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2010-09-13

[][][]労働力が不足するから労働力を輸入するのではない。労働力の再生産にコストを払う気が無いから労働力を輸入するのだ

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諸君、余だ。

今日も今日とてヘイトスピーチや史実否定といった「愛国活動」に勤しんでいる諸君。

余は諸君に感謝している。

諸君が容易く分断されることに感謝している。

諸君の境遇に対する不満が滅多なことでは企業に向かうことがないことに感謝している。

諸君が労働運動を敵視し、労働運動により救済された人々をも敵視することに感謝している。

自分より悪条件でも働くからと外国人労働者を敵視し、自分より好条件で働いているからと公務員を敵視し、共に待遇改善を勝ち取ろうとはしないことに感謝している。その際、諸君らが自らの蔑視や嫉妬といった感情に基づいた言葉に対し必死で理屈をこねる姿を見るのはまことに楽しい。

諸君がそのようにあり続ける限り、諸君の活動により諸君の生活が向上することはなく、貧困問題が解決されることもないであろう。

そういう諸君の行動を支える諸君の性質を余は素晴らしく思う。

構造的問題を個人の努力の問題に帰し、努力不足であることを示すために自らの構造的問題の乗り切りぶりを自慢げに語りだすという、いわゆる「奴隷の鎖自慢」を始める奴隷根性。

「日本を裏から支配する在日」というような虚像に怯えるゼノフォビア

自国中心の比較で外国人に後進性や野蛮性を見出し、それを見下すことで虚栄心を満たすエスノセントリズム

いやはや、実に素晴らしい。まさしく愚民というもののあるべき姿がそこにある。

そういう諸君の性質が敵愾心を煽る方向へ諸君を操作することを容易にし、分断を容易にし、もって扇動と分割統治による支配を容易にするのだ。扇動する側にとってはまったくもってありがたい性質と言わざるをえない。

そういう諸君が少子化対策のための政策に反対する姿には、もう死ぬ。笑いすぎて死ぬ。少子化による次代の国内労働者の不足が「低賃金労働者の輸入」としての移民を後押しし、それが労働者であるところの諸君をより過酷な「価格競争」に追い込み、賃下げ圧力として働くことは明らかだからだ。諸君が低賃金でも多忙でも子育てしやすい社会を構築することを拒否することが諸君自身を追い込むのだ。喜劇と言わざるをえない。

これでは、今の社会で子育てできるだけの賃金を得られず、今の賃金で子育てできるような社会を構築しようとすることもしない諸君の血が諸君の代で途絶えるのも当然のことというものであろう。

だが、心配することはない。

諸君が一代限りの使い捨ての労働力として生を終えても諸君が擁護するところの企業は困ることはないのだから。

このグローバル化の時代、消費者も労働者も国境を越えて「輸入」可能なものなのだ。

次代のために諸君に子育てできるだけの賃金を払うという自国民を再生産するためのコスト。安価な労働力としての他国民を雇用するためのコスト。これらのコストの内、後者のコストの方が低い限り「低賃金労働者の輸入」としての移民を受け入れる方が企業にとって有利となる。そうである限り、企業がそれを求めるのは当然のことであり、企業にしてみれば諸君に子育てできるだけの賃金を支払う必要もなくなるわけだ。子作りするのは将来設計せずに子作りするものか子育てを含めて将来設計できる背景を持つものというのは当然の傾向というものであろう。かくして「低賃金労働者としての自国民」は「淘汰」される。

そもそもだ。終身雇用年功序列で企業が労働者に子育てできるだけの賃金を払うことにより自国民の再生産をし国内消費をも維持していた国が、それらに代わる社会システムを構築することもなしに終身雇用と年功序列を破棄すれば、それが少子化と消費低迷を加速させるのは当然。起こるべきことが起こったにすぎない。

その上で、終身雇用と年功序列に戻ることを拒み、子育て支援のようなそれらに代わる社会システムの構築も拒むというのであれば、その結果が次代の国内労働者の不足を補うための移民受け入れになるだろうことは自然の流れというものであろう。

移民には言語の違いや文化の違いによる軋轢などの問題が伴い、それらに関する各種コストは移民を受け入れる社会全体、そして国全体が負うわけで、当然、企業も負うことになるわけだが、企業は安価な労働力という形で還元を受けられる。対して、諸君はそういう負担の上に、外国人労働者との「価格競争」にもさらされるわけだ。

もしもだ。諸君がそういう「価格競争」を拒みたいならば、諸君は、少子化対策のための政策を後押しすべきだし、低賃金労働者として使いつぶされる外国人労働者の待遇改善を唱えるべきだ。そのようにすることが、結果的に諸君に対する「価格競争」の圧力を下げることになるのだから。無論、こういうことは蔑視や嫉妬から他人の足を引っ張ることに熱心な諸君にはできないことを承知の上で言っている。

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貧困でも結婚や子育てをしやすくなるような制度作りを行うことを拒否する諸君が、貧困を理由に結婚を諦め子供を諦め孤独に老いてゆき、一代限りの安価な労働力として使い捨てられるのだとしたら、それは自業自得というものであろう。

そうではないのに、それに巻き込まれる人々についてはただただ不幸と言うしかない。


総統猫チョビ髭閣下13歳

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死んだように眠る余の寝顔。

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余の眼力は貯金箱ごときに負けはせぬ。→google:image:KATバンク おすわりクロネコ貯金箱

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人間用の椅子を占有してみせる余。

2010-09-04

[]「受諾したのは裁判でなく判決」とかいうのは日本語でしか通用しない難癖

サンフランシスコ平和条約で東京裁判を受諾したので南京大虐殺の犠牲者数は20万人〜30万人で確定ということで - 模型とかキャラ弁とか歴史とかブックマークコメントに見られるような「受諾したのは刑の執行のみ。東京裁判そのものは日本政府が全否定」というような主張に対する反論です。

