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2008-11-04

[][]説明を「衒学という脅し」と非難する「お前たちが学問であるものか!」な人々

どういう人々のことかといえば、学問に対する無知・無理解・偏見にもとづいて間違っている主張をして学問を否定する人々のこと。で、きちんとした知識があればそんな間違っている主張はしないのにと、どうしてその主張が間違っているのかを説明すると、それを自らを黙らせるための「知識をひけらかしての脅迫(あるいはイジメ)」と解釈して説明すること自体を非難して被害者ぶる人々のこと。


ああ、思い起こされる「お前たちが学問であるものか!」な人々の数々。

  • どうしてその主張が間違っているのかの説明を脅迫と解釈する「ダーウィン進化論は間違っている」系の人々(大抵、創造論とか独自の進化論とかを主張する人々)
  • どうしてその主張が間違っているのかの説明を脅迫と解釈する「相対性理論は間違っている」系の人々。
  • どうしてその主張が間違っているのかの説明を脅迫と解釈する「人類は月に行っていない」系の人々。(どのように間違えているか説明する人をアメリカ工作員扱いしたりする)
  • どうしてその主張が間違っているのかの説明を脅迫と解釈する歴史修正主義者な人々。(どのように間違えているか説明する人をアメリカ・中国韓国の工作員扱いしたり、自虐史観の被害者扱いしたりする)

もう、うんざりしますね。

実際は自らの「信仰」によりダーウィンの進化論を受け入れられないだけなのに科学を装って進化論を否定しようとする人々とか。

「歴史は勝者がつくる」などのテンプレート的発言をして歴史学を否定する「歴史の真実」を知っている人々(実際は無知と偏見と懐疑心不足により歴史修正主義にあっさり騙されてしまうような猜疑心だけは旺盛な人々だったりする)とか。

「情報を恣意的選択・加工しての日本刀の切断能力の否定」などの似非論理で「百人斬り」を否定しようとしたり「農耕民族は虐殺をしない」などの似非文化論で「日本人による虐殺」を否定しようとしたりした山本七平と、そんなニセモノをありがたがり信じ込んで受け売りしていたりする人々とか。

まあ、うんざりを突き抜けて、ある意味、天然ギャグ扱いになっていたりする面もあったりもしますけどね。

亜種:説明を「衒学という脅し」と非難する「学問を否定しているわけではありません!」な人

  • ホロコーストを用いての批判に対し、無知・無理解・偏見による誤読から相手を罵倒しておきながら、それがいかに無知・無理解・偏見によるものか説明すると、それを「知識をひけらかしての脅迫(あるいはイジメ)」と解釈し、無知や知識的誤りの指摘を「自分を歴史修正主義者扱いしようとしている!」と被害妄想じみた解釈をし「ホロコーストを否定しているわけではありません!」と見当はずれな方向の「反論」をしたりする人

誰のことかといえば、id:HALTAN氏のことなんですが。*1

どうしてその主張が間違っているのかの説明を脅迫(あるいはイジメ)と解釈して被害者ぶる点で上記の人々と同じ。

まあ、HALTAN氏の読解力が(しばしば被害妄想じみた)かなり「独創的」なものであることは、個人的感情によって心理的に盲目になっている人以外の人には明らかなのではと思います。

私自身としては彼のことは本心から色々と気の毒に思っているのですが、本人の心理状態を考えれば、それが伝わらなくても仕方がないです。

一言

心理的反発による理解の拒絶自体は人間の反応としては珍しいものではないですが、私はそれを人間が理性によって克服すべき対象と思います。

関連

「衒学という脅し」を用いる「俺が学問だ」な人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

2008-11-03

[][]「衒学という脅し」を用いる「俺が学問だ」な人々

どういう人々のことかといえば、自らの言動への批判を自らが依拠した学問への批判と解釈して反論してくる人々のこと。学問を否定しているのではなく、その学問に依拠した主張の方を否定しているのに、それを理解しない人々のこと。

例えて言うならば、社会ダーウィニズムな主張を否定したら「御前はダーウィニズムを否定するのかーっ!」と言うような人のこと。そのようにして自己認識では自らが依拠する学問の正しさの伝道者でありながら、実のところ自らが依拠する学問を穢している人のこと。

ダーウィニズムに対する社会ダーウィニズムのように、人道主義に反することに「学術的根拠」を与えて正当化するために学問を用いていることもある。*1

自らの言動への批判を自らが依拠する学問への批判と解釈するような態度こそ、学問の権威を笠に着て、それを自らの優越性の根拠としている点で衒学的であり、そのようにして反論を封じようとする態度こそ脅し。


ああ、思い起こされる「俺が学問だ」な人々の数々。

  • 政府による市場調整機能を否定し市場メカニズムを暴走させた結果のバブルを自らの能力で富を創造したと勘違いするような錬金術経済学を否定したら「御前は経済学を否定するのかーっ!」と言われる。
  • ドラッカー的な意味での経営学自殺である棄民経営学を否定したら「御前は経営学を否定するのかーっ!」と言われる。
  • トリアージの目的外使用を否定したら「御前はトリアージを否定するのかーっ!」と言われる。

うむ、はてな村ローカルな話題ばかりで村外の人から見れば意味不明っぽい。おまけに条件反射的に「ブーメラン」と言われそう。はてな村は今日も平和です。

*1:ダーウィニズムをそのように「倫理」の根拠として用いるのであれば、「共生は人間という社会的動物の生存戦略として正しく、困窮者を「かわいそう」と思うのはその生存戦略的に正しい感情であり、共生を否定する者こそ無人の荒野で一人で生きるべき」と逆に用いることもできるというものです。

