スキルズ・トゥ・ペイ・ザ・¥ このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

「俺に何が出来て何が出来ないかを勝手に決めるな!」 〜『ガタカ』

2016-05-25

[] 無料DLフランス現行シーンに触れる 仏インディーレーベル「ラ・スーテレーヌ」  無料DLでフランス現行シーンに触れる 仏インディーレーベル「ラ・スーテレーヌ」を含むブックマーク

f:id:Dirk_Diggler:20160525005116j:image

 休日にbandcamp内を「name your price」や「free download」といったタグで探っていると、その二つで共に多く引っかかる「La Souterraine」というレーベルに辿り着いた。

 しかもこのレーベル、この音源一覧のアルバムは全て投げ銭DLが可能(つまり0円でもオーケー)となっており、丸一日を費やして大体の音源を把握し、そのクオリティの高さ、そしてそれを広く解放拡散してしまうレーベルの心意気/太っ腹加減に感動。後日に色々と調べてみると、以下のリンクで事情通の方が既に紹介しており、非常にためになりました。

 今から約1年前の2014年1月、パリのレーベルAlmost Musiqueの代表者バンジャマン・カシュラとパリのラジオ局アリグルFMのDJだったローラン・バジョンが中心になって、フランス語で「アンダーグラウンド」を意味するラ・スーテレーヌ(La Souterraine)というサイトを立ち上げました。

(略)

 このサイトが音源を紹介する唯一の条件は「YouTubeでほとんど紹介されていない」ということなので、フランスでもまったく知られていないミュージシャンがほとんどですが、商業ベースに乗らない良質なフランスのインディーポップをたっぷり聴くことができます。

フランスの「アンダーグラウンド」ポップスのショーケース、ラ・スーテレーヌ(La Souterraine) - ふつごぽんTMBL

 自分も丸一日かけてDLした結果、アーティスト/アルバム単位で幾つか「凄く良いな!」と思った音源を以下に挙げてみます。

Baron Rétif & Concepcion Perez「disque d'or」

 「J Dilla的なビートを生演奏・上ものはジャジーだったりインストファンクっぽかったり」という、正に「今、ONな感じ」の人たち。ラッパーをフィーチャーした曲もあり。

2024「Mostla tape」

 ドラムが非常に気持ち良いロックバンド。音像が良い感じにスカスカでギターとベースもオールディーズっぽい音色だけど、オルガンなど鍵盤系の音も随所に盛り込まれていて緻密な印象。

Les Passagers「Mostla Tape」

 女性Voのグループ(?)。全体的にレイドバックしてる印象がありつつビートが立った曲も凄く良い。M7「Acheter ta peau」でヤられました。

 とりあえず3アーティストを。

 で、折角かなりの数の音源をDLさせて貰ったので、自分でも「お薦めmix」を作ってみました。この「ラ・スーテレーヌ」からは音源をリリースしていないものの、コンピのみに参加しているアーティストも何組かおり、そういう人たちの音源も混ぜてあります(ステレオラブ、レティシアのソロ曲も入れました)。

Guide to Mostla (soundcloud)

DLコチラからどうぞ)

 そもそもこのラ・スーテレーヌというレーベルが話題になったのは、フランスの総合文化雑誌テレラマでニコラ・ポーガムのミックステープが紹介されたのがきっかけでした(テレラマの年間ベストアルバムの一枚にも選ばれています)。ニコラ・ポーガムは1970年生まれで、90年代に組んでいたダ・カーポというグループのCDは日本で出たこともあります。キャリアが長いとはいってもまったく無名だったのですが、去年テレラマで取り上げられたことで注目され、フィジカルのソロCDを出すことができました。

(略)

 〜ヒップホップ界隈ではこのようなミックステープは既に普通のものですが、インディーポップではまだ珍しい試みだと言えるでしょう。このような試みが将来どのような実を結ぶのかはまだわかりませんが、注目をつづけていきたいと思います。