サンフランシスコ平和条約(サンフランシスコ講和条約)第十一条英文におけるjudgementの訳語問題については第162回国会で議論されています。

その内容は参議院会議録情報 第162回国会 外交防衛委員会 第13号より読むことができますが、説明のために引用します。

山谷えり子君 東京裁判、そして各国で行われた戦争犯罪者を裁く裁判は、不当な事実認定もこれあり、十分な弁護権も陳述権も保障されず、罪刑法定主義を無視した、近代国家の裁判とは言えないものではなかったかと多くの国民が考えているのも事実でございます。一九九八年成立した国際刑事裁判所設立条約では、平和に対する罪と同様の犯罪を条約にまとめることができませんでした。しかし、それはそれとして、日本はこの裁判で九百九十名の方が命をささげられました。

我が国は、昭和二十六年、東京裁判、そして各国で行われた戦争犯罪者を裁く裁判を受け入れ、サンフランシスコ講和条約を締結、平和条約十一条において日本国が戦争裁判を受諾し、その意味で再審はできません。しかし、また今、様々な経緯と情報公開によって、何とか主体的再審を行えないか、歴史解釈権を取り戻して平和外交をしたいという国民の声もまたあるわけでございます。

日本は東京裁判の判決を受け入れましたが、英文の「ジャパン アクセプツ ザ ジャッジメンツ」の、法律用語ではこれは判決の意味で、フランス語スペイン語においても、この単語の意味、言語学的には裁判ではなく判決と読めるそうでございます。

日本は裁判の判決を受け入れていますが、日本側共同謀議説などの判決理由、東京裁判史観を正当なものとして受け入れたのか、また、罪刑法定主義を無視し、今日でも概念が国際的に決まらない平和に対する罪で裁かれたことを受け入れたのか、国民の間に混乱があると思いますが、分かりやすく御説明ください。

このように山谷えり子議員が質問しています。読めばわかると思いますが 日本は東京裁判史観により拘束されない « 日本会議のままと言っていいような質問です。

それに対する外務省国際法局長の林景一氏の回答がこれ。

政府参考人(林景一君) お答えいたします。

先生も今御指摘のとおり、サンフランシスコ平和条約第十一条によりまして、我が国は極東国際軍事裁判所その他各国で行われました軍事裁判につきまして、そのジャッジメントを受諾しておるわけでございます。

このジャッジメントの訳語につきまして、裁判というのが適当ではないんではないかというような御指摘かとも思いますけれども、これは裁判という訳語が正文に準ずるものとして締約国の間で承認されておりますので、これはそういうものとして受け止めるしかないかと思います。

ただ、重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。

したがって、私どもといたしましては、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが従来から一貫して申し上げていることでございます。

このように、サンフランシスコ平和条約におけるjudgementの中身には文脈上「裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれている」と解釈されているわけです。

外国語の読解にあたって重要なのは「その単語が直訳で何を意味するのか」ではなく「その単語が文脈的に何を意味するのか」であることは、本来、説明不要なことというものでしょう。

そして、サンフランシスコ平和条約におけるjudgementが何を意味しているかはこのように国会において明確に説明されているわけです。

この件についての背景事情なのですが、サンフランシスコ平和条約において東京裁判のjudgementを「判決」ではなく「裁判」と訳すのには特殊事情があります。東京裁判のjudgement(判決文)には東京裁判が正当に成立する根拠となる様々なsentence(文)が含まれていて、それを受諾するということは裁判の正当性を認めることに他ならない構造になっています。このことからjudgementを受諾することは文脈的に裁判を受諾することになるわけです。外務省の訳はサンフランシスコ平和条約第十一条の条文だけでなく、そういう東京裁判のjudgementの文脈をくんだ訳であり、国会での答弁は、東京裁判のjudgementのそういう中身を簡略に説明したものなわけです。

フランス語やスペイン語における訳語に対する指摘にしても「その単語が文脈的に何を意味するのか」が重要なのは同じ。

もちろん言語により選択される文法や単語は異なるわけですが、フランス語で「Le Japon accepte les jugements prononc s par 〜」つまり「日本国は〜によって言い渡されたjugements(judgements)を受諾」というように表現しようが、スペイン語で「El Jap n acepta las sentencias 〜」つまり「日本国は〜のsentencias(sentences)を受諾」というように表現しようが、judgementなりsentenceなりが文脈的に何を意味するのかが大事なわけです。

「judgementを言い渡す」のjudgementは普通「判決」と訳すでしょうし、sentenceの訳語を「判決」や「刑罰」にする場合もあるでしょう。それは「その単語が直訳で何を意味するのか」という指摘としては正しいですが、文脈から単語の意味を読みとる外国語の読解においては無意味な指摘なわけです。こういうのは「事実をならべて嘘をつく」の一種というものでしょうね。



以上のことからno titleでの

m-matsuoka これはひどい, 歴史, 外交, 政治 受諾したのは刑の執行のみ。東京裁判そのものは日本政府が全否定。戦犯の罪状も抹消され、他国からの抗議も無い。つまり東京裁判であったとされた南京虐殺も無くなったということ。 2010/09/03

というid:m-matsuokaさんの発言も、

a1101501j 頭がわるい, 歴史修正主義 平和条約の解釈に関しては連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで講和成立後も東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはないとILA・国際法協会が結論を出している(http://is.gd/eTdZf) 2010/09/03

