Devil’s Own −残骸Calling2− このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012-03-11

映画『先生を流産させる会』の改変問題について考える

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 内藤瑛亮監督の自主映画『先生を流産させる会』の一般公開が決まった。剣呑としたタイトルから公開は危ぶまれていたが何とかがんばってくれたようだ。私は昨年のカナザワ映画祭大畑創監督の『へんげ』(こちらも公開が決定。大のつく傑作です。)と2本立てで見て、このブログにも書いた。『先生を〜』は昨年の極私的な映画ベスト10の中に唯一ランクインした日本映画である。よくできているとおもうし面白いので万人受けはともかく興味を持った人にはおすすめです。

 公開決定とほぼ同時にネットでは批判の声が。予想通りというべきかタイトルが一人歩きするという現象が起こってしまった。

マジキチすぎる映画 『先生を流産させる会』劇場公開決定:キニ速

http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3317891.html

 「まともな神経してたらこんなタイトルの映画みようと思わないよな」「こんな胸糞が悪くなるもん作らねえで今の日本を明るく出来るようなコメディでも作れよ」「まぁ暗い映画が全部悪いとはいわないけど評価はされない」「まーった、事件の映画化か」…とまあ、明らかにふだんから映画とかどうでもいいとおもってそうな人間の意見が並ぶ。よく知りもしないでね。「古きよき良心的な日本映画」がかつてはあったと本当に思っているんだろうか。そんな中で加害者の中学生たちを男子から女子に変えたことへの批判が集中していたことは気になった。「そこが気になるなら映画を見ることじたいがちょっと難しいような気もするのだが…」と最初は思っていたのだが、野次馬さんたちが引いていくにつれて、事件の改変について「いやいや本当にありえないから」と冷静に批判する意見も目にするようになる。そうしたいくつかの意見を見ていくうちに、事件の加害者を男子から女子に変えたことの批判も一理あるなとおもえてきた。なかでも私がはっとさせられたのは小説家近藤史恵さんによる一連のツイートである。

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https://twitter.com/kondofumie/statuses/177462340088897537

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https://twitter.com/kondofumie/statuses/177463794937765889

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https://twitter.com/kondofumie/statuses/177637872231399424

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https://twitter.com/kondofumie/statuses/177429498365624320

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https://twitter.com/kondofumie/statuses/178290546173935617

 私が見た中ではこの方のツイートが一番、作り手側の倫理的な問題点を正確に、わかりやすく突いているとおもう。なにしろこの映画を全力支持していた私がほぼ全面的に納得してしまったのです。この意見を目にしてから『先生を流産させる会』に対する私の考えも引き裂かれた。こないだのAKB48ドキュメンタリーに対する感想と似ていますね。「おもしろい!最高!…いやでもいいのかそれで」という。ネタバレを避けながらこのあたりの認識を少し深めてみたい。 

 近藤さんツイートがとりたててフェミニンな意見だともおもわない。かなり公平な立場で作り手側のミソジニーを暴いているとおもいます。近藤さんの意見は私が園子温監督の『恋の罪』に抱いた嫌悪感と似ている気がする。あの映画も「東電OL殺人事件」という実在の事件をモチーフにしていますが、園監督の偏った女性観で読み解いていて苦手でした。女性の欲求を安易に「心の闇」に帰結させてしまう能天気さ、そしてそれをいかにもグロテスクなものとして描く手つきにも辟易しました。私もどちらかというと作り手側のミソジニーには敏感なほうなのですが、『先生を流産させる会』は完成度がものすごく高かったためかまったく気がつかなかった。カナザワ映画祭の上映後に監督自身による短いティーチインがあったのですが、そこで内藤監督は実際の事件を男子生徒から女子生徒へ置き換えた意図についてこう話している。

なんか男子のイタズラだとつまんないって思ったんですね。そういう馬鹿な男子はいるだろうと。なんかそれで解決しちゃうなと。女子がそれをやると、ちょっと深いところまでいけるんじゃないか?と感じて、それで女子にしました。

カナザワ映画祭2011 フィルマゲドンII 「へんげ」「先生を流産させる会」−テンライヴス

 この言葉、私は完全にスルーしていたのですが確かにぞっとします。「そういう馬鹿な男子もいるだろう」で解決してしまったことには事件に対する監督の認識の甘さが確かにある。近藤さんのおっしゃるとおり、幼稚な悪意だったとしても映画的に面白くする努力はいくらでもできたはずなんですよ。幼稚な暴力にしか頼れないクズのような男を描いた実録犯罪映画でも傑作はたくさんあるわけだし。『先生を流産させる会』は「おもしろさ」のために人間の尊厳にかかわる重大な倫理を切り捨てた。これは作り手も見る側も認めなくてはいけないことだとおもいます。

 近藤さんを批判するとすれば、じっさいに映画を見ていないということくらいですね。映画そのものでなく作り手の姿勢を槍玉に上げているというのはもちろんわかります。それでも作り手の意図と作品の内容を勝手に想像しながら見てもいない映画を批判するのには私はちょっと抵抗があるんです(正直、近藤さんの「想像」はほとんど正しいとおもいますがそれでも抵抗があります)。そもそも映画はふつうの人が思っているほど健全なものでもないし、人を簡単に洗脳してしまう呪われたメディアだとおもう。その恐ろしさを引き受けた上ですべての映画が等しく存在を「許されている」のではないか。個人の態度は見てから決めることだとおもいます。私もこのあいだは『恋の罪』をというより園監督のことをひどくこき下ろしましたが見るまでは何も言わなかった。見る前からなんとなく嫌なところは見えていたけど、だからといって見る前からどうこうは言えない。それに大嫌いだけど、必要な映画だとおもうし。

