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2013-06-24

[]安全区の外国人にも目撃されていた虐殺強姦・略奪・放火、「ドイツ外交官が見た南京事件」に見るその事件の様相

概説書レベルの知識があれば常識的なことですが、南京事件の一端は安全区(難民区)にいた外国人にも目撃されており、それに関する各種記録も南京事件の証拠の一角を成しています。

一四日、状況は急激に悪化した。戦闘兵と、猛進撃ゆえに給養不十分の部隊が城内に放たれ、赤貧の住民と無実の民衆に、これまで誰も想像だにしえなかったむごい仕打ちを加えた。かれらは難民から米を奪い、奪えるかぎりの蓄え、毛布、洋服、時計、腕輪など要するに取りあげる価値があると思われるものをすべて略奪した。躊躇しようものなら、すぐに銃剣で斬りつけられた。大勢の人がこうした蛮行の犠牲となった。

犠牲者は何千人にも達し、暴兵が難民区や込み入った家々に闖入した。前に押し入った兵士たちが残していったものを奪うのが目的だった。いまや城内には、侵入を免れ、乱暴な家捜しや略奪を受けなかった家屋はほとんどない。施錠されたドアや長持ちは、乱暴にこじ開けられ、何もかもがひっかき回され、持ち去られ、使いものにならなくなった。外国旗にたいする敬意は当時もいまもまったく見られない。ドイツ国旗も例外ではない。われわれは自分と友人の財産、さらにその雇い人を懸命な努力で、またドイツ国旗を振りかざすことでなんとか守ることができた。それもしばしば日本軍将校や兵士に脅されながらのことであった。

私自身、兵站部隊の上級将校と水道復旧交渉をしている隙に、車をガレージから持ち去られた。前輪のタイヤがはずされていたにもかかわらずである。使用人は銃剣で脅され、ドアを開け、すべてを差し出すように強要された。私の家の前には数週間にもわたって三つの死体が放置されていたため、私にはヒロイズムに訴える勇気がなかった。そんなことをすれば、こっぴどい虐待の仕返しを受けるだけであろう。

日本兵はとくに輸送手段を狙っていたようであった。自動車自転車が執拗に探し出され、そこかしこで盗難にあった。乗り物が手に入らないところでは、使用人や難民が略奪品を運ばねばならなかった。これには乳母車や手押し車、ロバ、ラバ、要するに運搬に役立つ物は何でも使われた。こうした組織的で公認下の強奪は二週間も続き、今日でも、「徴発」をこととする集団の危険から身の安全を守れる家はない。貴重品が底をつくと、かれらは家具、絨毯、ドアなどを盗んだ。ただ薪にするのが目的という場合すらあった。軍は熟練の金庫破りさえ連れていた。もっとも銃の台座や手榴弾でこじ開けられた金庫も多々あったが。

およそ五四戸のドイツ人家屋のうち、被害の軽微な家屋は一四戸にすぎなかった。四戸は全焼し、一五戸がひどい略奪にあった。実質的にはほとんど全家屋が使用不能となり、残りは何らかの略奪にあった。ドイツ人が所有する一五台の自動車は奪い去られた。

しかし最もひどい被害を受けたのは難民収容所であった。なぜなら次々に押し寄せる略奪部隊はどれも、脅しと暴力を使えばもっと多くのものを搾り取れると考えていたからである。難民は絶望の淵へ追いやられた。

南京城内とくに難民収容所の徹底捜索は、一二月一四日に始まった。脱ぎ捨てられた多数の軍服は、城内に平服をまとった大勢の兵士が潜伏していることを日本側に示唆していた。これを大義名分にして、残虐行為が容認され、無数のまったく無意味な射殺が日常業務と化した。収容所の捜索はまったく無差別で、勝手気侭に何度も繰り返された結果、わずか数日の間に、いかなる軍法会議〔軍律会議〕もなく、また市民からの一発の発砲もなかったにもかかわらず、五、六千人が射殺された。その大部分が、埋葬の手間を省くため、川岸で撃ち殺された。この数字は控えめに見積もったものである。

