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2008-04-12

[][]価値否定論法

価値否定論法は対象の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法。

主に対象の「正しさ」を否定できなくてもそれを認めたくないときに使われます。

認知的不協和という人間の心理構造により非常に強い効果を持ちうる論法です。

認知的不協和とは相容れない複数の認知を抱えたときに生じる心理的緊張状態(例えば不快感)のこと。

人間は認知的不協和を解消するために自分の認知の方を変更してしまいがちです。(認知的不協和理論)

例えばイソップ寓話の「狐と葡萄(ブドウ)」(酸っぱい葡萄)

食べたいブドウを手に入れられなかったキツネは「あのブドウは酸っぱい」と思うことにしました。

「あのブドウを食べたい」という認知(変更可能)と「あのブドウを手に入れることはできない」という認知(変更不可能もしくは変更困難)の不協和に対し、前者を「あのブドウは酸っぱい(から食べたいとは思わない)」と変更することで「あのブドウが手に入らなくても構わない」ようにし、後者の「あのブドウを手に入れることはできない」という認知との不協和を解消したわけです。

ちなみに、不協和を解消するためにタバコの害の科学的事実を否定しているのが猫猫先生。テストに出ますから覚えておくように。(出ません)

価値否定論法のやっかいさはこういう認知的不協和の解消を提供するゆえに認知的不協和を抱えた人の支持を得やすいところにあります。

基本的に人間は「正しさ」や「一貫性」に対する欲求を持っています。しかし、自らが「正しさ」を得ることが出来ないときや、相手に「正しさ」があり、その「正しさ」を否定できないときや、「正しさ」自体が自らの願望に沿わないとき、手に入らないブドウを酸っぱいと思いたがる有象無象の人間が、不協和を解消するために「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法に飛びつくのです。

例えば愛国とか言うなら、まず否定論が他国の対日感情を悪化させる上に他国に政治カードを与えてしまうという現実を認識すべき - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで引用した「まあ、肯定派が愛国左翼だったら、「〜は否定できないから、(中国プロパガンダに対して)日本はこういう戦略で対抗すべきだ」のように建設的な意見を言うと思うけどね」という言葉。

これは、主観的な「愛国的行動ではない」という判断のもとに(南京事件)肯定派(史実派)の主張の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定しているわけです。

あるいは、そういうのを論点ずらしという - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで引用した「正しいことを言っているのに、なんで信者は増えても広がりがないのか、について、反・歴史修正主義者の人たちは考え直してみるといいと思います」という言葉。

これは、「支持の広がりの否定」をもとに反・歴史修正主義者の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定しているわけです。まあ、これはid:lovelovedog氏自身が抱えた不協和を解消するための発言の色が濃すぎて不発でした(ように見えました)けど。

不協和をありのままに受け入れられないという弱点を抱えた人間にとって不協和を解消してくれる価値否定論法はありがたいものですから、場合によって非常に強い効果を持つのは仕方がありません。

その一方で「手に入らないブドウを酸っぱいと思いたがる狐」の駄目っぷりも明白なわけで、そういう人が多数派を占めるようでは国が駄目なほうに流れていくのも仕方がないというもの。

とりあえず、政治家の駄目さは国民の駄目さの反映ということでファイナルアンサー。

2008-02-24

[][][]「数字の説得力」の悪用

502 Bad Gateway

のネタ元の

no title

がひどい。

サンプル数がbogusnewsは「無作為に38軒ほど」なのに対し、この毎日新聞の記事は「うち10人を引きこもりと判断し、別途調査した18人を加えて計28人を分析対象とした」でたったの28人。

ネタ元の記事の方がサンプル数が少ないという現実がbogusnewsの斜め上を行っている状態。分析自体も就職氷河期を無視して「引きこもり」の人格の方に原因を求めるような論調。社会環境を無視して当人の人格の方に原因を求めるというどうしようもなくくだらない「自己責任論」に、「数字の説得力」を悪用して「信憑性」を持たせて人を騙そうとしている、まったく報道と呼ぶに値しない記事です。

ただ、こういう「数字の説得力」の悪用による「騙し」は新聞記事に限らず、ネットでも現実でも珍しいものではありません。*1

件の記事は本当にどうしようもないものですが、サンプル数やサンプルの取り方などデータの取得方法に問題がある怪しい「分析」の例としては良いものといえるでしょう。こういう「騙し」の技術に引っかからないための「学習サンプル」としては役立ちますから。