2008-09-04

D_Amon2008-09-04

[][]おこぼれ理論のどうしようもない胡散臭さ

おこぼれ理論

ほんとうに経済成長で「底」は上がるのか?〈貧困〉は解消できるのか?大企業が成長して好成績をあげれば、コップの水が溢れてしたたり落ち、地面(底)も潤う。この理論は昔からあって、英語では「トリックルダウン・セオリー」という。わかりにくいので、私は「おこぼれ理論」と呼んでいる。金持ちがますます金持ちになれば、貧乏人もそのおこぼれにあずかれますから、所得の均衡や再分配などといったバカなことは言わずに、貧乏人は金持ちがガンガン稼ぐのを応援していればいいんですよ、という理屈だ。会社が成長すれば、社員も楽になる。だから社員は会社に忠誠尽くして、四の五の言わずに働きましょう…と翻訳すれば、日本人にもなじみの深い理論だとわかる。

ふざけた理論だと思うが、今流行の新自由主義経済理論では、それが「正しい」とされている。日本の代表格は、元閣僚の竹中平蔵氏だ。彼はずっと「規制緩和のおかげで『格差』はこの程度で済んだんで、やってなかったら、もっともっとひどいことになってましたよ」という言い方で、依然として「おこぼれ理論」を唱えつづけている。

これは「正しい」のか?理論として「正しい」かどうかは、この際問題ではない。問題は、私たちがちゃんと「おこぼれ」にあずかれているかどうか、だ。今、企業は空前の業績をあげている。トヨタ自動車に至っては、年間の連結決算利益が二兆円にのぼるそうだ。トヨタだけではない。銀行も不良債権処理が済んで、史上最高の利益を出している。金持ちは着実に増えている。一億円以上の資産を持っている大金持ちの数が年間五%ずつ増えている。ではその「おこぼれ」は?私たちの生活は豊かになったか。利益はきちんと分配されているか。

豊かになってない。私たちのところには来てない…。

でも経営陣は「一瞬でもスキを見せれば、競合他社にやられる。外資M&A合併と買取)を食らう。経営者は一瞬も気を抜けない。とても『おこぼれ』をくれてやる余裕はないんですよ」と言う。日本経団連の御手洗会長は、今は「景気回復の入口」だと言って、このまま耐えつづければ、いずれ庶民にも利益が回ってくるかのような幻想を振りまいている。そう言えば、小泉前首相もよく言っていた。「痛みを伴う改革は、ゆたかさへの道だ」と。

この理論の”ミソ”は、この時間差にある。大企業が十分成長していけば、必ず「おこぼれ」はやってくる。しかし、今すぐにではない。今はガマンするしかない。ガマンしていれば、そのうち必ずいいことがある。だから今はコップの下で口を開けて待っていてくれ…。そうやって利益は資本に充当される。コップはグラスヘ、そしてジョッキヘと大きくなる。一杯になる前に器が大きくなるから、いつまでたっても一杯にならない。でもいつかは必ず一杯になる。一杯になればこぼれるはずだから、そのときはごくごく飲んでください。でもまだ一杯じゃない…。いいかげんアゴが疲れる。「おこぼれ理論」は時間差攻撃であり、先延ばし理論でもある。

利益はどこへ?

「そのうちいいことがあるから、今はガマンしなさい」「規制緩和してなかったら、もっとひどいことになってたんだぞ」というのは、ほとんど脅しだ。私たちは脅されているのだということを、もういいかげん認めていい。実際は、脅しに屈している間に、「底上げ」どころか、ますます「底の抜けた」社会になっているのだから。

「バカな。今利益を分配しちやったら、企業が倒れて、あんたたちだって路頭に迷うんだよ」と彼らは言う。企業が倒れても、私たちがきちんと暮らしていければ問題はないはずだ。私たちは、安心して生きていくために働いている。そもそも、暮らしと会社が運命共同体などもう古い、使えなくなったら捨てる、生活の面倒を見るのは会社の役割ではない、と経営者のほうが言っているんじゃないか。それならば自分たちの生活を守ろう。将来の不安を人質に取るなど、だいたいやり口が汚い。労働も社会保障も切り崩して底の抜けたような社会にしておいて「底上げ」なんて、バカにするにもホドがある(図表3)。

雇用をどんどん不安定に、細切れにして、同時に生活保障も削る。人々の生活はいよいよ成り立だなくなる。政財界のやりたい放題だ。今、〈貧困〉は日本という優秀な工場の中で、ガンガン大量生産されている。日本社会の所得分布は、分厚い中間層のいるひし形社会から、真ん中のくぼんだ砂時計型社会になっていくと言われる。ふつうに考えれば、もういつ暴動が起こってもおかしくない。それだけめちゃくちゃなことをされているのだから。

しかし、政財界もバカではないから、そうならないためのしかけを世の中に張りめぐらしている。「自己責任」に「自立支援」に「再チャレンジ」。これらが暴動を封じ込め、起きたとしても散発的な暴発にとめ置くためのしかけだ。見えにくい〈貧困〉に目を凝らし、それを起点に考えることで、そのことが見えてくる。

f:id:D_Amon:20080904210209p:image

90年代半ばを境に生産性人件費の伸び方に大きな違いが見られる。それまでは、生産性が伸びれば人件費も伸びていた。しかし、90年代半ば以降は、生産性が伸びても人件費は伸びない。むしろ減っている。企業は人件費を抑えることで生産性を伸ばしてきたからだ。もはや企業利益が伸びても、人件費は伸びない。企業が育っても、私たちに「おこぼれ」は回ってこない仕組みになっている。

貧困襲来P88-94より。

湯浅誠氏がおこぼれ理論というところの、「貧困の解決の前に、まず経済成長。経済成長すれば自然に貧困は解決できる。そのためには所得の均衡や再分配などバカげたことだ」論。この手の主張はネットでもときおり見かけますが、私は非常に胡散臭いものと思っています。

