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2015-08-13

[][]大和型は日本海軍大艦巨砲主義の証。アイオワ級アメリカ海軍の航空主兵予測の証。

かつて戦艦は洋上戦闘の主役でした。

洋上戦闘が艦船同士の撃ち合いの時代、巨砲の攻撃力と同級以下の相手の火砲に耐える防御力を備えた戦艦は艦隊決戦の最終兵器であり、その存在が洋上の戦いの勝敗を左右する戦略兵器でした。

大艦巨砲主義とはそのような戦艦同士の戦いが勝敗を決するという思想のもとでの艦船の攻防力強化競争であり、船体の大型化は攻防力強化のための手段でした。

しかし、第二次世界大戦においては航空機がより優れた火力投射手段となり、それを搭載する航空母艦が洋上戦闘の主役となりました。

アメリカ海軍のアイオワ級戦艦はそういう時代が来る可能性を見越して建造された戦艦でした。

一方、「新しいニーズ」とは、艦隊空母と足並みが揃えられる高速性が求められたことだ。というのも、アメリカ海軍は、次の戦争では空母が洋上戦闘の主役になる可能性が高いとみており、戦艦は空母の有力な直援艦として、空母機動部隊に随伴できる速さが必要と考えられた。この点、前二級は空母機動部隊に随伴可能ぎりぎりの速力だったが、アイオワ級は問題なく随伴できる最大速力が付与された。本級の高速性能は金剛型に対抗するためといわれることもあるが、本級に比べて約三〇年も前に建造された敵艦にいまさら対抗するという説明には無理がある。「一部にはそのことも含まれていた」程度だったのではあるまいか。

歴史群像2015年8月号P14より引用。

アメリカ海軍は第二次世界大戦中も戦艦を建造し続けましたが、全部が全部、大艦巨砲が勝敗を決するという思想のもとで造り続けたわけではありません。

艦隊防空など空母機動部隊にも有用な艦として造り続け、そして実際にそのように活用しました。

対して、日本海軍の大和型は戦艦同士の戦いが勝敗を決するという思想のもと、質的優位を得るために造られた兵器でした。大西洋から太平洋への迅速な移動を考えればアメリカ海軍の戦艦の大きさはパナマ運河を渡れる幅に制限されます。それは搭載可能な砲の大きさも制限されるということであり、大和型はそれを上回る砲を持つ兵器として造られ、実際に上回りました。しかし、洋上戦闘の主役が空母に変わったことによる状況の変化により、それによる優位を艦隊決戦で活かす機会が来ることはありませんでした。

日本海軍にとっては航空機も巡洋艦駆逐艦も艦隊決戦において戦艦の数の劣勢を埋めるための兵器であり、日本海軍はそれらの兵器で敵軍の戦艦の数を削った上で戦艦同士の戦いで勝敗を決することを構想していました。

ところが、実際に開戦してみれば、空母が洋上戦闘の主役となったことを日本海軍自体が示すこととなり、空母機動部隊に随伴できるだけの速度性能を持たない戦闘艦はその戦力的価値を大きく減じていました。

日本海軍の戦艦でそのように空母機動部隊に問題なく随伴できる速度性能を持っていたのは金剛型のみ。

速度性能の高さは重巡と組み合わせて遊撃部隊を編制するなどの用途にも有効で、金剛型が旧式であるにも関わらず活躍したのには性能的理由があるわけです。

大和型もアイオワ級も戦艦ですが、それらは運用思想の異なる兵器であり、大和型を建造することを決めた当時の日本海軍は思想面において大艦巨砲主義の軍隊でした。

だからといってそれをもって当時の日本海軍が悪いとは言いません。

技術革新に伴う戦闘の様相の変化を予測することは困難であり、技術革新に対応するための組織改革にも既得権者の抵抗がありがちで、運用思想が保守的なものになることはよくあることですから。

ただ、大和型とアイオワ級の性質の違いは兵器運用思想において日本海軍がアメリカ海軍に負けていたことを表してはいると思います。

戦艦と空母の建造比率をもって日本海軍の方がアメリカ海軍より航空主兵に転じていたなんていうのは、こういう兵器運用思想の違いを無視した暴論というものでしょう。

日本海軍はもっと戦艦を活用できなかったか

ここからはまったくのおまけ。

第二次世界大戦における戦艦の用法というと機動部隊随伴と艦砲射撃による対地攻撃が思い浮かびます。

機動部隊随伴といえば、大和型はサウスダコタ級と同等の速度性能を持っていたので、サウスダコタ級が空母機動部隊に随伴可能だったことを考えれば(燃料消費を度外視すれば)同様に直援艦として活用できたのではないかと夢想することもあります。例えばもととなった戦艦の性能的に低速な空母であるところの加賀の直援艦とか。

まだ日本海軍に物量があった頃であったミッドウェー海戦で大和を含む「主力艦隊」が後方で無駄に燃料を使っていただけだったことを考えれば日本海軍の兵器運用思想的に無理だったのだろうなあと思いますが。

日本海軍は物量があっても「精緻な作戦」のために戦力を分散しすぎなのではないかと素人目に思いますね。

艦砲射撃による対地攻撃といえば、アメリカ海軍が上陸支援などの艦砲射撃に戦艦を有効活用していたことはよく知られていることです。そういう用途には低速な旧式戦艦も役立ったことも。

そういうように空母機動部隊の艦載機航空優勢を得た上で、戦艦などが艦砲射撃を行い、その上で上陸作戦を実施するというようなことが日本海軍にできたかといえば、方針的に無理だったでしょう。

ミッドウェー海戦で機動部隊の主力を失ってから消極的になり「不沈空母である敵の陸上航空基地を(不沈ではなく可沈の)空母で攻撃するのは不利なので、敵の海上兵力に対してのみ使いたい」*1となってしまった日本海軍には。

その結果が、基地航空部隊による遠距離攻撃、高速戦艦や巡洋艦による通りすがりの奇襲砲撃、敵に遠くに上陸しての(徒歩で運搬可能な装備しか持てない)歩兵による攻撃がバラバラに行われるというよく知られている事態。

戦線を広げすぎて輸送船が不足している状態では戦力の迅速な集中も無理で、乏しい輸送力で前線に戦力を逐次投入しては補給断絶による餓死と各個撃破の繰り返し。

私は日本が大和型建造時点で大艦巨砲主義であったことは仕方がないとは思いますが、こんな敵基地を落とせるわけもない作戦を継続して多くの将兵を無駄に死なせたことは大いに責められるべきことだと思います。

戦線の広げすぎとこういう用途への輸送船の投入が輸送船不足を悪化させている面もあって、資源地帯を押さえていても資源を本土に送る輸送船が不足しているがゆえの生産力低下とか日本側の自滅としかいいようがありません。

この件に関し、敗戦という結果は変わらないとしても、日本軍がしない方がいいことを継続して行ったことは軍事的視点からも批判されて当然のことだと思います。

*1歴史群像2015年8月号P76

2015-03-16

[][]武蔵の煙突後方の三連装機銃のシールドの有無について

『俺の知らない機銃がある……』武蔵生中継でパニックになる模型クラスタのみなさん - Togetterで武蔵の煙突後方の後部艦橋周辺の三連装機銃のシールドの有無が話題になっていましたが、この部分は近年の考証ではシールド有りとなっています。

f:id:D_Amon:20150316185744j:image

MODEL Art (モデル アート) 増刊 帝国海軍戦艦総ざらい 2015年 01月号 [雑誌]」P139より「武蔵」1944年10月レイテ沖海戦時(最終時)の煙突後方部分。画像中の赤字と赤丸は引用者による。