全市民の登録が義務づけられた今日でも、こうした選別は続いている。ただ、〔集団ではなく〕個人が狙われるようになった。日本軍の占領が始まったころ、多くの武装解除された人々、負傷兵、市役所発電所・水道局の勤労者、大勢の平和的な都市住民と農民が無意味に射殺された。その後に続くこれら何百、何千という人々の殺害は、いかなる弁解の余地も理由づけもありえない。交通部付近の道路には〔一二月〕一四日から二六日まで、数珠繋ぎに縛られ射殺された三〇人ほどのクーリーと兵士の死体が横たわっていた。山西路脇の小池には五〇体ほどの屍があった。私はある寺で二〇体はどの死体を見たし、今日も蘭蘇路の先に二〇体の死体が横たわっているのを見た。これには山中で撃たれ、ぞんざいに土で隠されたおびただしい数の死体は含まれない。

戦争捕虜がどこにもいないことは明白である。もっとも、日本軍は、連行された者の多くが八卦洲に抑留されているとか、別の場所に拘禁されているという話を信じ込ませようとしているのだが。

もうひとつのひどく気の滅入る事態は、何千人もの女性と子どもにたいする虐待と強姦である。たしかにこの種の暴力行為はどの軍隊でも起こるものである。とくに極東ではそうだ。だが馬鹿げているのは、幼い少女や小さな子どもに加えられる虐待、手足の切断など何の意味もない残虐行為である。これらすべてのことを、皇国日本の軍隊が、武士道と古来の侍の精神のもとにおこなっているのである。

〔一二月〕二八日、私は初めて車で棲霞山へ向かったとき、身が震える思いをした。南京城から離れることは厳重に禁じられていたが、食料品がどうしても必要だったため、あえて出かけ、問題なく切り抜けることができた。そのときまで私は、日本軍は、抗日運動の中心で、首都の南京だけに懲罰を下したものとばかり考えていた。だがこのとき、日本軍はここでも、さらに野放図とはいわないまでも、同じように猛り狂ったことを悟った。

中国軍は退却時に農家や村落を焼き払っていた。日本軍はこの焦土作戦をさらに徹底したやり方で続行し、すべての「中国共産兵士を殲滅せよ」をモットーに、女性と子どもを含む農民を無差別に畑のなかで射殺した。

この状況はある意味で〔一七世紀の〕三十年戦争を想起させる。二〇世紀においてはアジア民族の間でさえ起こるとは思えなかった惨状である。

安全区は、今日でもなお一般市民の大部分を受け入れている。かれらは安全区外の区域には帰ろうとしない。なぜなら、その大半は焼き払われ、日本兵がいまだに暴虐のかぎりを尽くしているからである。日本軍の呼びかけや誘いに応じて元の住まいに帰ろうとした難民は命を落としたり、日本兵のひどい暴行を受ける羽目になった。

「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」P54-57より引用。1938年1月13日付で作成者はクレーガー。

資料 ドイツ外交官の見た南京事件資料 ドイツ外交官の見た南京事件

引用文を見ればわかるように南京事件における日本兵の虐殺・強姦・略奪・放火は安全区にいた外国人にも知られていましたし、居住していた外国人自身が日本兵による略奪と放火の被害者にもなっていました。

捕虜虐殺も農村における皆殺しも知られていました。

また、これを読めば当時でも軍法会議無しでの処刑が問題視されていたことも、当時でも南京事件における日本兵の振る舞いは野蛮なものであったことも、日本軍は治安の回復者であるどころか治安の破壊者であったことも明らかでしょう。

つまり、「日本軍の暴行を目撃した外国人はいない」(実際は目撃した外国人はいる)とか「日本軍が治安を回復したからこそ(安全区の)人口が増えた」(実際は日本兵の非道な行いゆえに安全区に逃げ込んでくる人が増えた)とかいった南京事件否定論というものは基本的に嘘ばっかりで構成されているということです。

歴史修正主義は概ね嘘吐きとその嘘を鵜呑みにして受け売りする人に支えられています。

鵜呑み受け売り系歴史修正主義者の、出鱈目を受け売りしながら「『真実』を知り『未だ目覚めぬクズ』や『反日』を見下し国を憂う愛国戦士な自分」の姿に酔う「自己像の俺カッコイイがキモチイイ」な心は自称現実主義者とも共通していると思いますし、実際、歴史修正主義者と自称現実主義者はかなり重なっているだろうと思います。