というid:a1101501jさんの発言も、no titleでの

munyuu これはひどい, はてサ, 歴史, ブサヨク http://bit.ly/cOJFPf 受諾したのは刑の執行。東京裁判はナチズムの発露として米国は反省し、日本は国会決議で東京裁判そのものを全面否定している。id:D_Amonのように他人を能力に劣るからと罵るのはナチズムだね。 2010/09/02

というid:munyuuさんの発言も間違いです。日本国が受諾したのは刑の執行のみではないことも、東京裁判そのものを全面否定しているわけではないことも、国会での答弁から明らかだからです。

追記(2014/03/17)

この記事には当時の私の事実誤認が含まれています。

これについてはより厳密な記事を書きましたので

「サンフランシスコ平和条約で受諾したのは極東国際軍事裁判所の裁判ではなく判決」というのは文脈無視での俗流解釈による嘘 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

をご参照ください。

2010-09-02

[]サンフランシスコ平和条約東京裁判を受諾したので南京大虐殺犠牲者数は20万人〜30万人で確定ということで

第十一条

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている物を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

というようにサンフランシスコ平和条約(サンフランシスコ講和条約)にあることですし。

ちなみに東京裁判(極東国際軍事裁判)での南京大虐殺の犠牲者数推計値は26万人*1で、20万人というのはそれを丸めた値で、洋書では犠牲者数は20万人から30万人として紹介されていたりします。豆知識。

いや、私自身は犠牲者数は学問的手順によって定められるべきと思うのですけどね。

では、なぜこういうことを書いたかといえば以下のid:mononoさんのブックマークコメントがひっかかったから。

monono 歴史 どう解釈するのが一番"得"か、が大事では|いくら謝罪しても、とか言う時点で成長してないよね。謝罪が済むわけないんだから、条約で片をつけるんだろうに。永劫の謝罪と反省、はWW1後のドイツと同じで追い込むだけ。 2010/09/01

no title

「条約で片をつける」なら南京事件否定論をぶつような政治家は条約違反ということで。いやいや、歴史的事実の事実判断の問題を条約で片付けてしまっていいのですか?

「永劫の謝罪と反省、はWW1後のドイツと同じで追い込むだけ」というのもおかしいと思います。WW1後のドイツについては、講和条約による賠償金負担がドイツにとって重すぎたことによるドイツ国民の窮乏(とフランス差し押さえ軍事行動などに対する反発)がナチス台頭の原因に挙げられることがありますが、つまり、それは条約で片をつけた結果ですよね。永劫の謝罪と反省が求められたからそうなったわけではないですよね。

WW2後のドイツがそういうように追い込まれているかといれば、そうではないのも反証になりますよね。

というように色々と違和感を感じるんです。何か変な風説の影響でも受けているのではないかと思いますので、考えなおしていただければなあなんて思います。


パリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)と満州事変 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかに対して、

m-matsuoka これはひどい, 歴史, 軍事 「俺様解釈が一番凄い!」と喚くだけの人でしたか。くわばらくわばら。 2010/09/01

http://megalodon.jp/2010-0901-2106-23/b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/D_Amon/20100901/p1

と書いたid:m-matsuokaさんに関してはもうしょうがないと思っています。ああ、そういう人なんだなということで。


今日は9月2日ということで、no title絡みで連合国では降伏文書調印日である9月2日を対日戦勝記念日(終戦記念日)としているのが普通で、国民向けの降服発表日なだけの8月15日を終戦記念日としている日本の方が普通ではないという話をしようと思ったのですが、なんか既に色々な人が書いているようなので中止。

2010-09-01

[][]パリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)と満州事変

この記事は日中戦争を中国による日本侵略だと言う人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで取り上げたような「日中戦争中国による日本への侵略戦争だ。なぜならそれは中国の先制攻撃であり、ゆえにパリ不戦条約で定義された侵略戦争にあたるからだ」というような主張に対する反論記事です。

パリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)

パリ条約、パリ不戦条約とも呼ばれるケロッグ‐ブリアン条約に関する百科事典での記述は以下のリンクから読むことができます。


no title


この記述は短くもよくまとまった解説だとは思うのですが、この記事の題材的には説明が不足しています。そこで、Answers - The Most Trusted Place for Answering Life’s Questionsに掲載されている外国の百科事典でのパリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)に関する記述の内、二つを翻訳してみました。


まずはUS History Encyclopedia(合衆国歴史百科事典)の場合。

Kellogg-Briand Pact (also called the Pact of Paris), signed 27 August 1928 by 15 nations, reflected the movement to outlaw war to prevent a recurrence of the carnage of World War I. French foreign minister Aristide Briand initially proposed a bilateral treaty renouncing war as a method of settling disputes between France and the United States and drawing the United States into its defensive system against Germany. U.S. support for the pact came from both ends of the political spectrum. Interventionists thought it would lead to U.S. acceptance of the League of Nations; isolationists and peace groups hoped it would end war. Charles Lindbergh's successful solo crossing of the Atlantic and subsequent landing in Paris in May 1927 also helped boost Briand's efforts. Secretary of State Frank Kellogg, fearful that signing the treaty could drag the United States into a European war on the side of France, expanded the proposed agreement to a multilateral treaty renouncing war. Briand had no choice but to accept the pact, which was moral in tone but lacked force and did not bind America to any European treaty system. Subsequently, when Japan seized Manchuria in 1931, when Italy took over Ethiopia in 1935, and later when Germany began its expansion in the late 1930s, the Pact was exposed as the toothless treaty it had been all along.