ちなみに大和ではこの部分はシールド無しとなっています。

f:id:D_Amon:20150316185745j:image

戦艦「大和」図面集 (Anatomy of the ship)」P32より、1945年(昭和20)4月、天一号作戦時の戦艦大和の煙突後方部分。画像中の赤字と赤丸は引用者による。


タミヤの1/700キットで武蔵最終時を作る場合、タミヤの1/700武蔵は竣工時の姿であるため、1/700大和を改造して作るのが一般的ですが、その際はこういうところを弄る必要があるわけです。

で、こういう機銃ですが、近年ではファインモールドのナノドレッドシリーズに置き換えるのが主流と思います。

96式25ミリ3連装機銃 シールドタイプ大和用 (1/700 プラスチックモデルキット WA3)

シールド無しの機銃を置き換える場合もナノドレッドシリーズに置き換えるのが主流と思いますが、これ、リニューアル版が発売されたのが、私にしてみれば地味にショックだったりします。

1/700 精密プラパーツナノ・ドレッドシリーズWA25九六式25mm三連装機銃防盾装備 (リニューアル版)

リニューアル前の分の買い溜めの分量ががががが


大和型のキットについてですが、フジミがスナップフィットで多色成型の1/700大和を近日発売します。塗装と接着なしでもそれなりに仕上がるというのは、これからのスケールモデルの生き残りに必要なことの一つと思いますので、こういうフジミの姿勢は大いに評価するところなのですが、同シリーズでレイテ沖海戦時の武蔵もキット化してくれることにも期待しています。今の流れなら絶対にしてくれるだろうとは思いますが。

1/700 艦NEXTシリーズNo.01 日本海軍戦艦 大和

2012-03-16

[]非人道兵器という言葉の意味するところについて

非人道兵器または非人道的兵器は英語ではinhumane weaponsと書きます。*1

この言葉はしばしば特定通常兵器使用禁止制限条約で使用が禁止または制限されている兵器およびジュネーブ条約第一追加議定書第三十五条に基づいてそうされるべき兵器をさす言葉として用いられます。

これは特定通常兵器使用禁止制限条約が非人道兵器と呼ばれる兵器の規制に関する国連会議の結果として結ばれた条約であることと、その国連会議がジュネーブ条約第一追加議定書第三十五条に基づいて規制されるべき兵器に関する議論の結果として開催されたことによります。

A special United Nations conference was convened in 1979 to discuss constraints on the use of so-called inhumane weapons. No weapons can be considered humane.There are, however, substantial differences in the effects various weapons produce-differences in the magnitude and severity of the wounds they cause, as well as in the extent of area they affect and the degree of control that can be exercised by their user.

1979年、非人道兵器と呼ばれる兵器の使用の制約を議論するための特別な国連会議が開催された。人道的とみなされうる兵器はない。しかし、引き起こす傷害の大きさや苦しさにおいて、ならびに効果を及ぼす地域的範囲においてと使用者により行使できる制御の程度において様々な兵器が作り出す差には結果において相当な違いがある。

Bulletin of the Atomic Scientists 1983年1月号P24「The convention on 'inhumane' weapons」より引用。翻訳は引用者による。

戦争の惨禍を無くせないまでも程度問題で兵器の使用を規制することで戦争の惨禍を軽減しようというのは世界をより人道的なものにする上で現実的な考え方というものでしょう。

このような経緯によりCertain Conventional Weapons Convention(略語はCCWCまたはCCW)つまり特定通常兵器使用禁止制限条約はInhumane Weapons Convention(略語はIWC。訳すなら非人道兵器条約。CCWCを特定通常兵器使用禁止制限条約と訳すのに倣うならば非人道兵器使用禁止制限条約)とも呼ばれます。

非人道兵器という言葉は程度問題で兵器を分ける言葉であり、特定通常兵器使用禁止制限条約は程度において線引きを越える兵器を非人道兵器と呼びその使用を制限しようというもので、非人道兵器とみなされた兵器以外は人道兵器ということではありません。

報道においてクラスター爆弾や対人地雷といった兵器が非人道兵器と呼ばれるのは、それらの兵器が特定通常兵器使用禁止制限条約で使用が規制されていたり規制の議論がされていたりすることや特定通常兵器使用禁止制限条約の成立過程を考えれば当然のことなわけです。


どのような兵器が非人道兵器なのか

ジュネーブ条約第一追加議定書には以下のように記されています。

第三十五条 基本原則

1 いかなる武力紛争においても、紛争当事者が戦闘の方法及び手段を選ぶ権利は、無制限ではない。

2 過度の傷害又は無用の苦痛を与える兵器、投射物及び物質並びに戦闘の方法を用いることは、禁止す

る。

3 自然環境に対して広範、長期的かつ深刻な損害を与えることを目的とする又は与えることが予測される

戦闘の方法及び手段を用いることは、禁止する。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/k_jindo/pdfs/giteisho_01.pdf

Inhumane Weaponsつまり非人道兵器がこのような原則に基づいて規制されていることは下記に引用翻訳しているような記述から明らかです。

It is founded upon the principle that the means and methods of warfare are not unlimited and that such means and methods "of a nature to cause superfluous injury or unnecessary suffering" or "widespread long-term and severe damage to the natural environment" are prohibited.

それは戦闘の手段と方法は無制限ではないこと及び”過度の傷害または無用の苦痛を引き起こす性質を持つ”または”自然環境に対して広範、長期的かつ深刻な損害”のある手段と方法は禁じられているという原則に基づいています。

http://www.parliament.uk/briefing-papers/RP95-17.pdf

「The Inhumane Weapons Convention and the Question of Anti-personnel Land Mines(非人道兵器条約と対人地雷問題)」P6より引用。翻訳は引用者による。

この種の兵器の不法な使用は「ジュネーブ条約に違反する」と言われることがあります。

”unnecessary suffering”つまり”無用の苦痛”(”不必要な苦痛”とも訳される)を引き起こす兵器はハーグ陸戦条約を見ればわかるようにジュネーブ条約第一追加議定書以前から規制されており、その使用は「陸戦条約に違反する」と言われることもあります。


どのような兵器が”無用の苦痛”を引き起こすとされているか

国際赤十字のサイトには国際人道法について説明しているページがあります。

その中の”過度の傷害または無用の苦痛を引き起こす性質を持つ兵器”について記述しているページ*2の中からオランダの軍事教本を基に具体例を説明している部分を以下に引用・翻訳します。

The Military Manual (2005) of the Netherlands states that “it is inadmissible for weapons and methods of combat to … cause excessive suffering or excessive damage to non-military targets (collateral damage)”.

The manual further states: “Methods and means of warfare which cause excessive injury or unnecessary suffering are forbidden.”

The manual also states:

A bayonet or combat knife is not prohibited. It is prohibited to modify bayonets and knives, for example with a saw blade or barb. This prohibition stems from the ban on using weapons, projectiles or substances which may cause unnecessary suffering.