*1:騙す技術としては基本的なもので、悪徳商法似非科学などで使用されていることも珍しくありません。

2007-08-25

[][][]だまされにくくなるためのヒント

だまされる人と抵抗する人

このような多様性は、物理的構造と同様、心理学的性質にも影響する――感化に対する感受性、あるいは抵抗性を高める性質を含む。ある人は拷問にも屈せず、あるいは詐欺師のブラシで毛を刈られることなく逃れることができる。彼らは、友人をうらやましいと思わせる物事や、絶望を偽る慈善事業やセールスマンに対してノーと言う能力を持っている。そのような人々がスタンレー・ミルグラムに出会うと、彼の実験方法(第四章参照)に初めから従わないであろう(もちろん、彼の実験対象にも少数例そのような人がいた)。彼らは、内的強度、つまり自信が強く、このような形の社会的圧力から隔離された状態にある。だが、われわれの多くは、このような防御機構を欠いている。われわれは、自分が抵抗力を持っていると考えるが、現実は常にそれが間違いであることを証明する。われわれは詐欺師の犠牲になり、怪しい売込みに同意し、不必要な物を買ったり、実際には全く気にかけていない慈善にお金を寄付したりする。もしわれわれが誠実であれば、われわれの被暗示性によって、コンプライアンス技術の専門化であるロバート・チャルディーニに同意することと思われる。彼の(大きな影響を及ぼした)著書『影響力の武器』の冒頭は次のように書かれている。

今や私はそれを自由に受け入れることができる。生涯を通じて私はだまされやすい人間であった。私が思い出すかぎりにおいて、行商人、募金者、あらゆる種類の策士の格好の標的であった。間違いなく、それらの人々の一部は卑劣な動機しか持っていなかった。他には、−例えば、ある種の慈善団体の代表など−最も善良な意図を持つ人々もいた。しかしそれは問題ではない。自分でも心配になるような頻度で、私はいつも不要な雑誌を講読したり、清掃作業員のためのチャリティー・ダンスパーティーの切符を手にしていた。

−チャルディーニ「影響力の武器」

感化の試みは、その標的である精神と同じくらい古く、したがって、今日の技術が標的とする脳と極めて適切に調和するまでに進化してきたことは決して驚きではない。言い換えると、感化と、それに抵抗しようとする試みは、進化の武装競争の中での敵対者であったのだ。その武装競争における最近の進歩は、例えばロバート・チャルディーニなどの社会心理学者の本を買って読むようにすることだが、それでさえ、感化の武器に対する防衛を保障するものではない。われわれは、自分自身が精神を持った独立した存在であることを常に覚えているわけではなく、時にわれわれは疲れていたり、忙し過ぎたり、怠けていたり、弱っていたりする。しかし独立した存在であることを意識していることもしばしばある――多くの感化の試みにとって、どちらでも問題にはならない。私は、使えさえすれば、どのブランドの食器洗剤が流しの厖にあっても気にしないので、それが明らかに高価なものでさえなければ、最も宣伝に出てくるものを手にするだろう。手に入るすべての洗剤の相対的利点を細かく考慮することは、私の能力の範囲内ではあるが――全く時間の無駄である。食器がきれいにさえなれば、誰が気になどするだろうか?

信念を変える

しかし時にそれが問題になる。時にわれわれは操作されて、自分自身が最も興味を持つことに反した行動をとり、それが自分には全く必要の無い物を買うことで借金を作ることや、殉教を目指して爆発物を体に縛り付けることになる。洗脳の目的は、思想と行動の両方をコントロールすることであ――理想的には、標的者の頭の中に入ってそれを行うことである。第十四章では、現代の神経科学がいかにしてそれを実際に可能とするかを考える。しかしながら、感化の技術の大部分は直接脳を変化させることはできず、その代わり、脳が囲まれている環境を変化させるのである。

これが機能するためには、感化の過程における二つの段階に障害を置くことが必要である。一つめは信念を変化させるのに必要な時間と努力の量で、信念の変化に意味があり長時間続くものでなければならない場合には特に必要となる。感情を煽ることは有効だが、新しい信念が習慣――無意識なもの――になり、攻撃される可能性を極度に減らすためには、繰り返し強化されなければならない。

洗脳の世界―だまされないためにマインドコントロールを科学するP273-275より。

大抵の人は自分で認識しているほど騙されにくいわけではありません。

騙されにくくなるための基本の一つは詐術に対する弱点となりうる人間の心理学的性質について知ること。

そういう社会心理学的知識を身につけることはマインドコントロール技術に対する抵抗力をつけることに役立ちます。しかし、それが完全ではないということも覚悟しておくべきことでしょう。