1928年8月27日に15カ国が署名したケロッグ‐ブリアン条約(パリ条約とも呼ばれる)は第一次世界大戦の惨禍の再現を防ぐための戦争を違法化するための運動が反映されたものです。フランスアリスタイド・ブリアン外相は、当初、フランスとアメリカ合衆国の間の論争を解決し、アメリカ合衆国をドイツに対しての防御システムに引き込む方法として米仏二国間不戦条約を申し出ました。米国は両端な政治的思想からその条約を支援しました。干渉主義者はそれが国際連盟加盟へ米国を導くだろうと考えました。孤立主義者と平和主義者はそれが戦争をなくすだろうと期待しました。1927年5月のチャールズ・リンドバーグによる大西洋単独横断飛行成功と続けてのパリへの着陸もまた条約締結の進展に役立ちました。条約に調印することがアメリカ合衆国をフランスに味方してのヨーロッパでの戦争に引きずり込むことになるのではと心配していたフランク・ケロッグ国務長官は提案された協定を戦争放棄多国間条約に拡大しました。ブリアンは、正しく道徳的ではあるものの、強制力を欠きアメリカを少しもヨーロッパの条約制度に拘束しないその条約を受け入れるほかありませんでした。その後、日本が1931年満州を制圧したとき、イタリア1935年エチオピアを支配したとき、ドイツが1930年代後期に領土拡大を開始したとき、この条約はまったくもって無力な条約であることを暴露しました。

「翼よ。あれが巴里の灯だ」がそういう働きをしていたのかという話はさておき、満州事変の扱いに注目。明らかに戦争をなくすための戦争違法化条約が戦争をなくすのに役立たなかった事例として扱われています。


次にLaw Encyclopedia(法律百科事典)の場合。

Kellogg-Briand Pact
ケロッグ‐ブリアン条約

The Kellogg-Briand Pact, also known as the Pact of Paris, was a treaty that attempted to outlaw war (46 Stat. 2343, T.S. No. 796, 94 L.N.T.S. 57). The treaty was drafted by France and the United States, and on August 27, 1928, was signed by fifteen nations. By 1933 sixty-five nations had pledged to observe its provisions.

パリ条約としても知られるケロッグ‐ブリアン条約は、戦争を違法化しようとした条約でした。(46 Stat. 2343、T.S. No.796、94 L.N.T.S. 57)この条約はフランスとアメリカ合衆国によって起草されて、1928年8月27日に15の国によって調印されました。1933年までに、65の国がその条項を守ると誓いました。


Kellogg-Briand contained no sanctions against countries that might breach its provisions. Instead, the treaty was based on the hope that diplomacy and the weight of world opinion would be powerful enough to prevent nations from resorting to the use of force. This soon proved to be a false hope; though Germany, Italy, and Japan were all signatories, the treaty did not prevent them from committing aggressions that led to World War II.

ケロッグ‐ブリアン条約は、その条項を破ろうとする国に対する制裁を含みませんでした。その代わり、この条約は外交と世界的世論の重圧が、国家が実力行使に訴えることを防ぐのに十分に強力だろうということを頼みにしていました。これはすぐに空頼みであると判明しました。ドイツ、イタリア、日本は全て条約加盟国でしたが、この条約はそれらの国が後に第二次世界大戦に至る侵略を行うのを防ぎませんでした。


The origin of the Kellogg-Briand Pact was a message that the French foreign minister, Aristide Briand, addressed to the citizens of the United States on April 6, 1927, the tenth anniversary of the United States' entrance into World War I. In this message Briand announced France's willingness to join the United States in an agreement mutually outlawing war. Such an agreement, Briand stated, would "greatly contribute in the eyes of the world to enlarge and fortify the foundation on which the international policy of peace is being erected." Briand's overture to the United States was part of a larger campaign that France was waging to form strategic alliances that would improve its national security. In addition, Briand was influenced by recent conversations with Nicholas Murray Butler and James Thomson Shotwell, U.S. academics who were leaders in the burgeoning U.S. political movement to outlaw war, also known as the outlawry movement.

ケロッグ‐ブリアン条約の原型はフランスの外務相であるアリスタイド・ブリアンが、アメリカ合衆国第一次世界大戦参戦10周年の記念日である1927年4月6日に、アメリカ合衆国国民に演説した声明でした。この声明でブリアンは、互いに戦争を違法化する協定にアメリカ合衆国が加わることをフランスが欲していることを宣言しました。そのような協定は「世界的見地で国際的な平和政策が制定される基盤を拡大し強化することに大いに寄与する」だろうとブリアンは述べました。アメリカ合衆国へのブリアンの予備交渉は、フランスが自国の国家安全保障を改善する戦略的同盟を組織するために行っていた、より大きな運動の一部でした。その上、ブリアンは、「違法化運動」としても知られる、戦争を違法化するための米国での政治運動の芽生えの先導者であった米国の学者であるニコラス・マレイ・バトラーとジェームス・トムソン・ショトウェルとの最近の対談に影響されていました。

Initially, Briand's offer generated little reaction in the United States. The U.S. State Department made no response, apparently considering Briand's statement to be simply an expression of friendship. Not until certain leaders in the peace movement, notably Butler, began to generate widespread public support for Briand's proposal did the government become involved. But by the middle of June 1927, France and the United States had begun diplomatic conversations aimed at reaching the sort of agreement Briand had proposed in his address.