文中での武士道とか侍の精神とかの言葉の扱いについてですが、この資料集内での他の資料で日本兵の残虐行為の目撃に対して「また武士道を発揮していた」という感じで使われているので、まあ、そんな意味で使われていたのでしょうね。

こういうことを書いても言葉の文脈的意味を理解できない人々には意味が伝わらないでしょうが、残念ながらそういう人々はこういう記述方法の想定読者ではありません。

こういう記述を見てから現代日本の歴史修正主義者日の丸アイコンな人々の言動を考えると、武士道とか侍魂とか日本の誇りとかいう言葉が「口汚い言葉で戦争被害者に二次加害する心性」という意味で外国人に使われるようになってもまったく不思議ではないと思います。

私は先の報告で、日本軍は自ら引き起こした残虐行為が公的証人の目に触れるのを避けるため、われわれの帰還を引き延ばしたのではないか、との憶測を記したが、それは実証された。信頼すべきドイツ人および米国人情報提供者の話によると、外国代表者の南京帰任の意向が明らかになるや、民間人・女性・子どもにたいする無意味な大量殺戮で生じた、一部は路上にまるで「ニシンのように」積み重ねられたおびただしい死体を片づける除去作業が大慌てで始まったのである。

数週間にわたる恐怖支配の問、日本兵は南京市の繁華街、すなわち太平路周辺と通称ポツダム広場〔新街口〕以南の全域を完膚なきまで略奪した後、瓦礫の山と変えた。そこでは、外側だけあまり被害のない建物がぽつぽつと残っているだけである。日本軍による放火は、日本軍の占領からひと月以上も経過した今日に至るまで続いており、婦人や若い娘の拉致と強姦についても同様である。この点で日本軍はここ南京において自らの恥辱の記念碑を打ち立てたのである。ラーベの委員会(先の報告参照)のおかげで何とか破壊を免れたいわゆる安全区のなかだけで、けだものじみた強姦は数百件もドイツ人や米国人によって、またかれらの中国人協力者によって異論の余地なく立証されている。委員会が日本側当局に送った書簡の束には、実に衝撃的な内容が綴られている。その写しは、時間が許ししだい、後ほど本報告関連資料として送付するつもりである。

ただ現時点で書きとめておきたいことは、とくにナチ党役員のラーベ、クレーガー両氏[ならびにシュペアリンク氏]を含む外国人が、強姦におよんだ日本兵を現場で取り押さえたり、勇敢にも命がけで追い払ったことである。鬼畜どもに抵抗しようとした中国人の家族は多くの場合、殺されるか、傷つけられた。ドイツ大使館の庁舎内でも使用人の曹が、敷地内にいる女性たちを引き渡せと、銃剣を突きつけられて脅迫された。曹は以前に大連で暮らしたことがあり、いくらか日本語ができるので、ここはドイツ大使館で女はいないと日本兵に説明することができた。だが、ここはドイツ大使館だと説明した後も、脅迫は続いた。大使の屋敷にまで日本兵は何度も侵入し、邸内の女性たちを差し出せと要求したのである。

米国伝道団病院〔金陵大学付属鼓楼病院〕には、大勢で輪姦され、その後に銃剣で突かれたり、他の負傷によって重大な健康上の被害を受けた女性がひっきりなしに運び込まれており、昨日も連れてこられた。ある婦人は喉を半分切り裂かれ、この不幸な女にまだ命があることをウィルソン医師白身が驚いたほどである。ある妊婦は腹部に銃剣を突き刺され、胎児は殺害された。病院には暴行を受けた幼い少女たちが多数運び込まれているが、そのうちの一人は二〇回も立て続けに強姦された。

今月一二日、私の英国人の同僚であるプリドー・ブルーン領事、英国大使館付陸軍武官のロヴァト・フレーザー陸軍中佐、ならびに英国大使館付空軍武官であるウォルサー空軍中佐が、英米タバコ会社のパーソン氏宅を検分したさい、下腹部をゴルフクラブで突き刺され、体全体を貫かれた中国人女性の死体を見たという。