集団規模で信念を変えることは、現代社会の大きさを考えると、集団の支持のない個人にとっては、ほとんど問題外であることは間違いない。この支持を獲得するために、感化の専門家は本書で議論してきた方法を利用する。感化の専門家は、関連する連想を被害者の脳に押し込むために巧妙な言葉を用い、自分の主張を明解で覚えやすいものにすることで、自分のレトリックを霊的概念と結びつける。プラトンが報告している話におけるソクラテスのように、洗脳者は被害者を変える試みのすべての段階で被害者の同意を得ようとする(19)。洗脳者の目的は被害者さらに不幸と感じて、自分が与えようとしている「援助」を彼らが求めるようにすることにあるが、力ではなく愚弄することによって自分の考え方に対する反論を抑え、自分が持っている聴衆との共通点を強調することによって、自分をユーモアと人間味があり好かれるように見せようとする。洗脳者はまた、健全な議論の印象や自己批判でさえ導入する(例えば追従者を壇上で議論させる)が、実際に発せられるメッセージは、たとえ洗脳者が逆のことを言っているように見えても常に同じである(20)。洗脳者はまた、単一の目的を持っているという自信を見せることによってカリスマ性を高め、曖昧に見せないように十分注意する。これらすべてにおいて、メディアヘの接触の規制を確立し、人々を議論に参加させ、自分の考えが正当なばかりでなく全く当然のものと尊重されているという権威を信じさせることによって、自分の根拠が周知されることを目指す。

ヒトの脳は変化を見つけ出したり、自分の蓄積された経験と現在受けている情報との不一致を検出するように調整されている。感化の専門家は、それを利用して自分自身を新しく、ユニークかつ異なった者として提示することで注意を引こうとする。彼らが押し付けたいと思う概念と標的の脳を現在占めているものとのギャップが大き過ぎると、新しい概念が受け入れられる可能性が低下するのが欠点である。これに対して、小さな一歩は受け入れやすい(小さな一歩を十分積み重ねることで、尊敬すべき中産階級の市民を冷血の殺人者にすることもできる)。標的の聴衆を知ることはまた、表現法を確立するのに役立つ。洗脳者は、ストレスと変化に対する脳の反応を利用するとともに、既存の社会的圧力を自分の利益のために利用する。自分が選んだ外集団に、利己主義、欺瞞、堕落、疾患、大規模な疫病など、社会的に容認されず集団にとって脅威的な特徴を結びつけることによって、脅威の感覚を強化するとともに、彼ら自身は利己的ではなく、不快でもなく、非道な地球上の疫病でもないことを確実にする(21)。これらはすべて集団にも個人にもあてはまり、状況によっては、潜在的な方法は素晴らしいものに見える。

同書P303-305より。

引用文が示すように、洗脳者は相手を感化するために相手に受け入れられやすい人格を演じようとすることがあります。

その際、洗脳者がどういう人格を演じるかということを知ることは、感化技術に対する警戒心を鍛錬するのに役立つというものでしょう。

立ち止まって考える−感化への抵抗手段

われわれが感化の試みに抵抗する方法の多くは、立ち止まって考えることを伴う(第十章参照)。批判的に考えること、懐疑的であること、とユーモア、それらはいずれも立ち止まって考える反応の例である。批判的思考と懐疑的であることはメッセージを分析し、それが論じている論点、情緒的言語の使用、実際の表現の正確性をチェックすることになる。それらはまた、メッセージの源の権威と動機を問うことでもある。ユーモアは、議論よりも感情を強調することによって権威に挑戦するものでもある。

立ち止まって考えるように反応するためには、われわれ個々人が生涯を通して記憶の中の事実関係にとらわれつつも、ジョージ・スタイナーが「具体的事実からなる現実的日常世界」(3)と呼ぶ進行中の経験に「根ざした状態にある」ことが必要である。これら二つの要素の調和は時間とともに変化する。

同書P328より。

代表的な感化への抵抗手段。それは、立ち止まって考える、つまり、思考停止しないこと。

しかしながら、それは簡単なことではありません。罪意識や恐怖感は容易に大抵の人を思考停止させます。

相手の罪意識に訴えかけるような言葉がネット上の「ディベート」で多用されていることからも分かるように。

もっとも、そういう言葉が多用されすぎたせいで、その手の「脅迫」にタフになっている人も多いですが。


以上、国民洗脳装置としての靖国 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかを書く際にスキャンしておいて使わなかった部分を利用してみたエントリー。