 ともかくフランス語で歌われる最新ポップスが無料でダウンロードして聞けるなんて、これほどうれしいことはありません。「アンダーグラウンド」とはいっても、どろどろしていたりとっつきにくかったりするものではありません。それでも特に売れるための配慮をした音づくりをしていないので、「アンダーグラウンド」ならではの自由な気風を感じとることができると言えるでしょう。現在の商業的なヴァリエテ・フランセーズに不満があるひとの中には、むしろ「こういうフレンチポップスが聞きたかった」と思うひとも多いのではないでしょうか。

同・ふつごぽんTMBL

 ↑常々思っていたことを簡潔にまとめて下さっています。インディーロック界、ジャズ界なんかでも、こういう波が幾つか立てばシーンの活性化にも繋がるような気がします。



トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Dirk_Diggler/20160525

2016-05-12

[] 私と、貴方と、私達が知っている全ての人々の話「スポットライト 世紀のスクープ」  私と、貴方と、私達が知っている全ての人々の話「スポットライト 世紀のスクープ」を含むブックマーク

f:id:Dirk_Diggler:20160509024858j:image

 ボストン・グローブ紙が、ボストンのカトリック教会の、とある神父による児童への性的虐待事件と、教会全体がそれに対して隠蔽工作を行っていた事実を告発し、最終的には国ですら干渉できなかったバチカンが非を認め賠償するに至った、という実話に基づく作品。

 今までも性暴力被害を告発するような映画は幾つか作られてきたと思うが、本作で斬新だった視点は、所謂「被害者の会」の人々が置かれる立場である。

 彼らは巨大なバチカンを相手に、被害者の話だけを武器に、(数こそいるが)孤独で勝ち目のない戦いを続け、教会側の弁護士に敗れ続けるも、決して戦いを止めようとはしない。ボストングローブの取材班:スポットライトチームは、「聖職者による虐待被害者ネットワーク」のリーダー、フィル・サヴィアーノ(ニール・ハフ)にコンタクトを取る。彼は取材に応じこそすれど、長年に渡る教会との戦いに疲れて果てていて、ボストングローブに対しても苛立ちを隠さない。

 「何年か前に資料を送ったじゃないか!憶えてないのか?」

 (意味深な彼のこの話は、後にボストングローブ側に落ち度があったことが判明する伏線となっている)

f:id:Dirk_Diggler:20160511172133j:image

 このリーダーの不安定な態度に、デスク(マイケル・キートン)は「彼の身辺をよく洗え」と命じるのだが、この構図に「性暴力被害の、直接の被害から派生する二次的被害」が端的によく描かれているのである。

 つまり、はなから被害者の話は完全に信じない、疑ってかかるべし、ということなのである。ボストングローブという老舗の新聞社のことを考えば、リスクマネージメントととしての身辺調査は当然のことのようにも思えるが、被害者への対応で疲れ切っている組織の人に、(表には出さないとしても)あまりにも酷い対応であるように思う。被害者にとって、完全に信用してもらえないことは苛立ちとなり、その苛立ちもやがて諦めへと変わり、果ては「面倒な人」と思われることを避けるあまり自ら萎縮していってしまう。

 「スポットライト」の取材チームは、取材を進めていく過程で事件の暴露よりより大きな責務を背負うこととなる。それは加害者神父だけの罪ではなく、バチカンが事態を知りながら組織的な隠蔽を行っていた、という事実を突き止めてしまったからである。これはもう、加害者だけの問題ではなく「Whole System」の問題である、と。そこを暴かないことには、一人の神父が謝罪して終わり、罪の隠れ蓑である機構は生き続けてしまう。その存続だけは何としてでも避けなければならない、ということが、映画の命題として浮かび上がってくる。