金陵女子文理学院の構内に設けられた難民収容所には毎晩日本兵が侵入し、犠牲者を連れ去るか、さもなければ家族も含めた他の人々の面前で犯罪的な欲望を満足させていた。輪姦の共犯者が犠牲者の夫や父親を押さえつけ、家族の名誉が凌辱されるところを見るように強いた事例も証言されている。こうしたさまざまな事件に将校たちが関与していたことがマギー牧師などによって立証された。かれは中国人クリスチャンの一団をあるドイツ人顧問の家に保護しようとしていたのである。

「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」P66-67より引用。1938年1月15日付で発信者はローゼン

こういう日本軍の虐殺・強姦・略奪・放火は各種史料の積み重ねで立証されており、こういう史料単体を否定することで否定できるものではありません。

当時の南京ではこのような風景が確かに繰り広げられていたのでしょう。

ある種の人々が曲解力を発揮する前に説明しておきますが、文中の「下腹部をゴルフクラブで突き刺され、体全体を貫かれた中国人女性の死体」というのは陰部にゴルフクラブを突っ込まれ、体全体に銃剣による刺し傷のある死体のことでしょう。陰部への異物挿入や銃剣による殺傷は日中戦争における日本兵の暴行事例としてありふれたものです。

文中の強姦を強制的に家族に見せつける行為は強姦は性欲だけによるものではないことを示しているというものでしょう。性暴力は、むしろ、報復感情や蔑視の対象が苦しむ姿を見たい・屈辱感を味あわせたいというような欲望に基づいた嗜虐により行われることが多いものです。

それはつまり、性暴力防止は性欲だけを解消すればいいというものではないということです。

性犯罪防止に風俗をなんて言ってしまう人々は、他者を尊重する気持ちの欠落が犯罪への歯止めを無くすという面がまったく見えていないのではないかと思います。あるいは自らが性欲だけで強姦魔になるような他者を尊重する気持ちが無い存在と自白しているのでしょうか。

しかし、私たちにとっての真の危機は爆撃の後、つまり日本軍による南京陥落後に始まりました。日本軍当局は見たところ、部隊の統率力を失っているようです。日本兵部隊は数週間にわたり略奪を繰り返し、およそ二万人の婦女子を強姦し、何千人もの罪なき市民(発電所の職員四三人を含む)を無残に殺害したうえ(機銃掃射による大量殺害も人道的な処刑とされていたようです)、外国人の家屋もお構いなしに侵入しました。ドイツ人家屋六〇戸のうち、約四〇戸が多かれ少なかれ略奪にあい、四戸は全焼させられました。城内の三分の一は日本兵の手で焼け落ち、放火はまだ続いています。城内で、盗みや略奪にあわなかった店舗は一軒もありません。射殺されたり、虐殺された人の死体はいまでも城内に放置され、私たちの手で葬ることは許可されていません(理由は不明です)。私の家から五〇メートルのところには、一二月一三日以来ずっと竹で編んだ台の上に一人の中国兵の死体がくくりつけられています。難民区内のあちこちの池には五〇体もの中国人射殺死体が漂っているというのに、私たちにはこれを埋めてやることもできないのです。

「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」P96より引用。1938年1月14日付で、発信者はラーベ。

これは南京事件における強姦の被害者数の参考値として引かれることが多い文書です。

文中の強姦の被害者数の二万人という値については、これが一月の日付けの文書での値であることに注意が必要だと思います。

南京事件における日本軍による略奪・強姦はその後の三月でも頻発し続けていたからです。

これは十二月から翌年三月という数か月の期間で行われた事件の始まりから一月程度の時点での値であり、その時点から後でも多数の人々が性暴力の被害にあっています。

このような日中戦争における日本兵の性暴力を問題視したからこそ、日本軍は慰安所を作ったのですが、それが強姦防止に役立ったかといえば、役立ちませんでした。

日本兵は太平洋戦争の占領地でもそのような行いを繰り返し、占領地ではない沖縄もその被害にあっています。

沖縄の住民があえて「占領地ニ非ズ……」の立札を掲げなければならなかったのは、本土とは異なる歴史を歩み、異なる風俗習慣、文化を有する沖縄で、兵隊が占領地同様の傍若無人なふるまいをしていたからに他ならない。それが予想されたからこそ参謀長は強姦極刑の厳命を発しなければならなかったのである。