In addition, the manual states that “[t]he question whether a non-lethal weapon can be used as a form of warfare will primarily depend on whether such a weapon”, inter alia, “causes no excessive injury or unnecessary suffering”.

In its chapter on non-international armed conflict, the manual states:

It is prohibited to use weapons causing unnecessary suffering or excessive injury, or that are indiscriminate. This means that biological, chemical, toxic or intoxicating weapons, dumdum bullets, saw-blade bayonets, weapons which cause injury by non-detectable fragments, anti-personnel mines and booby traps, blinding laser weapons and firearms whose primary purpose is to cause burn injuries to persons are forbidden.

In its chapter on peace operations, the manual states that the use of methods and means which “cause excessive injury or unnecessary suffering” must be avoided.

オランダの軍事教本(2005)は「非軍事目標に過度の苦しみまたは過度の被害を引き起こす(付随的被害)…兵器と戦闘方法は認容できない」と述べています。

その教本は更に「過度の傷害または無用の苦痛を引き起こす戦闘方法及び戦闘手段は禁じられている」と述べています。

その教本はこうも述べています。

銃剣やコンバットナイフは禁じられていない。銃剣やナイフを例えば鋸刃や逆刺に加工することは禁じられている。この禁止は無用の苦痛を引き起こす兵器、発射体、または物質の使用の禁止に由来する。

さらに教本はこう述べています。「非致死性兵器を戦闘手段として使用できるかという問題は主にそのような兵器が、とりわけ、過度の傷害または無用の苦痛を引き起こさないか、による」

非国際的武力紛争に関する章ではその教本は以下のように述べています。

無用の苦痛または過度の傷害を引き起こす、または無差別な効果を有する兵器の使用は禁止されている。これは生物兵器、化学兵器、毒性兵器または毒を施す兵器、ダムダム弾、鋸刃化した銃剣、検出不可能な破片による傷害を引き起こす兵器、対人地雷とブービートラップ、失明をもたらすレーザー兵器、そして人に熱傷を引き起こすことを主目的とする火器が禁止されていることを意味する。

平和活動に関する章ではその教本は「”過度の傷害または無用の苦痛を引き起こす”方法と手段の使用は避けられなければならない」と述べています。

http://www.icrc.org/customary-ihl/eng/docs/v2_rul_rule70

生物兵器や化学兵器などが規制されているのは当然として、鋸刃化した刃物が”無用の苦痛を引き起こす兵器”として規制されていることがわかります。

特定通常兵器使用禁止制限条約で規制されているものだけが規制されている通常兵器ではないということです。

その手の知識を持つ人には常識的なことですが、鋸状の刃物で切られた傷は肉が削り取られた分、傷が塞がりにくく、その傷は切れ味のよい刃物で切られた傷より治りにくいものになります。

そういう”癒え難い傷”を引き起こす兵器は”無用の苦痛”を引き起こす兵器とみなされる兵器の一種というわけです。

非人道兵器に関する報道で”癒え難い傷”や”無用の苦痛”が言及されることがある理由がよくわかると思います。


まとめ

非人道兵器という言葉は特定通常兵器使用禁止制限条約で規制されている兵器のように国際人道法上規制されている兵器や国際人道法上そうされるべき兵器を意味する言葉として国際的に使われている用語であり、報道や人権団体が勝手に貼ったレッテルではありません。

失明をもたらすレーザー兵器のような非致死性兵器が特定通常兵器使用禁止制限条約の対象となっていることから明らかなように、殺傷力は非人道兵器とみなされるのに必ずしも必要な条件ではありません。つまり、ある兵器が非人道兵器とされていることに対し殺傷力がより高い兵器を挙げることはある兵器が非人道兵器とされていることに対する反論として意味がありません。

国際人道法の解釈と運用については実際に各国でどのように解釈され運用されているかなどについて知ることが重要で、そのためには国連文書や各国の軍事教本といった多数の資料(主に外国語)を読むなどの研究を行う必要があります。そのような地道な研究に労力を払うことを厭うならば、軍事法務官のような専門家や軍事関係の専門知識を持つスタッフがいる外国の報道や人権団体の主張を受け入れればいいでしょう。そのような研究もせず(日本語訳された)条文だけを読んで独自解釈したりそれを受け売りしたりすることは慎重でも誠実でもありません。

*1:同じく非人道兵器と訳される言葉としてWeapon Against Humanityがあります。

*2:セント・ピータースブルグ宣言以降の戦争法についてと各国でのその運用について記述しているページ

2010-09-01

[][]パリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)と満州事変

この記事は日中戦争を中国による日本侵略だと言う人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで取り上げたような「日中戦争は中国による日本への侵略戦争だ。なぜならそれは中国の先制攻撃であり、ゆえにパリ不戦条約で定義された侵略戦争にあたるからだ」というような主張に対する反論記事です。

パリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)

パリ条約、パリ不戦条約とも呼ばれるケロッグ‐ブリアン条約に関する百科事典での記述は以下のリンクから読むことができます。


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この記述は短くもよくまとまった解説だとは思うのですが、この記事の題材的には説明が不足しています。そこで、Answers - The Most Trusted Place for Answering Life’s Questionsに掲載されている外国の百科事典でのパリ不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約)に関する記述の内、二つを翻訳してみました。


まずはUS History Encyclopedia(合衆国歴史百科事典)の場合。

Kellogg-Briand Pact (also called the Pact of Paris), signed 27 August 1928 by 15 nations, reflected the movement to outlaw war to prevent a recurrence of the carnage of World War I. French foreign minister Aristide Briand initially proposed a bilateral treaty renouncing war as a method of settling disputes between France and the United States and drawing the United States into its defensive system against Germany. U.S. support for the pact came from both ends of the political spectrum. Interventionists thought it would lead to U.S. acceptance of the League of Nations; isolationists and peace groups hoped it would end war. Charles Lindbergh's successful solo crossing of the Atlantic and subsequent landing in Paris in May 1927 also helped boost Briand's efforts. Secretary of State Frank Kellogg, fearful that signing the treaty could drag the United States into a European war on the side of France, expanded the proposed agreement to a multilateral treaty renouncing war. Briand had no choice but to accept the pact, which was moral in tone but lacked force and did not bind America to any European treaty system. Subsequently, when Japan seized Manchuria in 1931, when Italy took over Ethiopia in 1935, and later when Germany began its expansion in the late 1930s, the Pact was exposed as the toothless treaty it had been all along.