 とはいえ作り手に対する批判としては正当な意見だとおもいます。近藤さんに対していくつか反論のツイートを寄せている人もいたようですが、それがまたけっこう頭の悪い意見で呆れる。このままでは『先生を流産させる会』を擁護する人間はみんな頭の悪いミソジニストだと思われかねないので一応書いておきます。

 まず『先生を流産させる会』は、映画を見ずに批判している人たちが思うほど「女性どろどろこわい」だけをクローズアップしていないんですよね。もちろんそういう面もありますが、図式化し切り捨てることで強調できた別の側面がある。思うに実際の「先生を流産させる会」事件の背後には二種類の「悪意」が存在していたのではないか。ひとつは近藤さんらが指摘されている「女性蔑視」です。そしてもうひとつは「生命観の欠如」。私が事件について知ったときはむしろ後者に戦慄していたんですよね。だから加害者生徒側の性別が改変されても特に気にならなかったんだとおもいます。内藤監督も事件を「男性側の女性蔑視」や逆に「女性側の同属嫌悪」に動機付けるよりも、子どもたちの「生命観の欠如」「生命への、生きることへの嫌悪」としたほうが「おもしろい」と判断したのではないだろうか。もしじっさいの事件と同じく男子生徒のままだったら、それこそ「思春期男子のどろどろこわい」で終わってしまったのではないか。ホモソーシャルの暴力にとどまってしまったとおもうし、それはそれで退屈です焦点がぼけてしまう*1。女性同士の対立に改変することで「にんげんこわい」にまで迫れた面がある。私はそこを支持したい。だから終盤にサワコ先生の「女は気持ち悪いのよ」(ネタバレにつき反転)というせりふも本当なら「生きるのは気持ち悪いのよ」(反転)にすべきだったかなとおもう。

 というわけで、この映画化に不快感を感じた人もご自身の目で確かめてみることをおすすめします。私もこうした意見を踏まえたうえでもう一度見るとどんな印象を受けるのか興味がある。

追記

 ブコメの中で「改変の態度そのものを批判しているのに見てから批判しろという論理は納得できない」という意見を見かけます。私は何も見た人しか批判してはいけないとまでいうつもりはありません。この映画に対する「見ていない人」の批判があまりに一方的に氾濫しているなと個人的には思ったものですから、見たことがある人間として見ていない人の判断材料のひとつになればという意図で書いたのです。じっさい、このエントリで「ちょっと見てみようと思った」という人も「やっぱりきめえ。見たくない」という人もいたわけですから、意味はあったのかなと思っています。

 作劇を不愉快に感じる人には「見ない」という選択肢が当然のように「許されています」。見ないで作り手の倫理を批判することももちろん「許されている」(私は抵抗があるとしか言ってません)。しかし同じようにこの映画もその存在を「許されている」とおもいます。正直、私にはどちらが「塗りつぶし」なのか疑問です。

 作り手の態度が「許せない」という人には「見ない」という選択肢があるのです。もう答えは出ているとおもうんですよね。問題は「見ない」と決めた映画をどうしてそんなに非難するかという点です。いろいろな人の意見を見ていると映画の物語が「実在の事件」と取って代わられることを危惧しているように見えます。映画が「事実」として捏造される、ということでしょうか。この映画を容認することが実際の事件にあったような女性差別的な暴力を助長するということなんでしょうか。引用です。

事実から着想された物語が生まれたとして、その元となった事実が後から出来た物語に上書きされてしまうとでも言うのでしょうか? こつぜんと誰の記憶(当事者も!?)からも事件は消えさり、劇中の少女たちの物語にとって変わられる事が心配ってw

ようするに自分以外の人間がそうなってしまう事を危惧しているワケですよね? それとも、語られそこねたせいで自分の記憶が映画に塗りつぶされてしまうことを危惧しているのか? 人をバカにし過ぎか記憶力が微塵も無いか、いずれにせよ褒められたもんじゃないです。

今見ておくべき日本インディーズ映画×虚構と現実の問題。 - ゾンビ、カンフー、ロックンロール

 私は「実在の事件」からの取材を謳った以上、今回のような批判もあってしかるべきとおもったので、id:samurai_kung_fuさんのようにずばり書くことはしませんでしたが、「捏造」に対する見解は同じです。映画の加害者が女子に変えられたからといって、本当の加害者グループが男子がだったと忘れるわけではないし、映画を見て事件を理解した気にもまったくなりません。そんなの当たり前じゃないですか。「これが実際の事件だっていうんだからやっぱり女子はこわいよ」っていう人が出るかもしれないからその人たちに合わせろっていうことなんでしょうかね。『国民の創世』面白いって言う人はみんなレイシストなんでしょうか。あんなの心の中ではドン引きしながら見てますよ。誤解なきようもう一度いいますが批判はあってしかるべきなんですよ。論破しようなんてまったく思ってませんからね。

 あと是非はまったく別にして、内藤瑛亮監督の才能はほんとうにすごいとおもうんですよ。この映画の後、制作された2本の映画も予告編がほんとすごくて。クールな画面構成と編集のリズム、あと横移動ですよね。本当はふつうの娯楽映画でも、それこそ「日本を元気にするようなコメディ」(?)でも撮れるとおもいますよ。それでも自主映画作家がセンセーショナルな題材に頼らざるを得ない現状がぜったいあるとおもうんです。そのあたりを踏まえて今のフルボッコはちょっと気の毒(いやもはや宣伝になっちゃってるんですけど)だなって思っちゃうんですよ。以上です。

D D

*1:誤解を招くので言い換えます

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