Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

読んだ本

最近、家で映画見てても寝ちゃうんですよね。休みの日に映画館に出掛けるのもすごくおっくうで。それで頭を切り換えて本を読むことにしています。映画関係の本を何冊か読みました。

サウンド・オブ・ミュージック・ストーリー

サウンド・オブ・ミュージック・ストーリー

  • 作者: トムサントピエトロ,Tom Santopietro,堀内香織
  • 出版社/メーカー: フォーインスクリーンプレイ事業部
  • 発売日: 2016/11/01
  • メディア: 単行本
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名作『サウンド・オブ・ミュージック』の製作過程を資料や関係者の証言から詳細にレポートした研究本。監督が当初はウィリアム・ワイラーであったことや20世紀フォックスの経営不振で映画が頓挫しかけたこと、オープニングシーンのヘリ撮影にものすごくお金がかかるので失敗は許されなかったことなど興味深いエピソードが続出する。「そしてそれができる監督はただ一人だった…ロバート・ワイズである」「一人の女優に白羽の矢が立った…ジュリー・アンドリュースである」みたいなもったいぶった筆致がやや鼻につくんですが、おおむね面白く読めました。現代の観客は、この愛すべきミュージカルをビデオやテレビ放映で見ているからあまり意識しないけれど、公開された1965年当時『サウンド・オブ・ミュージック』はとても時代遅れな映画だった。ミュージカル映画は既に衰退していて、原作であるブロードウェイ版も感傷的としておおくの批評家から軽視されていた。1960年には『サイコ』が公開されているし、フランスではヌーヴェルヴァーグの若き才能が次々と革新的な作品を発表していた。若者はロックンロールを聴き、ビートニクの作家を読みふけり、ドラッグとフリーセックスをたしなんでいるのに、映画だけがカウンターカルチャーの波に乗り遅れていた。『サウンド・オブ・ミュージック』は映画の「時代遅れ」を象徴する作品としてしばしば取り上げられもする。にもかかわらず、今も多くの人々のこころをつかみ、励まし、その魅力は色あせない。誰がどう見ても負け戦なのに、この物語の普遍的な魅力を見抜き、製作に踏み切った人々の実話には自然と胸が熱くなりました。
怪獣少年の〈復讐〉 ~70年代怪獣ブームの光と影

怪獣少年の〈復讐〉 ~70年代怪獣ブームの光と影

いわゆる第2期怪獣ブームとよばれる70年代特撮ドラマを、作家インタビューとその時代を子どもとして過ごした筆者の原体験を交えてひもとく。ガメラでもゴジラでもウルトラマンでもそうだが、この時代の特撮ドラマは間違いなく子どもたちが主役だった。ゆえに「子ども向け」と片付けられ、まともな論評もされない時代もあったわけだが(実際私も『タロウ』の奥深さに気付いたのは大人になってからだ)、いまとなってはクラシック化している。個人的に興味深かったのはやはり第2期ウルトラシリーズを論じた章であり、とりわけシナリオ作家、田口成光氏の章が面白かった。市川森一氏や上原正三氏と比べて、田口氏に光が当たることはきわめて少なかったし、私自身も彼の作家性というものを意識したことがなかった。実は本書のタイトルにもなっている『帰ってきたウルトラマン』第15話「怪獣少年の復讐」も田口氏の作品。怪獣への恐怖とあこがれに引き裂かれる少年のアンビバレンツを表現した傑作だ。ナイーブな葛藤とトラウマ克服のドラマが、山際永三監督との二人三脚で鮮烈な映像表現とともに作り上げられていったことがわかり、ついついまた見返してしまいました。
 『帰ってきたウルトラマン』といえば「11月の傑作群」(第31〜34話)が有名だが、この4作も含めた中盤の作品群は(第21話「怪獣チャンネル」から第35話「残酷!光怪獣プリズ魔」あたりまで)はウルトラシリーズ全史においても屈指といえるほど、傑作、意欲作、問題作が連打された黄金期といえる。そんななか、個人的に低評価だったのが、田口、山際コンビが手掛けた第29話「次郎くん怪獣に乗る」だった。「次郎くん怪獣に乗る」ってサブタイトルも間抜けだし、ジュブナイルとしても『タロウ』ほど洗練されていないようにおもえた。だが本書を読んで、次郎君が閉じ込められるステーションは胎内のイメージで、その中で好きな女の子の秘密(へその緒)を見るという性のイメージが忍ばせてあったことを知り、膝を打ったのであった。さらに『ウルトラマンA』で私の大好きな美川のり子隊員のメーン回、第4話「3億年超獣出現」と第22話「復讐鬼ヤプール」も田口氏のペンによるものだった。「3億年超獣出現」は美川隊員に中学時代から思いを寄せていた漫画家、久里虫太郎の暗い情熱に異次元人がつけこみ、久里の描いたまんがの通りに超獣が暴れるというストーリー。同窓会といつわって久里の屋敷にやって来た美川隊員が薬を盛られて眠らされ、監禁されるという展開は、幼い私に言い知れない恐怖と淡い興奮をもたらした。いわば性の目覚めともいえる作品ですね。田口氏が特撮番組のなかで意図的に性的なイメージを取り入れていたという話は興味深かった。 1981年生まれの筆者がリアルタイムで体験した平成世代の特撮について語った本。評論というよりエッセーに近くさっくりと読めます。これねー、自分の話読んでるみたいでちょっと怖かったですね。目新しい情報とかはほとんどないけど、子供のころに通ったレンタルビデオショップのにおいとか小学館怪獣図鑑の手触りとか教室内での会話とか…そういう幼少期の記憶そのものがサーって思い出されてくる。幼稚園から高校生くらいまでの自分と特撮ドラマの関わりを追体験するような。『ドラゴンボール』より『ウルトラマン』のほうが学校でばかにされる理不尽さとか「ノストラダムスの大予言」が妙に真実味を帯びていた話だとか、『ウルトラマンティガ』あたりから作家性を気にするようになった…といった筆者のエピソードは私自身の実体験とほぼ重なる。今のようにSNSどころかインターネットすらほとんど広まっていなかった90年代において、いつまでたっても怪獣だの秘密兵器だの言っている私は孤独だったし、同じようなことを考えている同世代がいるとは知る由もなかった。わけても思うのは、初期ゴジラ平成ガメラを引き合いにVSシリーズを貶めてきた「上の世代」の言説が、VSシリーズを愛していた子どもたちをいかに混乱させ、傷つけたか、ということだ。著者はあとがきで「私たちの世代の作品に、若い人たちが距離を感じてしまうような批判はしないように気をつけたい」とつづる。確かに私も新しいウルトラマン仮面ライダーのコンセプトやデザインに困惑することもあるのだが、新しい世代のヒーローや怪獣に夢中になっている子どもたちもきっといる。自分は大人になってしまったが、現代の子どもたちと新世代の特撮文化が育む蜜月は見守ってあげたいとおもう。
映画系女子がゆく!