1928年8月27日に15カ国が署名したケロッグ‐ブリアン条約(パリ条約とも呼ばれる)は第一次世界大戦の惨禍の再現を防ぐための戦争を違法化するための運動が反映されたものです。フランスのアリスタイド・ブリアン外相は、当初、フランスとアメリカ合衆国の間の論争を解決し、アメリカ合衆国をドイツに対しての防御システムに引き込む方法として米仏二国間不戦条約を申し出ました。米国は両端な政治的思想からその条約を支援しました。干渉主義者はそれが国際連盟加盟へ米国を導くだろうと考えました。孤立主義者と平和主義者はそれが戦争をなくすだろうと期待しました。1927年5月のチャールズ・リンドバーグによる大西洋単独横断飛行成功と続けてのパリへの着陸もまた条約締結の進展に役立ちました。条約に調印することがアメリカ合衆国をフランスに味方してのヨーロッパでの戦争に引きずり込むことになるのではと心配していたフランク・ケロッグ国務長官は提案された協定を戦争放棄多国間条約に拡大しました。ブリアンは、正しく道徳的ではあるものの、強制力を欠きアメリカを少しもヨーロッパの条約制度に拘束しないその条約を受け入れるほかありませんでした。その後、日本が1931年に満州を制圧したとき、イタリアが1935年にエチオピアを支配したとき、ドイツが1930年代後期に領土拡大を開始したとき、この条約はまったくもって無力な条約であることを暴露しました。

「翼よ。あれが巴里の灯だ」がそういう働きをしていたのかという話はさておき、満州事変の扱いに注目。明らかに戦争をなくすための戦争違法化条約が戦争をなくすのに役立たなかった事例として扱われています。


次にLaw Encyclopedia(法律百科事典)の場合。

Kellogg-Briand Pact
ケロッグ‐ブリアン条約

The Kellogg-Briand Pact, also known as the Pact of Paris, was a treaty that attempted to outlaw war (46 Stat. 2343, T.S. No. 796, 94 L.N.T.S. 57). The treaty was drafted by France and the United States, and on August 27, 1928, was signed by fifteen nations. By 1933 sixty-five nations had pledged to observe its provisions.

パリ条約としても知られるケロッグ‐ブリアン条約は、戦争を違法化しようとした条約でした。(46 Stat. 2343、T.S. No.796、94 L.N.T.S. 57)この条約はフランスとアメリカ合衆国によって起草されて、1928年8月27日に15の国によって調印されました。1933年までに、65の国がその条項を守ると誓いました。


Kellogg-Briand contained no sanctions against countries that might breach its provisions. Instead, the treaty was based on the hope that diplomacy and the weight of world opinion would be powerful enough to prevent nations from resorting to the use of force. This soon proved to be a false hope; though Germany, Italy, and Japan were all signatories, the treaty did not prevent them from committing aggressions that led to World War II.

ケロッグ‐ブリアン条約は、その条項を破ろうとする国に対する制裁を含みませんでした。その代わり、この条約は外交と世界的世論の重圧が、国家が実力行使に訴えることを防ぐのに十分に強力だろうということを頼みにしていました。これはすぐに空頼みであると判明しました。ドイツ、イタリア、日本は全て条約加盟国でしたが、この条約はそれらの国が後に第二次世界大戦に至る侵略を行うのを防ぎませんでした。


The origin of the Kellogg-Briand Pact was a message that the French foreign minister, Aristide Briand, addressed to the citizens of the United States on April 6, 1927, the tenth anniversary of the United States' entrance into World War I. In this message Briand announced France's willingness to join the United States in an agreement mutually outlawing war. Such an agreement, Briand stated, would "greatly contribute in the eyes of the world to enlarge and fortify the foundation on which the international policy of peace is being erected." Briand's overture to the United States was part of a larger campaign that France was waging to form strategic alliances that would improve its national security. In addition, Briand was influenced by recent conversations with Nicholas Murray Butler and James Thomson Shotwell, U.S. academics who were leaders in the burgeoning U.S. political movement to outlaw war, also known as the outlawry movement.

ケロッグ‐ブリアン条約の原型はフランスの外務相であるアリスタイド・ブリアンが、アメリカ合衆国第一次世界大戦参戦10周年の記念日である1927年4月6日に、アメリカ合衆国国民に演説した声明でした。この声明でブリアンは、互いに戦争を違法化する協定にアメリカ合衆国が加わることをフランスが欲していることを宣言しました。そのような協定は「世界的見地で国際的な平和政策が制定される基盤を拡大し強化することに大いに寄与する」だろうとブリアンは述べました。アメリカ合衆国へのブリアンの予備交渉は、フランスが自国の国家安全保障を改善する戦略的同盟を組織するために行っていた、より大きな運動の一部でした。その上、ブリアンは、「違法化運動」としても知られる、戦争を違法化するための米国での政治運動の芽生えの先導者であった米国の学者であるニコラス・マレイ・バトラーとジェームス・トムソン・ショトウェルとの最近の対談に影響されていました。

Initially, Briand's offer generated little reaction in the United States. The U.S. State Department made no response, apparently considering Briand's statement to be simply an expression of friendship. Not until certain leaders in the peace movement, notably Butler, began to generate widespread public support for Briand's proposal did the government become involved. But by the middle of June 1927, France and the United States had begun diplomatic conversations aimed at reaching the sort of agreement Briand had proposed in his address.

最初の内は、アメリカ合衆国ではブリアンの提案への反応は殆どありませんでした。米国務省は、どうやらブリアンの声明が単なる友情の表現と考えたのか、応答しませんでした。著名な平和運動の先導者たち、特にバトラー、がブリアンの提案に対する広範囲にわたる公の支援をやり始めるまで政府は関わってきませんでした。しかし、1927年6月の中頃までには、フランスとアメリカ合衆国は、ブリアンが演説において提案した種類の協定への到達を目的とする外交的会談を開始しました。


On June 20 the State Department received the Draft Pact of Perpetual Friendship between France and the United States, written by Briand and transmitted through the U.S. ambassador in Paris. The draft contained just two articles: the first declared that France and the United States renounced war "as an instrument of their national policy towards each other," and the second declared that all conflicts between the two nations would be settled only by "pacific means." Secretary of State Frank B. Kellogg and other officials in the U.S. State Department were uncomfortable about entering into such an agreement with France alone, fearing that it would amount to an indirect alliance that would deprive the United States of the freedom to act if France were to go to war with another country. Instead, U.S. officials preferred to expand the agreement into a multilateral treaty involving all the world powers except Russia. On December 28, therefore, Kellogg told Briand that the United States was prepared to enter into negotiations with France to construct a treaty that would condemn war and renounce it as an instrument of national policy; when concluded, the treaty would be open to signature by all nations.

6月20日、国務省は、ブリアンによって書かれ、パリの米国大使を通して送られた、米仏永久友好条約草案を受け取りました。その草案はちょうど二つの条文を含んでいました。第一条、フランスとアメリカ合衆国は「相互に国家の政策の手段としての」戦争を放棄することを宣言する。第二条、全ての二国間の衝突は「平和的手段」のみで解決することを宣言する。フランク・B・ケロッグ国務長官と他の米国務省高官たちは、その協定はもしフランスが別の国と戦争になった場合、米国の行動の自由を奪うだろう間接的同盟になるだろうという恐れから、フランスだけとそのような協定を結ぶことに不安でした。その代わり、米国の高官たちはロシア以外の全ての国が参加する多国間条約に拡大することを主張しました。12月28日、かくして、ケロッグはブリアンに、米国はフランスとともに、戦争を禁止し国家の政策の手段としての戦争を放棄する条約、それも完成した際には全ての国によって調印されるように開かれた条約、を構築するための交渉を始める用意ができていると話しました。


France accepted the United States' offer, and treaty negotiations began in January 1928. By early April the four other Great Powers ― Germany, Great Britain, Italy, and Japan ― were invited to enter the discussions. Soon after, the invitation was extended to Belgium; Czechoslovakia; Poland; India; and the five British dominions, Australia, Canada, Irish Free State, New Zealand, and South Africa. Several of the parties wanted specific conditions and reservations included in the treaty. These issues were resolved, and on August 27, 1928, diplomats from the fifteen countries met in Paris to sign the treaty. By 1933 fifty additional countries had agreed to observe the treaty's provisions.

