には理性の方が優勢になると考えるくらいには人間のことを信じているからです。それは長期的な人類の進歩に根ざした確かな期待です。

関連

非難されているのは現実主義ではなく現状追認主義 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

「扇動されやすさ」が克服可能かという賭け - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

*1ホビージャパンカメラマン本末氏ネタ。非常に寒い

2008-04-11

[][]そういう次元の話ではありません

fuldagap 揉め事, はてな選挙で勝ちたい人」と「社会運動を貫きたい人」という出会うはずのなかった二人がはてな村の街頭で出会い頭にぶつかったというお話。互いの価値観の元では相手が間違って見えるだけでどっちが正しいとかではない

はてなブックマーク - そういうのを論点ずらしという - 非行型愚夫の雑記

id:fuldagapさん、そこまで高度な話ではないと私は認識しています。

単純な論法の問題なのに、論法の誤りを指摘されても当人がそれを認めないというだけの話です。

  • 「正しさ」と「支持」は別問題
  • にも関わらず「正しさ」と「支持」を絡めて「正しさ」の価値否定
    • 当人が「現実への回路を無視した「正しさ」に意味があるのか?」と発言していることも「正しさ」に「支持」を絡めての価値否定を裏付けている
  • にも関わらず何度指摘されても当人がそれを認めない

というだけの話。

思想の問題ではなく筋道の問題。

当人が自分の発言の意味すら理解しようとしないがゆえにコミュニケーションが成立しないだけの話です。


私としては、

  1. 具体性欠如の問題(deadletter氏が指摘)
  2. 論法の問題(私が指摘)
  3. 論述内容の問題(mojimoji氏が指摘)

というように問題のある主張が、そういうように受け取られるのは残念でなりません。

2008-04-10

[]そういうのを論点ずらしという

勝敗が決した戦場で幽霊と闘うのは誰?獲物を求めて彷徨う亡者は誰? - 想像力はベッドルームと路上からに対するお返事。

詭弁として機能する」という部分はまさに問い立てした僕自身が「左派の正当性は明らか」という前提を繰り返し示してる時点でクリアされることではないかと思うのですが。その先でこの問いを「悪用」する輩には都度指摘すれば済む話ではないですか?

逆に、その「前提の提示」すら認めないというのであれば、「何かを問う」ことは果てしなく困難な作業になります。これはつまり「問うな」と要請しているに等しい。それには同意できません。

という言葉は、「勝敗」自体がどうでもいい - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで書いた

「正しさ」と「支持」は別問題。勝手に混ぜないでください。「言いがかり」に対しては「正しさ」の証を立てることが必要。それに「支持」を絡めて「運動における勝敗」に論点をすりかえているから詭弁と批判しているのです。きちんと読むように。

が読めてないとしか思えません。

inumash氏が「左派の正当性は明らか」という前提を繰り返し示していようが、私の批判には関係ありません。

論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで「lovelovedog氏の記事と同然」と評したわけですが、その意味が分かってないようですね。

正しいことを言っているのに、なんで信者は増えても広がりがないのか、について、反・歴史修正主義者の人たちは考え直してみるといいと思います。

なぜニセ科学を叩く人は一般にヘンな目で見られないで、歴史修正主義者を叩く人はヘンに見られるのか - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

というようにlovelovedog氏も反・歴史修正主義者の正しさを認めているわけです。認めた上で「支持」を絡めて「批判」して反・歴史修正主義者を貶めているわけです。

もう説明したはずです。

論点を正誤の問題から運動における勝敗の問題にずらし、lovelovedog氏は勝利宣言をし、inumash氏は左派の一人として敗北宣言をし、運動論についてお説教。正しいことを言っていても、支持を広げられないのは運動の仕方に問題があるからという自己責任論。そうやって引き合いに出した対象を(結果として)正誤ではなく運動における勝敗の点から貶めるわけです。

言いがかりをつけられて貶められ、それに対し正誤において正であることの証を立てる必要に迫られ、いざ、正であることの証を立てれば、今度は「勝敗において負けている」ことをもって貶められる理不尽。