 そして取材から数ヶ月経ち、いよいよ紙面で世に訴える準備が整いつつある、そんなタイミングで9.11が起きてしまう。ボストングローブ社内でも、とても教会の性暴力被害の話ではなくなってしまい、被害者の会のフィルはイライラを募らせていく。「どうせ取りあげる気もないし、被害者のことなんてどうでも良いんだろ」と罵ったりする。この時に記者のサーシャ(レイチェル・マクアダムズ)はこう返す。

f:id:Dirk_Diggler:20160509024900j:image

 「I am here because I care.」

 私が翻訳者なら、意訳上等で「どうでも良いわけないじゃないの!」とでも訳すであろう、直訳すると間が抜けてしまいそうな非常に力強い台詞である。

 私はここにいる、何故なら貴方のことを気にかけているから。

 終盤、性的虐待を行った神父と学校で接点があったことを思い出した記者が「もしかしたら自分が被害に遭っていた可能性だって十分にあった」と愕然とするシーンがある。誰の身にでも降りかかる可能性があったということ、それはすなわち観客に対する「あなた」に降りかかったかもしれない、というメッセージだ。

 暴露記事はクリスマスを避け、年が明けてから発表された。紙面が各家庭に届いたその朝、編集部には次々と電話がかかってきて鳴り止むことがない。それは「第二・第三・第四の」被害者の声だったわけであるが、この「報道機関が公にしたことで、ようやく声を上げられる」という悲痛な叫び声を象徴的に描き、映画は幕を閉じる。

 自分の身に起きたことと想起させ、サバイバーのことは疑ったり否定したりせずに常に耳を傾けること。オスカー作品賞受賞作という名の下に、多くの人々にこの作品が届いた意味は、非常に大きいものであったように思う。

f:id:Dirk_Diggler:20160509025151j:image



トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Dirk_Diggler/20160512

2016-04-13

[] ブルックリン原節子人生小説よりも奇なり」   ブルックリンの原節子「人生は小説よりも奇なり」を含むブックマーク

f:id:Dirk_Diggler:20160409191017j:image

 長年連れ添ってきたゲイのカップルが、同性婚が認められるの機に正式に結婚するも、思いもよらぬ出来事により経済難に陥り、新婚早々にも関わらず友人などを頼って肩身の狭い居候生活を余儀なくされてしまう、というお話。

 鑑賞中に驚いたのだが、この作品では小津安二郎「東京物語」の老夫婦を、熟年ゲイカップルに置き換えるという大胆な変奏がなされているのだ。

 音楽教師:ジョージ(アルフレッド・モリーナ)の主な収入が、画家:ベン(ジョン・リスゴー)との暮らしを支えたいたようなこのカップルであったが、とあることがきっかけでジョージは職を失うことになる。突然の失職により経済的にも困窮し、マンハッタンのアパートも出なくてはならなくなり、それぞれ友人宅に居候をすることとなる。

 この、新婚間もなくして離ればなれに暮らさなくてはならなくなり、友人宅に泊めてもらい、今まで良好に思えてきた関係も次第にギスギスしてくる、という感じが、「東京物語」で子供たちの家をたらい回しにされた挙げ句に熱海に送られ、そこで安らげるのかと思いきや、深夜まで隣室で騒ぐ学生の賭け麻雀で眠れない老夫婦の悲哀と見事に重なって見える。

f:id:Dirk_Diggler:20160409191016j:image

 そして画家のベンにはさらにフィジカルな不幸が降りかかる。ここもおそらくは「熱海の埠頭でよろめく東山千栄子」の翻案ではないかと思われる(つまり、不穏な空気が漂っている)。そして、起承転結でいうところの「転」で、意外な希望の光が差すのだが、なんと物語の終わりも「東京物語」を想わせる展開となる。紀子(原節子)の告白と、贖罪の涙が用意されているのだ。