なんといってもゴールが見えない。どれくらい成長すれば、そのおこぼれは貧困の解決に使われるというのでしょうか。本当にゴールに近づいているのでしょうか。

何というか、経済成長でゴールへ向かっていても、ゴールの方も経済成長に合わせてより遠大な地点に設定され続け、永久にゴールにたどり着く日は来ないのではないか。労働者はそういう風にして「目の前にぶらさげられたニンジンを永久に追い続けること」を求められているのではないか。そういう風に思うのです。

で、図表3に示されているような構造を見ると、そういうおこぼれ理論は労働者に希望を持たせて操作するための現実と矛盾した詐欺論法としか思えないわけです。

おこぼれ理論を真に受けて「経営を理解して」低賃金での重労働を受け入れたとして、その結果は使い潰されて体を壊し働けなくなり、そうなっても削られまくった社会保障の下では救済はされないので路頭に迷うしかないのではないか、なんて思いますね。

実際問題、貧困問題について書かれたまともな書籍を読めば、ネットカフェ難民ホームレスになる人は「働かない人」というのはどうしようもない偏見で、むしろ、一時期働けなくなったことなどが原因で、そういうどうしようもない悪条件でも働くしかない立場に追い込まれた人々であることが分かろうというもので、働けなくなったときのための「溜め」が無い人にとっては、そういう生活は「明日は我が身」というものなわけです。

まあ、世間は広いですから探せば新自由主義者が言うような自業自得しか言いようのない貧困者もいるでしょうが、それは決して貧困者の典型ではありません。

とりあえず結論としては、おこぼれ理論をしたり顔でかたる人は最悪ということで。

2008-08-29

[][]「あたまがわるい」と言われたときに、どんなこと言えばいいのかわからないの

「ええ、あたまがわるいですよ」と言えばいいと思うよ。

いや、マジで。


ムキになって否定すると、そういう言葉に弱いと思われて、相手の自尊心を傷つけることが目的の連中まで引きつけてしまうから。


その上、ときには相手の説明により何故「あたまがわるい」と評価されたのかを理解することが自らの「あたまがわるい」ということを認めさせられてしまうことになるという屈辱になってしまうこともあるから。

そういう屈辱から逃れるために理解することから逃走し続けるのは見苦しいものだよ。


そうなるくらいなら、自ら「あたまがわるい」と認めてしまった方がいい。

そして、「分からないから、あたまがわるい私にも分かるように」どういうことなのか説明してもらうように相手に請うんだ。

こうすることにより相手を「理解してもらう側」にすることができる。

そうすれば、「理解してもらう側」は相手が分からないことを分かるように説明しなければならない。さもなくば「理解してもらう」ことを諦めて去るしかない。

ソクラテスのスタイルは強いよ。

ただし、これを議論に負けないために用いてはならない。何故ならば、ソクラテスのスタイルは分からないことを理解するためにであって、議論に負けないためではないのだから。

議論の勝敗を目的化し議論に負けないために「分からない」を多用すれば、見透かされて余計に非難されることになる。非難されるのが目的なら、それでいいかもしれないけど。


とりあえずは「俺はあたまがいい」という幻想を捨て去ることなんだ。

そういう幻想を持っていなければ、それを砕かれることもないんだ。自己認識を覆される屈辱も感じずに済むんだ。

「分からないことを分からないと認め、まずは自分で調べ、それでも分からなければ分かる人に聞く」

大事なことだ。

世の多くの人々が、分からないときには分からないことを分かるように説明してくれるように素直に尋ね、よく知らないことに対して知ったかぶって発言したりしなければ、世の中はもっと平和になると思うんだ。

自尊心を「俺はあたまがいい」に持つ必要なんてない。「無知の知」に自尊心を持とう。


そして、自分の知の至らなさを思い、こう言うんだ。

「オリはよう、オリはよう、駄目人間なんだよう」

ほら、カミさんが冷たい目をしながらこう言ってくれる。

「気持ち悪い」

とっぴんしゃらりのぷう。


補足というか蛇足というか

うん、気持ち悪いね。

言い訳すると、書きはじめた当初はこんな文体ではありませんでした。

こんな感じ。

はてなブックマークで用いられるタグ「あたまがわるい」は色々な意味で用いられるタグです。

単純に知能や知識の程度に対して使われることもあれば、対象の行動、例えば誤読だったり、知ったかぶりの的外れだったり、に対しての評価として使われることもあります。

その「あたまがわるい」というタグが自分に対して使われ、それに対して無視せずに対応する場合、どのようにすればいいでしょうか。

私は、あっさりとそれを認め平然としていることだと思います。

何故かといえば、自らが「あたまがわるい」ことを認め、それでいて平然としていれば、「あたまがわるい」という言葉を「相手の自尊心を傷つけることが目的の罵倒」として用いている人に、それが無意味であることを思い知らせることができるからです。

これにより、批判者の内、その言葉を自尊心を傷つけるために使用している人を排除できます。

………

以下略

で、書いている途中で、こういう考えるまでもなく当たり前な「戦略的」なことを真面目な文体で書くことに心理的に耐え切れなくなって、ふざけつつも伝えたい内容を要約した恥ずかしいポエム*1に変換してしまったというわけです。

自分の知識や知能なんて大したことないんだと自己認識し、知識の誤りは素直に認めて修正するのは大事なこと、なんてのは普通いちいち説明する必要はないことですよね?(虚空に向かって)