最初の内は、アメリカ合衆国ではブリアンの提案への反応は殆どありませんでした。米国務省は、どうやらブリアンの声明が単なる友情の表現と考えたのか、応答しませんでした。著名な平和運動の先導者たち、特にバトラー、がブリアンの提案に対する広範囲にわたる公の支援をやり始めるまで政府は関わってきませんでした。しかし、1927年6月の中頃までには、フランスとアメリカ合衆国は、ブリアンが演説において提案した種類の協定への到達を目的とする外交的会談を開始しました。


On June 20 the State Department received the Draft Pact of Perpetual Friendship between France and the United States, written by Briand and transmitted through the U.S. ambassador in Paris. The draft contained just two articles: the first declared that France and the United States renounced war "as an instrument of their national policy towards each other," and the second declared that all conflicts between the two nations would be settled only by "pacific means." Secretary of State Frank B. Kellogg and other officials in the U.S. State Department were uncomfortable about entering into such an agreement with France alone, fearing that it would amount to an indirect alliance that would deprive the United States of the freedom to act if France were to go to war with another country. Instead, U.S. officials preferred to expand the agreement into a multilateral treaty involving all the world powers except Russia. On December 28, therefore, Kellogg told Briand that the United States was prepared to enter into negotiations with France to construct a treaty that would condemn war and renounce it as an instrument of national policy; when concluded, the treaty would be open to signature by all nations.

6月20日、国務省は、ブリアンによって書かれ、パリの米国大使を通して送られた、米仏永久友好条約草案を受け取りました。その草案はちょうど二つの条文を含んでいました。第一条、フランスとアメリカ合衆国は「相互に国家の政策の手段としての」戦争を放棄することを宣言する。第二条、全ての二国間の衝突は「平和的手段」のみで解決することを宣言する。フランク・B・ケロッグ国務長官と他の米国務省高官たちは、その協定はもしフランスが別の国と戦争になった場合、米国の行動の自由を奪うだろう間接的同盟になるだろうという恐れから、フランスだけとそのような協定を結ぶことに不安でした。その代わり、米国の高官たちはロシア以外の全ての国が参加する多国間条約に拡大することを主張しました。12月28日、かくして、ケロッグはブリアンに、米国はフランスとともに、戦争を禁止し国家の政策の手段としての戦争を放棄する条約、それも完成した際には全ての国によって調印されるように開かれた条約、を構築するための交渉を始める用意ができていると話しました。


France accepted the United States' offer, and treaty negotiations began in January 1928. By early April the four other Great Powers ― Germany, Great Britain, Italy, and Japan ― were invited to enter the discussions. Soon after, the invitation was extended to Belgium; Czechoslovakia; Poland; India; and the five British dominions, Australia, Canada, Irish Free State, New Zealand, and South Africa. Several of the parties wanted specific conditions and reservations included in the treaty. These issues were resolved, and on August 27, 1928, diplomats from the fifteen countries met in Paris to sign the treaty. By 1933 fifty additional countries had agreed to observe the treaty's provisions.

フランスは米国の申し出を受け入れました。そして、条約交渉は1928年1月から始まりました。4月初めには、4つの他の列強-ドイツ、イギリス、イタリア、日本-が議論に加わるように招待されました。まもなく、その招待はベルギーチェコスロバキアポーランドインド、そして、オーストラリアカナダアイルランドニュージーランド南アフリカといった五つの英国の領国にまで広げられました。それらの国のいくつかは条約に特定の条件条項と制限が含まれることを望みました。これらの問題は解決され、1928年8月27日、15カ国の外交官が条約に調印するためにパリに集まりました。1933年までには、さらに50カ国が条約の条項を守ることに同意しました。


The final text of the Kellogg-Briand Pact, like the original draft, was extremely simple and contained just two principal articles. The first stated that the contracting parties "condemn[ed] recourse to war for the solution of international controversies, and renounce[d] it as an instrument of national policy in their relations with one another." In the second the parties agreed that "the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise between them, shall never be sought except by pacific means." The treaty therefore outlawed war entirely, providing no exceptions to this general prohibition. The parties, however, generally recognized that war would be permissible in the case of self-defense; several signatories, including the United States, had submitted diplomatic notes prior to the treaty's ratification indicating their understanding that wars entered into in self-defense would be lawful.

ケロッグ‐ブリアン条約の最終的な文面には、当初の草案のような、とても単純で、ちょうど二つの主要な条文を含んでいました。第一条は、締約国は「国際的な異論の解決手段として戦争に頼ることを禁止し各自の相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄すること」を述べていました。第二条は、締約国は「相互間で起こるかもしれない全ての論争または衝突は、いかなる性質だろうといかなる原因だろうと、平和的手段以外の方法での処理または解決を決して求めないこと」を約定しました。この条約は、かくして、戦争の全面的禁止に例外を規定することなく、完全に戦争を違法化しました。しかしながら、締約国は自衛の場合の戦争は許容されると一般に認めました。アメリカ合衆国を含むいくつかの調印国は自衛の場合に開始された戦争は合法であると了解していることを示す外交証明書を条約の批准前に提出しました。


When it was signed, the Kellogg-Briand Pact was considered a tremendous milestone in the effort to advance the cause of international peace. In 1929 Kellogg received the Nobel Peace Prize for his work on the treaty. Events soon showed, however, that the pact did not prevent or limit war between the nations. The primary problem was that the treaty provided for no means of enforcement or sanctions against parties who violated its provisions. In addition, it did not address the issues of what constituted self-defense and when self-defense could lawfully be claimed. Because of these large loopholes, the Kellogg-Briand Pact was ultimately an ineffective method for achieving the ambitious and idealistic goal of outlawing war.