 小津生誕110年記念に鎌倉芸術館で行われたイベントで、かつて小津作品の製作に関わった山内静夫氏が登壇し、氏はサイト&サウンドで「東京物語」が一位になったことについて「極めて日本的な、特異な作品だと思っていたので意外。あの作品を海外で真似するようなことは無理であろう」といった旨の発言をしていたのだが、「人生は小説よりも奇なり」には、小津安二郎が描き続けたテーマが見事に反映されている気がした。今後は監督のアイラ・サックスの動向を注視しようと思う。

f:id:Dirk_Diggler:20160409191018j:image

 ■関連リンク

 ウェルズ・タワー「奪い尽くされ、焼き尽くされ」

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Dirk_Diggler/20160413

2016-04-07

[] 糖蜜が垂れるように探れ「ヘイトフル・エイト 糖蜜が垂れるように探れ「ヘイトフル・エイト」 を含むブックマーク

f:id:Dirk_Diggler:20160331182255j:image

 クエンティン・タランティーノ8作目の映画である(今回はタイトルロールでご丁寧に「the 8th film by quentin tarantino」と大写しになる)。あと2本での監督引退を仄めかしているからか、なにやらジョン・カーペンター作品における「's」と同じような、ただならぬ気合いを感じてしまう。

 今回は西部劇+密室殺人という体裁をとっているが、蓋を開けてみればいつものタランティーノ作品であり、でもそれでいて今までのどの作品にも似ていない気がするし、「レザボア・ドッグス」「パルプ・フィクション」といった初期作のテイストを感じ取ることもできる。個人的に感じたのは「パルプ・フィクション」における2点の類似点があるような気がする。

 (※以下、内容の詳細に触れているので未見の方はご注意を)

f:id:Dirk_Diggler:20160314191541j:image

 ■その1 与太話

 「パルプ・フィション」を観たことがある人なら、誰もが憶えているであろう「金時計」のエピソードだ。父の戦友から渡された父の忘れ形見。日本兵の捕虜となった父の友人がそれを隠していた場所は……深刻な話から一気に馬鹿馬鹿しさにメーターが触れきれる「アレ」である。今回「ヘイトフル・エイト」でも同様のエピソードが登場する。

 しかも今回は「憎しみ」と「差別」という、若干に大きめの風呂敷も用意されているので、この馬鹿話もそうしたテーマの上に披露されることとなる。

 当時のアメリカ(南北戦争終了後のゴタゴタが残る時代)の状況を考えれば、絶対的な弱者が絶対的な強者に立場が逆転したとき、一体どんなことを要求するのか?という点で「もしや…」と思ったらまさにその通りになったので、この場面で登場人物が戯画的な高笑いをするように、釣られて笑ってしまったのだが、よくよく考えれば果たしてここは笑うシーンなのだろうか?

 差別者と被差別社の立場が逆転すると、この状況がおかしくてたまらないのはそれまで差別されてきた側だろう。そして、これまで息をするようにナチュラルに差別を行ってきた者にとって、この立場の逆転は悪夢でしかない。観る人がどちらに共感するのか、あるいはどちらにも感じ入らずただ無情を感じるのか、各々の属性があぶり出されるようである。しかもこのシーンは回想シーンとして語られるので、もしかすると全てはある人物にあるアクションを起こさせるための、虚偽のエピソードの可能性も否定できないのである。

f:id:Dirk_Diggler:20160314191542j:image

 ■その2 マクガフィン

 タランティーノ作品に共通する「演じる」という要素は前作「ジャンゴ 繋がれざる者」の感想で述べたが、今回も最終章に入る前に、身分を偽っている者たちによる「種明かし」と、その幕が上がる前の興奮を捉えた印象的なカットがあるのだが(「レザボア・ドッグス」も同様の構造になっている)、今回注目したい点は別にある。

 「パルプ・フィション」が何を巡る物語なのかといえば、それは「マーセラス・ウォレスのブリーフケース」である。それに関しては興味深い考察があったので、以下のリンクをご参照あれ。

 ・『パルプ・フィクション』の5つの都市伝説 タランティーノが仕掛けた謎とは......?