あと、ユウガタ - 断片部はもっと読まれるべき文章だと思います。


[]汝、disるときはdisり返される覚悟を持て - 自己マネージメントに失敗してネット赤潮を引き起こしたHALTAN氏

id:HALTAN氏の現状に対する私なりのまとめ。あくまで私から見たまとめなので、見方に私自身のバイアスがかかっていることは御了承ください。

現在のHALTAN氏を取り巻く状況は、現象としてはいじめというよりネット赤潮*2だと私は判断しています。

HALTAN氏が「相手の主張を理解することを拒否した上での応答になっていない応答」という非難を集めるのに十分過ぎる栄養たっぷりな記事を連続投下しているのが、ああいう無内容な記事がブックマークを集め続ける理由というものですから。

HALTAN氏は容赦ない非難の集中砲火を浴びているわけですが、それもこれも自ら集中砲火を浴びるための行動をしているからというもの。

今のような状況になったそもそもの発端はこれ。

・・・自分でも何か書こうかと思ったけど、コメント欄に書いてあるからもういいや。

通りすがり 2008/05/24 01:47 ふくみみさんも次々湧いてくる馬鹿を相手にしていたら身が持たないね

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080523/p1#c1211561271

・・・いや、自分でも何か書かなくてはいけないと考えたのだが、こういう人とは何を話せばいいのか、ちょっと思いつかないのです。今回ばかりは本当に困った。接点が見つからない。

はてなブログ

このように馬鹿呼ばわりしているコメントを引用してhokushu氏を判断の根拠も示さず馬鹿扱いしたわけです。

その上にこういう記事も書いているわけです。

自分で持ち出した余りに牽強付会なアウシュビッツの比喩故に、こんな苦しい抗弁を続けなくてはいけないhokusyuさんって・・・(涙) 自分が間違っていたら早めに謝った方がよい。もちろん簡単に「謝らない」処世術もありますが、今回は得策ではないでしょう。

はてなブログ

強調は引用者による。

どうやら判断の根拠を示さない罵倒に対し異を唱えること自体も罵倒対象のようです。

この発言の強調部分は今のHALTAN氏に見事にブーメランになっている気がしますが、追記でさらにどうしようもないことを言ってしまいます。

一生懸命に解釈すると、hokusyuさんはトリアージを弱者切り捨ての論理だと解釈されているようですが、確かに逆手に取られるとそうなりかねない部分はあるかもしれません。ただホロコーストについて言えば、「優生学はなぜ否定されねばならないのか?」という問題でしょうし、全体主義については、「そうは言っても、言論人やジャーナリズムも大衆も(少なくともある時点では)熱狂したんだからどうしようもないでしょ?」問題になるんじゃないですかね?

惚けているのではなく素で言っているとすれば、この発言はホロコーストが持ち出された文脈を理解していないどころか、ホロコーストに対する理解自体が貧弱なものであることを示しているわけで、つまりHALTAN氏はよく知りもしないのに知ったかぶって的外れな批判を行いhokushu氏を馬鹿扱いしたことになります。

これは批判されて当然というものでしょう。

Apeman氏とhokushu氏が怒るのも当たり前ですが、ただ、この時点では「わからない」を繰り返すHALTAN氏のあまりに不誠実な応答に匙を投げる形でこの話は一旦は沈静化することになります。

それが再燃するきっかけになったのはこの記事。

「大きな話」 - Apes! Not Monkeys! はてな別館

この記事に対するHALTAN氏の応答があまりにも予想通りというか、2008-08-05 - Apes! Not Monkeys! はてな別館の複数の記事で批判されているように、あまりにも二重基準丸出しの不誠実なものだったことから激しい批判がなされたわけです。

それに対し、ここでもHALTAN氏は「わからない」を繰り返し、分かるように説明することを求め、最初に他人をdisっておきながら自らのそういう行為がdisられると被害者ぶってそれをあげつらったわけです。

で、そういうHALTAN氏に対し分かるように説明することが複数の人によって繰り返されたわけですが、それらに対しHALTAN氏は「理解する気はありません」宣言。これは非難されて当然というものでしょう。

そして、それはもう思想信条や言及対象に関係ない応答姿勢の問題です。


HALTAN氏の応答姿勢を箇条書きにしてみましょう。

  • 福耳先生批判にホロコーストという言葉を使用したhokushu氏を判断の根拠も示さず罵倒
  • 罵倒されたことに異を唱えること自体を罵倒
  • 発言から知ったかぶりの思い込みで罵倒していたことが判明
  • それがいかに知ったかぶりの思い込みであるか説明されても「わからない」を繰り返す
  • それどころか説明すること自体を罵倒
  • 自ら「わかるように説明すること」を求めながら、そういう説明に対し「理解する気はありません」宣言
  • 「理解する気はありません」宣言しながら「反論」はコピペなどで継続
  • その「反論」の内容自体が思い込みと偏見に満ちた基本的知識を欠いたもので、既に説明されたことが無視されている
  • 自らのそういう対応がdisられると、それらのdisを見境無くあげつらってdisる

まあ、こういう姿勢で見境無しにdisれば、それに対する反撃が結果として集中砲火になるのは当然というものだと思います。自業自得というもの。「自己責任論」ではなく「これが自己責任でなければ何が自己責任なの論」というものです。

HALTAN氏を擁護する人は彼のこういう応答姿勢を無視しています。少なくとも説明に対し理解することを拒否していることは問題にすべきではないでしょうか。


ただ、彼がそういう風に理解することを拒否する理由も分かるような気がします。

勝手な推測ですが、彼にとって説明を理解するということは、自らの発言が知ったかぶった的外れなものであることを認めることであり、それは自分の「あたまがわるい」ということを認めさせられることであり、それは非常に彼の自尊心が傷つくことであり、彼はその屈辱に耐えられず自らのそういう感情に屈して理解することを拒否してしまっているのだと思います。