この条約が調印されたとき、ケロッグ‐ブリアン条約は国際平和運動を促進させる作用において非常に素晴らしい出来事とみなされました。1929年、ケロッグはこの条約における彼の業績によりノーベル平和賞を受賞しました。しかしながら、複数の出来事がこの条約は国家間の戦争を防ぎも制限もしないことをすぐに示しました。主要な問題は、この条約の条項に違反した締約国に対する強制の手段も制裁も規定しなかったということでした。そのうえ、この条約は、何が自衛を構成するのか、いつ自衛を合法的に要求することができるのかという問題を解決しようとはしませんでした。これらの大きな抜け穴のため、ケロッグ‐ブリアン条約は、最終的には戦争を違法化するという野心的で理想主義的な目標を達成するのに効果のない方法でした。

最初の内のブリアンのスルーされっぷりが憐れをさそうなあ。外交って難しいね。というような話はさておき、日本の扱いとパリ不戦条約の実態に注目。

不戦条約締約以降で第二次世界大戦勃発以前の日本のある行為、文脈的には日本の中国での行為、は侵略(aggression)として扱われていますし、パリ不戦条約は侵略を明確に定義するどころか、何をもって自衛となるのかということすら明確に定義していない条約なわけです。


こういう条約の成立経緯とその解釈のされ方を踏まえた上で、条約の条文を見てみましょう。

まずは英語版から。

ARTICLE I

第一条

The High Contracting Parties solemly declare in the names of their respective peoples that they condemn recourse to war for the solution of international controversies, and renounce it, as an instrument of national policy in their relations with one another.

締約国は、国際的な異論の解決手段として戦争に頼ることを禁止し、各国の相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各国の人民の名において厳粛に宣言する。


ARTICLE II

第二条

The High Contracting Parties agree that the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise among them, shall never be sought except by pacific means.

締約国は、相互間で起こるかもしれない全ての論争または衝突は、いかなる性質だろうといかなる原因だろうと、平和的手段以外の方法での処理または解決を決して求めないことを約定する。


ARTICLE III

第三条

The present Treaty shall be ratified by the High Contracting Parties named in the Preamble in accordance with their respective constitutional requirements, and shall take effect as between them as soon as all their several instruments of ratification shall have been deposited at Washington.

本条約は前文に国名のある締約国により各国の憲法上の要件に従って批准される義務があり、各国の批准書がワシントン寄託されてすぐに締約国間で発効される義務がある。

Page Not Found | Yale Universityより引用。翻訳は引用者による。


次は旧字旧かなの日本語版。

第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス

第一条 締約国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非とし、かつ、その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す


第二條 締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス

第二条 締約国は相互間に起ることあるべき一切の紛争又は紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段によるのほか、これが処理または解決を求めざることを約す


第三條 本條約ハ前文ニ掲ケラルル締約國ニ依リ其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ從ヒ批准セラルヘク且各國ノ批准書カ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約國間ニ實施セラルヘシ

第三条 本条約は前文に掲げらるる締約国によりその各自の憲法上の要件に従い批准せらるべく、かつ、各国の批准書が総て「ワシントン」において寄託せられたる後、ただちに締約国間に実施せらるべし

no titleより引用。新字新かなは引用者による。


英語版と日本語版のいずれにしても、読めばわかるとおり、戦争放棄の条約であることは明確に記述されていますが、侵略(aggression)の定義などどこにも書かれてはいません。

百科事典の記述から明らかなように、パリ不戦条約は戦争放棄の条約であり、しかしながら自衛権は否定しないと解釈されていることから、自衛戦争以外の全ての戦争を違法化した条約であるわけです。そして、その自衛すら明確に定義されることがなかったゆえに、結局、戦争を防止するような効果を持ちえませんでした。

しかし、まったく意味がなかったわけではありません。この条約は「平和に対する罪」の概念のもとになったのですから。


Kellogg-Briand Pact
ケロッグ‐ブリアン条約

The Kellogg-Briand Pact, also known as the Pact of Paris after the city where it was signed on August 27, 1928, was an international treaty "providing for the renunciation of war as an instrument of national policy." It failed in its purpose but was significant for later developments in international law. It was named after the American secretary of state Frank B. Kellogg and French foreign minister Aristide Briand, who drafted the pact.

ケロッグ‐ブリアン条約(その条約が1928年8月27日に調印された都市からパリ条約としても知られる)は「国家の政策の手段としての戦争の放棄を定めた」国際条約でした。この条約はその目的には失敗しましたが、国際法の後の発展に重大な意義がありました。この条約はアメリカのフランク・B・ケロッグ国務長官とこの条約を立案したフランスのアリスタイド・ブリアン外務相の名をとって名づけられました。


In its original form, the Pact of Paris was a renunciation of war between France and the United States. However, Frank B. Kellogg, then U.S. Secretary of State, wanted to avoid any involvement in another European war; Kellogg thus responded with a proposal for a multilateral pact against war open for all nations to become signatories. The Pact failed to prevent World War II but it did introduce into international law the notion of crime against peace and it was for committing this crime that the Nuremberg Tribunal sentenced a number of persons responsible for starting World War II. The ideal of ending war informed the Charter of the United Nations, and is in theory binding on all member states. The weakness of the Pact was that it made no provision for policing conformity, and did not take account of the fact that nations will act in what they perceive to be their best interests even if this means justifying war, despite the Pact.