フランスは米国の申し出を受け入れました。そして、条約交渉は1928年1月から始まりました。4月初めには、4つの他の列強-ドイツ、イギリス、イタリア、日本-が議論に加わるように招待されました。まもなく、その招待はベルギー、チェコスロバキア、ポーランド、インド、そして、オーストラリア、カナダ、アイルランド、ニュージーランド、南アフリカといった五つの英国の領国にまで広げられました。それらの国のいくつかは条約に特定の条件条項と制限が含まれることを望みました。これらの問題は解決され、1928年8月27日、15カ国の外交官が条約に調印するためにパリに集まりました。1933年までには、さらに50カ国が条約の条項を守ることに同意しました。


The final text of the Kellogg-Briand Pact, like the original draft, was extremely simple and contained just two principal articles. The first stated that the contracting parties "condemn[ed] recourse to war for the solution of international controversies, and renounce[d] it as an instrument of national policy in their relations with one another." In the second the parties agreed that "the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise between them, shall never be sought except by pacific means." The treaty therefore outlawed war entirely, providing no exceptions to this general prohibition. The parties, however, generally recognized that war would be permissible in the case of self-defense; several signatories, including the United States, had submitted diplomatic notes prior to the treaty's ratification indicating their understanding that wars entered into in self-defense would be lawful.

ケロッグ‐ブリアン条約の最終的な文面には、当初の草案のような、とても単純で、ちょうど二つの主要な条文を含んでいました。第一条は、締約国は「国際的な異論の解決手段として戦争に頼ることを禁止し各自の相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄すること」を述べていました。第二条は、締約国は「相互間で起こるかもしれない全ての論争または衝突は、いかなる性質だろうといかなる原因だろうと、平和的手段以外の方法での処理または解決を決して求めないこと」を約定しました。この条約は、かくして、戦争の全面的禁止に例外を規定することなく、完全に戦争を違法化しました。しかしながら、締約国は自衛の場合の戦争は許容されると一般に認めました。アメリカ合衆国を含むいくつかの調印国は自衛の場合に開始された戦争は合法であると了解していることを示す外交証明書を条約の批准前に提出しました。


When it was signed, the Kellogg-Briand Pact was considered a tremendous milestone in the effort to advance the cause of international peace. In 1929 Kellogg received the Nobel Peace Prize for his work on the treaty. Events soon showed, however, that the pact did not prevent or limit war between the nations. The primary problem was that the treaty provided for no means of enforcement or sanctions against parties who violated its provisions. In addition, it did not address the issues of what constituted self-defense and when self-defense could lawfully be claimed. Because of these large loopholes, the Kellogg-Briand Pact was ultimately an ineffective method for achieving the ambitious and idealistic goal of outlawing war.

この条約が調印されたとき、ケロッグ‐ブリアン条約は国際平和運動を促進させる作用において非常に素晴らしい出来事とみなされました。1929年、ケロッグはこの条約における彼の業績によりノーベル平和賞を受賞しました。しかしながら、複数の出来事がこの条約は国家間の戦争を防ぎも制限もしないことをすぐに示しました。主要な問題は、この条約の条項に違反した締約国に対する強制の手段も制裁も規定しなかったということでした。そのうえ、この条約は、何が自衛を構成するのか、いつ自衛を合法的に要求することができるのかという問題を解決しようとはしませんでした。これらの大きな抜け穴のため、ケロッグ‐ブリアン条約は、最終的には戦争を違法化するという野心的で理想主義的な目標を達成するのに効果のない方法でした。

最初の内のブリアンのスルーされっぷりが憐れをさそうなあ。外交って難しいね。というような話はさておき、日本の扱いとパリ不戦条約の実態に注目。

不戦条約締約以降で第二次世界大戦勃発以前の日本のある行為、文脈的には日本の中国での行為、は侵略(aggression)として扱われていますし、パリ不戦条約は侵略を明確に定義するどころか、何をもって自衛となるのかということすら明確に定義していない条約なわけです。


こういう条約の成立経緯とその解釈のされ方を踏まえた上で、条約の条文を見てみましょう。

まずは英語版から。

ARTICLE I

第一条

The High Contracting Parties solemly declare in the names of their respective peoples that they condemn recourse to war for the solution of international controversies, and renounce it, as an instrument of national policy in their relations with one another.

締約国は、国際的な異論の解決手段として戦争に頼ることを禁止し、各国の相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各国の人民の名において厳粛に宣言する。


ARTICLE II

第二条

The High Contracting Parties agree that the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise among them, shall never be sought except by pacific means.

締約国は、相互間で起こるかもしれない全ての論争または衝突は、いかなる性質だろうといかなる原因だろうと、平和的手段以外の方法での処理または解決を決して求めないことを約定する。


ARTICLE III

第三条

The present Treaty shall be ratified by the High Contracting Parties named in the Preamble in accordance with their respective constitutional requirements, and shall take effect as between them as soon as all their several instruments of ratification shall have been deposited at Washington.

本条約は前文に国名のある締約国により各国の憲法上の要件に従って批准される義務があり、各国の批准書がワシントンに寄託されてすぐに締約国間で発効される義務がある。

Page Not Found | Yale Universityより引用。翻訳は引用者による。


次は旧字旧かなの日本語版。

第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス

第一条 締約国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非とし、かつ、その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す


第二條 締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス

第二条 締約国は相互間に起ることあるべき一切の紛争又は紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段によるのほか、これが処理または解決を求めざることを約す


第三條 本條約ハ前文ニ掲ケラルル締約國ニ依リ其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ從ヒ批准セラルヘク且各國ノ批准書カ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約國間ニ實施セラルヘシ

第三条 本条約は前文に掲げらるる締約国によりその各自の憲法上の要件に従い批准せらるべく、かつ、各国の批准書が総て「ワシントン」において寄託せられたる後、ただちに締約国間に実施せらるべし

no titleより引用。新字新かなは引用者による。


英語版と日本語版のいずれにしても、読めばわかるとおり、戦争放棄の条約であることは明確に記述されていますが、侵略(aggression)の定義などどこにも書かれてはいません。

百科事典の記述から明らかなように、パリ不戦条約は戦争放棄の条約であり、しかしながら自衛権は否定しないと解釈されていることから、自衛戦争以外の全ての戦争を違法化した条約であるわけです。そして、その自衛すら明確に定義されることがなかったゆえに、結局、戦争を防止するような効果を持ちえませんでした。

しかし、まったく意味がなかったわけではありません。この条約は「平和に対する罪」の概念のもとになったのですから。


Kellogg-Briand Pact
ケロッグ‐ブリアン条約

The Kellogg-Briand Pact, also known as the Pact of Paris after the city where it was signed on August 27, 1928, was an international treaty "providing for the renunciation of war as an instrument of national policy." It failed in its purpose but was significant for later developments in international law. It was named after the American secretary of state Frank B. Kellogg and French foreign minister Aristide Briand, who drafted the pact.