まあ、彼の内面がどうであれ、確実なのは、理性的でない彼の対応が数々のdisを呼び込んでいる状態であるということ。*3

現状はといえば、もはや、冷静な判断ができず、和解の機会を与えるために相手が差し伸ばしてきた手すら悪意と解釈して拒絶する段階にまで逆上している状態。*4

結論は既にApeman氏の記事(いやそれはこっちのセリフなんだけど・・・(追記あり) - Apes! Not Monkeys! はてな別館いやそれはこっちのセリフなんだけど・・・PartII - Apes! Not Monkeys! はてな別館等)で言い尽くされていると思います。

HALTAN氏は自分自身のマネージメントに失敗している

訳知り顔で罵倒しつつ「わからない」を繰り返す

はてなブログの「一生懸命に解釈すると」で始まる文章に象徴されているように、HALTAN氏は他人を訳知り顔で罵倒しつつ、その罵倒の論拠になるようなものは最初から持ち合わせていなかったわけです。

自らが為した罵倒が偏見や思い込みによるものに過ぎないということを、既にこの時点でHALTAN氏は自らの言動で証明していたわけです。

そういう風に相手を偏見や思い込みで罵倒しておいて、自らのそういう発言が批判されると、どうしてそういう批判をされるのか「わからない」というと。

こういうふざけた不誠実な応答をすれば相手を怒らせるのは当然のことです。

「わかるように説明すること」を求めながら、それがなされても「理解する気はありません」宣言

「わからない」を繰り返した末に「わかるように説明すること」を求めたHALTAN氏に対し、複数の人が実際に説明してみせたわけですが、それに対しHALTAN氏は「理解する気はありません」宣言。

HALTAN氏は自らこいながら相手がそれをしても真面目に対応することをしないという、どうしようもなく不誠実な人物であることを自ら証明してしまったわけです。

これはまたHALTAN氏が自らの感情に負けてそういうことをしてしまう感情的な人間であることも示しています。

見境なしにdisることで自分に対する集中砲火を自ら引き起こす

こういうHALTAN氏の対応はネガティブな評価がされても仕方がないと思うのですが、HALTAN氏は自己認識ではそれを理不尽と感じたのか、ブックマークコメントにまで一々disり、真摯な説明を行った人も見境なくdisり、自らのそういう対応により、さらにネガティブな評価を集めることになってしまったわけです。

自業自得な自らに対するネガティブな評価に対して感情的になり被害者意識全開で反応してしまう過敏さはナイーブと評して問題ないと思います。

黙れない

はてなブックマークの性質上、新しい記事を上げなければ、ブックマークコメントでの自らに対するネガティブな言及を抑えることができるのに、(理解することを拒否している以上まともな応答もできないというのに)そういう言及に対して黙っていることができず記事を上げ続けたため、HALTAN氏はそういうネガティブな言及でのブックマークを集め続けてしまいました。

そうすることで余計注目を浴びることに。

説明に対して「理解する気はない」という限りなく不誠実な対応をし、まともな応答ができる可能性を自ら封じている以上、黙った方が自らの傷を広げずに済むのに、ネガティブな言及に対する自らの感情を抑えることができないという非理性的態度。

黙る理由としては「背中で語る」でも「面倒くさい」でも十分と思うのですが、忠告されてもそれができないことにより、自分に対するネガティブな評価が気になって仕方がなくて、それに対する反応を抑えられない神経質な人格であることをHALTAN氏は自ら証明してしまっています。

知ったかぶりであることを自ら証明

はてなブログではコピペした内容が陳腐すぎて「こういう内容が反論になると判断したということ=HALTAN氏のホロコーストに関する知識はどうしようもなく貧弱なものであること」を自ら証明してしまっています。

HALTAN氏は初っ端から他人を訳知り顔で罵倒しておきながら、その根拠となる知識はまったく持ち合わせていない知ったかぶりということですね。

論争になってからでも自ら基本的知識を身につける努力を少しでもしていれば、こういうわざわざ自ら恥をかくようなことをしなくて済むのに…


上記のような言動によりHALTAN氏は自分が「知ったかぶって訳知り顔で偏見や思い込みに基づいて他者を罵倒しておいて、それが批判されると逆切れして被害者ぶるヘタレ」であることを自ら証明し続け自ら傷を広げ続けたわけです。

私から見ると、HALTAN氏は自らの感情に負けて戦略的な行動を取れていません。

まあ、はてなブログを見る限りでは、消耗しつくしたせいか、ようやく黙ることができそうで、いやあ良かった良かった。これ以上、HALTAN氏が自ら傷を広げる姿は見るに耐えませんから。

HALTAN氏はもっと福耳先生を見習うべき

せめてHALTAN氏はもっと福耳先生(id:fuku33)の応答姿勢を見習うべきだと思うのです。

反論を予期せず不用意に他者をdisり、それが批判されるとその場しのぎの釈明を繰り返し、その後は別の場所で批判を浴びたのを他人の所為にして愚痴るのが福耳マネジメントであるわけですが、少なくとも福耳先生はその場限りでは自らの感情を抑えこんで釈明し反省の態度を取ることができますし、気に入らない批判を黙殺することもできます。

そのようにして、自分に対する印象が損なわれることを防ぐことを自らの感情より優先することができるわけです。

最初に後先のことを考えず感情的に愚痴り、最後はやっぱり批判されたことを被害者意識全開で感情的に愚痴っているとはいえ、そういうことができるは大したものだと思いますよ。

せめて、その程度には自らの感情をコントロールできるようになるべきだと私は思います。


以上、HALTAN氏に対する忠告も兼ねて。

別にHALTAN氏の精神状態が本気で心配になってきてるわけじゃないんだからね!