私はそういう理不尽を批判しているのであり、それにinumash氏の立場は関係ありません。

というように。

よって、

ですが、自ら「左派の正当性は明らか」と勝利宣言しておきながら、D_Amonさんはその戦場から移動しようとしない。そして、僕の問い立てを全て「正誤の戦場」で判断しようとする。僕が「左派の正当性は明らか」という勝利宣言に同意しているにも関わらず、まだその戦場で僕と闘おうとしている。

というのは誤読としか言いようがないですね。

この件に関しては、決着がついてもう戦う必要はないのにinumash氏が「支持」に論点をずらして戦いを引き延ばしたのであり、「こういう無益な問いの応酬」を引き起こしたのはinumash氏。

そして、自ら「こういう無益な問いの応酬」を引き起こしておいて、今度はその責を私に転嫁しようとしているわけです。話になりませんね。

決着がつきもう戦う必要は無いのに論点をずらして戦いを引き延ばした当人が、「自浄能力」と同じくらい便利に使われる「内輪揉めはいけない」論で逃亡宣言をするに至ってはなんともはや。「周囲の支持を削ぐ」なんてどの口が言うのでしょうね。

逃げるのは構いませんよ。私も追いませんから。ただ、逃げる以上は二度と蒸し返さないでくださいね。


なんというか、私としては、こういうどうしようもない論点ずらしも「情緒に訴えかける手法」に弱い人にはそれなりに効果があることの方が悲しいです。

2008-04-09

携帯電話のCMの「お父さん」のキャラ

[]携帯電話のCMの「お父さん」のキャラ弁

f:id:D_Amon:20080409121631j:image

カミさんのキャラ弁。今回は携帯電話のCMの「お父さん」

クレヨンしんちゃんのシロのキャラ弁 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかでのid:t-hirosakaさんのリクエストに応えての作製。

作る際の資料に困ったそうです。「お父さん」の資料になるものを貰いにソフトバンクまで行ってきたとのこと。

何でも、作るのが簡単なプレゼントの「お父さん」時計にしようかという考えがよぎったそうです。

2008-04-08

[]「勝敗」自体がどうでもいい

事態は進行中なのに「敗北宣言」だってさ。 - 想像力はベッドルームと路上からに対するお返事。

  • 左派の失策」という「現時点での敗北」を前提にしておいて何を言っているのでしょうね。将来的に巻き返せるかどうかなんて私の批判には関係ありません。
  • 「左派の失策」という前提自体があやふやなものということはdeadletter氏が指摘済み。no title
  • 「正しさ」と「支持」は別問題。勝手に混ぜないでください。「言いがかり」に対しては「正しさ」の証を立てることが必要。それに「支持」を絡めて「運動における勝敗」に論点をすりかえているから詭弁と批判しているのです。きちんと読むように。
  • そもそも右派だの左派だのというのに違和感。チベット問題は深刻な自由と人権の問題であり、左右の政治対立における勝敗の問題ではありません。チベットの人々が救われるのであれば右派が「勝利」することになっても私は構いません。むしろ、まともに活動してくれるのであれば右派を支援しても構わないと思っています。
  • 結局、身勝手な待望論。
  • 督戦隊は気楽ですね。
  • ノリで人を動かそうとする(ように見える)言葉使いが激しく気持ち悪いです。相手に読む気を無くさせる戦術であるのならば構いませんが。

2008-04-06

[]当事者なのに当事者として行動しない人の存在は腹立たしいが仕方がない

id:mojimoji氏の下記コメントに対する私なりの回答です。

僕の記事が、D_Amonさんへの批判になっているかどうかは、そうなりえる、という認識を持っていることを表明しておきます。D_Amonさんの中には、観客席を容認していると読めるところと、それに反発しているところの、両方があるように見えますから。だから、僕の記事ではリンクを明示していません。後はD_Amonさんが整理して考えることだと思いますので。

私自身は「観客席」という言葉で表現されるものを不快に思っていますが、それを求める人がいるのは仕方がないと思っています。

例えば労働問題。

御用組合ではない労働組合のある職場で労働問題の当事者である労働者でありながら労働組合に加入しない人がいます。

労働組合に加入している私から見れば、そういう人の存在は腹立たしいわけです。そういう人は組合費と組合活動という負担を負わずに、組合活動により獲得した労働条件の改善を享受できるわけですから。