ケロッグ‐ブリアン条約(その条約が1928年8月27日に調印された都市からパリ条約としても知られる)は「国家の政策の手段としての戦争の放棄を定めた」国際条約でした。この条約はその目的には失敗しましたが、国際法の後の発展に重大な意義がありました。この条約はアメリカのフランク・B・ケロッグ国務長官とこの条約を立案したフランスのアリスタイド・ブリアン外務相の名をとって名づけられました。


In its original form, the Pact of Paris was a renunciation of war between France and the United States. However, Frank B. Kellogg, then U.S. Secretary of State, wanted to avoid any involvement in another European war; Kellogg thus responded with a proposal for a multilateral pact against war open for all nations to become signatories. The Pact failed to prevent World War II but it did introduce into international law the notion of crime against peace and it was for committing this crime that the Nuremberg Tribunal sentenced a number of persons responsible for starting World War II. The ideal of ending war informed the Charter of the United Nations, and is in theory binding on all member states. The weakness of the Pact was that it made no provision for policing conformity, and did not take account of the fact that nations will act in what they perceive to be their best interests even if this means justifying war, despite the Pact.

パリ条約は、その原型において、フランスとアメリカ合衆国の間の戦争放棄でした。しかしながら、米国の国務長官であったフランク・B・ケロッグは、他のヨーロッパでの戦争へのどのような関与をも避けたかったので、全ての国が署名者となるような開かれた多国間不戦条約の提案で返答しました。この条約は第二次世界大戦を防ぐことはできませんでしたが、平和に対する罪の概念を国際法にもたらし、この罪を犯したとしてニュルンベルク裁判では第二次世界大戦開戦に責任がある人々が裁かれました。戦争をなくそうという理念は国連憲章に受け継がれ、理論的には全ての加盟国がその義務を負っています。この条約の弱点は、「抜け目ない順応」への用意が無く、国々が各自の最大の利益になることをつかみ取るように行動するだろうこと、まさに、これはこの条約があろうと戦争を正当化しようとすることを意味する、という事実を考慮しなかったことです。

Kellogg-Briand Pact - New World Encyclopediaより冒頭一部を引用。翻訳は引用者による。


というわけで、ここまで書けば「日中戦争は中国による日本への侵略戦争」云々という主張はまったく成り立たないということは明らかなのではと思います。パリ不戦条約は侵略を明確に定義するなんてことはしていませんし、満州事変は当時からパリ不戦条約違反として扱われていたのですから。

「戦争」と「侵略戦争」の違いについて -「戦争」と「侵略戦争」は違う- 歴史学 | 教えて!gooで満州事変や第一次上海事変の名が上がっていたことから、この記事では満州事変を日中戦争の起点として扱いましたが、通常そうするように日中戦争の起点を盧溝橋事件とする場合でも、暴支膺懲(「乱暴な中国を懲らしめてやる」ということ)のどこが「conflict(衝突、紛争。条文での訳は紛議)の平和的手段による処理または解決」なのかということになるというものでしょう。

結局のところ、この手の主張は条約に対しその歴史的経緯を無視して条文を独自解釈することによる捻じ曲げでしかありません。

満州事変の影響

ここからは満州事変に対する個人的意見なのですが、満州事変とその後の傀儡政権の樹立は本当にどうしようもない悪影響を日本にもたらしたと私は思います。

その中でも特に大きいと思うのが以下の二点。

  • 各国との関係悪化の始まり
  • 日本軍における無法な独走の常習化

以下、簡単にどうしてそう思うかを説明します。

各国との関係悪化の始まり

満州事変当時の時代背景というと、中国大陸は軍閥が割拠していた時代であり、日本も含む列強国がその中国大陸での権益を狙っていた時代であり、その権益をめぐっての衝突を避けるために九カ国条約を結んでいた時代だったわけです。平たく言うと抜け駆け禁止を互いに約束していたわけですね。

で、そういうように約束していたにも関わらず日本は満州事変とその後の傀儡政権樹立で満州を事実上の植民地にしてしまいました。

それは非難されるのも当然なわけで、各国との関係が悪化するのも当然なわけです。

九カ国条約違反にパリ不戦条約違反というように、日本のその行動は当時の価値観から見ても無法な振る舞いでした。満州の状況を調べるために派遣されたリットン調査団の国際連盟に対する報告書でも満州事変は不戦条約違反とされ、満州の自治政府化が提案されました。国際連盟ではそれがほぼ満場一致で採択されました。シャム(タイ)のみが棄権し、反対は日本だけでした。当時、日本は国際連盟の常任理事国だったわけですが、その日本代表の松岡洋右はこの結果に対して延々二時間演説した後に退席し、日本は国際連盟を脱退してしまいました。

日本が満州の経営において権益独占のために外国企業の参入を制限したのも各国との関係悪化に拍車をかけました。

このような中国大陸における日本側の様々な行動による諸外国との関係悪化は日米関係も例外ではなくハル・ノートと太平洋戦争にまで尾をひいていくことになるわけです。

本当、ろくでもないですよね。

日本軍における無法な独走の常習化

満州事変が満鉄爆破事件という日本陸軍関東軍の自作自演の謀略で始まったことは有名なことですが、その謀略抜きでも、関東軍の行いは当時の価値観でも条約違反でした。おまけにそのような軍事行動は当時の日本では天皇の命令(統帥)無しに実行してはいけないものであり、首謀者は軍法会議に処されてもおかしくないものでした。にもかかわらず、日本政府はそれを追認し実行者を処分することもしませんでした。この時点でこの件に関する国家責任の発生は避けえないことというものでしょう。

そして、このことは日本において「功績さえ立ててしまえば罪は問われない」という既成事実をも作ってしまいました。日本は現地軍の将校が功績を求めて勝手に戦争を拡大させるのを止めることができなくなってしまったわけです。

例えば、満州事変の首謀者の一人であった石原莞爾は、(盧溝橋事件以降の)日中戦争不拡大派でしたが、その自らの行為ゆえに日中戦争の拡大を止めたくとも止められませんでした。

結果として数々の戦争犯罪をもひき起こした亡国の戦争の背景には日本国の「監督責任の放棄」があり、満州事変に対し実行者の責任を問わなかったことが後々まで尾をひいているわけです。

本当、ろくでもないですよね。

日本を「信用できない無法者国家」としたのは日本自身。当時の日本軍の行為に対し、軍が勝手にやったこととして国家責任を免れることはできないのは当然と私は思います。

満州事変までは良かった?御冗談を

満州事変以降の大日本帝国の行いを振り返ると、王道楽土にしても五族協和にしても結局はそういう理念で動く人々を騙して動員するための嘘っぱちだったではないか、というようにふつふつと怒りがわいてくるのですが、そういうことはさておき、満州事変はかつての日本の転落へのループの起点だったと私は思います。

どういうループかというと、こういうループ。


無法な国外進出→国際的孤立→軍事力整備目標上昇による資源浪費と経済制裁による資源減少と戦争による損耗(と破壊活動による資源不達)→資源不足→資源不足補填の必要性→(資源を求めての)無法な国外進出