*1:というか、ポエムとは基本的に痛々しい自意識の垂れ流しである存在自体が恥ずかしいものだと思う(偏見)

*2:赤潮だからといって批判者がプランクトンという意味ではない

*3:理性的な人は嫌いな相手でも自らの感情的反発を押さえ込んで相手の話に耳を傾けられることができ、自らが誤っていれば心理的抵抗を抑えこんでそれを認めることができるというもの

*4:私はシートン先生の記事は思いやりに満ちていると思う

2007-07-20

[]「思いを汲み取れ論」には付帯条件があります

どんな批判に対してもある程度効果的な無効化を図れる論法 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで解説した「思いを汲み取れ論」には付帯条件があります。

それは、思いを汲み取る対象と感覚が合うこと。

これにより感覚が合わない対象(例えば気に食わない相手)の思いは汲み取る必要が無くなるわけです。思いを汲み取らないのは感覚が合わない対象の方が悪いからというわけですね。

こうすることにより相手の方を悪者にして相手の思いを汲み取ることを拒否することができるわけです。

「対話においては互いに思いを汲み取ることが大事。だから、貴方は私の思いを汲み取りなさい。しかし、私は貴方の思いを汲み取りません。なぜならば貴方の言動は私の感覚に合わないから」*1

人間という社会的生物にとって「互いに思いを汲み取る」ということは概ね大事な規範。

その規範を笠に着て、自分の思いを相手に汲み取るように求めつつ、相手の思いを自分が汲み取ることは感覚に合わないことを理由に拒否すると。随分と都合のいい話ですね。

「思いを汲み取れ論」は結局のところ、一方的に相手にだけに「自分側」の思いを汲み取ることを求めているだけなんです。「思い」を盾に「自分側」の考えを相手に押しつけようとしているだけ。

「思いを汲み取れ論」の目的

「思いを汲み取れ論」を持ち出す方が何を目的としているかは「思いを汲み取れ論」が持ち出される状況を考えれば明らかでしょう。

目的は非難されているものを擁護するため。

「思いを汲み取れ論」は論争において非難されているものを擁護する手段であり、非難されている行動を情によって正当化しようとするものということ。

理によって正当化できないものでも、何とかして人々の共感を得られれば情によって正当化できる場合もあるわけで、「思いを汲み取れ論」の狙いはそれです。

感情論による正当化と感情論の正当化

先人への敬意というのならば、国家の犠牲となった先人への敬意があるからこそ私は戦死を顕彰することで犠牲者の存在に対する戦争指導者への批判を逸らし「英霊の犠牲を無駄にしない」という名目で無謀な戦争拡大の心理的装置を担った靖国神社の欺瞞を批判し参拝に反対するわけです、と参拝反対の理由にも使えますし私にしてみればこっちの方が妥当。

感情論による正当化と感情論の正当化 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

上記引用文は靖国参拝賛成などの理由として先人への敬意を持ち出してきた人に対する私の言葉。

リンク先を読んでもらえれば分かると思いますが、私は先人への敬意という思いをもって参拝賛成の理由とする人に対して、同じように先人への敬意という思いを持ち出すことで対抗するということをしませんでした。

その理由を説明することが、私が「思いを汲み取れ論」に否定的な態度をとる理由のいくつかの説明にもなるので引用しました。

以下にその理由を説明します。

議論が平行線になることを避けるため

「思いを汲み取れ論」に「思いを汲み取れ論」をもって対抗した場合、こちらの出した「思い」に対する相手の対応を大雑把に予測すると以下のようになります。

  1. 思いを汲み取らない(スルーしたり、思いを汲み取らない理由探しをする)
  2. 思いを汲み取る
    1. 思いに基づいた主張は受け入れない(主張は受け入れられない理由探しをする)
    2. 思いに基づいた主張も受け入れる

1にしても2.1にしてもこちらの「思いを汲み取れ論」は無効。2.2の場合のみ有効。

「思いを汲み取れ論」は思いを汲み取らせることが論争を有利に進める*2手段になっている時点で相手が2.2の対応を行なう可能性は低いと考えるのが妥当。

仮に相手がこちらの思いを汲み取ってくれたとしても、その思いに基づいた主張を受け入れてくれる可能性は低く、互いの思いの価値比べなど主張を受け入れられない理由探しが展開される可能性大。

そうなれば、価値観の違いから来る相互の思いに対する評価の違いから決着がつくことはまずありません。

対して、「思いを汲み取れ論」に「思いを汲み取れ論」をもって対抗することをせず、事実から論理的に導き出される現実認識のみを問題とすれば、そういう感情論や感覚論による平行線の議論は避けることができます。

代弁する権利があるのか

これは私的な思いですが、自分自身に「思いを汲み取れ」と言っている対象を代弁する権利があるのかということも問題。引用した話の場合、私自身に戦没者を代弁したいという思いはありますが、別に戦没者に頼まれたというわけではないのですから。

頼まれたわけでもないのに「誰某のためにやっている」とある種の「義務感」や「使命感」を笠に着て話を展開するのは私の性に合いません。

私はそういうことは戦没者を代弁したいと思う自分のためにやっているわけで、そういう自分のためにやっているだけのことで代弁する権利を行使するのはおこがましい行為と思うのです。

個人的な感覚の問題。ゆえに無視されても構わない理由。

異質な他者の思いを汲み取れるのか

「思いを汲み取れ」と言われても相手によっては思いを汲み取るのが困難な場合もあります。

例えば私の場合、似非科学、歴史修正主義、レイシズム、宗教的信念などに対して思いを汲み取れるかといえば、非常に困難です。

どんなに異質な存在であろうとその思いを汲み取ろうという、ある意味、博愛主義的な言動は理想ではありますが、大抵の人は異質な他者の思いを汲み取ろうとはしません。代表的な異質な他者に対する反応は拒絶したりとか笑いものにしたりとか。

そのようにして、感覚的に受け入れられない異質な他者の思いは汲み取れないのであれば、「思いを汲み取れ論」が通用するのは基本的に感覚を共有できる範囲の人々の間でだけ。