 リンク先でも触れられているように、結局ボスの大事なブリーフケースに何が入っているかは分からずじまいである。重要なアイテムなはずなのに中身を見せずに観客を煙に巻き、だがしかし物語の進行上の妨げにはなっていないという点で、「ヘイトフル・エイト」でも同様のある物が登場する。それは「リンカーンからの手紙」である(ちなみにこの手紙のシーンでは、雪で手紙に反射した白い光がそれを読む人物の顔を照らす、というような照明を施している。マーセラスのブリーフケースの場合は、恐らくは金塊の様なモノが入っているのでは?と観客に促すような、黄色っぽい照明を当てていた)。

 これは主要なキャラクターが読みたがる「大統領が黒人将校に宛てたとされる手紙」である。であるのだが、実はこれが「黒人将校が白人社会で生き残る術として偽造した手紙」であることが、中盤に判明する。では、どうして、冷静に考えればその時代ではありえないような代物が、男たちの間で伝承されてきたのか?

 処刑人ジョン・ルース(カート・ラッセル)は「メアリー・トッドが呼んでいる。そろそろ床に就く時間だ」との最後の一文で、すっかりそれが本当だと信じてしまう。保安官クリス(ウォルトン・ゴギンズ)はどうか?彼こそは手紙の嘘を見破った本人であるが、やはり最後の一文を読み「上手いことを考えたな」と感心する。

 共に「大統領の妻」を想ってデレデレと鼻の下を伸ばすが、片や極悪人の女を殴り、片や後の見せしめとして吊し首にする。そして首を吊られた女の背中には、壁にかけられたスノーシュー(?)が、まるで彼女の背中から生えた天使の羽のようにも見える。

 つくづくクエンティン・タランティーノという男は、食えない男である。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Dirk_Diggler/20160407

2016-02-18

[] その愛は郊外から都市へ「エデンより彼方に」と「キャロル  その愛は郊外から都市へ「エデンより彼方に」と「キャロル」を含むブックマーク

f:id:Dirk_Diggler:20160218233606j:image

 トッド・ヘインズの2002年の監督作「エデンより彼方に」で、プロダクションデザインを担当したマーク・フリードバーグは、撮影時を振り返り以下のように語っている。

 「(ヘインズから)舞台装置っぽくセットを作ってくれ、と言われて驚いた。普段、他の監督からオーダーされるのはその逆だからね」

 「エデンより彼方に」は、夫の同性愛と、アフリカ系の庭師の間で心が揺れ動く、郊外に暮らす主婦が主人公の作品であるが、メロドラマの名手として知られるダグラス・サークの諸作品をヘインズなりに再構築した作品であり、一言で例えるなら「(サークの作品に代表されるような)50年代メロドラマ“そのもの”になってしまいたい」という願望が炸裂した「異形の偏愛映画」である。

f:id:Dirk_Diggler:20160218223059j:image

 「エデンより彼方に」は、作品で描かれた1950年代には現行作品としてタブーとされていた要素(ゲイ・イシューとレイシャル・イシュー)を、サブテキストではなく直接描写として盛り込むことで、50年代に郊外で暮らすということがどういうことであるかを浮き彫りにした、ヘインズの出世作であり意欲作である(同様の手法で、近年ではトム・フォードの初監督作「シングルマン」が記憶に新しい)。

 「エデンより彼方に」は、とにかく50年代映画の再現としてのセットや衣装、そして照明など「画面に映るもの」への作り込みが凄まじく、その情熱たるや…というか、情熱というと聞こえが良いが、それはほとんど偏執レベルの愛である。こうした作家のある種の狂気は見過ごされ、所謂「ティピカルなメロドラマ」として消費されてしまっていることが、この映画をやや特異な作品としえ位置付けているように思う。上記のフリードバーグの発言が、その特異さを裏付けている。

f:id:Dirk_Diggler:20160218172603j:image

 そして「エデンより彼方に」から13年を経て、パトリシア・ハイスミス原作による、そのものずばり同性愛をテーマにした「キャロル」が完成した。「エデンより彼方に」では、時代の制約で暗に仄めかすことしか許されなかったテーマを、その時代のスタイル、当時は排除された要素を取り入れ「何がタブーであったのか」を強調して描いたヘインズが、「キャロル」では、デパートの売り子で若いテレーズと、離婚を間近に控えた子持ちのキャロルという、二人の女性が通わせる愛を、正攻法の恋愛映画として描いている。