一九四五年一月一三日付、「軍並旅団ニ於ケル副官会同会報事項」の「旅団長注意事項」では端的に

  「焼カズ、取ラズ、犯サズ、ノ三原則ニ徹セヨ」

といましめているほどである。だが、こうした厳命がくり返されたにもかかわらず、強姦はたびたび発生した。日本兵による強姦の結果、生まれた子どももいた。

一九四五年三月二三日、米軍は沖縄に対し、猛攻撃を開始する。四月一日沖縄本島に上陸を開始し、沖縄本島の細くくびれた中部を占領、南部と北部に分断した。第三二軍の司令部壕のあった首里にいたる中部で激しい戦闘がくりひろげられたが、五月末、日本軍は首里を撤退、南部の摩文仁へ向かう。このとき、住民に対する配慮がほとんどなされなかったため、多くの住民が首里と南部のあいだを彷徨、多数の犠牲者を出した。このような戦闘状況の中でさえ強姦事件が発生した。

米軍か近づいてきていた南部の壕で二人の女性が日本兵に強姦されたという住民の証言がある。そのうち一人は、発熱していたのに注射をうたれ、兵隊にくりかえし強姦されていた。

「共同研究 日本軍慰安婦」P131-132より脚注を省略して引用。

共同研究 日本軍慰安婦共同研究 日本軍慰安婦

日本兵の振る舞いに対する沖縄の住民の「占領地ニ非ズ……」の立札は日本兵が沖縄で住民に何をしたかということと日本兵が占領地でどのように振る舞っていたかということの両方を示しているというものでしょう。

日本軍は沖縄にも慰安所を作りましたが、太平洋戦争末期のこの時期でも日本兵の行いはこの有り様でした。

性暴力防止には兵士自身の人権意識や兵士の前線と後方のローテーションによる心理的損耗防止などが重要で、こういう性暴力は兵士に対する戦時国際法の教育を怠りローテーションもしなかった日本軍の組織運営自体の問題も大きな要因でしょう。

厳罰化は犯罪防止に有効な場合もありますが、例えば、前線に貼りつけ続けられることで確定的な死を課せられることにより自棄的になった兵士の犯罪や、上官や憲兵といった取締者を恐れないような兵士の犯罪は極刑のような厳罰化でも防ぐことはできません。

そういったことを考えると加害者である日本兵自身は同時に日本軍の組織運営の被害者でもあったと、そう私は思います。

2013-06-20

[]被害者二〇〇万、「ベルリン陥落1945」に見るソ連軍の性暴力(と現代日本)

ドイツ軍当局の最大の誤算は、赤軍の進撃路のアルコールのストックを破棄しなかったことだった。敵が泥酔すれば戦えなくなるだろうという皮算用だったが、女性住民にとって悲劇的なことに、赤軍兵士はまさにアルコールの勢いをかりてレイプし、そのアルコールで悲惨な戦争の終結を祝ったのである。

勝利の祝宴がひと区切りついても、ベルリン市民の恐怖は去らなかった。はめをはずした祝宴の余波で多くのドイツ女性がレイプされた。あるソ連の若い科学者は、恋人となった一八歳のドイツ少女から、五月一日の夜、赤軍将校が拳銃の銃口をむりやり彼女の口に突っこんで、言うなりにさせるため、襲撃のあいだじゅう、そのままにしていたという話を聞かされた。

まもなく女性たちは、夕方の「狩猟時間」のあいだ姿を消すすべを学んだ。若い娘たちは何日もつづけて屋根裏の倉庫に隠れた。母親たちはソ連兵が二日酔いで眠っている早朝をねらって、街路に水くみに出るようにした。ときには、ある母親が自分の娘だけは助けようと必死になって、よその娘たちの隠れ場所を教えることから、最大の危険がせまることもあった。