「思いを汲み取れ論」がその程度のものでしかないのであれば、異質な他者との意思疎通には最初から使えはしません。

であるならば、思想信条の異なる異質な他者との対話可能性を模索している人にとって「思いを汲み取れ論」は無意味であり、それを説かれることは迷惑以外の何ものでもありません。

感覚を共有できる人同士で使うのは大いに結構ですので、お好きにどうぞ。

神経を逆撫でする「思いを汲み取れ論」

これも個人的な感覚の問題ですが、「思いを汲み取れ論」は、というか「思いを汲み取れ論」に限らず「感情に訴えかける言葉」で他者を操作しようとする言葉は、その意図次第では私の神経を逆撫ですることがあります。

「英霊たちの多大な犠牲」 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

上記記事の場合、相手が「英霊たちの多大な犠牲」という「感情に訴えかける言葉」で過去の日本軍の蛮行を糊塗しようとしたことが私の神経を逆撫でしました。

「英霊たちの多大な犠牲」の実態に対して、それを美化して誤魔化しの手段にする無神経ぶりが頭にくるんです。

しかし、そういう情をそのまま表現しても相手には伝わりません。大抵の場合、相手には美化して誤魔化しの手段にしているなんて自覚はないのですから。

相手はこちらに情を解することを求め、こちらの情は解さないという凄まじい一方通行ぶり。それがまた腹立たしかったりするわけです。

そういう一方通行ぶりも私が「思いを汲み取れ論」に対して否定的な理由の一つ。

感情論や感覚論による平行線を避けるために理に徹する

結局、「思いを汲み取れ論」は「自分側」の「思い」を相手に汲み取らせることで「自分側」の行為を正当化しようというもの。「相手側」の「思い」なんてお構いなしなんです。凄い非対称性。(大抵の「思いを汲み取れ論」を使う人はその非対称性に無自覚なようですが)

で、そういう非対称な感情論や感覚論に付きあっても消耗するだけで無意味なわけで、情では相手に通じないからこそ、「思いを汲み取れ論」を否定し、情を心の内に理に徹っさねばならないわけです。

黒蜥蜴氏とid:tasoi氏のやりとりについて

はてなブックマーク - 模型とキャラ弁の日記 - どんな批判に対してもある程度効果的な無効化を図れる論法に始まる黒蜥蜴氏とtasoi氏のやりとりについて。

当サイトで使用しているバナーがきっかけになっているのですが、「思いを汲み取れ論」にも関係しますのでここで取り上げます。

「引いてしまう表現、言説」について。 kurotokageさんとの話。

tasoiさんへの応答 - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴

ID:tasoiの、kurotokageさんとの話の続き。

tasoiさんへの再応答 (1) - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴

tasoiさんへの再応答 (2) - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴

現時点では以上のやりとりが行なわれています。

私が件のバナーを貼った経緯は下記記事を読めば分かると思います。参考までに。

共謀罪の適用基準 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

バナー賛同します - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

長期拘束はそれ自体が洗脳手段となる - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

tasoi氏の人格

tasoi氏は善良な人なのだろうなと思います。

例えば、

・・・「ヒク」「さすがにこれは無い」とか表現すると、ひどいかな?

傷ついたらごめん

とか、

・・・・こうやって片側だけ叩いてると、偏向とか言われるかなあー。

とりあえず、特定の国を叩く意志がTasoに無いことは

前書いたエントリー(朝鮮通信史のとこ)とかからも察して欲しいかも・・・。

難しいなあ(´・ω・`)

※記事がありません - たそい人の日記

というようなtasoi氏の言葉。

引用した記事の小林よしのりと大差ないように見える慰安婦に対する認識や、「本来は構造的には、左派こそがこの問題に神経質にならなきゃならないはず」という発言*3に見られる責任押し付けぶりはさておき、これらの発言はtasoi氏が自分なりの中立かつ善良であるための基準を持っていて、それに従っている根拠に見えるからです。何故ならば、そういう基準が無ければ、このように基準に叛いた自身の言動に対するフォローの言葉を書く必要はないから。

ただし、それらの言葉は相手に対するフォローではなく、謝罪にしても危害を加える相手に対して「悪く思うな」と言ったりする類いの謝罪なわけで私には欺瞞にしか見えないわけですが。

tasoi氏は程度やバランスというものを重視し、それ自体は概ね正しいことではあるのですが、

・・・というか、『意志に反して』云々ってのは、意志に反してたら駄目ってことかな。

それなら今労働してる人たちの何割が該当するんだろうね。

自分だって、働かずに済むなら働きたくないですwwwwwwwwwうぇ

とりあえず、「全体として意志に反する行為があった」程度なら、どこにでもあって

国を問わずにある話なので、これを問題視するならきちんと平等に全国問題視しましょう。

というのは、程度に含まれる範囲を広げることにより境界を無くしてしまう極論でしょう。

どうやらtasoi氏は「あれを問題視してこれを問題視しないのは程度問題」(境界あり)、「どこにでもある話なのだからあれを問題視するなら全て平等に問題視すべき」(境界なし)というのを使い分ける人のようです。