 郊外生活者の虚飾や孤独を描いたのが「エデンより彼方に」であったとすると、一方その頃、都市生活者はどうであったか?を、ヘインズは「キャロル」で描いてみせた、とも言えるだろう。

f:id:Dirk_Diggler:20160218233944j:image

 「エデンより彼方に」では、主演のジュリアン・ムーアや、隣人を演じるパトリシア・クラークソンといった人たちが、所謂50年代的な「臭い」芝居とモダンで繊細な要素を織り交ぜたようなスタイルの芝居をしているのに対し、ムーアの夫役であるデニス・クエイドだけが、終始大仰で、まさに50年代という芝居を見せている。一際印象深いシーンは、自らの同性愛属性を自覚した夫が精神科に通うも、そんなものが治るはずはなく、それでも試しに妻を愛そうと半ば無理矢理にソファーに押し倒すが、嫌悪感からかその妻に手を上げてしまう、というシーン。ここでエルマー・バーンスタインの劇伴は、夫が妻に手を上げたその瞬間…

 「テテテーン!」

 と、あたかもコントのように高らかと鳴り響く。しかし、不思議なことにそれほど違和感は感じない。ヘインズが巧妙に作り上げた「1950年代のメロドラマ」という箱に、2000年代の俳優を収めているからである。

f:id:Dirk_Diggler:20160218232813j:image

 その点「キャロル」ではどうか?カーター・バーウェルによる劇伴は、まるで現代を舞台にした作品のように、繊細かつ流麗に、そして決して目立ち過ぎずに、映画を盛り立てている。

 演技面ではどうか?キャロルを演じるケイト・ブランシェットにせよ、テレーズを演じるルーニー・マーラにせよ、現代劇とさして変わらないテンションで50年代に生きた女性を演じている。例を挙げるなら、50年代の作品であればもっと説明的な描写になったであろう、テレーズが電車で涙を流す序盤の印象的なシーンも、様々な感情を憶測できるような余地を持たせている。

 テレーズとキャロル、二人のゲイの女性の目線から伝わってくるのは、ヘテロセクシャルであることが大前提であった時代の「生き辛さ」である。テレーズのボーイフレンドの身勝手さ、自分を性的対象とみなすテレーズの友人男性、そして同性愛を一時の気の迷いと思っているキャロルの夫。そんな中、事態を全て把握し、それでいて社会との折り合いもつけているキャロルの親友アビー(サラ・ポールソン)は、まるで二人を見つめる守護天使のようでもある。

f:id:Dirk_Diggler:20160218172602j:image

 そして敢えて現代的ではない点を挙げるなら、惹かれあっていることは観客にも充分想像がつく二人が、実際に肌と肌を触れ合わせるラヴシーンに至るまでに、結構な時間を、50年代的なゆったりとした尺を要するのである。これはおそらく、かつてのメロドラマの「間」であり、もしかすると「品」とか、そうした言葉に置き換えられるのかもしれない。観客は、二人が困難を強いられた時間を共に体験し、ラストで幾多の障壁を超えた二人が見つめ合うように見て、お互いのその胸の高鳴りを耳にするのである。

 □関連リンク

 ■大場正明「サバービアの憂鬱 〜アメリカン・ファミリーの光と影」

 ■メロドラマの巨匠:ダグラス・サーク諸作品を鑑賞 その1

 ■メロドラマの巨匠:ダグラス・サーク諸作品を鑑賞 その2

 ■大学教授の澱んだ一日「シングルマン」

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Dirk_Diggler/20160218