映画系女子がゆく!

ガールズムービーや女性映画におけるヒロインたちの性格や心の動きにフォーカスした映画評。イーニド(『ゴースト・ワールド』)、ニナ(『ブラック・スワン』)、キャリー(『キャリー』)、イレーナ(『キャット・ピープル』)、オリーブ(『小悪魔はなぜモテる?!』)、メイビス(『ヤング≒アダルト』)、名美(『天使のはらわた』)、ブリス(『ローラーガールズ・ダイアリー』)、アメリ(『アメリ』)、サチ子(『害虫』)…いずれも忘れがたい、思い出すと胸がきゅっと締め付けられるようないとおしい女性たちである。真魚氏は、ていねいな演出やシナリオ考察に加えて、筆者自身の体験や出会った女性たちと結び付けることで、一筋縄ではいかない彼女たちの心情をすくいとっていく。私は男性だから、映画の中の彼女たちと笑い、泣いたとしても、その心の動きが謎めいていて、よくわからないこともある。真魚氏の批評を読み、こうした謎が言語化され心の中になじんでいく心地よさがあった。真魚さんの文章はブログ時代から読んでいましたが、それでもちょっと新しい感覚で楽しかったです。『プラダを着た悪魔』は好きなんだけど、なーんかモヤモヤしちゃうのが言語化されていて、とてもスッキリしました。映画を愛するということは、その映画のなかの登場人物を愛することとほぼ同義なのだなと気付くことができる1冊でした。
ただある程度心の余裕をもって読んでいられるのは私が男性だからであって、「文科系男子」へと射程を移した第7章「それで、そのとき文科系男子は何しているの?」はなかなかに痛いものがありました。ここで取り上げられる『(500)日のサマー』を当時付き合っていた恋人と見に行き、私がトムを、彼女がサマーを擁護して微妙な空気になった思い出がある。今回、10年越しにサマーは、そして彼女はこんなことを考えていたのかと理解できた。ちなみにその彼女と決定的に別れた夜、1人で『ブルーバレンタイン』見たというオチもあります。
 自分は文化系女子ではないけど、交際してきた女性は文化系女子ばかりなので、映画を通じて彼女たちが何を考えていたのか、どうしてあのとき怒っていたのか、泣いていたのか、気づかされるときがある。その意味で真魚氏の本は、私にとって過去の失敗を突きつける地獄巡りのようでもあった。ただ、そんなふがいない私にも優しく諭してくれる。「別れた相手に改めて何かをしてあげることはできない。だとしたら、そこで負った心の傷で成長し、次の恋人に以前はできなかった配慮ある愛し方をするしかない。傷つけてしまった当人には何もできず、次の恋人を幸せにするというのは妙なようだけれど、愛の流れというものは誰もがそうやって、次へ次へと渡していくしかない。そして次の恋愛では、前と同じ過ちを犯さないようにすればいい」。かつての恋人をふと思い出し、急に電話をかけて謝りたくなるときが、たまにある。そのたびにそれは所詮は自分のエゴでしかなくて、彼女たちは彼女たちの幸せを生きているはずだからと思いとどまる。積み重なっていく後悔と選ぶことのなかった人生を引きずりながら、それでも今の恋人に対しては少しはましな男になっているとおもいたいし、いまの毎日が最良の選択だったと信じるしかない。いつまでたってもうまく恋愛できている気がしない自分にとって、映画とおなじく勇気づけられる批評でした。