無法な国外進出が国際的孤立を招き、国際的孤立から軍事力増強の必要性を増し、国力不相応な軍事力増強と軍事力行使をすることで国が貧しくなっていくということを繰り返す負のループ。

国を富ませ、その資金力で軍事力を増強するのが富国強兵とするならば、その逆を行く強兵貧国。

当時の日本は、ある一面においては、こういう負のループにはまって転がり落ちていったのだと私は思います。

その果てが国防資源を求めての南進であったり、対米開戦であったり、労働力不足を補うための中国大陸での労働者狩り(強制連行)だったりしたのだと。

これはあくまである一面においてであって、当時の日本は様々な面で負のループにはまっていたと思います。

例えば、軍事侵攻に伴う犠牲者を英霊と祀りあげた結果、撤兵すべき状況なのにも関わらず「英霊に申し訳ない」と撤兵できず、ずるずると戦域を拡大し続けるしかなくなり、それに伴い英霊も増えていくという(国民を心理面で操作するための)「英霊メソッド」の陥穽にはまった結果の戦域拡大ループ。

あるいは、戦争賛美の言論と表現しか認めないように統制した結果、国民が(例えば国際連盟脱退に狂喜するような)熱狂状態となり、「政府の弱腰」に対する国民の批判を恐れて国家の選択肢が制限され、その結果の状況の悪化からさらに言論と表現を統制していくという言論統制ループ、というように。*1

援蒋ルート(連合国から中国国民党への補給路)を断つための仏印進駐など、日中戦争に勝利するために作戦上の必要性からの行動をすればするほど、政治面で対米関係が悪化していき、結果アメリカとの戦争にいたるというのも相当な悪循環というものでしょう。こういうところを見ると、対米英関係より中国侵略を優先した結果が米英との関係悪化であり太平洋戦争なんですよね。*2

で、そういうループを脱せなかったかといえば、そうではないと私は思います。

国内でいえば、経済的合理性から満州などの植民地放棄を説く石橋湛山の小日本主義があったわけですし、国外でいえば、米英は日中戦争を止めるための働きかけを日中双方に行っていたわけですから。

結局のところ、石橋湛山の主張は受け入れられるどころか、言論統制に伴い石橋湛山は自由にものが言えなくなっていき、日本は米英による停戦の働きかけを受け入れるどころか、高望みし過ぎな停戦交渉を独自に行って失敗という結果だったわけですが。


しかしまあ、あれですよね。

満州事変に対する国際連盟の対応といい、仏印進駐に対する米国の経済制裁といい、真珠湾艦隊の演習による軍事的圧力といい世界は日本に対して「正しいメッセージ」を送っていたわけです。少なくとも弱腰ではなかったわけです。

にも関わらず、日本は自らの行動をエスカレートさせていってしまったと。

「間違ったメッセージ」を送って行動をエスカレートさせてしまったというのなら、まだ分からないでもないですが、このような反応をする国は歴史の例外事例であってほしいものですよね。

まあ、正しいことであろうと言われれば言われるほど被害者意識に凝り固まって反発し意固地になるのは日本に限らない人類の病理というものかもしれません。だとすれば、そういうのは克服されるべきだと私は思いますが。

日本の歴史問題において、何度謝罪してもその謝罪を無にするような言動を行うような人がいるがゆえに謝罪を繰り返さざるをえないのに、そういう状況に対して「何度謝罪すればいいんだ」と逆上するような言動を行う人を見ると、未だにそういうのを克服できていないんだなあ、なんて私は思います。

「何度謝罪すればいいんだ」と言うような人は、謝罪を無にするような言動を行うような人を批判するのが一番手っ取り早いと思うのですが、そういう合理的な振る舞いを行える人が少なそうなのもなんともはや。

まともに頭を下げることもできないなんていうのは大人の振る舞いではないと私は思うのですが、そういう社会常識を共有できそうにないところも困ったものだと思います。

頭を下げたくないという感情に負けて謝るべきことでも謝れないなんていうのはお子様な振る舞いというもの。そうではないですか?成熟した大人ならば大人としての誇りを持ちたいものですよね。


本筋には関係ないですが、「歴史に学べ」とか言う人々が本当に歴史に学ぶべきと思っているのであれば、大日本帝国の滅亡の歴史に大いに学べるはずだと私は思います。

当時の日本は軍事力行使と外交において弱腰どころか、石油や工作機械など日本の工業は米国からの輸入に依存していたにも関わらず、その米国との関係悪化も辞さない強気ぶり。

当時の日本は軍事軽視どころか、国力が圧倒的に違うアメリカ相手に互角に戦えるような軍事力の整備を試みるほどの軍事重視。*3

程度問題にしても、その大日本帝国の滅亡の歴史(と戦後の日本国の発展)を考えれば、近現代の歴史の教訓とやらは自ずと導き出されるというものではないでしょうか。*4


あと、私は、太平洋戦争時の日系人収容所など当時の米国における日系人の扱いに対して怒る一方で出自による差別を平気で行うような人間には「歴史に学べ」なんて言う資格は無いと思いますが、「歴史に学べ」とか言う人にそういう人はいませんよね?というか、この前段は不要ですね。出自による差別を行うような人間に「歴史に学べ」とか言う資格は無い。それで十分。

*1:当時の日本の選択ミスに対して「国民の反対を考えればそうするしかなかった」というような「弁解」を聞くと「誰が国民をそうしたの?」と言いたくなります。

*2:こういう負のループは日本に限らないことだと思います。例えば、「ロケット技術・核技術開発とその海外販売」などで負のループにはまっているのが今の北朝鮮だと私は思います。

*3:その名分で軍備を整備した以上、海軍にとってアメリカとの戦争を無理とは言えない状況になってしまった面もあったと言われるほど。

*4:軍事重視より国際関係重視の方が優先度が高い。国際関係重視外交を弱腰と認識する方がおかしい。などなど

2010-05-04

[][]偽の脅威に騙されるな : ドイツ軍ラインラント進駐の教訓

一九三六年三月七日未明、ヒトラーは軽装備の歩兵一九個大隊を、静かにラインラントヘと進めさせ、そのうちの三個大隊には、ライン川の西岸にまで進出させた。

ヒトラーはそれから四八時間にわたり、固唾を呑んでフランスとイギリスの対応を注視したが、英仏両国は意外にも、明白なヴェルサイユ条約違反であるドイツ側の行動を、軍事力を用いて阻止しようとはしなかった。

英仏両国の政府と軍の上層部は、ドイツ空軍が新鋭機を用いて行っていた派手な宣伝活動に幻惑されて、ドイツの軍事力、とりわけ航空兵力を過大評価していた。

そのため、現時点で英仏とドイツの新たな戦争が勃発すれば、自国の工業地帯がドイツ空軍の爆撃を受けて壊滅する可能性も無視できないとの判断から、英仏両国政府は「ラインラントの将来はドイツ政府を信頼して任せ、ヒトラー政権との間で新たな平和機構の樹立を目指すのが最善の道だ」とする、いわば妥協的な結論に到達していたのである。

「ポーランド電撃戦」P28-29より。

ドイツ軍のラインラント進駐に対する英仏両国の対応は「チェンバレンの宥和政策」と並び、しばしば「平和主義が戦争を準備した」という「歴史の教訓」として平和主義を否定するために引かれる事例です。