加入しないだけならまだしも、「観客席」目線*1でわざわざ組合活動自体をバカにしにくる人もいるので尚更腹立たしい。

職場環境的に必然として発生した事故の責任を追求されて起訴された労働者の支援と裁判費用の工面とか、理不尽な解雇や転勤や配置換えの撤回とか、組合は色々労働者のための活動をしているというのに。

あまりに腹立たしいので、非組*2の人が、いざそういうことの当事者となってから庇護を求めて組合に入ってきたときとか、「未加入だった時期も含めて組合費を支払え」と言いたくなります。言いませんけど。組合の目的は労働者の保護と待遇改善であり、組合費は活動のための手段ですから。

その一方で組合に入りたくない気持ちも分からないでもないのです。私自身、組合費と組合活動の負担を重荷に思いましたから*3。労働問題において労働組合はそういう負担があるという必然的でどうしようもない戦略的な不利を抱えているわけです。

それでも、そういう重荷を背負うのは「自分」を救うために必要と思ってればこそなんですね。「自分」を救いたいという欲求があり、その欲求が労働組合加入による負担感を上回っているからこそ負担に納得できるわけです。

そのような自分が労働組合に加入している理由を考えれば、そうでない人が加入しないのは仕方がないと思うのです。

人は基本的に楽な方に流れる生き物。やらないことを正当化してくれる言葉、当事者である責任を他者に転嫁してくれる言葉、当事者でありながら当事者意識を持たないで済む言葉、面倒なことを他人任せにすることを正当化してくれる言葉に弱い人がいるのは当然のこと。

現実が変わることを望む一方で、その当事者として行動する負担をしたくない人がいるのも当然。当事者として行動することを求める言葉に対して拒否反応を示す人がいるのも当然。仕方がないことなのです。当事者として行動すること自体を非難する人もいるくらいです。*4

そして、現実が変わることを望む一方で、その当事者として行動する負担をしたくない人がいる以上、当事者として自ら為さなければならないことを代わりにやってくれる「メシア」が登場することを願う人がいるのも当然。

左派に期待している人」とは何かといえば、当事者として自ら為さなければならないことを誰かが代わりにやってくれることを期待している人であり、この場合は左派に「メシア」として振舞うことを求めている人なわけです。

当事者であり当事者として自らが為すべきことを為す人は、左派がどうのこうのとは関係なく行動するわけで「観客席」になんかいません。

「観客席」にいるのは当事者でありながら当事者として行動せず、自らが為さなければならないことを誰かに代わりにやってもらいたがっている人です。

そういう人は当事者でありながら最初から運動の外にいる人です。その位置は外から運動を嗾けたりバカにしたりするだけという楽な場所だけに魅力的であり、そういう人はその気楽な場所から動きたがりません。いや、「観客席」という気楽な場所にいることを後ろめたく思っている場合、「観客席」にいる自らを正当化するために、尚更、運動の価値を認めている振りをして運動を嗾けたり、逆に運動の価値を認めずにバカにしたりするのです。*5

そのようにして、労働者当事者であるにも関わらず「自分」を救うための活動であることが明確な組合活動ですら加入せず「観客席」に留まる人がいる状況なのですから、「他者」を救うという海外の人権問題に対しては尚更「観客席」に留まりたがる人がいるのも当然と思うのです。

イラクでの邦人人質事件で有名になった高遠菜穂子氏はイラクで人道支援活動をしていたわけですが、彼女に対する様々な非難の中には「海外の人を救うより同胞である国内の人を救え」というようなものもありました。それは海外の人権問題に取り組む人権団体にしばしば浴びせられる言葉でもあるわけです。

そういうことを言う人にとって海外の人権問題は「自分」のことではないのです。

そのように海外の人権問題を「自分」のことと思わない人には、そもそも海外の人権問題に対して当事者意識を持ってもらうことが無理。当事者意識の無い人に当事者として行動してもらうのも無理。

であるならば、国内の労働運動以上に「観客席」に留まる人がいるのも(腹立たしいことではありますが)仕方がないことと思うのです。

*1:「フィールド」の中にいる労働者なのに!

