菊地成孔東大ゼミに行ってきました(6月24日)





第8回「1965〜1975のマイルス・デイヴィス(1) コーダル・モーダルとファンク/1965〜1969」

まず、ワタクシは楽器が何も演奏出来ないし、ましてや楽譜など読める訳がないのですが、それなりに「へぇ〜」と思った点が幾つかありましたので記しておきます。
まず1967年がどういう年であったかの言及。ベトナム戦争が激化、アメリカは北爆を開始し泥沼の様相を呈していくその年に、ビートルズは「サージェント・ペパーズ」を、コルトレーンは「Interstellar Space」を、そしてマイルスは「Nefertiti」を発表します。ビートルズはポップスターというポジションで代表作とも言える「アート」を、コルトレーンは紆余曲折の末に辿り着いた遺作で「神と宇宙と鈴(笑)」を、そしてマイルスはモーダル・コーダルの完成型として「Nefertiti」を発表します。
自分が理解している範囲で簡単に説明しますと、「モーダル」とは2つのモードの構造、大きな譜面にモードが2種類だけしかなく、あらゆる暴力的な行為を入れる事が出来る構造、との事です。一方「コーダル」とは、曲中に出て来る全てのコードに関係性が行き渡っていて、譜面に関係線を引いていくと線で一杯になります(現在、日本のポップチャートに上がってるような音楽も殆ど基本的にこのシステムの枠内で充分解釈が可能との事です)。
そして「モーダル/コーダル」とは、顔付きこそコーダルと全く同じに見え、部分的には関係線で結べる(ように見える)部分が挿入されていますが、コーダルの考え方では全く説明が出来ない部分もあり、「モーダル/コーダル」とは言わば「モード状態とコード状態の『キメラ』である」と。つまり、譜面上の顔付きはコーダルに似ているが、コーダルな機能性を一見持っているように見える部分は、実は巧妙な「擬態」という事なるのです。
ハービー・ハンコックはこの「モーダル/コーダル」の萌芽として「Mayden Voyage」を、そのハンコックを従えマイルスは完成型として「Nefertiti」を発表します。が、「モーダル/コーダル」の完成により、ジャズは一層「ジャンルミュージュック化」や「アート化」へ向い、再現性(聴いた人がすぐ鼻歌で唄ってみる)の著しい低さにより、ポピュラー・ミュージックの中心となる事は、もうあり得なくなってしまう。マイルスがモードをフリーと直接結び付けずに、破壊の為のツールとしてでは無くモードが本来持っていた「クールネス」を強調する方向に強化したのは、「スターはクールでスタイリッシュで無くてはならない」という、生涯を通じてスターであろうとしたマイルス故の結果とも言えるのです(前回も出ましたが「マイケル・ジャクソンが服を買っている店を教えろ!!」という話)。生涯を通じてチャートのトップになる事を夢見たマイルスにとって、非商業的で有る事・アートとしてのみ存在する事は到底堪えらることではなく、この時点でアコースティックのバンドを捨て「電化」に向かい、黄金クインテットのメンバーは一人また一人と消え、代わりにアフロ・ヘアの人が増加。所謂エレクトリック・マイルス時代が幕をあける、という訳です(有名な「ジャズは死んだ」発言ですね)。
そしてほぼ同時期、ジェイムズ・ブラウンにより「ファンク」が誕生します。以下はゼミで配付していたレジュメより。

…ソウルシンガー、ジェイムズ・ブラウンはブルーズ進行という「黒人ポップスの音楽的基盤」にして「機能和声理論上の鬼ッ子」である音楽形成をスプリング・ボードとして、曲中和声がまったく進行しない、律動とシャウトのヴァリエーションだけで成立する音楽に向かって歩を進めていた。和声的可能性の拡大と削減。60年代アメリカ商業音楽にあらわれたこの対極の運動は、1970年代以降のブラック・ミュージックの中で見事に統合され、現在流行しているポピュラー・ミュージックの基盤を成すことになる。

「一応はブルーズ進行だが、音楽の推進力が和声では無くてリズムの構造に取って代わってる」という「Papa's Got a Brand New Bag」や、「Sex Machine」をCDJでループさせ、「バックが完全に1小節のリピートで成立している」という非常に解りやすい実例を挙げていました。で、次に「SLYを聴いてみましょう」と爆音で流れ出した「Dance To The Music」。「ね?このハイな感じ。ウソでも楽しいと言うか、楽しいそぶりの戯画化というか、鬱の人間の開き直りと言うか」(笑)。
スライ・ストーンは強度の被害妄想を抱いていた人として知られていて、スライの豪邸にはショットガンを手にした屈強な男どもがウロウロ、家の中ではスライを筆頭に「どんギマり」の男女がウヨウヨ、コークが山盛りのボールに顔ごと突っ込むスライに(現実版D.O.A.かよ!)、呼ばれて遊びに行ったけど、さすがのマイルスも引いた(っていうか「あの」マイルスが「あん時はさすがに俺もビビッたね」だって!)っていう話がウケました。
1960年代末〜70年代において、バークリー・メソッドは、ジャズ理論としては有名無実化しました。理論より現場が先に進んでしまい、現場で起こっている事の論理的解釈が出来ずに一度「死んだ」バークリー・メソッドは、その後POPS・R&B・「ギトギトのファンク」等のソフィスケーション用理論として復活する事となります。そのソフィスケーションされた楽曲の一例として、ドナルド・フェイゲンの「I.G.Y.」が流れる中、講義は終了となりました。
そして次回はいよいよ!エレクトリック・マイルス!!
「1970年代が、いかにぐちゃぐちゃだったか?」という話だそうで、今から非常に楽しみです。「Biches Brew」「On The Corner」などを復習しておきましょう。


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