2007-08-02

[][][]社会心理学的技術による思想改造

マインドコントロールを扱っている本には色々ありますが、その中から私が初心者向けに一冊を選ぶとすれば「マインド・コントロールとは何か」になります。

この手の知識を扱っている本としては安価で、人間の認識構造を利用した社会心理学的技術による思想改造の手法の実態について書いてあるだけではなく、チャルディーニの「影響力の武器」、ミルグラム実験、スタンフォード実験、帰属過程、集合的無知など社会心理学的知識の総集編としても優れているからです。

状況の拘束力

状況の拘束力を利用する

特定の状況は本当に個人の意思決定や行動を拘束するのだろうか。たとえば、ある社会的事件が私たちの前に表面化するとき、人は一般に、その事件の原因と責任をそこに介在する重要な人物の性格や動機などの素質的な要因に求めてしまう傾向にある。これは第3章において説明した、ロスが指摘した「基本的錯誤帰属」という現象である。こうした傾向が、人びとに事件の真相に潜む、重大な別の原因を気づかせなかったり、その原因を軽視させたりすることがよくある。

たとえば、古くは天変地異の原因を「魔女の呪い」と決めつけたり、戦時中の大虐殺の原因は、ナチや日本兵には格別に残忍な性格があったとされたりする。あるいは、学校でのいじめ事件で自殺者などが出ると、すぐに、いじめることを何とも思わない冷酷で非情な性格をした「犯人」を探し始めようとする。同様に、破壊的カルトという非合法的、非道徳的な活動を目にすると、すぐさまその組織のメンバーの生育歴などをたどって、そのどこかに事件につながりそうな個人的素質をみつけようと、一部のマスコミが先頭に立って躍起になる。

しかし、そこには満足のいく原因究明の証拠が用意されていないことが多い。多くの人は少し考えれば気づくのだけれど、日頃無視している影響の源が存在する。

そもそも人間の行動というものは、檻や牢獄の中であったり、病気であったりしない限り、個人がそれぞれの自由な意志にもとづいておこなっている、というふうに考えていることが多い。

しかし社会心理学では、そうは考えない。すなわち人間の行動は、自由意志の源泉とでもいうべき、個人の趣味や趣向、癖、欲求、能力、性格といった素質だけで決定されているのではなくて、そうした素質的要因のはたらきがある方向へと行動を導くのと同時に、他者や社会から明らかな、あるいは気づきにくい形で、ある方向へと行動を導こうとするなんらかの別の要求があるとみなす。要するに「状況の力」というものが、個人の行動に常に作用しているのである。天変地異などは、いうまでもなく自然の力だけで生じる現象であり、いじめ事件や殺人事件などのような社会的な現象であっても、この状況の力を見なくては片手落ちといえる。つまり、行動の主体者は何らかの環境からの影響を受けている。もちろん、その影響力の規模は時と場合によって変わるが、個人をある特定の行動へと自動的に導く原動力がある。

たとえば、人は一般に、カッとして本気で相手に暴力をふるいたいという衝動にかられても、相手からの報復やトラブルの懸念、後から罰せられる可能性などが、実際には暴力をふるわない方向へと行動を拘束する。つまり、これは個人的な欲求を、状況のもつ影響力で抑制させられたということになる。

また、バスや電車で先に乗ってすわっている人に対して、自分がすわりたいから席をゆずれと、何人の人が要求するであろうか。そういうことは、なかなか実行しにくいものである。またそれから、ファースト・フード店で「メニューはこちらにもございます」と手招きされたり、デパートでまだ買う意志も定まっていないのに「どういったものをお探しですか」といわれて、何かを買わねばならない気になるとか、あるいは早急に立ち去らねばならないとかいった気分になるといったことはないだろうか。

それぞれの状況に存在するこのような暗黙の拘束力は、個人が行動するあらゆる場において、明らかにはたらいているし、その影響力をうまく利用すれば、ときとしてかなり強力にもなる、他者の行動統制の「武器」となりうる。このような特定の状況に対する個人の固定化された自動的反応を引き出そうとするのが、一時的マインド・コントロールである。

つまり、それは個人が行動する場所や時間が変わると、影響力の持続しないコントロールである。これは、優秀なセールスマンが多用する方法であったり、プロパガンダの常套手段であるともいえる点が多い。しかし、破壊的カルトもまたこの影響力を駆使して、とにかく、まず自分たちの主張を聞かせるチャンスをつくろうとする。この過程は、引き続いておこなう永続的なマインド・コントロールヘとつなぐための、重要な第一歩となる、一時的マインド・コントロールである。