*2:労働組合に加入していない人のこと

*3:特に給与が少なかった新人の頃

*4404 Not Found | このページは存在しないか、すでに削除されています

*5:そういう人のメシア待望願望と当事者意識欠如に対する風刺がサヨクからのお別れの言葉 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

2008-04-04

[]論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁

今回のチベット問題に関する「左派の失策」は素直に認めてもいいんじゃないかなー。 - 想像力はベッドルームと路上からのコメント欄の続き。

だから最初からずれてるんだって。

ちゃんとエントリ読んでます?冒頭に『一応「左派」の一人として』と書いてあるの、見えませんか?

俺は「外部」から「左派の失策」だと言ってるんじゃない。「内部」から「左派の失策」だと言ってるの。

上で俺が「左派」というときは、「左派=あいつら」ではなく「左派=俺達」なんだよ。「俺達ももっと上手くできたんじゃないか?」と言ってるの。

読みましたが、それが何だというのでしょうか。

私が批判しているのはinumash氏の記事が結果として(意図的であろうとなかろうと)論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁として作用するからです。

inumash氏が左派の一人として論じるのはかまいませんが、それをもって、私の批判までもポジショントークに変換しないでください。

私にしてみれば、inumash氏の記事は方向が違うだけで下記のlovelovedog氏の記事と同然のものです。

なぜニセ科学を叩く人は一般にヘンな目で見られないで、歴史修正主義者を叩く人はヘンに見られるのか - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)

論点を正誤の問題から運動における勝敗の問題にずらし、lovelovedog氏は勝利宣言をし、inumash氏は左派の一人として敗北宣言をし、運動論についてお説教。正しいことを言っていても、支持を広げられないのは運動の仕方に問題があるからという自己責任論。そうやって引き合いに出した対象を(結果として)正誤ではなく運動における勝敗の点から貶めるわけです。

言いがかりをつけられて貶められ、それに対し正誤において正であることの証を立てる必要に迫られ、いざ、正であることの証を立てれば、今度は「勝敗において負けている」ことをもって貶められる理不尽。

私はそういう理不尽を批判しているのであり、それにinumash氏の立場は関係ありません。

以上、言いがかりに対する反論であるところの主張を引き合いに出したことに対する批判。


その一方で、広報力不足など左派の運動に対する批判もあってしかるべきだと思います。

「正しいだけでは人々の支持を得ることはできない」というのが真ならば、運動次第では「正しくなくても人々の支持を得ることはできることがある」というのも真。

運動というのは人々の支持を得る上で非常に重要なものです。

そして、その運動において人権団体の活動は非常に心もとないわけです。

私にとっての「敵を知り己を知れば」の敵にあたったその人々の運動は、その貧乏臭さと必死さあるいは引っ込み思案さが返って人を遠ざけているように見えるものでした。

正直に言って、

いつもと変わらない美声と華麗な衣装を、みんな待ってると思うよ。

なんていうのは、皮肉でなければそういう現実を知らない言葉に見えるわけです。

チベット問題は昔からあったわけですが、人権団体が支持を得られなかったのは、人々やマスメディアの無関心もさることながら、そういう運動の在りようにも原因があると思います。

そういう彼らも他者と適切な「距離」を取れれば、もっと支持を得ることができたかもしれません。

しかし、非コミュであるところの私にはそのように助言したくても他者との適切な「距離」の取りようなど伝えられる筈もありません。

そこで、inumash氏にはその職能を活かして彼らを手助けして欲しいのです。

inumash氏は左派ですから、どうせ他人事だと思って好き勝手言っているわけではないでしょう。これからの運動のために良かれと思って発言しているわけでしょう。深刻な自由と人権の問題であるところのチベット問題を、左右の政治対立における勝敗の問題としているわけでも、自己目的化した勢力拡大運動の好機としているわけでもないでしょう。自由と人権を侵害されている他者の救済を目的としているのでしょう。

なればこそ、意欲と能力を持った当事者の一員として活動を望むわけです。

というわけで、

最初に「あなたのこの問題設定・ロジックはおかしい」と言っておきながら、後半で「職能を活かしてもっとコミットしろ」ってただの皮肉だろ?もし無意識にやってるんだとしたらもっと救いようがないけどさ。

というのはコメントに論点が二つあることを明確に伝えられなかった私の文章力不足に基づく誤解だと思います。

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