窓ガラスがすべて吹き飛んでいたので、夜ごとに悲鳴が聞こえてきたのを、ベルリン市民はおぼえている。ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は、九万五〇〇〇ないし一三万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた一〇万の女性のうち、その結果死亡した人が一万前後、その多くは自殺だった。東プロイセン、ポンメルン、シュレージュンでの被害者一四〇万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。全体ではすくなくとも二〇〇万のドイツ女性がレイプされたと推定され、くり返し被害を受けた人も、過半数とまではいかなくても、かなりの数にのぼるようだ。ウルズラ・フォン・カードルフの友人でソ連のスパイだったシュルツェ=ボイゼンは、二三人もの兵士にたてつづけにレイプされ、のちに病院で縫合手術をうけるはめとなった。

「ベルリン陥落1945」P601-602より脚注を省略して引用。

ベルリン陥落 1945ベルリン陥落 1945

第二次世界大戦時のベルリンにおけるソ連兵の性暴力は本書によらずともよく知られていることです。

本書ではその性暴力の被害がドイツ人女性だけでなくソ連軍に「解放」された地域の人々やドイツの強制収容所から解放された人々にまで及んでいたことが述べられています。それはソ連軍の性暴力が報復によるものだけではなかったことを示しています。

仮に報復だとしても性暴力が正当化されないのは当然として、戦地の女性を性的戦利品として扱い集団的性暴力を仲間の結束を高める具とするような非道な性暴力。その不法な暴力に対してロシア政府が向き合っているかといえば、少なくとも本書の日本での出版時(2004年)には向き合っていません。

戦争と性暴力は不可分の関係にある。本書はすでに世界十数か国で翻訳出版されたが、今回日本で刊行される意義ほ大きい。日本も本書が描く戦時性暴力を繰り返し体験してきたからである。ここでは被害者としてのケースと、加害者としてのケースを一例ずつ挙げよう。

一九四五年八月九日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って旧満州に破竹の勢いで侵攻してきたとき、そこでは本書といくらも違わない光景が繰り広げられた。ちょうど東プロイセンのドイツ人が、長年の圧政に耐えかねたポーランド人に襲われ、さらにソ連軍の過酷な仕打ちにあったように、旧満州の日本人は現地人に襲撃され、ソ連軍の暴行から逃げまどう他なかったのである。現在の「中国残留孤児」が生じるきっかけとなった出来事である。

もうひとつは、日中戦争下の中国における日本軍の性暴力である。なかでも一九三七年一二月、中国の首都南京を陥落させた日本軍中支那方面軍が引き起こした南京大虐殺捕虜敗残兵・民間人あわせて十数万人以上の中国人が南京城内外で不法に殺害された−では、多くの中国人女性が日本兵の性暴力の被害にあった。

当時、日本軍占領下の南京に留まったドイツ外交官ゲオルク・ローゼンの報告書によれば、虐殺そのものは数週間で下火になったが、強姦事件は翌年三月ごろまで散発的に続いた。その被害者総数は二万人を数える。集団での強姦、夫や家族の眼前での犯行、指揮官の黙認など、ソ連と日本両軍の行動様式には共通点が多い。(石山勇治編・訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』、大月書店

ドイツの歴史家で、ホロコーストなど自国の負の過去との批判的な取り組みを続けるヴォルフガング・ヴィッパーマン(ベルリン自由大学歴史学教授)は、本書に関連するインタビューに応じて、自分の母も赤軍の性暴力による犠牲者であったことを赤裸々に語り、戦争体験世代の苦しみに耳を傾けて釆なかったことを、自身を含む戦後世代の怠慢と述べた。近年、ドイツの戦争被害体験について、ハンブルクドレスデンなどのドイツ諸都市を廃墟に変えた米英連合軍の絨毯爆撃の不法性を衝き、空襲下の苦悩を描いた在野の歴史家ヨルク・フリードリヒの『火炎−空爆戦下のドイツ 一九四〇−一九四五』(都市部への無差別爆撃はナチ・ドイツが先に始めたことを明記している点には注意)が刊行され、これまでのタブーを破る好著との評判を得た。また作家ギュンター・グラスが戦争末期、ソ連軍に追われた東部のドイツ難民で溢れかえった輸送船がソ連軍の潜水艦に撃沈されるという実際に起きた事件を主題に『蟹の横歩き−ヴィルヘルム・グストルフ号事件』(池内紀訳、集英社)を発表し、ベストセラーとなった。これらの作品はヴィッパーマンのいう戦後世代の怠慢を克服しようとする試みといえよう。