実に賢明ですね。ただし、それらはどのような場合に使い分けるかから、使い分ける人の偏りが透けて見える両刃の剣だったりもします。*4


含まれる 程度の範囲 広げれば 境界消える 程度問題


関係ないですが、引用したtasoi氏の記事冒頭の寄生虫の話題の元ネタの動画はインチキです。

お探しのページは見つかりませんでした。 | 都市伝説的な健康の話題いろいろ

no title

tasoi氏の言葉の定義

tasoi氏のこの言葉には苦笑してしまいました。

↓対話例

たそ「このアレなバナーは何さー?(汗」

亜門「これはその法律とかに対して、よっっっぽどムカついたからやってんだよ」

たそ「うーん、そうなのかあ。丁寧に書いた方が伝わるんじゃないの?」

亜門「放っとけバーカw」

たそ「(`Д´)放っとくよバーカ」

こういう感じに、普通に対話できるんじゃないかな。

「会話する気無いなこいつ、みたいなのがビシバシ伝わってくる」対話例ですね。完全に物別れに終わっている状態。

まあ、確かに「対話」の文字通りの意味は「双方向かい合って話をすること」なわけで、そういう意味ではこういう物別れでも「対話」と見做すことはできるでしょうし、そういう意味であればどんな相手とでも「対話」が可能であろうと思います。

しかし、「対話」の意味するところがそれだけなのであれば、この世に「対話に努める」なんて表現は不要ですね。

そういう意味で「対話」という言葉を使えば、私が元記事で使った「思想信条を越えた対話可能性」という表現も無意味になります。そういう意味での「対話」に思想信条の差なんて関係ありませんから。

tasoi氏のこの応答は「対話」という言葉が使われた文脈を無視しています。「対話」という言葉自体は同じでも文脈上での意味には差があるのに、その境界を無くしてしまう極論。


この「対話例」での役割配分にしても発言内容にしても「思いを汲み取る」といった主張に対して雑すぎるというものでしょう。

tasoi氏の役割は善意の忠告を行なう方。対して私の役割は最初に相互理解を拒否する方。

その過程で行動に至った相手の心情や精神的傾向を汲み取ったとはまったく思えない台詞を私に言わせ、一方的な拒絶をさせているわけです。

こうすればtasoi氏的には、相互理解を求めているのに相互理解が成立しないのは相手の方が悪いからということにできて万々歳ですね。

話す前から相互理解を拒否していなければできない、見事なまでに相手の思いを汲み取っていない役割配分と台詞だと思います。

tasoi氏の「悪意がそんな無いもん」というのは自らの言葉に含まれる悪意に無自覚なだけではないでしょうか。

台詞ですが、実際の私でしたら「丁寧に書いた」例を示すことを求めるでしょうね。そういう風に言う以上はどう丁寧に書けばいいかというのが頭の中にあるはずですから。

で、出してきたものがより効果的と判断すればそちらの方を採用することでしょう。

tasoi氏の基準

tasoi氏の二つの記事を要約すればこうなるでしょうか。

「私がこう思うから、貴方もそのように思いなさい。貴方がそのように思わないのは貴方が程度問題を無視しているからだ」

このように約したのは、記事の内容が「私はこう思う」と「貴方のは程度問題を無視した極論と思う」の羅列だったから。

それはさておき、tasoi氏は程度を問題にしていて、それ自体は良いことだと思いますが、その程度の基準が問題。

程度の基準は徹頭徹尾tasoi氏の個人的感覚、つまりtasoi氏の主観。

他者の意見も引いてはいますが、主観に基づいた意見を補強するために自らの主観に合う意見を集めているだけ。単なる事例の恣意的選択であり、tasoi氏の意見に客観性を付与するものではありません。

程度を判断するに当たって統計的手法などで客観的な基準を設けようという姿勢皆無。

こういうのを見るとtasoi氏の言うところの程度というものが俄然疑わしくなってくるわけです。

自らの主観が中心で、自らの感覚に合うのは「バランスが取れている」、自らの感覚に合わないのを「バランスを欠いている」と表現しているだけではないかと。

そういう風に自らの主観を中心にしているから自らの偏りに無自覚でいられるのではないかと。

「引いてしまう表現、言説」での程度の基準にしても、tasoi氏の感覚に合うか否かによって、つまりtasoi氏の主観によって、思いを汲むか汲まないかが決まるわけです。

tasoi氏の主観で憎悪や悪意を感じるああいうバナーはひく。ひいてしまう表現に対しては思いを汲み取る必要はない。だから思いを汲み取らないと。

なんとまあ恣意的な。

そういう風にして憎悪や悪意が思いを汲み取ることを拒否する理由になるのならば、当然、「素朴な正義感でリンチを行なう人々」が示した憎悪や悪意を理由に思いを汲み取ることを拒否しても構わないということになります。

「素朴な正義感でリンチを行なう人々」の度を越えた「『憎悪の壮絶な渦巻きっぷり』に、すごく驚くし混乱するし、口がぽかーんとなる(´・ω・`;)」のでひいてしまい、その思いを汲み取ることを拒否しても問題なし。

「素朴な正義感でリンチを行なう人々」の思いを汲み取ることを求める一方で、「度を越えた憎悪や悪意を感じるバナーを貼っている人々」の思いを汲み取ることを拒否するなんていうのは、自らの恣意性に無自覚でなければ出てこない言葉というものでしょう。


しかしまあ、こういう基準はある意味、実に素晴らしいです。私も早速使ってみたいと思います。

「素朴な正義感でリンチを行なう人々」の行動に見られる度を越えた憎悪と悪意にひいたので、「思いを汲み取って欲しい」と言われても、そういう人々の思いは汲み取りません。

「思いを汲み取れ論」なんて無効で無意味で相手にする価値なし。つべこべ屁理屈を捏ねられても相手にする必要が無くなって、めでたしめでたし。

*1:類似しているものに「人の話を聞くことは大事。だから、私の話を聞きなさい。しかし、貴方の話は聞きません。なぜならば、貴方の話は無知と悪意によるもので聞く価値がないから」というのもあります。

*2:論争に勝利すること、もしくは論争に負けないこと

*3:気に入らないものに対して文句を言いたいだけの人や、人に何かをやらせて自分は文句を言うだけの楽な立場に置きたがる人がよく使う種類の言葉。

*4:自らの偏りに無自覚なのかなとは思いますが。

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