確かに当時の時代背景として第一次世界大戦の惨禍による「戦争はもうこりごり」という厭戦感情による「平和主義」があったのは事実です。

しかし、英仏の上層部がその「平和主義」によってラインラント進駐を見逃したかといえば、そうではありません。

彼らがそう判断した直接の理由はドイツの戦力を過大評価した結果の「合理的判断」によるもので、それはドイツの宣伝に惑わされた結果だったわけです。

当時のドイツの戦力はドイツ側の認識でも英仏とまともにぶつかれば敗北は必至なものでしかなく、ドイツは相手が軍事的対応をとれば開戦を避けるために即座に撤退する方針でしたが、それは当時の英仏には認識しえないことでした。

このような当時の外交関係から教訓を読み取るとすれば、*1それは「偽の脅威に騙されてはいけない」ということだと思います。


もう少しこの件について詳しく書くと、こういう英仏の「宥和政策」は、さほど足並みを揃えたものではなく、フランス単独でのドイツへの対応の可能性もあったわけですが、英仏はそれぞれの考えのもと、あのような結論に達したわけです。

イギリスの判断

ヒトラーが行った軍備の粉飾工作に惑わされた英首相ボールドウィンは、ドイツの軍事力、とりわけ航空兵力を過大評価し、現時点で英仏とドイツの新たな戦争が勃発するのは得策ではないとの判断から、フランス軍がラインラントで軍事行動を開始しても英政府はそれを支持しないとの意向を英外相イーデンに伝えた。

三月十一日、パリを訪問したイーデンは、現在のラインラントに対するドイツの行動が、貴国(フランス)に対する脅威や敵対を意味する根拠はないとの英政府の認識を伝えた後、「ラインラントの将来はドイツ政府を信頼して任せ、ヒトラー政権との間で新たな平和機構の樹立を目指すのが最善の道だ」と述べ、さらには「我々が平和を欲するなら、この道を進むのが自明の義務である」とまで言い切った。

「西部戦線全史」P83より。

こういう記述を見ると、ドイツの宣伝に惑わされたイギリスがフランスの軍事行動をも制止したかのようですが、実際には、フランスはフランスで軍事行動をとれない理由がありました。

フランスの判断

戦争回避のためには宥和しかないという英政府の意向は、仏首相サローの判断にも大きく影響した。だが、サローにとって予想外だったのは、第一次世界大戦を指導したフランス軍の重鎮たちも、戦争回避のためには宥和が最善策だという意見を唱えたことだった。ドイツ軍のラインラント進駐開始から二日が経過した一九三六年三月九日(イーデン英外相の訪仏から二日前)、サローはドイツのラインラント進駐への対応策を協議するため、フランス軍の最高首脳を自宅に集めて会議を開いた。

この会議が始まる前の段階で、サローが想定していたのは、敵の進駐兵力を撃退するに足る程度の小規模な戦闘部隊を、警察行動の延長としてラインラントに派遣するというものだった。これにより、ロカルノ条約の維持に努める国際的なアピールの効果も得られ、さらにはドイツ側の戦争に対する「覚悟の程」を椎し量る効果も得られるはずだった。

しかし、重々しい表情で会議に列席したフランス軍最高幹部の認識は違っていた。

陸軍参謀総長モーリス・ガムラン将軍は、ラインラントに進駐したドイツの総兵力を「正規軍三万人と国家警察二七万人の計三〇万人」と算定する途方もない誤認に陥っており、これを同地方から撃退する「戦争」を始めるには、少なくとも一週間で一二〇万人規模の兵士動員と大規模な工業動員が必要だと主張して、列席した参加者を震え上がらせた。

しかも、陸軍はラインラントヘの再出兵に関する作戦計画の研究を何年も前から凍結しており、最も新しい計画は、ヒトラーが独首相に就任する前年の一九三二年十月に策定された「D計画」という有様だった。そのため、サローからラインラントヘの派兵につい意見を求められたガムランは、そのような「攻撃的」作戦は想定してこなかったので、即座に実行することは不可能ですと返答した。

「仮に象徴的な行動であるとしても、フランス軍を即座にラインラントヘ派遣するという考え方自体が、現実離れした妄想と言わざるを得ません。我々の軍事機構はこれまで、そのような事態を全く想定しておらず、従って何の準備もしてこなかったのですから」

空軍長官ピュジョー将軍は、もしフランス兵がラインラントに足を踏み入れれば、ドイツはパリ爆撃を視野に入れるだろうと警告し、海軍のビエル提督も、ガムランと同様、ドイツとの開戦を招く恐れがあるラインラント派兵は見送るべきだとサローに進言した。

こうしたフランス軍の「弱腰」とも思える問題認識の背景には、同国が一九二〇年代後半から国防戦略の中心に据えていた「防御重点主義」の思想が存在していた。

「西部戦線全史」P84-85より。

このように仏首相サロー自身は軍事的対応を取ることを想定していましたが、それができなかった理由には、英政府だけでなく、自国の軍上層部の反対もあったわけです。


こうした結果の英仏の「宥和政策」は時代背景から両国の国民にも熱烈に支持されたわけで、そういう世論がなおさら英仏に軍事的対応を取れなくしたわけですが、そうした時代背景がドイツ軍ラインラント進駐において軍事的合理性に基づいたフランス軍の行動を阻害したかといえばそういうことはなく、軍は軍で「現実的な考え」のもとに軍事的対応に反対したということは覚えておいた方がいいことなのではと思います。

もう一つの教訓

このようなフランス軍上層部の判断の背景には第一次世界大戦での戦訓がありました。

第一次世界大戦において、鉄条網や砲や機関銃を備えた塹壕や要塞での戦闘は防御側が圧倒的に有利であり、攻撃側に多大な犠牲を強いました。

この第一次世界大戦の戦闘での防御側が圧倒的に有利という戦訓による作戦方針が「防御重点主義」だったわけです。

歴史が示しているように、この「防御重点主義」はドイツ軍の「電撃戦」に対して役に立ちませんでした。

国境沿いの要塞線であるところのマジノ線は、隣接国を通して迂回できる地点があったこともあり、独仏戦においてろくに役立ちませんでしたが、それ以上に航空機や戦車の発達と、それを活かした戦術が戦場の状況をまったく変えてしまっていたのです。

こういうフランス軍の対応から教訓を読み取るとすれば、それは「戦訓を金科玉条のように扱うことで状況判断を誤ってはならない」ということだと思います。

もっとも、当時の航空機や戦車の発達は急激過ぎて、そういう状況の変化を予見することは困難だっただろうとも思いますが。


ポーランド電撃戦 (学研M文庫)

ポーランド電撃戦 (学研M文庫)

詳解 西部戦線全史―死闘!ヒトラー対英米仏1919‐1945 (学研M文庫)

西部戦線全史 (学研M文庫)

余談

先ごろ発売された「ポーランド電撃戦」はあの厚さであの値段*2なのが気になる。

十分にお買い得だし「西部戦線全史」が安すぎるだけかもしれないとは思うものの。

「西部戦線全史」はあの内容であのあとがきなのが気になる。

そういう主張をしたい気持ちは分かるような気がするものの。

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