戦争は加害と被害を幾重にも重層化させる。加害者が被害者となり、被害者がまた加害者となる。それは個人のレヴェルでも、国家のレヴェルでも起こりうる。本書は戦争の被害と加害の両面を見つめる読者にさらなる示唆を与えてくれるだろう。

ところで、本書の原書にあたるBerlin The Downfall 1945がロンドンで出版されるに先だって、駐英ロシア大使は、本書を「虚偽と当て擦り」、「ナチズムから世界を救った人びとへの冒涜」とする抗議の文章を『ザ・デイリー・テレグラフ』紙に公表し、大方のメディアの反発を招いた。その数年前、中国系アメリカ人ジャーナリストアイリス・チャンが南京における日本軍の狼籍ぶりを描いたThe Rape of Nankingが米国で刊行されたさい、駐米日本大使がメディアに不快感を露にしたのと同じ構図だといえよう。ロシア政府は現在も、日本政府と同様、先の世界大戦で斃れた旧軍の将兵を英雄として崇めている。「大祖国戦争」の美名の下で無数の一般市民に及んだ軍の不法な暴力の実態を自らの手で究明する努力はロシアではまだ緒についてはいない。

同書P640-642、石田勇治氏による「解説 スターリングラードからベルリンへ」より脚注を省略して引用。

ソ連軍による性暴力は旧ソ連文書からも確認できる歴史的事実ですが、それを「虚偽と当て擦り」、「ナチズムから世界を救った人びとへの冒涜」として否定するこの姿。まさしく反発を買って当然の姿だと思います。

ソ連軍の性暴力が反共主義をあおる目的でプロパガンダに用いられたことも歴史的事実ですが、プロパガンダに用いられたことはその対象が虚偽であることを意味しません。プロパガンダに用いられようが用いられまいが歴史的事実は歴史的事実なのです。

さて、ここで話は変わりますが、これを読んでいる人の中に「南京事件は中国のプロパガンダで嘘だ」と言うような人や、南京事件を疑う人でソ連軍の性暴力は疑わない人や、日本軍慰安婦の証言を疑う人でソ連軍の性暴力に関する証言は疑わない人や、自国の加害を否定しながら自国の被害は被害感情と報復感情を煽るために消費しつつ現実主義者を自称しているような人はいたりするのでしょうか。

日本には「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがあります。

こういうロシアの姿が反発を買って当然の姿であることがわかる人には、日本が南京事件や従軍慰安婦を否定することも同じように反発を買って当然の姿に見えるだろうことが理解できるのではないかと思います。

ソ連軍による性暴力が旧ソ連文書からも確認できる歴史的事実であるように、南京事件や日本軍慰安婦が日本側文書からも確認できる歴史的事実であるということは、これらに関する基本的知識を持っている人には常識的なことです。それらの否定はロシアが「旧満州におけるソ連軍の性暴力は無かった」と言っているようなものです。

THE FACTS」など従軍慰安婦否定論に対する各国の反応や南京事件否定論に対する各国の反応など幾度も繰り返されていることですが、歴史修正主義者は歴史的事実自体より歴史的事実を否定しようとする姿勢自体が反発を買うということを現実から学習すべきだと思います。

反歴史修正主義という立場は歴史修正主義が存在してこそのカウンターであり、歴史修正主義者が史実を否定しようとするからこそ、その史実に対して説明する必要が生じ、史実の否定による二次加害に対して為すべきことを述べる必要が生じるのです。

反歴史修正主義が歴史修正主義が否定しようとする史実に集中的に言及するのは当然のことであり、反歴史修正主義を消す一番の方法は歴史修正主義が消えることです。

史実の否定に対する国際的非難を消すには史実を否定しなければいいのです。史実を否定しようとする情報戦ごっこが自爆となるのは必然なのです。歴史認識問題をめぐる日本の現状は情報戦に負けた結果ではなく、「真実」として自己慰撫のための嘘歴史を主張した結果というのが現実なのです。

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