マインド・コントロールとは何かP85-87より。

人に望みの行動を取らせたいとき、相手が自分で考えてそういう行動をするような状況を作り出すというのは、非常に古典的な手法です。*1

そういう状況に対する人間の自動的反応を利用すれば、(高い可能性で)相手を自分の自由意志で考えていると思わせつつ望みの方向に誘導できるわけです。

人の行動はその人が置かれた状況に大きく支配されてしまうのです。

認知的不協和理論

認知的不協和の理論

一般に人は、正しいと思っていることや、好きなことにしたがって行動をすると思っているかもしれない。しかし逆に、行動することが正しいことになったり、好きになったりしていることをあまり認識していないであろう。しかし、社会心理学では、前者よりも後者のほうがよく起こりうることを確かめてきている。つまり行動することが、内面の認知や感情を変化させる。このような認知・感情・行動の関係を説明するのが、「認知的不協和理論(cognitive dissonance theory)」である。

この認知的不協和理論は、社会心理学においてもっとも多用されてきた代表的理論であり、一九五七年にフェスティンガーという人によって提唱された。フェスティンガーによれば、人は、知識、意見、信念などの認知要素のうちの二つが心理学的に不一致、矛盾しているとき、緊張を経験するという。そのとき、人はその緊張を低減させて自己の考えを適応させようとする。これが、この理論の基本的な原理である。つまり、一言でいえば、人間は自分自身の内部に矛盾がないように努力する、というわけだ。

同書P115より。

人は自らの内面に従って行動していると認識しがちですが、自らの内面にそむいた行動を取った場合、その行動に対して感じるストレスを低減させるために自らの内面の方を変えてしまうことがあります。

自らの内面にそむいた行動を自らの内面を変化させることで自らの内面に従った行動と認識するようになることにより、もとは自らの内面にそむいていた行動をすることに抵抗を感じなくなっていくわけです。

そういう人の内面と行動の関係を説明するのが認知的不協和理論であり、永続的な思想改造において重要な理論です。

不協和の低減の仕方

フェスティンガーによれば、不協和の低減の仕方にも、いくつかあるとしている。それには、大きく三つの種類があると述べている。

まず第一には、行動に関する認知要素を変えるというやり方である。わかりやすい例をいえば、ある人が予知された災難を信じて家を出なかったのに、何も起きなかった。それで考え直し、計画を変更して仕事などに出かけた。あるいは、タパコが健康によくないことをテレビや本などで知った人が、その後、タバコをやめてしまった。つまり、あることを知ったことで行動を変える。こうしたことが、この例に入るだろう。

ある人が、ある破壊的カルトの予言が正しいと信じたから入会する。あるいは、カルトのメンバーが、その予言は誤りであると信じたので脱会する。このようなきわめて合理的な行動パターンがこの低減の仕方の例だ。しかし、人の不協和低減は、なかなかこのように単純明快にはいかないのが常である。いま述べた第一の方法と異なり、以下のような第二、第三の仕方がある。

その第二は、環境に関する認知要素を変えるという仕方である。この仕方を用いた不協和の低減の例を「イソップ童話」からあげてみよう。あるキツネは、とある場所でよく熟れておいしそうなブドウがなっているのに気がついた。しかし、その位置が高いところにあるので、なんどジャンプを試みても届かなかった。最後にそのキツネは、「あのブドウはすっぱいのさ」といって立ち去った。つまり、「うまそうなブドウ」を「すっぱいブドウ」へというように、環境に関する認知を変えて不協和を解消したということになるのである。あるいは、ある災難の予言を信じて家に避難していた人が、その予言は正しくなかったと信じなおすこともこれにあたるだろう。

われわれからみると、ある宗教を装った破壊的カルトの予言が明らかにはずれているように見えても、内部のメンバーは、予言は的中してはずれたことがないと主張することが多い。その理由は、彼らはわれわれが認めないようなささいな事件を、予言にあったことと解釈するからである。特に、その予言が期日や規模などにおいてあいまいな表現でなされているときには、こうしたやり方での不協和の低減が簡単に起こるだろう。