パリ条約は、その原型において、フランスとアメリカ合衆国の間の戦争放棄でした。しかしながら、米国の国務長官であったフランク・B・ケロッグは、他のヨーロッパでの戦争へのどのような関与をも避けたかったので、全ての国が署名者となるような開かれた多国間不戦条約の提案で返答しました。この条約は第二次世界大戦を防ぐことはできませんでしたが、平和に対する罪の概念を国際法にもたらし、この罪を犯したとしてニュルンベルク裁判では第二次世界大戦開戦に責任がある人々が裁かれました。戦争をなくそうという理念国連憲章に受け継がれ、理論的には全ての加盟国がその義務を負っています。この条約の弱点は、「抜け目ない順応」への用意が無く、国々が各自の最大の利益になることをつかみ取るように行動するだろうこと、まさに、これはこの条約があろうと戦争を正当化しようとすることを意味する、という事実を考慮しなかったことです。

Kellogg-Briand Pact - New World Encyclopediaより冒頭一部を引用。翻訳は引用者による。


というわけで、ここまで書けば「日中戦争は中国による日本への侵略戦争」云々という主張はまったく成り立たないということは明らかなのではと思います。パリ不戦条約は侵略を明確に定義するなんてことはしていませんし、満州事変は当時からパリ不戦条約違反として扱われていたのですから。

「戦争」と「侵略戦争」の違いについて -「戦争」と「侵略戦争」は違う- 歴史学 | 教えて!gooで満州事変や第一次上海事変の名が上がっていたことから、この記事では満州事変を日中戦争の起点として扱いましたが、通常そうするように日中戦争の起点を盧溝橋事件とする場合でも、暴支膺懲(「乱暴な中国を懲らしめてやる」ということ)のどこが「conflict(衝突、紛争。条文での訳は紛議)の平和的手段による処理または解決」なのかということになるというものでしょう。

結局のところ、この手の主張は条約に対しその歴史的経緯を無視して条文を独自解釈することによる捻じ曲げでしかありません。

満州事変の影響

ここからは満州事変に対する個人的意見なのですが、満州事変とその後の傀儡政権の樹立は本当にどうしようもない悪影響を日本にもたらしたと私は思います。

その中でも特に大きいと思うのが以下の二点。

  • 各国との関係悪化の始まり
  • 日本軍における無法な独走の常習化

以下、簡単にどうしてそう思うかを説明します。

各国との関係悪化の始まり

満州事変当時の時代背景というと、中国大陸軍閥が割拠していた時代であり、日本も含む列強国がその中国大陸での権益を狙っていた時代であり、その権益をめぐっての衝突を避けるために九カ国条約を結んでいた時代だったわけです。平たく言うと抜け駆け禁止を互いに約束していたわけですね。

で、そういうように約束していたにも関わらず日本は満州事変とその後の傀儡政権樹立で満州を事実上の植民地にしてしまいました。

それは非難されるのも当然なわけで、各国との関係が悪化するのも当然なわけです。

九カ国条約違反にパリ不戦条約違反というように、日本のその行動は当時の価値観から見ても無法な振る舞いでした。満州の状況を調べるために派遣されたリットン調査団の国際連盟に対する報告書でも満州事変は不戦条約違反とされ、満州の自治政府化が提案されました。国際連盟ではそれがほぼ満場一致で採択されました。シャム(タイ)のみが棄権し、反対は日本だけでした。当時、日本は国際連盟の常任理事国だったわけですが、その日本代表松岡洋右はこの結果に対して延々二時間演説した後に退席し、日本は国際連盟を脱退してしまいました。

日本が満州の経営において権益独占のために外国企業の参入を制限したのも各国との関係悪化に拍車をかけました。

このような中国大陸における日本側の様々な行動による諸外国との関係悪化は日米関係も例外ではなくハル・ノート太平洋戦争にまで尾をひいていくことになるわけです。

本当、ろくでもないですよね。

日本軍における無法な独走の常習化

満州事変が満鉄爆破事件という日本陸軍関東軍自作自演の謀略で始まったことは有名なことですが、その謀略抜きでも、関東軍の行いは当時の価値観でも条約違反でした。おまけにそのような軍事行動は当時の日本では天皇の命令(統帥)無しに実行してはいけないものであり、首謀者は軍法会議に処されてもおかしくないものでした。にもかかわらず、日本政府はそれを追認し実行者を処分することもしませんでした。この時点でこの件に関する国家責任の発生は避けえないことというものでしょう。

そして、このことは日本において「功績さえ立ててしまえば罪は問われない」という既成事実をも作ってしまいました。日本は現地軍の将校が功績を求めて勝手に戦争を拡大させるのを止めることができなくなってしまったわけです。

例えば、満州事変の首謀者の一人であった石原莞爾は、(盧溝橋事件以降の)日中戦争不拡大派でしたが、その自らの行為ゆえに日中戦争の拡大を止めたくとも止められませんでした。

結果として数々の戦争犯罪をもひき起こした亡国の戦争の背景には日本国の「監督責任の放棄」があり、満州事変に対し実行者の責任を問わなかったことが後々まで尾をひいているわけです。

本当、ろくでもないですよね。

日本を「信用できない無法者国家」としたのは日本自身。当時の日本軍の行為に対し、軍が勝手にやったこととして国家責任を免れることはできないのは当然と私は思います。

満州事変までは良かった?御冗談を

満州事変以降の大日本帝国の行いを振り返ると、王道楽土にしても五族協和にしても結局はそういう理念で動く人々を騙して動員するための嘘っぱちだったではないか、というようにふつふつと怒りがわいてくるのですが、そういうことはさておき、満州事変はかつての日本の転落へのループの起点だったと私は思います。

どういうループかというと、こういうループ。


無法な国外進出→国際的孤立軍事力整備目標上昇による資源浪費と経済制裁による資源減少と戦争による損耗(と破壊活動による資源不達)→資源不足→資源不足補填の必要性→(資源を求めての)無法な国外進出


無法な国外進出が国際的孤立を招き、国際的孤立から軍事力増強の必要性を増し、国力不相応な軍事力増強と軍事力行使をすることで国が貧しくなっていくということを繰り返す負のループ。

