Devil's Own

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『アニー』(ジョン・ヒューストン)

"Annie"US/1982

 4月に『アニー』のブルーレイが出る。最近のソニーピクチャーズは廉価盤で特典映像を大幅に削る傾向があるので心配になった私は、一足早く北米盤(日本語字幕も吹き替えも入っている)を購入することにした。結局、国内盤も同じ仕様で出るようだがそれでも北米盤の方が安くつく。特典は目新しいものはなかったが、画質と音質は飛躍的に向上した。そんなわけで、せっかく買った『桐島』のブルーレイも差し置いて、毎日『アニー』ばかり見ている。
 数年前、映画研究者の大久保清朗さんのブログを通してこの映画に出会った。「もうすぐアニーだ。そう思うだけで心が落ちつかなくなってくる」というあられもないラブレターで始まる素敵なエントリー。「階段の映画」という松浦寿輝氏の指摘を基にしたアクション考察に始まり、映画にひそむ奇妙な偽善性、政治性にまで踏み込む。無料で読むにはちょっと忍びないくらいぜいたくな論考となっている。セロテープで補強したパンフレットの表紙画像が添えられていて、幼稚な表現だが、氏と映画の間に簡単には立ち入ることができない「きずな」を感じたものだ。当時の私は、氏が別のサイトで寄稿した『サウンド・オブ・ミュージック』の論考を読んでからというもの、氏のミュージカル映画論に絶大な信頼を寄せていたので、『アニー』もすぐに見た。そして大いに笑い、涙ぐみ、ほんのちょっと困惑したのだった。
 『アニー』は乱暴な映画だ。名曲「トゥモロー」が劇中で歌われる場面など、乱暴さの真骨頂である。『アニー』を見たことがなくても、劇中歌の「トゥモロー」を知っている人は多いだろう。そんな人は「トゥモロー」がこんなかたちで使われていることに困惑するにちがいない。大久保氏が指摘するとおり、この映画の「政治性」に目を向けずにいることは普通の大人には難しい。共和党支持者のウォーバック氏とフランクリン・ルーズベルト大統領がアニーにつられて「トゥモロー」を歌い出す(後ろにはジョージ・ワシントン肖像画!)。「何かメッセージがあるのかしら」とかんぐってしまう。アニーの歌声が、「トゥモロー」の流麗で力強いメロディが、イデオロギーを乗り超えて凱歌を上げる。あまりの衒いなさにあきれ、笑う。何これどういうこと?っておもいながら、何回も見てるといつのまにか泣いている。自分でもびっくりする。まじでか!
 だいたいこの映画では、誰もがすぐにアニーのとりこになり、言うことを聞いてしまう。まるで魔法か超能力を使ったように。というより本当に魔法か超能力を使える人物さえ登場する。ほとんど腕ずくでことを運んでいくジョン・ヒューストンである。「ゾウだってぶっ殺すぜ!」といわんばかりである(ラストにハイネガンさんがゾウに乗って登場する場面はちょっと緊張する)。ヒューストンが『アニー』の監督にアナウンスされたときの周囲の反応はどのようなものだったのだろう。誰もがそんなばかなと思ったにちがいない。私だって大久保氏の文章を読まなければ「きっとダメなときのヒューストンだろう」といつまでたっても見ようとしなかったかもしれない。それから1982年はミュージカル映画にとって長い長い冬のさなかだ。大久保氏の文章は「今こそ、臆することなく『アニー』を見直すべき」と結ばれているが、公開当時の『アニー』は今よりずっとアナクロだったに違いない。『アニー』を見ているとこれが80年代の映画だということをしばしば忘れてしまうほどである。
 実際、公開当時の『アニー』の評価はあまり芳しくなかったようだし、今でも駄作と言い切る人はいる。その言い分もわからなくはない。『アニー』はミュージカルパートもドラマパートもとても丹精に撮られているし、ため息が出るほど美しいショットがいくつもあるが、前述した場面のように端々で乱暴さや野蛮さを感じる。それはヒューストンがミュージカル映画を作るの乱暴さでもあるし、80年代にMGM製のような王道ミュージカル映画をつくる乱暴さでもあるのだろう。そして、この乱暴さが『アニー』という映画をどうしようもなく輝かせる。大恐慌で暗く沈んだ時代の孤児院で、アニーが持ち前の明るさ、そして乱暴さで周囲を幸福な空間に変えていったように。私にとって映画じたいが、少女アニーそのものなのだ。
 ウィル・スミスが娘ウィロウ・スミスのために随分前から進めていた『アニー』の再映画化ではウィル・グラックが監督に抜てきされた。ジョン・ヒューストンとちがって適役である!と久々に興奮。肝心のウィロウ・スミスは成長しすぎてしまったため主役降板。代役にはクヮヴェンジャネ・ウォレスが候補に上がっている。リメイク版『アニー』はずいぶんと恵まれた妹である。きっと美人(傑作)になるだろう。でも私は、乱暴で、愛くるしい姉ほど愛せるだろうか。