そして第三の仕方が、新しい認知要素を付加するというものである。このやり方についても、例をあげてみよう。ある人が、タバコをすうことが健康を害するということに関連するある認知と、自分がタバコをすいつづけているという行動に関する認知とのあいだに不協和が起こった場合、人は不協和を低減させるような新しい情報を積極的に探し求め、それと同時に、既存の不協和を増大させるような新しい情報を回避しようとする。その結果、その人は、タバコが健康に有害であるという見解に批判的な情報を探しだすことによって、不協和を低減するのである。なぜなら、タバコが健康に有害であるという見解に批判的なその情報は、タバコをすっているという行動と協和関係にある。つまり、この新しい協和関係をつくる認知要素を付加することで、不協和関係にある認知と協和関係にある認知のバランスをとるというやり方である。

破壊的カルトは、この第三の理屈でもって、予言がはずれたり、約束反故の事態になったときの急場をのりきることが多い。たとえば、「われわれの祈りが神に通じた」あるいは「自分たちのメンバーの努力が足りないところに約束反故の原因がある」などの説明を新たに付加するのである。

P122-124より。

第三の仕方は「人は見たいものしか見ない、見ようとしない、見たいようにしか見ない、信じたいものしか信じない」といった人の愚かさの表現でしばしば出てくる仕方です。

人は認知的不協和を経験することを不快に思い、その不快を避けるために、自らの信ずるところに対して批判的な情報やその情報源に接近することを避けることがあります。そして自らの信ずるところを肯定する情報にだけ積極的に近づき、より「信仰」を強固にしていくのです。

この第三の仕方の例としては、南京事件否定論者など歴史修正主義者にトンデモ否定本などの本を薦めても読もうともしないどころか、ネット上の情報を引いて読みもせずにその本を非難したりする現象が挙げられるでしょう。

行動が人を作り変える

アイデンティティの剥奪とロール・プレイ

ところで、この理論の文脈でとらえることできる研究で、マインド・コントロールの理解にとって興味深い実験がスタンフォード大学の地下実験室でおこなわれた。ジンバルドーがおこなったその実験は、つぎのようなものであった。

まず、できるだけ健全な学生二一人を被験者として集めた。この実験では、コイン・トスで囚人の役割と看守の役割をする者に分けられ、二週間、大学に造られた模擬刑務所でそれぞれの役割を演じるというものであった。囚人の役割を割り当てられた人びとは、実験が始まるその日に、実験への協力を依頼された市の警察官によって逮捕された。そして彼らは警察署に連行され、囚人服を着せられ、写真と指紋をとられた。その後、囚人役の人びとは、囚人服を着せられ、私物をもつことも許されず、その模擬の刑務所に入れられて、実名ではなく番号で呼ばれた。しかも彼らは格子窓から常に見張られ、手紙を書くにも、トイレに行くにもすべて看守の許可を必要とした。一方、看守役の人びとは、制服と警棒、笛、手錠、監房と門のキーが与えられ、鏡面になったサングラスで匿名性を保持し、八時間交代の勤務をするようにいわれたのである。看守の役割は囚人を管理することだけであった。この実験の結果は、実験者さえも驚くべきものであり、予定を変更して六日で中止せざるをえなくなった。すなわち、被験者たちの人格は二日目には早くも変化が起こり始め、囚人は服従的で従順に、看守は支配的にまた残忍な行動をとるように変化していったという。

たとえば、看守はいつのまにか交替の時には必ず囚人を全員並ばせ、反抗的な囚人をからかったりするようになっていった。また囚人は、自発的な行動をやめ、指示に反応するだけになっていった。つまり被験者は、惨めな囚人の役割をわずか一週間足らずのあいだ、演ずるだけで、それまで築いてきたその人のアイデンティティを崩壊させ、服従的で卑屈な人格を築いていった。また同じわずかの期間、看守の役割をすることが、その人の人格を権威的で支配的なものへと導いていったのである。

この実験が示唆していることとして、たとえ最初は崇高な目的でメンバーに加わったどんなに善良な人びとであったとしても、その集団のメンバーでいるうちに、自らの内面的な変化を引き起こしてしまうと予想されることである。

同書P140-141より。

いわゆるスタンフォード監獄実験。

この実験は行動や所属集団がいかに簡単に人の内面を変化させてしまうかということを示しています。

人の内面と行動は情報と状況に支配され、人はそれに対して無自覚

『ザ・ウェーブ』

一九六九年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。

教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。

つぎの歴史の授業においてもそれは続いていた。教師はとても驚いたが、そこでやめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に、共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウェーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。

この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。

結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。

このように現実の場面で、高校教師という他者が大勢の高校生のこころと行動を操作してしまった。そして高校生自身は、そのことに操作者自身から告知されるまで気づかなかった。これが永続的マインド・コントロールなのである。