国を富ませ、その資金力で軍事力を増強するのが富国強兵とするならば、その逆を行く強兵貧国。

当時の日本は、ある一面においては、こういう負のループにはまって転がり落ちていったのだと私は思います。

その果てが国防資源を求めての南進であったり、対米開戦であったり、労働力不足を補うための中国大陸での労働者狩り(強制連行)だったりしたのだと。

これはあくまである一面においてであって、当時の日本は様々な面で負のループにはまっていたと思います。

例えば、軍事侵攻に伴う犠牲者英霊と祀りあげた結果、撤兵すべき状況なのにも関わらず「英霊に申し訳ない」と撤兵できず、ずるずると戦域を拡大し続けるしかなくなり、それに伴い英霊も増えていくという(国民を心理面で操作するための)「英霊メソッド」の陥穽にはまった結果の戦域拡大ループ。

あるいは、戦争賛美の言論と表現しか認めないように統制した結果、国民が(例えば国際連盟脱退に狂喜するような)熱狂状態となり、「政府の弱腰」に対する国民の批判を恐れて国家の選択肢が制限され、その結果の状況の悪化からさらに言論と表現を統制していくという言論統制ループ、というように。*1

援蒋ルート(連合国から中国国民党への補給路)を断つための仏印進駐など、日中戦争に勝利するために作戦上の必要性からの行動をすればするほど、政治面で対米関係が悪化していき、結果アメリカとの戦争にいたるというのも相当な悪循環というものでしょう。こういうところを見ると、対米英関係より中国侵略を優先した結果が米英との関係悪化であり太平洋戦争なんですよね。*2

で、そういうループを脱せなかったかといえば、そうではないと私は思います。

国内でいえば、経済的合理性から満州などの植民地放棄を説く石橋湛山小日本主義があったわけですし、国外でいえば、米英は日中戦争を止めるための働きかけを日中双方に行っていたわけですから。

結局のところ、石橋湛山の主張は受け入れられるどころか、言論統制に伴い石橋湛山は自由にものが言えなくなっていき、日本は米英による停戦の働きかけを受け入れるどころか、高望みし過ぎな停戦交渉を独自に行って失敗という結果だったわけですが。


しかしまあ、あれですよね。

満州事変に対する国際連盟の対応といい、仏印進駐に対する米国の経済制裁といい、真珠湾艦隊の演習による軍事的圧力といい世界は日本に対して「正しいメッセージ」を送っていたわけです。少なくとも弱腰ではなかったわけです。

にも関わらず、日本は自らの行動をエスカレートさせていってしまったと。

「間違ったメッセージ」を送って行動をエスカレートさせてしまったというのなら、まだ分からないでもないですが、このような反応をする国は歴史の例外事例であってほしいものですよね。

まあ、正しいことであろうと言われれば言われるほど被害者意識に凝り固まって反発し意固地になるのは日本に限らない人類の病理というものかもしれません。だとすれば、そういうのは克服されるべきだと私は思いますが。

日本の歴史問題において、何度謝罪してもその謝罪を無にするような言動を行うような人がいるがゆえに謝罪を繰り返さざるをえないのに、そういう状況に対して「何度謝罪すればいいんだ」と逆上するような言動を行う人を見ると、未だにそういうのを克服できていないんだなあ、なんて私は思います。

「何度謝罪すればいいんだ」と言うような人は、謝罪を無にするような言動を行うような人を批判するのが一番手っ取り早いと思うのですが、そういう合理的な振る舞いを行える人が少なそうなのもなんともはや。

まともに頭を下げることもできないなんていうのは大人の振る舞いではないと私は思うのですが、そういう社会常識を共有できそうにないところも困ったものだと思います。

頭を下げたくないという感情に負けて謝るべきことでも謝れないなんていうのはお子様な振る舞いというもの。そうではないですか?成熟した大人ならば大人としての誇りを持ちたいものですよね。


本筋には関係ないですが、「歴史に学べ」とか言う人々が本当に歴史に学ぶべきと思っているのであれば、大日本帝国の滅亡の歴史に大いに学べるはずだと私は思います。

当時の日本は軍事力行使と外交において弱腰どころか、石油や工作機械など日本の工業は米国からの輸入に依存していたにも関わらず、その米国との関係悪化も辞さない強気ぶり。

当時の日本は軍事軽視どころか、国力が圧倒的に違うアメリカ相手に互角に戦えるような軍事力の整備を試みるほどの軍事重視。*3

程度問題にしても、その大日本帝国の滅亡の歴史(と戦後の日本国の発展)を考えれば、近現代の歴史の教訓とやらは自ずと導き出されるというものではないでしょうか。*4


あと、私は、太平洋戦争時の日系人収容所など当時の米国における日系人の扱いに対して怒る一方で出自による差別を平気で行うような人間には「歴史に学べ」なんて言う資格は無いと思いますが、「歴史に学べ」とか言う人にそういう人はいませんよね?というか、この前段は不要ですね。出自による差別を行うような人間に「歴史に学べ」とか言う資格は無い。それで十分。

*1:当時の日本の選択ミスに対して「国民の反対を考えればそうするしかなかった」というような「弁解」を聞くと「誰が国民をそうしたの?」と言いたくなります。

*2:こういう負のループは日本に限らないことだと思います。例えば、「ロケット技術・核技術開発とその海外販売」などで負のループにはまっているのが今の北朝鮮だと私は思います。

*3:その名分で軍備を整備した以上、海軍にとってアメリカとの戦争を無理とは言えない状況になってしまった面もあったと言われるほど。

*4:軍事重視より国際関係重視の方が優先度が高い。国際関係重視外交を弱腰と認識する方がおかしい。などなど

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