同書P144-145より。

この歴史教師の「教科学習の試み」は重要なことを示唆しています。

人の内面と行動が情報と状況に簡単に支配されてしまうということと、内面と行動を操作されている人がその操作自体に無自覚ということ。

情報と状況により人は自覚しないうちに容易に思想改造されてしまうのです。

現代教育とファジー耐性のなさ

マインド・コントロールの存在やその強力さを信じられない人は、戦前、戦中の日本社会を考えてもらいたい。多くの国民が軍国主義のもとにマインド・コントロールされていた、とはいえないであろうか。人びとは、与えられた情報だけを信じ、「自分で考えた」つもりで「戦うしかない」という結論を出し、「鬼畜米英」、「一億火の玉」などをスローガンとしてかかげたものだ。真剣にかつ真執に「考え」「行動した」結果がそうである。ある組織のなかで、そうならないとどうしていえるだろう。

破壊的カルトは、これと同じようなことをしようとしている。彼らがメンバーに与えている「自由」は、マインド・コントロールによって見せている「幻想」である。つまり、破壊的カルトは、全体主義思想による支配を、現代の自由主義社会の真ん中で、こっそりとおこなおうとしている。

約六〇年も前のことであるが、フロムという社会心理学者は、精神分析学的視点に立って、そうした時代の人びとを分析した。その時代とは、いうまでもなく全体主義が台頭していた頃のことである。この分析は、現代でも通用する。

彼によると、人間は根元的に不安をいだいている。現代人は共通して、その不安を克服しようとして、自らの自由を放棄し、強力な権威者に絶対的支配を受けたいと願う傾向にあるという。その傾向は、「権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)」と呼ばれる性格構造としてとらえられ、非常に多くの研究がなされた。

権威主義的パーソナリティの特徴は、強者への服従、弱者への攻撃、白か黒かといったステレオタイプ的判断、因習主義などの特徴を共通してもつとされた。その後の多くの研究で、これらに共通の特徴は「思考の固さ(rigidity)」や「あいまいな状況に対する寛容性の低さ(ambiguity tolerance)」としてまとめられた。これらは、状況が変わっても、なかなか思考パターンを変えようとしなかったり、判断が明白につきにくい状況におかれると、不安感や焦燥感にかられやすいといった心理学的特徴といえる。

「思考の固さ」と「あいまいな状況に対する寛容性の低さ」とは、本質的には同じ問題をあつかっていると思われる。現在、それらについての心理学研究は、相対的な個人差の研究に重点がおかれている。しかし、私は現代人全体が一般的にあいまいさ、つまりファジーな状況に対する耐性が低く、思考が固い傾向にあり、この特徴が、全体主義的思考の本質であり、破壊的カルトの思考パターンでもあると考えている。

現代の教育システムは、ファジーを認めないスタイルになってはいないだろうか。すべての問題に必ず「正しい」とする解答があり、教育はそれを探させ、記憶させることに偏っている。この傾向が、歴史、詩や小説といった文学についてまでもつきまとっている。そうした教育を受けてきたせいだろうか、大学生になっても、単純で断定的な講義や権威主義的な教授を、よいと単純に評価するものが少なくない。あるいは人の複雑な性格を血液型のわずか四タイプで分類したり、誕生月などで単純に自分の運勢を理解しようとする学生もいる。

また、神秘主義と科学(自然科学)の区別がつかない学生が多いとも指摘される。これも、思考の固さと関係があるのかもしれない。人間や自然界の謎を前に、はっきりした明白な解答をすぐにも求めようとしたならば、現代の科学にはまだまだ未解決な問題が多いことはいうまでもない・しかし、それをすぐさま「科学の限界」ととらえ、霊界や超能力といった神秘的な解答で納得してしまうのはいかがなものであろう。そうした神秘的で単純な解答を、人びとにもたらしている源は、現代ではマス・メディアや出版界に代表されよう。科学とは何かについて、各人がもう一度理解しようと試みる必要がある。

同書P232-234より。

社会心理学的研究の成果は、情報と状況を制御することで、高い可能性で人を(操作された)「自発的意思」で望みの結論と行動に到達するように誘導できることを示しています。

そういう心理操作の手法は悪用されうるものであり、現実にカルトや悪徳商法などに利用されています。

そういう社会心理学的技術の悪用に対抗するにはどうすれば良いでしょうか。

私はその方法は多くの人が自己防衛のために実学としての社会心理学的知識を身につけることだと思います。

そういう知識を身につけること自体が社会心理学的技術を用いた操作の試みに対する防壁になるからです。

*1:兵法書の六韜には、相手を篭絡したりするためのその手の策略が結構のっていたりします

2007-05-25

[][]必要なのは懐疑心

ダマシへの対策としてはその種明かしが有効な手段。とはいえ、ダマシに対する種明かしを繰り返すだけでは騙されやすさの克服は困難です。

騙された人に対して種明かしを繰り返しても、それでダマシの手法自体に対する抵抗力を身につけられなくては何度でも似たような手法に騙されてしまうでしょう。むしろ、その繰り返しにより「もう何も信じられない」という猜疑心に凝り固まった状態になってしまうかもしれません。

騙されやすさの克服には予め騙されにくくなることが必要であり、そのためには懐疑心の鍛錬が有効。

ただ、単に懐疑心の鍛錬といっても、よく練られた懐疑心は簡単に身につけられるものではありません。

とりあえず、簡単にできる基本的な方法として「信じる前に三つの確認を行なうこと」を提案します。

その「三つの確認」は「事例の選択は適切か」、「その説で否定される相手は本当にそういう主張をしているのか(前提は正しいのか)」、「反証は可能か」です。

「事例の選択は適切か」

人は「論理的な整合性を持っているように見える新奇な説」に騙されがち。それゆえダマシは自説の論理的な整合性を装います。

自説に適合する事例だけを恣意的に選択して提示することで帰納的に自説が正しいと思わせる手法はその代表例。

対テロ戦争で売り上げを伸ばす米軍需産業 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかでも述べましたが、事実を並べるだけでも嘘は吐けるのです。(これは、論理的な整合性だけでは正しいということにはならないということでもあります)

もちろん、広範な知識があって反例があることを予め知っていれば、そういう手法に騙されにくくなるわけですが、万能な知識を持つことは困難。

ダマシが自説を展開する分野に対する知識が乏しくても仕方がない状況もありえるわけです。そういう場合でも騙されにくくなるための方法は、「事例の選択は適切か」を確認することというもの。提示された事例に偏りが無いか調べれば説の真偽までは分からなくとも、相手の誠実さは分かるというものです。

「その説で否定される相手は本当にそういう主張をしているのか(前提は正しいのか)」

人は「従来の説を否定する新奇な説」に騙されがち。それゆえダマシは従来の説をいかにも非論理的で信用に値しないかのように思わせようとします。*1

ダマシはそのためには従来の説を歪め、勝手な解釈で勝手な定義を行なうことも厭いません(前提が正しくなくても正しいものとしてしまうわけです)。そして、その勝手な定義を否定することで従来の説が間違っているかのように思わせようとするわけです。

「その説で否定される相手は本当にそういう主張をしているのか」を確認し、相手の説を支える根拠も知るようにすれば、ダマシのそういう手口に騙されにくくなります。

「反証は可能か」

ダマシは自らの説が否定できないことをもって、自らの説の正当性を訴えることがあります。*2

確かに否定できなければ、間違っているとはできないわけで、ダマシはそれにより自説に何らかの正当性があるかのように装うわけです。

「反証は可能か」(あるいは、できても非常に困難か)を確認し、反証できない説は論ずるに値しないとすれば、ダマシのそういう手口に誤魔化されにくくなります。


もちろん、これらの方法は万能でも完璧でもありません。特に「反証は可能か」の確認は不適切な場合も結構あります。しかしながら、これらの確認を通るかどうかは、ある説が信用できるか否かの一応の目安とはなるでしょう。


騙されやすさの克服には、人は信じたい情報に対して懐疑心が鈍りがちであることに対する自戒も重要です。さもなくば、そういう心の隙を突かれて騙されてしまうことでしょう。

課題

人は楽な方に流れがち。

人がダマシの説を安易に受け売りしてしまうのも仕方がないのかもしれません。

物事を信じる前に懐疑的に確認するより、それらしい話を鵜呑みにしてしまう方が遥かに楽ですから。

総体としての人は懐疑的な姿勢を身につけるためにコストを支払うことが求められるような方法では騙されやすさを克服できないのかもしれません。

であるならば、多くの人が楽しみつつ懐疑心を鍛錬できるような方法を考案し普及させるというようなことが必要なのかもしれません。

*1南京事件否定論の「南京の人口は20万人だから30万人も殺せるわけがない」とか。「間違っている論理展開」と「わら人形論法」に耐性の無い人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

*2:従来の説の証明が困難なことをもってくる場合もあります。

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